あなたは佐竹義重という人物をご存知でしょうか?
佐竹義重は常陸国(現在の茨城県)で活躍した武将で、北条氏や伊達氏といった大名と関東や東北の覇権を巡って争いました。
佐竹義重はその優れた武勇から「鬼義重」や「坂東太郎」の異名を持ち、外交でも才能を発揮し常陸国統一を成し遂げ、佐竹氏の全盛期を築きました。
しかし、佐竹義重が最期を迎えた地は故郷の常陸ではなく東北の久保田藩(現在の秋田県)でした。
なぜ、東北の地にいたのか?
今回は佐竹義重について
- 佐竹義重の生い立ちや家族。子孫は誰?
- 佐竹義重の生涯や性格がわかるいい話の逸話は?
- 【エピソード】佐竹義重の刀・兜のエピソードとは?
について紹介します。
こちらを読めば佐竹義重の生涯やエピソードがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
佐竹義重の生い立ちや家族。子孫は誰?
佐竹義重は天文16年(1547年)に常陸国の戦国大名・佐竹氏に生まれます。
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父は佐竹義昭
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母は宮山玉芳[陸奥国(現在の青森・岩手・宮崎・福島)大館城主・岩城重隆の娘]
の嫡男として生まれます。
弟や妹には
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那須資家
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佐竹義尚 → 佐竹一族の佐竹南家・佐竹義里の養子となる
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小場義宗
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南呂院 → 下野国(栃木県)の戦国大名・宇都宮広綱の正室となる
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桂樹院 → 伊達政宗の叔父・岩城親隆(岩城重隆の養嗣子)の正室となる※養嗣子とは養子が後継者となること
がいます。
子には
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佐竹義宣 → 義重の後を継ぎ、久保田藩(秋田藩)の初代藩主となる
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蘆名義広 → 陸奥国の戦国大名・蘆名盛隆の養女の正室となり蘆名氏を継ぐ
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佐竹義直 → 佐竹氏分家の佐竹北家・佐竹義兼の養子となる
ら(他に息子2人・娘1人・養女1人)がいます。
子孫には佐竹北家末裔で現秋田県知事の佐竹敬久さんがいます。
佐竹義重の生涯や性格がわかるいい話の逸話は?
~武家の名門佐竹氏に生まれる~
まずは佐竹氏について紹介します。
佐竹義重が生まれた佐竹氏は平安時代から続く由緒正しい名門で、先祖代々常陸北部の奥七郡を中心に支配していました。
佐竹氏の家祖は源昌義(1081年~1147年)と言われており、昌義が父・源義業から常陸国久慈郡を継承すると、本拠が佐竹郷であったことから佐竹を名乗ったことが始まりとされています。
また、佐竹氏は常陸源氏の嫡流(本家)であり、戦国時代に武田信玄を輩出した甲斐源氏の同族といわれています。
平安時代後期に源頼朝と平清盛が争う(源平合戦)と、佐竹氏は平家方として源氏と戦ったため、鎌倉時代に入ると奥七郡を没収されてしまいます。
南北朝時代には佐竹氏は北朝方(足利尊氏)につき、関東の南朝方(後醍醐天皇)の勢力と戦い、室町幕府が樹立されると常陸守護に任ぜられます。
室町時代中期には後継者を巡り佐竹山入家(佐竹分家)と争い、一時的に佐竹山入家に常陸守護を奪われてしまい、この影響によって常陸統一が困難となり戦国大名化が遅れることになります。
戦国時代に入ると佐竹義重の曾祖父で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜(よしきよ)が佐竹山入家を滅ぼし常陸北部を統一しますが、義重の祖父・義篤(よしあつ)の代には相模の北条氏が勢力を拡大してきます。
