渋沢栄一 具体的に何をした人? 新一万円札の顔 渋沢栄一の生涯・功績について解説

 2024年度上半期の新紙幣の肖像1万円札渋沢栄一が採用されることが決まりました。

 日本史を詳しく勉強していなければ渋沢栄一と言われても何をした人なのかピンと来ない方も多いと思います。

実はこの渋沢栄一「近代日本資本主義の父」と言われているほど現在の日本資本主義社会の礎を築いた凄い人なのです。

今回はその渋沢栄一の生涯とエピソード、功績について詳しく解説していきます。

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渋沢栄一のプロフィール

・名前:渋沢栄一(旧字体:澁澤 榮一、幼名:栄二郎)
・生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日)
・出生地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
・死没:1931年(昭和6年)11月11日(満91歳没)

渋沢栄一の青春時代

渋沢栄一は1840年3月16日(天保11年2月13日)に現在の埼玉県深谷市血洗島の農家の家に生まれました。

幼少期は家業である藍玉(アイの葉を発酵させ、つき砕いて固めたもの。染料)の製造・販売、養蚕を手伝いながら父市郎右衛門から読書等の学問の手ほどきを受け、7歳になると従兄の尾高惇忠のもとに論語等の学問を習いに通っていました。このように幼少期から非常に勉強熱心だったことが分かります。

学問だけでなく剣術にも力を入れており、長州藩の桂小五郎も学んだ神道無念流を学んでいました。正に文字通り文武両道の青春時代だった事が伺えます。
ここで渋沢栄一の青春時代でのエピソードを3点ご紹介します。

エピソード

高崎城 乗っ取り計画

 1861年(文久元年)に江戸に出て幕末の儒学者である海保漁村の門下生になったと同時に北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門しました。その道場には勤王志士たちも門下生としており、剣術の傍ら勤王志士たちと交流を深めるようになります。その影響で渋沢栄一は天皇を尊び、異国の敵を排除する尊王攘夷の思想を抱くようになります。

尊王攘夷の思想に目覚めた渋沢栄一は1863年(文久3年)高崎城を乗っ取って武器を奪い、長州と連携して幕府を倒すというとんでもない計画を立てたのです。しかし惇忠の弟である尾高長七郎の懸命な説得によってこの計画は中止となりました。

一橋慶喜に仕官、パリ万国博覧会見学

 尊王攘夷の活動によって父から勘当を受けた渋沢栄一はその後、京に出ますが、当時は八月十八日の政変で過激攘夷派や長州藩が京から追放された直後でした。尊王攘夷派の力が弱まった京での活動に行き詰った結果、交際のあった一橋家家臣平岡円四郎の薦めで一橋慶喜に仕える事となったのです。仕官中は農兵の募集に携わるなどして頭角を表すようになりました。

主君の慶喜が15代征夷大将軍となるに伴い、幕臣となり、1867年には慶喜の異母弟である徳川昭武に随行してパリ万博博覧会を見学する事になります。パリ万博を視察した他ヨーロッパ各地の先進的な産業、軍備を見学しました。西欧諸国の近代的な社会を一目見た渋沢栄一はすごく感銘を受けます。


1867年パリ万博の風景

明治維新後 初の株式会社「商法会所」設立

 渋沢栄一がパリ万博と西洋諸国の視察を終えた頃、日本では幕府が政権を朝廷に返上した「大政奉還」があり、一気に明治維新へと突き進んでいました。渋沢栄一は新政府から帰国を命じられ、1868年10月19日(慶応4年9月4日)マルセイユから帰国しました。

帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」と言われたことをきっかけにフランスで学んだ株式会社制度を実践しようと1869年(明治2年)1月に静岡に日本初の株式組織である「商法会所」を設立しました。その後、大実業家への道を辿っていく事となるのです。

大蔵省入省後 大実業家へ

 商法会所を設立した渋沢栄一でしたが大隈重信に説得され、同年10月に大蔵省(現在の財務省)に入省します。大蔵省では改革案の企画立案を行ったり、度量衡(さまざまな物理量の測定、あるいは物理単位のこと)の制定国立銀行条例制定に携わりました。

