ジャンヌ・ダルクという名前はご存じですか?
「知ってる!ゲームやアニメの登場人物にいた!」とピンとくる人は多いと思います。
それくらい知名度がある人ですが、どのような人物という印象がありますか?
具体的なゲームやアニメ、小説などの題名は挙げませんが、大体イメージとして、
- 女性の騎士
- 長い金髪
- 旗や剣を武器としている
- 真面目な委員長タイプの性格
- 基本的に穏やかな聖女
という設定がサブカルチャー界隈では多いです。もちろん他のイメージを設定している場合もあるのですが、人物像としてはこれらのイメージが強いです。
実は彼女、歴史上の人物です。しかも、高校の世界史には必ず出てくる人で、テストの回答の常連さんなんです!
では、ジャンヌ・ダルクとはどんな人物で、何をした人なのでしょう?
今回は、ジャンヌ・ダルクについて、
- ジャンヌダルクの生い立ちとは?実在した?
- ジャンヌダルクの生涯の経歴と百年戦争。最後は?
- 【エピソード】ジャンヌダルクの人柄や性格が分かる逸話
- まとめ ジャンヌダルクはどんな人?おすすめ映画
を紹介します。
「歴史上の人物とは知っていたけれど、そういえば何をしたんだろう?」「えっ、歴史に出てくる人だったの?」「世界史で習ったけど、詳しいことは忘れっちゃった…。」と今思った人は、歴史の予習や復習を兼ねて読んでみて下さい。
また、ゲームやアニメ、小説にジャンヌ・ダルクが登場する時には、史実に基づいた地名や名称が出てくることが多いです。こちらを読んで彼女について詳しく知っていると、見ていて更に物語を楽しめることが出来ます!
参考文献ジャンヌ・ダルク
- 世界の歴史まっぷ:
- 『幻想のジャンヌ・ダルク―中世の想像力と社会』 著:コレット ボーヌ 訳:阿河 雄二郎、北原 ルミ、嶋中 博章、滝澤 聡子、 頼 順子
- 『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク (「知の再発見」双書) 』 著:レジーヌ ペルヌー 訳:遠藤 ゆかり 監修:塚本 哲也
ジャンヌダルクの生い立ちとは?実在した?
ジャンヌ・ダルクは15世紀のフランスに生きた人物で、
- 1412年1月6日、フランスのドンレミ・グリュという村で誕生する
- 1431年5月30日、フランスのルーアンという町で火あぶりによって処刑される
19年の生涯を生きたと言われています。
「えっ、処刑されたの!?しかも火あぶりって…なんかイメージと違う!」と思いますよね?ジャンヌ・ダルクって聖女のイメージが強いですし、「火あぶりにされるような悪いことをしたの?」と私も最初に思いましたもん。
その答えは、今から読む記事の続きを見て下さい。
ちなみに、処刑されるようなすごーく悪いことはしていないので、そこは安心して下さい。
既に紹介したように、ジャンヌ・ダルクはフランスのドンレミ・グリュという村で誕生しました。このドンレミ・グリュは単にドンレミ村と紹介されることが多いので、ここからはドンレミ村で統一します。
- ジャンヌ・ダルクは、父のジャックと母のイザベルとの間に、長女として生まれました。
- 父であるジャックは村の名士とされており、村人の申し立てを役人に仲介する仕事などを任されていました。そのため、百姓でありながら裕福な家庭でした。
- ジャンヌ・ダルクは5人兄弟の4番目です。
- ジャック、ジャン、ピエールという3人の兄と、カトリーヌという妹がいました。
当時、生年月日を正確に記録するという習慣がなく、兄弟の順番は研究者によって入れ替わることがあります。
「あれ?ジャンヌ・ダルクは1月6日生まれって書いてたじゃん!」と疑問に思った人、鋭いですね。実はこのジャンヌ・ダルクの生年月日も、当時の人々の証言を書いた記録で「1412年1月6日くらいだった。」というあやふやな証言しか残っていないんです。
600年も前の時代だと、記録に対する意識も違うんですね…。
「そんな状況だと、記録なんてあんまり残ってないんじゃない?ジャンヌ・ダルクって本当にいたの?」と言いたくなりますよね。ごもっともです。
しかし、「ジャンヌ・ダルクと呼ばれる少女は実在した」とはっきり断言できます。
なぜなら、当時の農民から税金を取るための記録に書かれた世帯構成員やジャンヌ・ダルクが処刑されるきっかけとなった裁判記録がたくさん残っているからです。
1つの記録だけだったら「想像で作られた伝説のような人物」となりますが、たくさん記録が残っていたら「実在した人物」と言えるのです。
だた、一つだけ注意点があります。
「ジャンヌ・ダルクと呼ばれる少女は実在した」のですが、「現代人がジャンヌ・ダルクと聞いてイメージする人物は実在しなかった」のです。
どういうことかと言いますと、私たちがイメージする
という人物像は、後世の人々の想像や理想が高い確率で入っているのです!
まあ、歴史上の有名な人物をモチーフにした作品を作ってしまうと、自分の想像や理想が入ってしまって、実在の人物とかなり違った人になってしまうというのはよくあることです。
つまり私が何を言いたいのかといいますと、「この記事では実在のジャンヌ・ダルクのことを書きますので、既にジャンヌ・ダルクについてある程度のイメージがある人にとってはキャラ崩壊の怖れがある内容となっております。あらかじめご了承下さい。」ということです。
苦情は一切受け付けません!
では、さっそくですがキャラ崩壊その1です。
キャラ崩壊その1
ジャンヌ・ダルクという名前ですが、彼女自身は生前にジャンヌ・ダルクと呼ばれたことはありません。
- 彼女の死後、後世の人々が呼び始めた名前がジャンヌ・ダルクです。
- 「じゃあ、本名は何なの?」ということですが、ただの「ジャンヌ」です。名字はありません。
- 当時のフランスでは、平民は名字を持つことが出来ず、名字を持っていたのは貴族と王族だけでした。名字を持っていることは、ある意味特権だったわけです。
しかし、ジャンヌは生前にずっとジャンヌと呼ばれていたわけではありません。彼女は幼い頃、ジャンヌの愛称である「ジャネット」と呼ばれていました。「ジャネット」とは「ジャンヌちゃん」のような意味合いのあだ名です。
ドンレミ村に住んでいた当時の住民は、ジャンヌのことを話す時にはいつも「ジャネット」と彼女のことを呼んでいたことが、当時の記録から分かっています。
名前から違っていたんですね。誰だよ、ダルクって名字を勝手につけたのは…。
とにかく、この記事では世間に浸透しているジャンヌ・ダルクで統一します。
ジャンヌ・ダルクは百姓の娘でしたが、百姓の中でも裕福な家庭で、4人の兄弟と一緒に育ちました。
- また、両親であるジャックとイザベルは、熱心なカトリックの信者でした。
- カトリックとは、簡単に言えばキリスト教の宗派の一派です。日本人には馴染みが薄いですが、仏教に浄土真宗や禅宗などの派閥があるように、キリスト教の中にも派閥があって、カトリックはそれらの派閥の一つと考えて下さい。
- ジャンヌ・ダルクが生まれたフランスでは、15世紀も現在でもキリスト教信者の多くはカトリックを信仰しています。
ジャンヌ・ダルクは、信仰心が篤い両親から、たくさんの愛情とキリスト教の教えを受けて育ちました。
一方、その頃のフランスは国が滅びるかどうかという瀬戸際の状況でした。
どういうことかと言いますと、フランスとイギリスとの間で「百年戦争」という戦争が勃発し、イギリスが圧倒的な有利を得ていたからです。
「百年戦争」と聞くと、「フランスとイギリスが百年間もドンパチと戦争していたの!?」とびっくりしますよね。
- 実際は、百年間ずっと戦場でドンパチしていた訳ではなく、決着が着かないまま一旦休戦して、思い出した頃にまた戦場でドンパチしていた期間が百年ほど続いたため、百年戦争と呼ばれているだけです。
- 「よくそんなに戦争を続けられるな~」と思いますが、ヨーロッパの歴史で起きる戦争を見てみると、基本的に十年単位が多いです。
ヨーロッパの人って気が長いですよね。水に流すことが出来ないんでしょうか?不思議です。
では、「百年戦争」という大した名前が付くほど長くかかった戦争の原因は一体何だったのでしょう?
