赤松小三郎の経歴と生涯は?小説などのおすすめ本

赤松小三郎を知っていますか。

幕末の信州上田藩の兵学者で、政治思想家でもありました。

議会政治の提案や西洋兵学を教えるなど、大きな働きをした人物なのですが、歴史の闇に葬られた人物です。

今、NHKで放映している『西郷どん』では、絶対に触れられることのない人物です。

地元長野県上田市の有志たちの地道な研究が実り、近年ようやく脚光が当たり始めました。

今回は赤松小三郎について

  • 赤松小三郎の経歴とは?
  • 赤松小三郎の激動の生涯は?
  • 赤松小三郎の初めてエピソード
  • 赤松小三郎がわかるおすすめ本など

 

を紹介します。

こちらを読めば、赤松小三郎の経歴や生涯、エピソード、人となりが分かります。

幕末や薩摩藩、明治維新に関する考えが大きく変わるかも知れません。ぜひご覧ください。

 

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赤松小三郎の経歴とは?

赤松小三郎は、1831年(天保2年)4月、上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれ、清次郎と名づけられました。

三歳年長の兄・勘吉(柔太郎)とともに、秀才の誉れ高く、藩校の「明倫堂」(のちの文武学校)で学びました。

赤松小三郎は、明倫堂で学ぶだけではなく、藩の勘定方(会計係)を務め、和算家としても、名を成した上村半兵衛に教えを受けていました。

当時の上田藩は小藩ながらも、徳川家につながる藩主・松平忠優(忠固)が、幕府の老中も務め、優秀な人材は江戸で学ぶことが認められていました。

 

1848年、赤松小三郎は江戸に出て、和算家(数学者)の内田弥太郎の「マテマテカ」塾に入門しました。

マテマテカ(ラテン語の数学を意味する言葉の和訳)塾は、和算塾でもあり、蘭学や西洋天文学も教えていました。

「和算」というと、今でいう算数かと思う人もいるでしょう。

が、江戸時代後期に和算は急速に発展し、西洋の微積分や三次方程式などの難しい問題の解法も学ばれていました。

この塾を皮切りに、赤松小三郎の西洋学問の勉強が始まります。

  • 1848年 内田弥太郎のマテマテカ塾で、数学と蘭学、測量、天文、暦学など学ぶ
  • 1852年 下曽根金三郎塾で、 蘭学、法学、砲術などを学ぶ
  • 1853年 上田へ一時帰郷
  • 1854年 勝海舟の門下生となる
  • 1855年 勝海舟に随行して、この年開学した長﨑「海軍伝習所」で、測量や航海      術、医学やオランダ語を学ぶ
  • 1859年 長﨑海軍伝習所閉鎖により江戸へ帰る

 

赤松小三郎は、上田へ一時帰郷した時、上田藩士・赤松弘の養子となり、以来「赤松」姓を名乗りました。

 

1859年江戸へ戻った赤松小三郎は、勝海舟率いる咸臨丸へ乗船を望みますが、身分の違いなどから、乗船を果たすことはできませんでした。

 

1860年、失意に包まれた赤松小三郎は、養父「弘」が亡くなったこともあり、「赤松」の家を継ぐために上田へ帰郷します。

 

1861年、赤松は「清次郎」から「小三郎」へ改名をしました。

諸説がありますが、赤松小三郎が乗船を望んだ咸臨丸に、知古の「赤松大三郎」の名がありました。

同じ「赤松」姓でも、自分は選ばれなかった悔しさを忘れないために、あえて「小三郎」と名乗ったとも言われています。

赤松小三郎は、この勉学に励んでいる期間に、多くの記録や翻訳書などを残しています。

  • 1855年 長﨑海軍伝習所へ向かう航路日記「美美婦久呂」(みみぶくろ)を残す
  • 1857年 オランダ語を翻訳した「新銃射放論」を翻訳
  • 1858年 オランダ水陸軍練兵学校の教科書を翻訳した「矢ごろのかね 小銃彀率」     を出版

 

また、赤松小三郎は、上田帰郷中の1862年に、上田藩に藩政改革の意見書を提出しました。

「赤松」の家督を継いだ時、赤松小三郎の俸禄は十石三人扶持で、

  • 「数学測量世話」
  • 「西洋流調練稽古世話」
  • 「大小銃並びに器械製造」

 

の掛りなどで、これまで学んだことを生かせる仕事でした。

赤松小三郎の身分は、武士として最も低い「組付御徒士格」から、「組外御徒士格」、1862年には「詰並」へと順調に昇格しました。

 

赤松小三郎は、上田にいた1863年に松代藩士白川久左衛門近克の娘「たか」と結婚します。

この結婚が、幕末の偉人「佐久間象山」との出会いを生むことになりました。

 

1863年に赤松小三郎は、松代へ蟄居中の佐久間象山を訪ねました。

二人があったのは、この一回だけといわれていますが、意気投合した二人は、その後手紙をやり取りし、書物の貸し借りなどを続けました。

赤松小三郎は33歳象山は53歳で、20歳の年の差がありました。

が、残された書簡では、象山は年下の赤松に丁寧な言葉遣いをしています。

年齢差を超え、互いを尊敬しあっていた様子が窺えます。

佐久間象山は、1年後の1864年、京都で長州系浪士により暗殺されてしまいました。

 

赤松小三郎の激動の生涯とは?

