織田信忠は有能な実力者だった?性格と逸話。最期の辞世の句

あなたは織田信長の長男である織田信忠をご存知でしょうか。

織田信長によって、織田家の家督を譲られた人物です。

しかし、信忠は父・信長と共に本能寺の変の際、自害しこの世を去りました。

あまり、ドラマや映画に登場することのない信忠ですが、映画「清須会議」には、中村勘九郎さんが信忠を演じ登場しました。

 

では一体、織田信忠はどのような人物であったのでしょうか?

今回は織田信忠の

  • 生涯
  • 性格
  • 逸話
  • 辞世の句
  • 実力

をご紹介いたします。

これを読めば、織田信忠の生涯や性格、逸話、実力などを知ることができますよ。

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織田信忠の生い立ちと経歴

織田信忠は弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に現在の愛知県である尾張国で誕生しました。

父はかの有名な織田信長、母は信長の側室である久庵慶珠です。

「勢州軍記」によると、信長の正室・濃姫が信忠を養子に迎えたと記されています。

よって信忠は

  • 側室・久庵慶珠から誕生した
  • 正室・濃姫によって養子に迎えられた

となります。

幼名は奇妙丸といいました。

なんだか不思議な幼名ですが、信忠が誕生した時、奇妙な顔をしていたので父・信長は奇妙丸と名前をつけました。

我が子に、そんな名前をつけるなんて、ひど過ぎます…

信忠は永禄10年(1567年)11月、武田家と織田家の同盟関係を強めめるために武田信玄の娘・松姫と婚姻関係となります。

しかし結局、元亀3年(1572年)同盟関係であった武田信玄は信長と敵対していた室町幕府第15代将軍・足利義昭に味方し、同盟は解消され、信忠と松姫の婚約も解消されました。

元亀3年(1572年)8月12日頃に信忠は元服し、「奇妙丸」という幼名から「勘九郎」に名前を変えました。

この頃、信忠は17歳~19歳頃とされ、少し遅めの元服となります。

その後、父・信長と共に

  • 元亀元年(1570年)9月12日から天正8年(1580年)8月2日までの石山合戦
  • 天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い
  • 天正2年(1574年)7月から9月までの伊勢長島攻め
  • 天正3年(1575年)5月の長篠の戦い

の戦の参加し、信忠は武名を上げていくこととなります。

天正4年(1576年)11月28日、信忠は父・信長から美濃東部と尾張国の一部と長男であったため家督を譲られ岐阜城主となりました。

この時、父・信長の正室であった濃姫が信忠の乳母となったとされ、濃姫の弟である斎藤利治は信忠の側近として就任します。

天正5年(1577年)2月、3月には、雑賀攻めをし雑賀孫一たちを中野城から降ろします。

同年8月には、父・信長に謀反を起こした松永久秀討伐の際、総大将となり松永久秀とその父・久通が籠る信貴山城を落としました。

その後

  • 天正6年(1578年)の上月城の戦い
  • 天正6年(1578年)10月4日の月岡野の戦い
  • 天正10年(1582年)の甲州征伐

に参加します。

本能寺の変によって信忠は自害する

天正10年(1582年)6月2日、かの有名な本能寺の変が起きます。

これは父・信長の家臣であった明智光秀が謀反を起こした事件です。

この時、父・信長と信忠は備中高松城を包囲していた豊臣秀吉の援軍に向かうため、京都に滞在してました。

  • 信忠は父・信長よりも早い5月21日に上洛し妙覚寺で滞在。
  • 父・信長は信忠よりも遅い5月29日に上洛し本能寺で滞在。

信忠の家臣・斎藤利治は病気がちであったため本能寺の変が起きる前日に上洛したとされています。

父・信長の家臣・明智光秀がなぜ謀反を起こしたのか未だ判明されておらず、本能寺の変は日本最大のミステリーとされています。

一般的に光秀が謀反を起こした理由は光秀の怨恨説とされています。

本能寺の変が起きた当日、父・信長は本能寺で、信忠は妙覚寺に滞在していました。

妙覚寺にいた信忠は、父・信長のいた本能寺が光秀によって襲撃されたという知らせを受けると、すぐさま本能寺へと向かいました。

しかし、父・信長が本能寺で自害をしたということを知り、信忠は光秀討伐に向かいます。

この時

  • 津田源三郎
  • 斎藤利治
  • 村井貞勝

たちを連れ、二条新御所に向かい誠仁親王を脱出させ、二条新御所に篭城しました。

しかし、明智軍の伊勢貞興が二条新御所に攻め込んでくると、信忠は二条新御所で自害するのでした。

26歳の若さで自害した信忠の遺体は信忠の家臣によって隠され、父・信長と同様に明智軍に首を発見されることはありませんでした。

信忠の最期の辞世の句ですが、残念ながら残されていませんでした。

信忠の子供が後に織田家の家督を継ぐこととなる

信忠は生前、松姫と一度婚姻関係を結びましたが、同盟が解消されたことによって、婚約関係も解消されてしまいました。

しかし、その後も、信忠は正室を生涯持つことはなかったとされています。

信忠は天正8年(1580年)に三法師(後の織田秀信)という子を授かっています。

この三法師の実母は、信忠の側室であった塩川長満の娘・徳寿院とされていますが、信忠と婚約解消となった松姫とも婚約解消後、仲が良かったことから、三法師の実母は松姫なのでは?ともされています。