また1870年(明治3年)には家業の養蚕業のノウハウを認められ、官営の富岡製糸場の設置主任に任命され、工場建設の現場を取り仕切った尾高惇史や、資材調達のまとめ役を担った塚直次郎らと共に、官営製糸場の設立に尽力しました。

1873年(明治6年)に退官後、商業を専門に教える学校の設立を計画していた森有礼と共に1875年(明治8年)に現在の一橋大学にあたる商法講習所を設立しました。幼いころから学問に励んでいたからこそこのような商業を学ぶ場が必要だと感じたのでしょうね。


商法講習所跡(東京都中央区銀座)

ここから渋沢栄一の大実業家時代へと進むのですが、主に渋沢栄一が携わった会社設立はなんと500社以上と言われております。中には皆さんがご存じの大手企業も携わっています。ここでいくつかをピックアップして渋沢栄一が携わった会社をご紹介していきましょう。

あの会社も渋沢栄一が携わっていた!? 主な企業名紹介

株式会社第一銀行(現:みずほ銀行)

 日本のメガバンクのひとつであるみずほ銀行ですが、実は渋沢栄一が設立した銀行がルーツとなっています。

明治維新後の政府は少しでも西欧諸国に追い付こうと様々な改革を行っている最中でした。特に殖産興業政策の遂行と健全な通貨制度の確立のために近代銀行制度の確立が特に急務と考え、国立銀行条例を制定しました。

渋沢栄一も大蔵省時代に国立銀行条例の制定に携わり、またその最初の模範となる銀行としての第一国立銀行の設立を積極的に勧奨していました。

銀行創設にあたっては株式会社制度の考え方により広く民間資金を集める事を意識して旧幕府時代から両替商の重鎮として力があった三井組小野組に声を掛け、大口出資社として協力する事になりました。

 資本金250万円のうち三井組、小野組が各100万円を拠出することになり、日本最初の株式会社である株式会社第一銀行が誕生しました。三井組、小野組それぞれから頭取を選任する一方その上に経営の最高責任者である総監役を置きましたがその総監役に国立銀行条例の立案と三井組と小野組を勧奨して設立を準備した張本人である渋沢栄一が官を辞して自ら就任する事になりました。

 1873年(明治6年)6月11日に本店で創立総会を行った後、7月20日に本店と横浜、大阪、神戸の三支店で営業が開始され、順調な滑り出しかと思われた矢先、開業翌年の1874年(明治7年)11月に、政府の一方的な金融政策の急変により小野組が破綻し、小野組関連貸出等が回収困難となり経営危機を招きます。しかし小野組保有の株式100万円の資本金を減資して総監役を廃止、その後渋沢栄一が単独で頭取となる新体制を敷きなんとか危機を回避しました。


兜町にあった初代本店

東京海上火災保険(現:東京海上日動火災保険株式会社)

 現在も保険会社で有名な東京海上日動火災保険株式会社も実は渋沢栄一が携わっていました。

当時渋沢栄一は保険事業ではなく、鉄道事業を行おうと考えていました。しかし、資金不足で鉄道事業は頓挫されます。数々の事業に携わっていた渋沢栄一は当時、殖産興業政策の一つとして業績を伸ばしていた海運・貿易業には海上輸送に伴う保険は必要不可欠だと感じ、海上保険会社の設立を目指します。

 当時同じく海上保険会社の事業を考えていた三菱財閥の創始者で郵便汽船三菱会社(現日本郵船)を経営していた岩崎弥太郎の共同出資の元1879年(明治12年)8月1日、資本金60万円をもって日本で初めての保険会社である東京海上保険会社が誕生しました。

経営陣には頭取に蜂須賀茂韶、取締役に華族や三菱関係者を配し、支配人に益田克徳、相談役として渋沢栄一と岩崎弥太郎を置きましたが、当時の社員数は全体でも10人前後と小規模でした。