 

赤松小三郎が、三度江戸へ向かったのは、1864年のことです。

第一次長州征伐に出動を命じられた上田藩が、その準備のために武器などに詳しい赤松小三郎を江戸へ派遣したのです。

赤松小三郎が34歳の時です。

 

赤松小三郎は数え37歳、1867年9月に、薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利明)らに京都で暗殺されます。

このわずか4年の間、赤松小三郎はまさに激動の生涯を送りました。

  • 1864年 イギリスの騎兵士官アプリン大尉に、英語を教わる
  • 1865年 大阪在陣。『英国歩兵練法』の翻訳を開始する
  • 1866年 『英国歩兵練法』を完訳

        徳川政権へ建白書を提出

        主君の上田藩主・松平忠礼に建白書を提出

        京都の衣棚で塾を開講

        英国兵学の教官として、薩摩藩からスカウトされる

        幕府開成所から教官採用の声がかかるが、上田藩がこれを断る

  • 1867年 山本覚馬の依頼で、会津洋学校の顧問となる

    『重訂英国歩兵練法』(薩摩本)を完成

    幕府、松平春嶽(越前)、島津久光(薩摩)へ国政改革の建白(建白七

         策)を提出

  西郷隆盛ら薩摩藩および会津藩、幕臣らに内戦の回避、「幕薩一和」を呼

び掛ける

  • 1867年9月3日 薩摩藩の中村半次郎、田代五郎左衛門に暗殺される
  • 没後 京都黒谷・金戒光明寺に埋葬される

       1924年 特旨をもって、従五位の官位を授かる

 

赤松小三郎の4年間を見てみましょう。

 

1864年 英語を学び、磨く

赤松小三郎は、第一次長州征伐の準備のために、9月に三度江戸へ向かいました。

江戸滞在中に、横浜で英国騎兵士官アプリン大尉と知り合い、英語を教わることになりました。

赤松小三郎は、江戸と横浜を徒歩で往復し、アプリンらから英語や英国式の兵学、馬、議会制など、幅広い知識を身につけました。

 

1865年 『英国歩兵練法』の翻訳を完成

上田藩の長州征伐への出動は中止となり、赤松小三郎は、一度江戸から上田藩へ戻ります。

が、すぐ江戸へ舞い戻り、再び下曽根金三郎塾へ入門します。

アプリン大尉らから教えてもらった英語に磨きをかけ、4月には英書の翻訳を手掛けました。

赤松小三郎は5月から、金沢藩士・浅津富之助と分担して『英国歩兵練法』の翻訳を始めます。

5月には、幕府が長州征伐(第二次)を企て、上田藩もこれに参加します。

赤松小三郎は、江戸から大阪・京都を往復する生活を送りながらも、『英国歩兵練法」の翻訳を続けます。

翻訳の済んだものから順次印刷されました。

10月には全ての翻訳が終わり、翌年3月にまとめて刊行されました。

『英国歩兵練法』の刊行により、兵学者・赤松小三郎の名が広く知られるようになりました。

ちょうどこの時期、薩英戦争に負けた薩摩藩は、英国の兵学の教授を探していました。

1865年、薩摩藩・野津七次が、赤松小三郎の門下生となりました。

 

1866年 京都で開塾、薩摩藩士へ兵学を教授

1866年2月に赤松小三郎は、京都に家塾を開きます。

家塾では、英国式兵学や物理学、航海術などのほか、議会政治などを教えていました。

今を時めく『英国式歩兵練法』の翻訳者ですから、各地の藩士が集まってきました。

そんな中、薩摩藩が最も強く、赤松小三郎の教えを乞うてきました。

京都の薩摩藩邸内に『薩摩塾』を開設、若い薩摩藩士の指導にあたりました。

この薩摩塾では、講義のほか、実践的な軍事教練も行われていたようです。

また、薩摩藩は赤松小三郎だけが翻訳する『英国式歩兵練法』を求めました。

赤松小三郎は、家塾、薩摩塾、そして改訂版『英国式歩兵練法』の翻訳と多忙な日々を送りました。

 