簡単に言いますと、「親戚同士のフランス王家とイギリス王家が、フランス国王の座を巡って争った親族同士の喧嘩」が原因です。
そうなんです。フランス王家とイギリス王家って親戚同士なんです。
どういう親戚なのかということですが、文章で書くと複雑で分かりにくいので家系図を載せておきます。
(参考:「百年戦争とバラ戦争に関する系図 )
家系図の中で、「ヴァロワ朝フランス国王」という文字を探してください。紫色の四角い図形に文字が囲まれていますね。この紫色の四角い図形で囲まれている人物たちが、「ヴァロワ朝フランス国王」です。「ヴァロワ朝」というのは「ヴァロワ家出身の」ぐらいの意味なので、「これがフランス国王の家系なのだな。」くらいに思っていて下さい。
一方、「プランタジネット朝イングランド国王」という文字を探してください。ピンク色の四角い図形の中にあります。同じピンク色と赤色の四角い図形に囲まれている人物たちが、「イギリス国王の家系」です。
家系図の途中で、フランス国王の前につく文字が「カペー朝」から「ヴァロワ朝」に、イングランド国王の前につく文字が「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」になっています。これは、単にその家に国王になれる跡取りが居なくなったため、親戚の家を国王の家系にしたということです。それぞれ血の繋がりはあります。
次に、家系図の中で「イザベル」という人物を探してください。「プランタジネット朝イングランド国王」の「エドワード2世」という人の隣に名前が書かれている女性です。このイザベルはイングランド国王エドワード2世と結婚しているのですが、カペー朝フランス国王の王女です。
つまり、イザベルとエドワード2世の子どもであるエドワード3世は、プランタジネット朝イングランド国王なのですが、カペー朝フランス国王の血も引いている訳です。
ややこしいですが、ヨーロッパの王室は基本的にこのような親戚関係があります。そして、この親戚関係があるから国同士の戦争が起きることが多かったのです。
さらに、この時のフランスとイギリスの領土は今と全く違います。これが当時の地図です。
(参考:「百年戦争当時の英仏関係: クレシーの戦い, ポワティエの戦い,アジャンクールの戦い ©世界の歴史まっぷ」)
さて、ここから百年戦争が起きた経緯を簡単にまとめます。
- イザベルの兄弟でカペー朝フランス国王のシャルル4世が亡くなると、フランス国王になれる跡取りが誰も残っていなかった
- そこで、カペー朝フランス国王の親戚であるヴァロワ家のフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝フランス国王の家系が始まる(1328年)
- しかし、イザベルの息子で1327年にイギリス国王に即位していたエドワード3世が、「自分の祖父はカペー朝フランス国王だった。だから、自分こそがフランス国王の継承者だ。」と言い出した
- 当然フランス側はエドワード3世の主張を無視
- 同時にフランスは、イギリス産羊毛の主な輸出先だったフランドル地方に干渉した
- さらに、イギリス領だったギエンヌ地方を没収するなど、イギリスとフランスの間の対立は激化した
- 1337年に、フランス国王の座を巡ってエドワード3世がフランス国王フィリップ6世に宣戦布告をして、百年戦争が始まった
この経緯を見て、私は一言言いたくなりました。「エドワード3世、すごく面倒くさい人だよ…。」
いくらお母さんのイザベルさんがフランス国王の娘だからって、イギリス王室に嫁いできた時点で息子であるあなたにフランス国王の継承権がある訳ないでしょ!
その前に、あなたイギリス人であってフランス人じゃないでしょ!
しかもフランスにはちゃんと王家の血を継いだフランス生まれの国王がいるんだし、あなたはもうイギリス国王なんだから我がまま言わないで!(イギリス国王になれなかったらフランス国王になりたいなんて言って良いって訳じゃないけど…)
とにかく、こんなエドワード3世が始めた戦争が何だかんだで120年くらい続いた訳です。巻き込まれる両国の国民はたまったもんじゃないですよね。「お家騒動は勝手にしていてくれ」って感じです。
しかし、国王が始めた戦争には国民は容赦なく巻き込まれる時代です。
1412年にジャンヌ・ダルクがドンレミ村で生まれた頃には、
- フランスはイギリスに負け続け、領土を次々と占領されていた
- 1418年5月28日、イギリスを支持していたフランス貴族ブルゴーニュ公がフランスの首都・パリを制圧
- ヴァロワ朝の第4代フランス国王シャルル6世の息子である王太子シャルルは、パリから逃れて南部のブルージュに本拠地を移した
という、フランス側にとっては厳しい状況になっていました。
当然、こんな状況では同じフランス人でも「イギリスの味方につく人」と「フランスの味方につく人」が分かれてしまいます。
ジャンヌが生まれたドンレミ村の人々は、シャルル王太子を支持していました。しかし、ドンレミ村の周りの領土はイギリス勢力が強かったのです。
そんな中、ドンレミ村の人々はイギリスに早くフランスを立ち去ってほしい、シャルル王太子が国王になってほしいと願っていたのです。すごい人々ですよね。
周りの村人のそんな声を聞いて育ったジャンヌも、影響を受けたのは間違いないです。
では、ドンレミ村の人々の影響を受けたジャンヌは、成長するにつれてどのような行動を取ったのかを見ていきましょう。
ジャンヌダルクの生涯の経歴と百年戦争。最後は?
ジャンヌ・ダルクは百年戦争で窮地に立たされるフランスで生まれました。
家庭が比較的裕福だったとは言え、彼女自身も幼少期から戦争の影響を受けながら育ちました。
下の地図を見て下さい。ジャンヌが生まれたドンレミ村の周りの地方は、1420年時点でイギリス勢力に囲まれていることが分かります。
ドンレミ村はシャルル王太子を指示していたため、イギリス勢力から攻撃を受けることも多く、ジャンヌ・ダルクも親戚がいる村に、時々避難をしながら成長しました。
(参考:1420年頃の勢力範囲地図 ©世界の歴史まっぷ)
そんなジャンヌ・ダルクは13歳になった1425年のある日、家の庭で仕事をしていました。その時になんと、「神の声」を聞いたのです!