三法師は後に織田家の家督を継ぐこととなります。

織田信忠は政治能力のある実力者だった?

これまで、信忠は徳川家康の嫡男・松平信康と比較すると暗愚な凡将と評価されていました。

父・信長が、徳川家康の嫡男・松平信康と自身の嫡男である信忠を比較した時、徳川家康の嫡男・松平信康の方が優れていたため、信長は徳川家康の嫡男・松平信康を殺害しようとした。という記録によって信忠は暗愚な凡将と評価されました。

しかし、現在では信忠の評価が見直されるようになり

  • 父・信長から織田家の本領である尾張と美濃の支配権、織田家の家督を若くで譲られた。
  • 天正10年(1582年)武田氏の討伐を目的とした甲州征伐の際は総大将となり、父・信長の率いる本隊が武田領に入る前に、武田勝頼とその父・信勝を自害に追い込み武田氏を滅亡させた。このことによって父・信長は信忠の武才を認めた。
  • 本能寺の変が起き、信忠が自害すると、信忠の家臣たちは信忠の後追いをした。

このようなことから、信忠には信長の後継者になれるほどの政治能力や、武才、また家臣たちからの厚い信頼があったことが分かり、現在では信長の後継者として不足のない人物であったと認識されています。

【逸話】織田信忠の性格や有能さの分かるエピソード

信長の嫡男として誕生した信忠は生まれた時から織田家の家督を譲られる事が決まっていました。

よって父・信長は信忠に雑用などは一切させず、初陣を迎える前から、信長に戦場へと連れられ戦闘を学んでいました。

他の兄弟よりも特別な環境にいたわけです。

特別扱いを受け育った信忠は父・信長の家臣たちからは優秀な武将と評価されていましたが、父・信長からは「見た目だけの器用者など愚か者と同じ」とマイナスな評価を受けていました。

しかし、甲州征伐で信長が武田領に入る前に敵将を自害に追い込み、高遠城を落としたことによって「天下の儀も御与奪なさるべき旨」と評価され、信忠は父・信長から武才を認められるようになります。

信忠は、信長の後継者となることが決められてていたため幼いころから特別な環境に置かれていました。

幼いながらに、プレッシャーを強く感じていたのではないでしょうか。

そんな、信忠と父・信長の親子喧嘩の記録が『勢州軍記』に記録されています。

信忠は大の狂言好きでした。

しかし、父・信長は幸若舞を好み、天正8年(1580年)武将たる者が能を好むものではない。と狂言好きの忠信から能道具を取り上げ謹慎させたと記録されています。

まとめ 織田信忠の出演ドラマや本など

織田信忠の生涯や性格、逸話、最期の辞世の句のご紹介でした。

信忠について簡単にまとめると

  • 織田信長の嫡男であった
  • 武田信玄の娘・松姫と婚約するも、同盟が解消されたため婚約も解消される
  • 三法師という子供がいた
  • 本能寺の変の際、父・信長が自害すると二条新御所で自害する
  • 信長の後継者として不足のない人物であった
  • 狂言好きであった

信長の嫡男であった信忠は信長の後継者としては申し分のない人物でした。

信忠が本能寺の変の際、二条新御所で亡くなると信長、信忠亡き後の織田家の継嗣問題が清州城で織田家家臣によって話し合われ、信忠の嫡男・三法師が織田家の家督を継ぐことが決定されました。

この織田家の継嗣問題は清州城で行われたため、清須会議と呼ばれます。

この時、三法師はわずか3歳であったとされています。

そんな織田信忠はあまり、ドラマや映画には登場していません。

しかし、少しだけですが映画「清須会議」に登場し、中村勘九郎さんが信忠を演じられました。

また小説では

  • 新井政美さんの『父は信長』
  • 近衛龍春さんの『織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男』
  • 信原潤一郎さんの『さくらの城』

などに信忠は登場しています。

これを機に織田信忠に興味を持った方は映画「清須会議」を見てみてください。

以上「織田信忠の性格と逸話、実力や最期の辞世の句」のご紹介でした。

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