佐竹義重が生まれた天文16年(1547年)の佐竹氏は常陸北部のみの領地しか統治していませんでした。
~佐竹義重が家督を継ぐ~
佐竹義重の父・佐竹義昭は先代の佐竹義篤(義重の祖父)と同じように常陸統一を目指していました。
父・佐竹義昭は
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天文20年(1551年) 常陸国人の江戸忠通を降伏させる
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弘治3年(1557年) 隣国下野国の宇都宮氏の内紛に介入し、当主となった宇都宮広 綱に娘を嫁がせる
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永禄元年(1558年) 陸奥国大館城主・岩城重隆と戦うが和睦する
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永禄3年(1560年) 下総国(茨城南部・千葉北部)の結城氏と白河氏を攻める
結城氏とは和議を結び、白河氏に対しては寺山城を落とす
といった軍事行動をし常陸国内や下野国へ勢力を広げます。
佐竹義重も元服以前から父に従い活躍します。
永禄6年(1562年)に入ると関東管領(南北朝時代から室町時代まで関東を統治していた鎌倉府のナンバー2)に任じられた上杉輝虎(後の謙信)が関東へ出陣してきます。
佐竹義昭はすぐに上杉輝虎と同盟を結んで常陸統一に動きます。
そして、永禄5年(1562年)に佐竹義重は父から家督を相続し佐竹氏の当主となりました。
~勢力拡大~
当主となった佐竹義重でしたが父の存命中は父が実権を握り、父からの助言で政治を行っていました。
ところが、永禄8年(1565年)に佐竹義重が18歳の時に父・佐竹義昭が35歳で急死してしまいます。
佐竹義重は当主として実権を握り勢力拡大に動きますが、父の急死は佐竹氏にとって大きな痛手となり、佐竹氏に従っていた国人(江戸氏・小田氏・白河氏ら)が反抗するようになり常陸統一が遠のいてしまいます。
さらに、南には北条氏、北には蘆名氏といった強大な大名がいたため、佐竹氏は厳しい状況にありました。
しかし、佐竹義重は上杉輝虎との同盟を契機に武力で周辺勢力を制圧しようとします。
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永禄9年(1566年) 小田氏治を攻めて小田領を奪う
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永禄12年(1569年) 小田氏の居城・小田城を攻略する
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元亀3年(1572年) 白河氏と岩城氏を支配下に置く
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天正3年(1575年) 白河城を攻略
と周辺勢力を支配下に置き、常陸の大半と陸奥国南東部(福島県南東部)、さらには下野国の北中部を勢力下にしました。
また、甲斐の武田信玄とも同盟を結びます(1569年、甲佐同盟)。
※この同盟の際に武田信玄と甲斐源氏の嫡流を巡って争います(佐竹家と武田家は同族)。
しかし、佐竹氏の周りには北条氏や蘆名氏といった強大な大名が健在していたため、佐竹義重は武力だけではなく、外交で打開しようとします。
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他家に養子や娘を送って姻戚関係となり自身の支持基盤を作る
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畿内(現在の大阪や奈良)で勢力を持っていた織田信長の家臣・羽柴秀吉と親しい関係を築く
これらによって佐竹氏は内部から基盤を作ることに成功します。
~伊達政宗との対立~
佐竹義重が基盤を固めていた天正8年(1580年)6月に、佐竹氏にとって幸運が訪れます。
陸奥国会津で勢力を誇り佐竹氏にとっては強敵であった蘆名氏の当主・蘆名盛氏が亡くなったのです。
蘆名盛氏は蘆名氏の全盛期を築いた人物であり、義重の父・佐竹義昭の頃から度々争っていました。
しかし、蘆名氏当主が蘆名盛隆(盛氏の養子)になると、佐竹義重は蘆名氏と関係を改善するため、蘆名氏と敵対していた田村清顕(きよあき)を攻撃し破ります(御代田合戦)。
