沖田総司の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

沖田総司といえば新選組一番隊組長であり、また剣豪だったということで知らない人はいないでしょう。

それに病に倒れるという儚げなハンサムボーイを想像してしまいます。

はたして沖田総司とはどういう人だったのか

  1. 沖田総司の生い立ち
  2. 沖田総司の経歴やその最後
  3. 沖田総司の人柄や性格のわかるエピソード

 

なとを探ってみたいと思います。

これを読めば沖田総司の人柄や経歴にふれ、きっと彼の小説を読みたくなると思いますよ。

沖田総司ってどんな人なんでしょう。

 

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新選組 沖田総司の生い立ちとは?

沖田総司は陸奥の白河藩士である沖田勝次郎の嫡男として、江戸の白河藩邸で誕生しました。

別説によると父親は沖田林太郎となっています。生まれた年に関しても1844年の説と、1842年の説があり、どちらが本当の生年かわかっていません。ただの頃だったようです。

  • 沖田総司は幼名を宗次郎と言いました。
  • 宗次郎が生まれた頃沖田家は、近所で親戚の井上源三郎の家と交流がありました。
  • 井上源三郎は、後の新選組六番隊組長で、天然理心流の免許皆伝の剣豪でした。

 

そんな井上を幼い時から見ていた宗次郎は自然に剣の道へと足を踏み入れることになるのです。

父の勝次郎は宗次郎が4歳の時に亡くなりました。

 

沖田家は姉が井上林太郎を婿にとり継ぎました。本来なら宗次郎が嫡男なのですがまだ幼かったため姉が婿養子をとるという形になったのです。ちなみにこの義理の兄林太郎は新徴組に入っています。

この林太郎も天然理心流を身につけています。

  • 宗次郎には姉が2人いました。
  • 1人は沖田家を継いだみつ、もう1人は越後三根山藩の牧野家家臣 中村伝之丞由秀に嫁いだキンという女性でした。

 

姉みつが林太郎と結婚した頃、沖田家は白河藩を離れています。それ故に生活は苦しかったようです。

宗次郎が9歳になった頃、井上源三郎はの家で大人相手に剣術の試合をし見事に勝ったことがきっかけで、この腕を埋まらせてはならないと天然理心流の道場「試衛館」に入門させました。

宗次郎は近藤周助の内弟子となったのです。

それは貧しい沖田家のためにもなりました。

宗次郎が入門した頃、すでに近藤勇も試衛館の門人でした。土方歳三も試衛館を出入りしておりのちに正式な門人となっています。

この頃から2人と交流があったものと思われます。

 

沖田総司の経歴や最後は?

試衛館に入って2年後、沖田総司は12歳で白河藩の剣術指南役と対戦して勝ちを納めました。

もともと天才的実力のあった総司はメキメキと腕を上げて行ったようですね。

それからは近藤勇らと、調布の下仙川村や、町田の小野路の小島家を訪問して出稽古を続けています。試衛館の中だけではもう戦う相手がいなかったのでしょう。

 

そして1860年には試衛館の塾頭にまでなりました。まだ20歳の若者です。

永倉新八は後に「土方歳三も、北辰一刀流の藤堂平助も沖田総司にかかると子供同然だった。本気になれば近藤勇でさえやられただろう」と語ったと言います。それほど沖田総司の剣豪ぶりは凄かったんですね。

1863年将軍徳川家茂上洛に合わせてその警護にあたるために作られた浪士組に沖田総司も加わります。

この浪士組は、後に

  • 壬生浪士組
  • 新選組
  • 新徴組

 

これらの前身となる集団です。

浪士組はもともと尊王攘夷を実行するために清河八郎が発案したもので、腕に覚えのあるものは、犯罪者であろうと、農民であろうと身分や年齢を問わず集められたものでした。これには予想以上の人間が集まり234名もの大集団となりました。

浪士組は上洛をしますが、清河八郎はそこで本当は尊王攘夷のために人を集めたことを話します。

その話に乗ったのが新徴組で、反対して京都に残ったのが壬生浪士組、後の新選組だったのです。

 

沖田総司は近藤勇らに従い、京都に残り新選組を結成し、一番隊組長となります。この一番隊は剣豪の集まりで、新選組のトップの働きをしていました。

芹沢鴨暗殺や、大阪西町奉行所与力 内山彦次郎暗殺にも加わっています。

芹沢鴨は壬生浪士組の初代筆頭でしたが、奥多摩出身の近藤らと、水戸出身の芹沢鴨との派閥争いがありました。その上芹沢派は乱暴で問題行動を起こすので処分されたという見方もあります。酒を飲んで暴れたり、商家に大砲を打ち込んで金を巻き上げたりと、かなり暴れていたようです。