- ジャンヌ・ダルクの裁判記録によると、キリスト教の聖人とされる聖マルグリットと聖カトリーヌ、そして大天使ミカエルが彼女の前に現れました。
- 彼らはジャンヌ・ダルクに、「イギリスと戦い、シャルル王太子をシャルル7世としてフランス国王に即位させなさい。」と告げます。
もちろん彼女は、この言葉を聞いて驚きました。農民の娘で、まだ13歳の少女が出来ることとは思えなかったからです。当然ですよね。彼女は「出来ません。」とその場で答えました。
しかし、彼らはその後何度もジャンヌ・ダルクの前に現れました。しかも、年を重ねるごとに頻繁に現れるようになり、彼女に声をかけます。
1428年、ジャンヌ・ダルクの前に、再び彼らは現れました。しかし、その時にジャンヌに指示した内容はとても具体的な物でした。
- その内容は、「守備隊長のロベールという男の元に行きなさい。彼が何人かの騎士をお供につけるでしょう。そして、シャルル王太子を国王として正式に即位させなさい。」という物でした。
とうとうジャンヌ・ダルクは根負けし、「神の声」の通りに行動します。
このジャンヌ・ダルクが聞いた「神の声」のエピソードについて色々突っ込み所があると思いますが、後できちんと解説しますので今は突っ込まないで下さい…。
- ジャンヌ・ダルクは「神の声」に従うことを決意しますが、家族に言ったら止められるかもしれないと考えます。
- そこで、出産後のいとこを手伝うという名目でドンレミ村を出発し、守備隊長ロベールがいるヴォルクールという町と向かいます。
- この時、ジャンヌ・ダルクは16歳でした。その後、彼女は生きて故郷のドンレミ村に戻ることはありませんでした。
ドンレミ村のすぐ近くであるヴォルクールへ着いたジャンヌ・ダルクは、事前に「神の声」のお告げのことを叔父に話し、協力を得ていました。
そのため、叔父一家の家に泊めてもらいながら何か月もロベール守備隊長の元へと通い、面会を求めます。
ロベール守備隊長は最初、まともにジャンヌの言うことを取り合わず、会おうともしませんでした。農民の娘が神のお告げを聞き、フランスを救いに行くと言っていたら、「何言ってるんだろう?」と思いますよね。
ましてやロベールは武人です。戦場での経験がない農民の娘がフランスを救うなんて、馬鹿げたことを言っていると思っても仕方ありません。それどころか、「武人の自分に出来ないことを、神が農民の娘に出来ると言っているのか!冗談でもふざけるな!」と怒りすら感じていました。
しかし、
- ヴォルクールでは「神の声」を聞いた少女として、ジャンヌ・ダルクは有名になっていった
- 毎日ロベール守備隊長の元へ面会を求めに行く彼女の姿を見て、町の住民も「ロベール守備隊長にジャンヌと面会して欲しい」という嘆願の声を上げ始める
という状況になり、ロベール守備隊長はジャンヌ・ダルクと渋々といった様子で面会します。
面会の場でジャンヌ・ダルクは、
- 「神の声」によるお告げの内容
- オルレアンで起きる「ニシンの戦い」でフランス軍が敗北するという神から聞いた予言
をロベール守備隊長に伝えます。
その面会の後、ニシンの戦いで負けるはずがないとフランス軍は踏んでいましたが、実際の結果はフランス軍の敗北でした。
ジャンヌ・ダルクの予言は当たったのです。しかも、今と違って遠くの地方の情報が簡単に手に入らない時代に、見事戦いの結果を的中させてしまったのです。
この戦いの結果を知ったロベール守備隊長はジャンヌ・ダルクへの畏れを感じ、「ジャンヌは本当に神の声を聞いたのだ。」と考えました。
彼はジャンヌに、
- シャルル王太子が居るシノン城への入場を許可
- 馬と武具、6名の家来を護衛としてつけさせる
などの好待遇で、シノンへと送り出しました。
ここでキャラ崩壊その2です。
キャラ崩壊その2
ジャンヌ・ダルクは何故かサブカルチャー界隈では
のイメージが強いです。
しかし実際は
のです。
よく考えて下さい。
ジャンヌ・ダルクはこの後ずっと男装で戦場を駆け回るのですが、髪が長いと甲冑を被るのに邪魔になるんですよ!短い方が実用的で良いに決まってます。
1429年2月22日、男装したジャンヌ・ダルクは6名の護衛と共にヴォルクールを出発し、当時シャルル王太子が仮のフランス政府を構えていたシノンへと向かいます。
ここで1420年頃の勢力範囲の地図を見て下さい。
ヴォルクールはジャンヌ・ダルクが生まれたドンレミ村のすぐ近くです。そこからシノンへ行くには、イギリス勢力とブルゴーニュ公というフランス貴族が治める領地を経由しなければなりません。
このブルゴーニュ公というとは、フランス貴族でありながら、戦争で優勢になっていたイギリスに味方して様々な協力をしていた人です。つまり、フランス国王にとっては裏切り者で敵です。
ジャンヌ・ダルクは、これらの危険な地域を通過する時、敵に見つかりにくい夜間を選んで進みました。
そして1429年の3月上旬に、ジャンヌ・ダルクはシノン城に到着します。
一方、百年戦争のフランス側で一番頑張らなければいけない人物は、フランスの王太子であるシャルルです。しかし、シノン城にいた頃のシャルルは、自分にすっかり自信を失くしていて、戦争にあまり乗り気ではなくなっていました。
というのも
- 生まれる前からイギリスとの間に繰り広げられる戦争に、中心人物として巻き込まれてきた
- 母親でシャルル6世の王妃イザボーは浮気性で、息子である王太子シャルルを全く顧みなかった
- 1418年5月29日に、ブルゴーニュ公にパリを制圧され、国王であるシャルル6世と王妃イザボーはパリに取り残された
- その時には、シャルル6世は精神を病んでしまっており、政治どころか日常生活すらままならなくなっていた
- ブルゴーニュ公フィリップの説得により、イザボーは王太子シャルルの姉である王女カトリーヌをイギリス国王ヘンリー5世に嫁がせた
- さらにイザボーは、自分の立場を確保するために、王太子シャルルは別の男性との子どもであり、シャルル6世の子どもではないと公言した
- その上でイザボーは、カトリーヌを妻としたヘンリー5世にフランス国王継承権があるという内容のトロワ条約を締結した
- トロワ条約によって、王太子シャルルは形式的には王太子の地位も国王の継承権も剥奪されてしまった
- 1422年8月31日にイギリス国王ヘンリー5世が、10月21日にフランス国王シャルル6世が亡くなると、ヘンリー5世とカトリーヌの6ヶ月になる息子を、トロワ条約に基づいてヘンリー6世としてイギリスとフランスの国王と宣言し、ヘンリー5世の弟・ベッドフォード公ジョンがフランスの政治を代行する執政官となった
- 一方で王太子シャルルは、経済的に困窮していた
という人生を送って来たのです。
イザボーさんは現代で言うと、見事に毒親の条件に当てはまりますよね。当時の状況から仕方がない部分があったとしても、自分のために血が繋がった息子をよくここまでコケに出来るなぁとあきれてしまいます。
実の母親からこんな仕打ちを受けた王太子シャルルは、はっきり言ってグレない方がおかしいです。
- 自分は一体誰の子どもなのかという大きな不安を抱え、アイデンティティの危機に陥る