創業当初の取扱商品は貨物保険のみで、日本のみならず釜山浦、上海、香港を含む18カ所に海外の代理店が置かれました。また、1880年9月には、三井物産のロンドン・パリ・ニューヨークの各支店に欧米での代理店委嘱も行われ、1884年2月からは船舶保険の引き受けも開始しました。その後は貨物保険以外にも自動車保険、自賠責保険等多くの商品も取り扱うようになりました。

その他 大企業

この他にも京阪電気鉄道王子製紙帝国ホテル東京証券取引所麒麟麦酒(現:キリンホールディングス)サッポロビール(現:サッポロホールディングス)等多くの大手企業の設立に携わっています。

ここまでくると日本の大企業のほとんどが渋沢栄一と関わっているのではないかと思いますよね。

渋沢栄一の社会貢献活動

 明治時代には実業家として数多くの企業設立に貢献していた渋沢栄一ですが、社会貢献活動にも力を入れていました。

東京市からの要請で養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたほか、東京慈恵会日本赤十字社、癩(ハンセン病)予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長財団法人滝乃川学園初代理事長YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長なども務めました。

また1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興のために大震災善後会副会長となり、寄付金集めに尽力した実績もあります。

多くの企業活動と社会活動に貢献した渋沢栄一は1931年(昭和6年)11月11日にこの世を去ります。

幕末、明治、大正、昭和と激動の時代に数多くの功績を残しました。

渋沢栄一の生まれ故郷である埼玉県ではその功績にちなみ健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与しています。

渋沢栄一についてもっと知りたい! 関連施設、メディア紹介

ここでは渋沢栄一についてもっと知りたいという方にお勧めの関連施設等をご紹介します。

関連施設

渋沢栄一記念館

渋沢栄一の遺墨や写真などたくさんの資料が展示されています。

・アクセス:〒366-0002 埼玉県深谷市下手計1204
・最寄駅:JR高崎線深谷駅または岡部駅
・タクシー:JR深谷駅から約16分/JR岡部駅から約16分
・車:関越自動車道花園ICから約40分/本庄児玉ICから約30分
   北関東自動車道太田藪塚ICから約40分

旧渋沢邸「中の家」

 渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に頻繁に立ち寄り寝泊まりした部屋が現存しています。

・アクセス :深谷市血洗島247-1 (JR深谷駅からタクシーで約20分)

メディア紹介

 2021年のNHK大河ドラマで渋沢栄一が主人公「青天を衝け」が放送される事が決まりました!主演はなんと人気俳優の吉沢亮さんです。

日本資本主義の父と言われた渋沢栄一を吉沢亮さんがどのように演じられるのかとても楽しみですね!

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#2021大河ドラマ が発表されましたね❗#天陽ロス が癒えない内の#吉沢亮 さん主演とは😆#朝ドラ から#大河ドラマ への流れはもはやNHKのお家芸ですな☝️しかし、演じるのは#新一万円札 の#渋沢栄一 かぁ~🤔う~ん、幕末好きだし、明治も面白いっちゃ面白い時代なんだろうけど、役者がいいだけに正直ちょっともったいない気が💦ま、私はなんだかんだで全話見ますけど😁みなさんの感想は? #大河ドラマ #青天を衝け #大河ドラマ青天を衝け #天陽くん #なつぞら #大河ドラマいだてん #いだてん #金栗四三 #中村勘九郎 #田畑政治 #阿部サダヲ #大河ドラマ麒麟がくる #麒麟がくる #明智光秀 #長谷川博己 #銀魂 #沖田総悟 #昨日のあな番がっがり

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まとめ

これまで渋沢栄一の功績についてご紹介させて頂きましたがまとめると

・幼少期から文武両道で青年期には尊攘派であった。

・明治維新後には実業家となって500社程の会社設立に携わった

・企業活動だけでなく社会貢献活動にも力を入れていた。

                      という事になります。

これだけでも渋沢栄一がどれほど凄い人なのかが分かります。

新1万円札の肖像採用と、来年の大河ドラマ「青天を衝け」の放映で今後、渋沢栄一は大きく注目されるかもしれません。

 以上、渋沢栄一のご紹介でした!

>>「青天を衝け」を見る

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