新選組が全てそのように乱暴な集まりだと思われたくないのは当然でしょう。

 

また、内山彦次郎暗殺の理由は、新選組が大阪へ行った際、小野川部屋の力士と乱闘騒ぎを起こす「大阪角力事件」がありました。

その時内山は小野川部屋の味方し、その態度が高圧的だったので近藤らの恨みをかったからだと言います。

剣豪とはいえ暗殺に関わるのは気持ちのいいものではなかったでしょう。しかしこれがこの時代当たり前だったといえます。

 

1864年池田屋事件にも沖田総司は加わっています。これは旅館の池田屋に、長州藩や土佐藩の尊王攘夷派の志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件です。

この時沖田総司はすでに肺を患っていたと言います。ですから戦いの最中、意識が混沌とし途中で戦線離脱することになったといわれています。しかし翌月の禁門の変にも沖田総司は出撃しています。これから考えると池田屋事件の時は、結核にかかったばかりか、単に体調を崩していて気を失ったのではないかと見られています。

 

1866年に集団検診の際、肺結核が1人でたと報告があります。これが沖田総司のことだと思われます。

その証拠に1865年山南敬助が脱走した時、追っ手として近江草津まで行き山南を捕らえています。

 

その後1867年以降体調の悪化で、沖田総司は第一線を退くことになりました。

そうなると沖田総司は逆に暗殺の的となります。

  • 沖田総司は近藤勇の妾の家で療養をしていましたが、ここを元御陵衛士の3人が襲います。新選組が彼らの指導者 伊藤甲子太郎を殺害したことによる報復だったのですが、沖田総司はすでにその家を出た後で難を逃れています。
  • 1868年戊辰戦争のはじめの戦いである、鳥羽伏見の戦いにも参加できず、幕府の医師 松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、近藤勇の死から2ヶ月後その死を知らないままこの世を去りました。

 

生年がはっきりしないため、享年に諸説あり22歳から27歳であったと思われます。

 

【エピソード】沖田総司の人格や性格がわかる逸話

  1. 冗談が好きな明るい性格
  2. 武士としてのプライドが高かった
  3. 実際の沖田総司の容姿は
  4. 沖田総司の墓

 

剣の達人の顔とは裏腹に、沖田総司は冗談を言って人を笑わすのが好きだったようです。

近所の子供たちともよく遊んだ明るい性格でした。

また新選組の中でも、人に好かれる好人物だったらしく人当たりが良かったものと思われます。

佐久間象山の息子の三浦啓之助が隊士にからかわれたことを根に持って、その隊士を背後から斬りつけました。沖田総司は後ろから斬りつけた三浦の卑怯なことに腹を立て、三浦の襟元を掴み畳に顔を押し付けて引きずり回したといいます。

背後からの攻撃などもってのほかと、沖田総司のプライドの高さがよくわかります。

 

沖田総司は剣豪でありながら病に侵され亡くなるというイメージから、色白の美青年だと思っている人が多いでしょう。事実マンガなどでは若きイケメンで描かれているものばかりです。

しかし実際は違うようです。ヒラメ顔で愛嬌のある色の黒い男性だったそうです。

沖田総司に関する写真や肖像画は見つかっておらずどんな人だったのかわかりません。色白の美青年でなくても愛嬌のある若者だったのは確かですね。

 

沖田総司の墓は東京都港区の専称寺にあります。

沖田家代々の方が眠っておられます。

ただ沖田総司ファンが墓石を削って持ち帰るなどマナーの悪さがあり、今ではフェンス越しにしか墓を見ることはできないそうです。

年に一回、沖田総司の供養の日にはわずかの時間墓の前でお参りができるそうです。

 

まとめ 沖田総司はどんな人?大河ドラマや映画はある?

沖田総司の経歴や性格など、いろいろなエピソードを加えてみてきましたがいかがでしたか。

動乱の幕末で、剣豪として短命でしたが懸命に生きた沖田総司の生涯はもっと詳しく知りたくなりますね。

そんな沖田総司を題材にしたドラマや映画、小説をご紹介します。

小説

  • 「沖田総司壬生狼」 鳥羽亮 徳間文庫

沖田総司に焦点を当てた物語。残酷なシーンもありますが、早逝した沖田総司を切なく感じさせる一冊です。

 

  • 「剣士燃え尽きて死すー人間沖田総司」 笹沢左保 新潮文庫

人を斬ることに悩み、新選組への不信など抱えた沖田総司の人生を描いています。

 

ドラマ

  • 「新選組!」 NHK大河ドラマ 演者 藤原竜也 2004年

 

映画

  • 「沖田総司」 東宝映画 演者 草刈正雄 1974年

以上、沖田総司の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白いでした

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