- 現実逃避のために毎日のように宴会を開いた
- 政治においては自分の意見を表明することを恐れ、無気力になっていた
- 性格は周囲の人間に対して疑り深く、なかなか人を信用しなかった
- その割には、自分が縋ることが出来る人を探して頼り、状況が悪くなるとあっさり別の人に乗り換えた
という見事なグレっぷりとヤンデレぶりを見せます。
もう精神的に追い詰められていて、「『王太子としてしっかりして!』なんて言葉はもう聞きたくない!」心境だったでしょうね。お察しします。
そんな状況の彼の元に、ジャンヌ・ダルクは「神のお告げにより、王太子シャルルを国王に戴冠させるために来ました。」と来た訳です。
王太子シャルルは喜ぶよりも、「こんな自分に神がフランス国王になれと?何言ってるの?頭大丈夫?」と疑っても無理はありません。
そこで、シノン城があったブールジュの町の聖職者たちに、「何か神のお告げを聞いたとか言う農民の娘が来てんだけど、本当かどうか話聞いて教えて~。」(意訳です)と丸投げしました。
聖職者たちはジャンヌ・ダルクの話を聞くために、何回か審議会を開きました。
そこでは、
- 神の使いは具体的に何を言っていたのか
- そのお告げを聞いて、彼女はどう思ったのか
- 聖人や大天使ミカエルはどんな姿だったのか
- 本当に自分がフランスを救えると思っているのか
というようなことを詳しく質問しました。
ここで注意点ですが、ジャンヌ・ダルクは文字が読めない文盲です。この時代に文字の読み書きができるのは、貴族や王族、裕福な商人、聖職者などの十分な教育を受けられる特権階級だけだったからです。
それにも関わらず、ジャンヌ・ダルクは全ての質問に対して、聖職者たちを唸らせる返答をしました。また、元々信仰心が篤いジャンヌ・ダルクが神や神の使いのことを話す時には、恍惚とした表情を浮かべて本当に神の存在を信じているようにしか見えない様子だったと記録には書かれています。
彼女のその様子を見た聖職者たちは、「ジャンヌ・ダルクはペテン師ではなく、本当に神のお告げを聞いた少女だ。」と王太子シャルルに返答します。
しかしすっかり捻くれてしまっていた王太子シャルルは、「本当か?」とまだ疑い、他の有力な貴族たちにもジャンヌ・ダルクと面会するように命令します。
ジャンヌ・ダルクと面会した貴族たちからも、「彼女は本当に神のお告げを聞いた様子だった。」「すごく賢くて信心深い性格だ。」「政治の世界は嘘や演技は日常茶飯事だから、もし彼女が嘘をついていたり演技をしていたならすぐに分かるが、そんな気配はこれっぽちも感じなかった。」(全て意訳です)という報告が続々と届きました。
それらの報告を聞いた王太子シャルルは、「ん~。そんなにみんなが言うような娘なら、1回会ってみようかな?自分はもうどうにでもなれって感じだし。」(意訳です)ということで、3月下旬にジャンヌ・ダルクをシノン城に呼びます。
しかし、疑り深い王太子シャルルは、ここでジャンヌ・ダルクを試すことにしました。シノン城での謁見で王座には自分の部下を座らせ、自分は周りの貴族たちに紛れてジャンヌ・ダルクを待っていたのです。もちろん周りにいる貴族たちもこのことは知っており、ジャンヌ・ダルクに会ったことがない人たちは、彼女がどんな反応をするのか面白半分に見ることにしていました。
謁見の場に現れたジャンヌ・ダルクはなんと、王座ではなく貴族に紛れた王太子シャルルの前にまっすぐ行き、跪いて王太子シャルルへの挨拶を述べました。
これには、当の王太子シャルルも周りの貴族たちもびっくりです。
「どうして自分が王太子だと思うのだ?」と尋ねる王太子シャルルに、ジャンヌ・ダルクは「神が教えてくれたからです。」とだけ答えました。
そして彼女は、王太子シャルルと2人だけで、神がお告げで告げた内容について話がしたいと申し出ます。彼はこの頼みを聞き入れ、謁見の場に隣接した小部屋に2人は入りました。
数分後、小部屋から出てきた王太子シャルルは、「ジャンヌは神にしか知りえないことを私に教えてくれた!彼女はフランスを救うために使わされた神の使いだ!」と貴族たちの前で高らかに宣言しました。
この時、ジャンヌ・ダルクが王太子シャルルに何を話したのかということは、残念ながら記録に残っていません。今でも、歴史の謎の1つに数えられています。
しかし、この謁見をきっかけに王太子シャルルはジャンヌ・ダルクを信用しました。
王太子シャルルは、ジャンヌ・ダルクに
- 王太子軍
- イエス・キリストと天使、王家の紋章である百合の花、イエス・キリストの文字をあしらった軍旗
を提供しました。
この軍旗は、ジャンヌ・ダルクが戦場で兵士を鼓舞するために使用し、彼女の象徴の旗とされています。
王太子シャルルの協力を得ることができたジャンヌ・ダルクは、さっそく最初の戦場に向かいました。
上の地図を再び見てください。ジャンヌ・ダルクの初めての戦場は、地図の上でイギリス勢力とフランス勢力の間に挟まれながらも、最後までフランス国王に忠誠を誓っていた町・オルレアンでした。オルレアンは1428年10月頃からイギリスの攻撃を受けており、今にも陥落しそうになっていたのです。
このオルレアンをイギリスの手から取り戻すことができれば、イギリス勢力に対してフランス勢力が反撃を開始するための足場となるのです。イギリスにとってはまさに打撃です。彼女はそこを狙った訳です。
一方、ジャンヌ・ダルクが引き連れた王太子軍の面々は不満で一杯でした。
中でも、ジル・ド・レやラ・イールなど、大貴族であり歴戦の猛者である騎士たちは、戦闘経験がない農民の娘を大将としなければいけないことに納得していませんでした。
しかし、ジャンヌ・ダルクは生まれ持ったカリスマ性があったようで、他の兵士たちの心を掴んでいきました。「神からお告げを受けた少女」ということも、兵士たちの士気を上げます。
そしてジャンヌ・ダルクと王太子軍は、1427年4月29日に何とかオルレアンの町に入ります。
ジャンヌ・ダルクはオルレアンの町を解放させるために、町の周囲に建てられた砦を落とすことを主張します。しかし、王太子軍の将軍やオルレアンの貴族たちは耳を貸そうとせず、彼女を軍議に呼ばないなど冷遇しました。「ただの田舎娘だ。」となめていたんですね。
一方、周りをイギリス軍に囲まれて、食糧も満足に手に入れられず、いつ襲われるかとずっと不安だったオルレアンの民衆は違いました。また、将軍や貴族以外の兵士たちは、「聖女が自分たちにはついてるんだ!イギリス軍に絶対勝てる!」と思い、攻撃命令を待ち構えていました。
しかし、
- 守備を強くしようとしていた上層部からは、一向に攻撃命令が出ない
- 痺れを切らした民衆と兵士たちは、なんと勝手にイギリス軍の砦の1つであるサン・ルー砦への攻撃を始めた
- 騒ぎを聞きつけたジャンヌ・ダルクは、軍旗を持って駆けつけ、フランス軍を指揮した
- 遅れて攻撃の知らせを聞きつけたジル・ド・レやラ・イールなどの将軍たちは、後から慌ててサン・ルー砦に駆けつけ、戦いに加勢した
- そして、攻撃を開始した1429年5月4日、サン・ルー砦を陥落した