これによって佐竹義重は蘆名氏と同盟を結ぶことに成功します。
ところが天正12年(1584年)6月に蘆名盛隆が家臣に暗殺されてしまいます。
家督は蘆名盛隆の嫡男で生後1ヶ月の亀王丸が継ぎ(2年後に亡くなる)、亀王丸の母方である伊達氏の蘆名氏の政治を行うことになりました。
しかし、東北への勢力拡大を考えていた佐竹義重は伊達氏の動きに危機感を覚え、蘆名氏への後継問題に介入します。
そこで、蘆名氏の家督を巡って蘆名氏と同盟を結んでいた佐竹氏と伊達氏は以下の養子を送り込むことにします。
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佐竹氏 → 佐竹義広(佐竹義重の次男)
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伊達氏 → 伊達小次郎(伊達政宗の弟)
蘆名家内部は佐竹派と伊達派に分かれるも、蘆名盛氏時代からの功臣であった金上盛備(かながみもりはる)が佐竹義広を強引に養嗣子(後継者となった養子)にしました。
佐竹義重は蘆名領も間接的に支配できるようになりますが、伊達氏との対立さけられない状況となります。
天正13年(1585年)11月に東北の統一を目論む伊達政宗が二本松氏を攻めると、佐竹義重は二本松氏を助ける名目で蘆名氏や二階堂氏などの南陸奥の諸大名らとともに連合軍を結成し、人取橋の戦いで伊達軍を壊滅させます。
しかし、ここで急報が入ってきます。
南の北条氏が常陸本国へ攻めてきたというものでした。
佐竹義重はこれ以上東北での行動は出来なくなり、後にこの伊達政宗を倒せなかったことが佐竹氏にとって大きな失敗となってしまいます。
~東北方面での衰退と豊臣秀吉への臣従~
佐竹義重が北条氏への対応を行っている間に伊達政宗が東北で勢力を拡大します。
天正14年(1586年)に二本松氏が伊達氏に降伏し滅亡してしまいます。
二本松氏の降伏によって佐竹氏の東北方面への情勢も変わっていきます。
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天正16年(1588年) 南陸奥の諸大名と連合軍を結成するも伊達軍に敗北(郡山合戦)
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天正17年(1589年) 蘆名義広(義重の次男)が摺上原(すりあげはら)の戦いで大敗
蘆名義広は常陸へ帰って来るも佐竹氏は会津を完全に失い、北からは伊達政宗、南からは北条氏直に挟まれる形となり窮地を迎えます。
ところが、ここで救世主が現れます。
東北で佐竹氏・伊達氏・蘆名氏らが争っている間に、甲信越から九州まで支配下に置いた豊臣秀吉が関東と東北に介入してきます。
これは佐竹義重にとっては現状を打破する絶好の機会となり、昔から誼を通じて(良い関係を築く)いた豊臣秀吉に義重はすぐに臣従しました。
そして、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐に参陣し北条氏を滅亡させます。
その後、東北で争っていた伊達政宗も豊臣秀吉に服従したため佐竹義重は窮地を脱し、さらに常陸一国の支配権を認められます。
そして、天正19年(1591年)には常陸統一も成し遂げ、2年前に家督譲っていた嫡男の佐竹義宣に実権を譲ります。
~父子対立と佐竹義重の最期~
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が台頭し、家康を討とうした石田三成との間で慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こります。
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佐竹義重は徳川家康に付くことを義宣に言うも、当主の義宣は石田三成に付こうとします。
佐竹義宣が石田方に付こうとしたのは理由があったからでした。
その理由は佐竹氏が豊臣秀吉に臣従した時の話です。
豊臣秀吉による奥羽仕置(陸奥国と出羽国の領地整理)の際に、常陸国の隣国・下野国の宇都宮氏が改易されてしまいます。
当時の宇都宮氏の当主は宇都宮国綱でしたが、国綱の正室は佐竹義重の養女であり、佐竹氏と宇都宮氏は親密な関係を築いていました。
この親密な関係が宇都宮氏の改易によって佐竹氏にも影響が響いてしまいます。
しかし、ここで石田三成の取りなしによって改易が免れます。