グダグダで始まった戦いで勝利を収めてしまいます。
フランス軍は聖女の登場で興奮状態、ジャンヌ・ダルクは「とうとう始まった!」と勇んで駆けつけ、イギリス軍は奇襲攻撃にびっくり、フランス軍上層部も下層兵士たちの暴挙にびっくり、という状況では、士気が高いフランス軍の方が有利に決まってますね。
しかし、たった1日で自分たちが落とせなかったサン・ルー砦を陥落させた戦いをジャンヌ・ダルクが指揮したことで、上層部の人々も彼女を見る目が変わりました。
始めはジャンヌ・ダルクのことを無下に扱っていたジル・ド・レやラ・イール、他の兵士たちも、ジャンヌ・ダルクを信頼するようになります。
この戦い以降、ジャンヌ・ダルクは、「オルレアンの乙女」「ジャンヌ・ラ・ピュセル(乙女ジャンヌ)」と敬意と親しみを込めて呼ばれます。
ジャンヌ・ダルクは
- 5月6日、オーギュスタン砦を陥落
- 5月7日、トゥーレル砦を陥落
- 5月8日、オルレアンを解放
という怒涛の勢いを見せます。
オルレアンが解放されるまでの日数は、ジャンヌ・ダルクが到着してからわずか10日ほどです。しかも、ジャンヌ・ダルクはトゥーレル砦を陥落する際に、胸に矢を受けて瀕死の怪我を負います。しかし、九死に一生を得て、治療を受けた後すぐに戦場に戻り、軍旗を掲げて指揮を取ります。
彼女の軍旗を見たフランス軍は「神が味方についている」と狂喜し、イギリス軍は「胸に矢を受けて生きているなんて、あの女は魔女だ!勝てるはずがない!」と尻込みします。
その次の日には、オルレアンからイギリス軍を立ち退かせてしまうのです。
オルレアンの民衆たちは喜び、将軍や貴族も含めて「ジャンヌは神の使いだ!聖女がオルレアンを救って下さった!」と熱狂に包まれます。「聖女ジャンヌブーム」の到来です。
ジャンヌ・ダルクと王太子軍の次の目的は、オルレアンからイギリス勢力に取り込まれていた町であるランスまでに通らなければいけない地方を、フランス側に取り戻すことでした。その理由は、フランス国王は伝統的にランスの大聖堂で戴冠式を行わないといけないからです。そうしないと、フランス内でも外国からも正式なフランス国王だと認められません。
フランス側は、一刻も早くシャルル王太子に正式な戴冠式を行わせ、イギリス政府に対抗するフランス政府を作らなくてはならないのです。
ジャンヌ・ダルクと王太子軍は、ランスを目指して行軍します。聖女ブームで士気が上がった王太子軍は、今や怖いもの知らずです。
- 6月12日、ジャルジョーを占領
- 6月15日、マンを占領
- 6月17日、ボージャンシーを占領
- 6月18日、バテの戦いで圧勝
と快進撃を続けます。
そしてランスを取り戻し、7月17日に大聖堂で無事に戴冠式が行われ、シャルル王太子は正式にシャルル7世としてフランス国王に即位します。
また、ジャンヌ・ダルクは貴族の称号を与えられ、「ドゥ・リス」の姓を与えられます。ジャンヌの家族と後世のジャンヌの兄弟たちの子孫は、貴族としてこの姓を名乗ることになります。
これらのことは、ジャンヌ・ダルクが王太子シャルルに謁見してから、数カ月の間に起きた出来事です。豊臣秀吉もびっくりの超ハイスピード出世です。
また、当時のフランスからしたら正に「神に使わされた聖女の奇跡」、イギリスからしたら「魔女の呪い」と見えたでしょう。
しかし、本来ならフランス王国の領土である場所に、イギリス勢力がまだ残存しています。ジャンヌ・ダルクと王太子軍は、そのイギリス勢力を追い出しにかかると思われました。
9月8日、ジャンヌ・ダルクと王太子軍は首都であるパリを奪還しようと攻撃をかけました。しかしその時には、ジャンヌ・ダルクは腿に矢を受けて負傷した上に、パリを奪還することは出来ませんでした。
さすがに「首都であるパリをフランスに渡すものか!」とイギリス軍も意気込み、守りが硬くなっていたのです。
それでもパリを奪還してみせると彼女と王太子軍は意気込んでいました。
しかしこの頃になると、シャルル7世はすっかり自分に自信を取り戻していました。「自分は神に認められたフランス国王なのだ」という気持ちから、国王として積極的に政治に関わり始めました。
それだけだったらまだ良かったのですが、シャルル7世とジャンヌ・ダルクの考え方が対立してしまいます。
- ジャンヌ・ダルクは、早く首都であるパリを取り戻すべきだと考えた
- シャルル7世は、イギリスとブルゴーニュ公との今後の関係を考え、外交的な手段を使って平和的に領土を取り戻すべきだと考えた
- シャルル7世は、段々ジャンヌ・ダルクの言うことを鬱陶しく感じ、聞かなくなっていった
もう決定的に2人の考え方が違ってしまったのです。
その後は
- ジャンヌ・ダルクはパリ奪還を主張し続ける
- シャルル7世は王太子軍を解体したが、ジャンヌ・ダルクは独断で残った兵たちと共に戦いを続けた
- シャルル7世はブルゴーニュ公との和平交渉を始めた
と全く正反対の路線を取りました。そしてこのシャルル7世との対立がジャンヌ・ダルクのいのち取りになってしまったのです。
シャルル7世の後ろ盾を失ってもパリ奪還を目指して戦っていたジャンヌ・ダルクですが
- 段々食料も武器も乏しくなっていき、敗戦続きになる
- 聖女を信じて着いて来た兵士たちにも不安が広がり、士気が落ちる
悪循環に陥りました。
それでもパリ奪還のために戦うジャンヌ・ダルクですが、運命の日が来てしまいます。
1430年5月30日、撤退の際に逃げ遅れたジャンヌ・ダルクは、コンピエーニュという場所でブルゴーニュ派の兵士に捕まってしまいました。
ジャンヌ・ダルクは、とうとうブルゴーニュ派の捕虜となったのです。
一方シャルル7世は、イギリスとブルゴーニュ公との間での和平交渉の準備をしていました。
そんな時にジャンヌ・ダルクがブルゴーニュ派の捕虜になったという報告を聞き、彼は思わず舌打ちをしてしまいました。
「和平交渉をしようとしてる時に何でブルゴーニュ派を攻撃してるんだ⁉︎しかも自分が捕虜になってどうすんの⁉︎こっちの苦労も考えて少しは空気読めよ、ジャンヌ!」(意訳です)と苦々しく思ったのです。
ですが、シャルル7世にとってジャンヌ・ダルクは自分を国王にしてくれた恩人で、何とか助けたいと思うものです。
そこでシャルル7世やフランス側の貴族の女性たちは、何とかブルゴーニュ派に渡すジャンヌ・ダルクの身代金を掻き集めようとします。
しかし、国王になったとは言え、シャルル7世は王太子時代に冷遇されていたため、あまり自分の財産を持っていませんでした。加えて、出来上がったばかりのフランス政府を整えるために、国民から集めた税金のほとんどを用いなければならず、国庫はカツカツの状態でした。
それでも、「ジャンヌをイギリスに渡したら容赦しないからな」(意訳です)という内容の手紙をシャルル7世はブルゴーニュ公に送り、身代金を準備する間の時間稼ぎをしました。
フランス側が中々身代金を集められない中、ジャンヌ・ダルクの身代金を払って、身柄を引き受けた存在がありました。
ジャンヌ・ダルクの身柄を引き受けたのは、最悪なことにイギリス軍だったのです!
こうして、ジャンヌ・ダルクは1430年の11月下旬頃に、イギリス軍に引き渡されました。
どうして敵であるはずのイギリス軍が、身代金を払ってジャンヌ・ダルクの身柄を引き受けたのでしょう?
大体想像がつきますね。ジャンヌ・ダルクへの復讐が理由です。
- ジャンヌ・ダルクが現れる前までは、イギリスが圧倒的に有利だった
- それなのに、神の声を聞いたという農民の娘が出しゃばり、イギリス軍をコテンパンにしてしまった
- しかも、ジャンヌ・ダルクは神の使いとしてイギリスと敵対している。つまり、イギリスがフランスに戦争を仕掛けるということは、神に反逆しているということで、イギリス国王がフランス国王を兼任することは神の意志によって出来ないことになる
- そうなると、イギリスにとっての大義名分がなくなる
- ジャンヌ・ダルクを神の声を聞いたという嘘をついたペテン師にしてしまえば、イギリスが主張する大義名分は守られる
考えだった訳です。
1430年12月23日、イギリスは自分の勢力範囲内の町・ルーアンの城にジャンヌ・ダルクを幽閉します。
そして1431年2月21日、ジャンヌ・ダルクはイギリス軍の裁判ではなく、教会による異端審問会にかけられます。しかしこの異端審問会は、最初からジャンヌ・ダルクを神の教えに背いた異端者とするための出来レースでした。
というのも、
- 異端審問会に参加する聖職者は初めてジャンヌに会う者ばかりで、ジャンヌ・ダルクが本当に神の声を聞いたのか疑う者が多かった
- その中には、オルレアンでイギリスに協力していた聖職者もおり、ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放した際に町から追い出されて彼女に恨みを持つ人々が交じっていた
- イギリスはジャンヌ・ダルクに恨みを持つ聖職者に、彼女を異端者や魔女に仕立て上げるように指示した
など、審理会とは名ばかりの物でした。
聖職者たちは審理会で、
- 神の声を聞いたというのは本当か?実は悪魔の声ではなかったのか?
- 聖人や天使はどんな姿をして、具体的にどんなことを言っていたのか?
- どうして農民の娘であるにも関わらず、フランス軍で戦うことが出来るなどと考えたのか?
- 神の声を聞いたなどという嘘をついて、神を冒涜していると思わないのか?
- 本当に神への信仰心があるのか?
などという質問をジャンヌ・ダルクにしました。
彼女は「神が話すことを許す範囲で」的確に答えを返しました。
聖人や天使の容姿については「神の許しがないから」と返答を拒否しましたが、それ以外の質問には聖職者たちを驚かせるほどの言葉を返しました。
文字も読めず、聖書の教えと祈りの言葉しか知らないはずのジャンヌ・ダルクでしたが、賢い少女だったのです。また、神や聖人、天使のことを恍惚とした表情で語る彼女の様子から、嘘をついたり演技をしているということは感じられませんでした。
審理会でジャンヌ・ダルクに初めて会った聖職者たちは、「彼女は本当に神の声を聞いた聖女なのではないか?」という意見を持ちました。
これを聞いて慌てたのは、イギリスとジャンヌ・ダルクに恨みを持つ聖職者たちです。彼らは何としてでもジャンヌ・ダルクをペテン師に仕立て上げるため、公開で行っていた審理会を、牢内で限られた人々にしか公開されない審理会に切り替えました。
1431年3月10日のことでした。
そこでジャンヌ・ダルクは、
- 聖職者以外の人間が、神の声を聞くことが出来るはずがない
- それなのに、神の声を聞いたという嘘をついた
- 農民の娘であるにも関わらず、男装して戦場に出た(当時のキリスト教徒の社会では、職業や身分、性別によって服装が厳格に決められており、違反したら教会から罰を受けた)
ことをひたすら咎められました。
もちろんその場に居合わせたのは、イギリス軍の兵士やジャンヌ・ダルクに恨みを持つ聖職者たちです。
それでも、ジャンヌ・ダルクは自分が聞いた神の声や自分の行動と結果を罪だとは認めようとはしません。
そこでイギリスは、4月5日に12ヶ条の罪状をジャンヌ・ダルクに提示しました。ジャンヌ・ダルクが犯したとされる罪を一方的に聖職者たちが決めて、これらを認めて悔い改めるなら、彼女を異端者にしないということにしたのです。
ジャンヌ・ダルクはイギリスからのこの申し出に烈火のごとく怒り、拒否していました。しかし冷静になってから、自分がしたことは神の心に叶ったことであり、人間が知らなくても神がそのことを知っていればいいのではないかと考え直します。
そのため5月24日に、ジャンヌ・ダルクは12ヶ条の罪状を認めて悔い改める書類にサインをしました。
ちなみに、文字の読み書きが出来ないジャンヌ・ダルクは、サインが出来たのでしょうか?