このことが理由で佐竹義宣は石田方に付こうとしますが、佐竹義重としては恩だけで乱世は生き残れないという考えがありました。
結局、佐竹義重の意見を聞いた義宣は伊達政宗とともに石田方であった上杉氏を背後から牽制する姿勢を見せます。
関ヶ原の戦いの結果、徳川家康が勝利しますが佐竹義宣のどちらに付くともいえない曖昧な態度に徳川家康は不信感を表し、佐竹氏を出羽国(山形県・秋田県)に減封します。
江戸時代に入ってからは久保田に移封され久保田藩(秋田藩)を治めます。
佐竹義重は六郷城(現在の秋田県仙北郡美郷町)に住み、そこで現在の秋田南部の見張りを行っていました。
そして、慶長17年(1612年)4月に佐竹義重は狩りの最中に落馬して66歳で亡くなりました。
ちなみに鎌倉幕府初代将軍・源頼朝も落馬で亡くなっています(諸説あり)。
佐竹義重の最期は落馬によるものでしたが、義重はその武勇と外交力で乱世を生き抜いていき名門佐竹氏を守ってきました。
佐竹氏は明治維新後も続き、最初に書いた通り現秋田県知事は佐竹氏の末裔です(佐竹分家の佐竹北家の子孫)。
【エピソード】佐竹義重の刀・兜のエピソードとは?
佐竹義重のエピソード1.上杉謙信から刀を贈られる
このエピソードは佐竹義重と関東進出を狙っていた上杉謙信との間で起こった話です。
永禄8年(1565年)に相模の北条氏が関東で勢力を広げると、関東管領の上杉謙信が関東へ出陣してきます。
佐竹義重は北条氏と対立していたため、上杉謙信に味方し北条軍と戦います。
すると、佐竹義重が味方してくれたことに上杉謙信は感謝し、備前三郎国宗(刀職人)が作った「備中三郎国宗」という刀を贈ります。
刀を贈った際に上杉謙信は次のような文を添えています。
「この太刀は、隠居後に杖に使おうと思っていたものだが、私の武略を継ぐのは貴方しかいないと思い、私にあやかって貰いたいために譲る事にした。」
佐竹義重は隠居する際にこの刀を嫡男の佐竹義宣に譲りますが、義宣は長すぎて使いにくいとして先端を斬って脇差しにしてしまいました。
これを見た佐竹義重は「刀の魂が失われてしまった」と嘆いたそうです。
佐竹義重のエピソード2.毛虫の兜
戦国時代の武将は戦の際には当然甲冑を着ていましたが、色や形は人ぞれぞれでした。
とくに兜の前立ての部分は威厳や地位を誇示するために個性的なものをつけていました。
例としては
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伊達政宗 → 三日月
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直江兼続 → 愛
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真田幸村 → 鹿の角 六文銭
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森蘭丸 → 南無阿弥陀仏
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伊達成実 → ムカデ
といった兜があります。
このような兜があるなか、佐竹義重も個性的な兜をかぶっていました。
それが毛虫をモチーフにした兜でした。
なぜ毛虫にしたのかというと次のような理由があります。
- 虫は後退しないというイメージから
- 葉(刃)を食べることから、魔除けの意味としてとらえた
- 源氏は古い発音で「けむし」と呼ばれていたことから源氏の正統だと示すため
と言われています。
まとめ 佐竹義重は結局どんな人?大河ドラマや映画や小説はある?
ここまで佐竹義重について紹介してきました。
まとめてみると
- 佐竹義重は武勇に優れていた
- 佐竹義重は外交に積極的だった
- 佐竹義重の兜は毛虫をモチーフにしたものだった
- 佐竹義重は北条氏・伊達氏らを相手に戦った
佐竹義重が登場する大河ドラマや映画は残念ながらありません。
小説は
- 志木沢郁さんの『佐竹義重・義宣』
- 近衛龍春さんの『佐竹義重(さたけよししげ)伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名』
があります。
ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「佐竹義重の性格と子孫は誰?いい話の逸話や刀・兜のエピソードとは?」でした。
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