実は、彼女はサインの欄に自分の名前ではなく、十字架を書きました。イギリス側は、「ジャンヌは自分の名前が書けないから、これでいいだろう」と書類を受け取ります。
しかし十字架のサインには、古い時代に大陸の庶民の間で「違法な契約は守らなくて良い」という意味があったと言われています。イギリスは島国であり、フランスの聖職者たちも庶民の生活を知らないため、この意味を知りませんでした。
そのため、ジャンヌ・ダルクが十字架に込めた皮肉に気づかなかったのです。この十字架のサインを書いた時、ジャンヌ・ダルクは堪え切れないようにお腹を抱えて笑い出し、見守る聖職者たちは彼女の姿にキョトンとしていました。
書類にサインしたジャンヌ・ダルクは、表面上は悔い改めていることを見せるため、女性の服装に着替えます。
一方、一旦は彼女に温情を与えたかに見えたイギリスですが、それもジャンヌ・ダルクを始末するための計画の一部だったのです。
イギリス側の人々は、女装したジャンヌ・ダルクを女性用の牢獄ではなく、なんと男性用の牢獄に入れました。しかも個室ではなく、他の男性囚人と一緒の部屋で、監視の兵士も男性だけです。
いつ襲われるか分からない状況で、ジャンヌ・ダルクはろくに眠ることも出来ません。
とうとう彼女は、5月27日に自分の身を守るため再び男性の服装に身を包みました。
それは、12ヶ条の罪状に対する悔い改めに違反することでした。
ジャンヌ・ダルクが狙い通りの行動を取ったのを見て、早速イギリス側の人々は5月28日に、再び審理会を開きました。
ジャンヌ・ダルクはイギリス側が自分にした処遇を訴えましたが、イギリス側の人々は事実無根だとします。その上で、
- 神の声を聞いたと言ったペテン師
- 農民の娘なのに男装をして、悔い改めても再び男装をした
という、こじつけにしか思えない理由で「ジャンヌは悪魔と取り引きした魔女だ」と宣言します。当時、魔女は見つかり次第、火炙りで処刑する決まりでした。
ジャンヌ・ダルクも例外ではなく、その場で火炙りでの処刑が決定されます。
もう処刑できれば理由は何でも良かったんですね。「誰かハンムラビ法典持って来い!」と思います。
1431年5月30日、ルーアンの広場で、ジャンヌ・ダルクの火炙りによる公開処刑が行われます。まだ19歳の若さでした。
ジャンヌ・ダルクの死因は窒息死でしたが、彼女の遺体は灰になるまでしつこいくらいに焼かれて、灰はセーヌ川に撒かれました。
そこまでする必要あったんでしょうか…?これって、イギリス側の何人かの個人的な恨みで処刑されたようなもんですよね。
この後、イギリス国民も「自分の祖国は神に遣わされた聖女を処刑してしまった」と証言したり、記録に書いたりしています。
ジャンヌ・ダルクの活躍のお陰でフランス国王になったシャルル7世は、外交的な手段を使ってイギリス勢力からフランスの領土を取り戻し、1453年に百年戦争を終結させます。
また、彼は恩人であるジャンヌ・ダルクを救えなかったことを気に病んでいたため、1450年にジャンヌ・ダルクの処刑裁判の見直しを命じます。
その結果、1456年に教会は処刑裁判の「無効」を宣言し、1920年には正式に聖人とします。
悲劇的な最後でしたが、ジャンヌ・ダルクの名前は語り継がれることとなり、私たちの時代まで人々の記憶に残ったのです。
【エピソード】ジャンヌダルクの人柄や性格が分かる逸話
神のお告げに従い祖国フランスを救ったが、火炙りという悲劇的な最後を迎えた少女。
こう聞くと、「穏やかで、信仰心に篤く、常に人々の幸せを考えて、自分を犠牲にする聖女」をイメージします。
現代のサブカルチャーや欧米の古典作品で見られるジャンヌ・ダルクのイメージもそうですが、このイメージには後世の人々の理想や想像によって作られた物です。
では、実際のジャンヌ・ダルクはどんな性格をしていたのでしょう?
ここからはキャラ崩壊のオンパレードです。具体的なエピソードと共にお送りします。
キャラ崩壊その3「思い込みが激しい」
エピソード
- ジャンヌ・ダルクが神の声を初めて聞いた→精神疾患による幻聴が原因として挙げられることが多いですが、彼女の言動には精神疾患の他の症状が見られません。もっとも有力な説は、「フランスを救って苦しむ人々を救いたい」という彼女の願いが内なる声となり、幻聴として聞こえたという説です。ジャンヌ・ダルクが神の声を聞いた時には絶食をしていた時だという記録が残されているため、自分の内側から聞こえた声を外から聞こえる神の声だと思い込んだと考えられます。
- オルレアンに向かう時、他の将軍たちは敵がいる場所を避けながら、遠回りをして町を目指していた。遠ざかる町を見てジャンヌ・ダルクは、「自分が地図を読めない小娘だと思って、何の相談もなくオルレアンから遠ざかっている」と思い込み、ジル・ド・レやラ・イールに怒った。
- シャルル7世の戴冠式を行った後、ジャンヌ・ダルクは一刻も早くパリを取り戻すべきだと主張してシャルル7世と対立した。彼女は自分が戦いでパリを取り戻すべきだと思い込んで、外交上の駆け引きという自分が知らない方法のことを知ろうとせず、独断で行動した。その思い込みと行動が命取りになった。
キャラ崩壊その4「自分に厳しく、他人にも厳しい。そのため、自分にとっての正義を周りの人に押し付ける傾向あり。」
エピソード
- ドンレミ村にいた時、ジャンヌ・ダルクは毎日、朝と夕方に教会に行って祈り、正午を知らせる教会の鐘が鳴った時も自主的に祈っていた。ある日、教会の鐘を鳴らす仕事をしていた男性が、他の仕事に熱中して正午になっていることに気づかなかった。それを見つけたジャンヌは、「正午の鐘を鳴らさないと、村のみんなが祈りを捧げることが出来ない!」とものすごい勢いで男性を責めた。と言っても、正午に自主的に祈りを捧げる人は、ジャンヌを含めて少人数しかいなかった。それに、その日以外は男性はきちんと正午に鐘を鳴らしており、忘れたのも別に遊んでいたからではなかったのだ。それなのに、ジャンヌは男性にものすごい勢いで怒った。きちんと祈りを捧げることは良いことだが、自分が良いと思ったことを他人の状況を考えずに押し付ける傾向がジャンヌ・ダルクにはあったのだ。
- この傾向は、パリ奪還の際に命令を無視して自分が良いと思ったことを貫く行動にも出ている。
- 当時の軍隊には娼婦が付いていくことが多かったが、聖書では姦通が禁止されている。ジャンヌ・ダルクは「身体を売ることや女を買うことは、死後に地獄へと落ちる原因になる」と言って娼婦たちを軍から追い出した。当然、娼婦たちは仕事を失い、兵士たちは不満を持った。しかし、兵士たちはジャンヌ・ダルクの考え方に傾倒していき、娼婦たちは人々を堕落させる悪魔の手先だと考えるようになっていった。そんな兵士たちが暴走し、ジャンヌ・ダルクが知らない所で娼婦たちを惨殺していたことがあった。
- オルレアン解放戦争の発端となったサン・ルー砦での戦いでは、多くの戦死者の遺体を見てジャンヌ・ダルクは涙を流した。しかし彼女は人が死んだことを悲しんだのではなく、突然始まった戦争で亡くなった人々は告解(キリスト教の司祭に自分の罪を告白し、悔い改めること)をしていないため、地獄に落ちてしまうのではないかと気に病み、悲しんだのだ。その後、ジャンヌ・ダルクは自分も含めて普段から兵士たちに告解を済ませておくように指示していた。
この論理で兵士たちの死を嘆くというのは、逆に言うと告解を済ませた兵士が亡くなっても、死は天国への旅立ちとなるため、彼女にとっては喜ばしいことになってしまいます。
日本人の感覚からしたら「なんか違うんじゃない⁉︎」と突っ込みたくなりますね…。とにかく、ジャンヌ・ダルクの正義はキリスト教の教えを基準にしており、それで周りの世界が回っていると思っているような言動が目立つのです。
キャラ崩壊その5「気が強くて、相手が誰だろうが怒ったら啖呵を切る」
エピソード
- ジャンヌ・ダルクと王太子軍がオルレアンの町に入る前、将軍たちは先代オルレアン公の弟であるバタールに合流しようとしていた。バタールはオルレアン公であった兄が亡くなった後、急遽オルレアン防衛線の指揮を執っており、敵軍に見つからない場所で彼らは合流した。
一方、ジャンヌ・ダルクは早くオルレアンの町に入りたくて堪らないのに、一旦バタールの軍と合流しなくてはいけないことにイライラしていた。そのため、彼女は出迎えたバタールに「私を遠回りさせたのはあなたですか⁉︎」と、初対面にも関わらず掴みかかったのだ。相手は貴族の血を引く指揮官。無謀というか命知らずというか…。
これにはバタールもびっくりしましたが、冷静で真面目なバタールはジャンヌ・ダルクに怒らなかった。その場所は川のすぐ近くで、その時間に風はオルレアンの町とは反対の方向に吹いていた。そのためバタールは、このまま遠回りしてオルレアンの町に入る予定だと彼女に告げる。
しかしジャンヌ・ダルクは、「風向きはすぐに変わります。神が救って下さるのですから!今すぐ川を渡って町に入りましょう!」(意訳です)と強く主張したのだ。
結果的にジャンヌ・ダルクの言う通りになったのだが、相手がバタールじゃなかったら怒りを買ってどうなってたか分かった物じゃないですね。
- オルレアンを解放した直後、イギリスの増援部隊がオルレアンに迫っているという報告が王太子軍に届いた。するとジャンヌは、「増援部隊が近くまで来たら知らせなさい。もし知らせなかったら、あなたの首を刎ねますよ。」とバタールに脅迫付きの命令をしたのだ。言ってることが何か極道だよ!その命令に従った上にジャンヌ・ダルクの戦いを支えるバタールさん、懐が広いですね。凄すぎます…。
ジャンヌ・ダルクは元々百姓の娘です。ドンレミ村では、農業をしながら男の子と喧嘩をすることもあっただろうと想像できます。
そんな彼女は聖女のイメージのようにずっと穏やかだった訳ではなく、自分の正義に反することをした人に対して頭に血が上ることも多かったのです。ある意味、頑固で頭が固かったと言えます。
それでも、その頑固さを信仰と愛国心へと繋げたため、性格の良い使い方をしたと言えます。
まとめ ジャンヌダルクはどんな人?おすすめ映画
ジャンヌ・ダルクの性格と生い立ち、面白いエピソードについて紹介しました。
世界的に有名なフランス人であるジャンヌ・ダルクは、「神のお告げを聞いて祖国を救ったが、悲劇的な最後を遂げた聖女」として描かれることが多いです。
しかし、実際の彼女は
- 信仰心が篤い
- 思い込みが激しい
- 自分にも他人にも厳しい
- 故郷のドンレミ村を出た時も、現代の基準で言えば家出娘のような出発の仕方をしている
- 自分にとっての正義であるキリスト教の基準を他の人の事情を考えずに当てはめ、違反している人を激しく責めた
- 気が強い
- 相手の身分が高かろうが、大の男の人だろうが、頭に血が上ったら啖呵を切っていた
- 目的を決めたら周りの状況が見えず、一直線に進む
という、世間一般のイメージと少し、いやかなり違う性格です。しかし、農民の娘として育てられたと考えると、1人の人間としてはあり得る性格ではないでしょうか?
「自分のイメージと違う!」と勝手にガッカリすることこそ、「後の時代の人が勝手に作った人物像だし、私は生きてる時にそんなの知らなかったわよ!」とジャンヌ・ダルクに言われそうです。(あくまで想像です)
しかし、そこらへんにいそうな性格の農民の娘であるジャンヌ・ダルクが、イギリスと戦ってフランスを救うきっかけを作ったのには、他の人にない物を彼女が持っていたからです。
それは、
- 絶体絶命で藁にも縋りたいシャルル7世の境遇
- 兵士たちと民衆を鼓舞するカリスマ性
- オルレアンでの勝利を得た後、武のジル・ド・レ、戦略のラ・イール、温厚で真面目な仲裁役のバタールなど、能力間のバランスが取れた歴戦の戦士たちが彼女を支えた
- 家族からもたくさんの愛情を受けていたジャンヌ・ダルクを、兄のピエールとジャンは心配して途中から彼女の軍に参加し、精神的にジャンヌ・ダルクを支えた
という、歴史と彼女の意志がマッチした上に、周囲の人々に恵まれていたことです。
周りの環境に恵まれるということも、1つの才能なのかもしれません。
いずれにしても、ジャンヌ・ダルクが完璧な聖女だったからフランスを救えたのではなく、ジャンヌ・ダルクに協力した様々な人々がいたからこそフランスは救われたのです。
人は1人では偉業を成し遂げることは出来ません。
偉人と呼ばれる人の影には、その人を支えたたくさんの人々がいることを忘れてはいけないと、彼女の人生は私たちに教えてくれます。
ジャンヌ・ダルクが登場する作品を見る時には、そのことを考えながら見てみると、新たな作品の見方が出来るかもしれません。
ジャンヌ・ダルクが登場する作品はたくさんありますが、今回は出来るだけ史実に基づいた映画を紹介します。
- 『火刑台上のジャンヌ・ダルク』 監督:ロベリエ・ロッセリーニ
舞台で演じられていた『火刑台上のジャンヌ・ダルク』の映画化。主演女優のイングリッド・バーグマンは、その生涯で何度もジャンヌ・ダルクを演じています。
ジャンヌ・ダルクを主題とした映画にありがちな過激なフィクションが排除されているため、史実にかなり沿っていることが特徴。舞台を見慣れていない人も、1度見てみては如何でしょうか?
- 『ジャンヌ・ダルク裁判』 監督:ロベール・ブレッゾン
ジャンヌ・ダルクの裁判を、当時のイギリス側の記録を元に忠実に再現したドキュメンタリー風の映画。制作陣の解釈が入り込んでおらず、ジャンヌ・ダルクも1人の少女として裁判を受ける様子が描かれています。見ている人が思い思いに考察しながら見ることが出来る作品です。
二次創作のジャンヌ・ダルクだけでなく、史実に基づいたジャンヌ・ダルクの姿もぜひご覧下さい!
以上、「ジャンヌダルクの性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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