1866年8月、赤松小三郎は幕府へ「口上書」を提出しました。

その内容は

  • 幕府軍の長州藩再征討には勝算がないこと
  • 家柄や階級にとらわれず広く有能な人材を登用すること
  • 海陸兵制の改革を行うこと
  • 無駄な費用を節約し、富国強兵に努めること

 

などがあげられていました。

また、同年9月、赤松小三郎は、1863年に上田藩に提出した「藩政改革意見書」に引き続き上田藩主・松平忠礼あて「建白書」を提出しました。

その内容は、世の中の情勢や幕府の様子を踏まえ、藩主自らが取るべき姿勢についてまとめたものでした。

  • 人材を選ぶ時は、家柄・身分・禄高にこだわらず、藩主自らが、その人物の学問や 知恵で選び、役職にあてること
  • 兵事については、家臣任せではなく藩主が直接指揮をとり、自ら西洋兵制や戦法を 学び、軍備の制度改革に当たらなければならない

 

赤松小三郎のような一家臣から、君主にあてた内容とは思えないような過激な内容で、おそらく藩主には届かなかっただろうと推測されます。

また、この年12月、幕府から赤松小三郎を「開成所教官兼海陸軍兵書取調役」として採用したいという申し出が上田藩にありました。

上田藩はこの申し入れに対し「藩に必要な人材である」として断りました。

 

1867年 幕府らへ国政改革の建白(建白七策)を提出

1867年3月、赤松小三郎は知り合いの会津藩・山本覚馬(八重の桜・山本八重の兄)から依頼され、会津洋学校の顧問に就任します。

 

5月、薩摩藩から依頼された『重訂英国歩兵練法』の翻訳を完成させました。

赤松小三郎の尽力に、薩摩藩・島津久光は、英国から送られた鉄砲を送りました。

当時、世界最高級という「新製16響ヘンリー騎兵銃」でした。

1867年5月、京都では「四侯会議」が開かれていました。

赤松小三郎は、この会議に出席していた松平春嶽(前越前藩主)島津久光(薩摩藩主の父)徳川幕府にあて、国政改革の建白(建白七策)を提出しました。

その中には、次のような内容が入っています。

一、議会政治について

  *天皇を立て、六人の総理大臣を選び、別に上下二局の議政局を作り、国事はこの二局

で決議の上、天皇に報告するなど具体的に先唱している。

一、人材教育を国の方針の基本とする

  *国中に大学や小学校を作り、国を治める基礎となる人材を育む。

一、人民を平等に育て、能力にあわせて努力させる

  *皆平等に仕事をし、役に立つ仕事に就かせ、税金を取り、国を治める資金・財源にす   る

一、貨幣の統一

  *国内に通用する貨幣を統一し、日本中どこで取り扱っても同じ価値にする

一、海軍や陸軍の兵備

  *平和な時と危機が迫っている時に分けて考える。兵士は少ない数で進歩的な兵器を備

え、訓練させる方が良い。(中略:陸軍・海軍について言及)世の中が乱れ、危機が

迫ったならば、日本中の男女すべてが兵士として役立つように備える。

一、軍需品や日用品の製造工場について

*いろいろなものの製造を受け持つ役所(工場)は、国内各所に作り、日本中に職人を

増やし、盛んにいろいろなものを作る。

一、馬および鳥や獣などを養殖する

  *軍馬は外国のいい馬を飼育する。日本人の体格が良く、健康な人間を育てるために、   牛や羊、鶏、豚などを養殖し、衣食に用立てる。

そして、最後に次のような一文が入っています。

「日本国の決まりを定めるのにちょうど良い時期です。天皇側と幕府側が協力し、どの藩も  協力し合うことを願います」

 

赤松小三郎の「建白七策」は、注目を集めましたが、四侯会議や幕府に取り入れられることはありませんでした。

赤松小三郎は、この建白書に書いた『幕薩一和』を図るため、薩摩藩小松帯刀西郷隆盛会津藩の山本覚馬幕府の徳川慶喜の腹心・原市之進らの説得に努めました。

こうした赤松小三郎の行動を危惧したのか、上田藩からは帰藩を促す命令が下されました。

赤松小三郎は、病気などを理由に、帰藩を伸ばしていましたが、一族を処罰の対象にするという厳命に、帰国を決意します。

 

1867年9月3日 薩摩藩・中村半次郎らに暗殺される

赤松小三郎の帰藩を知った薩摩藩は、送別の宴を開いたといわれています。

しかしその翌日、帰藩のために挨拶回りをしていた赤松小三郎を付けまわす者がいました。

赤松小三郎の門下生であった、薩摩藩・西郷隆盛の腹心の部下中村半次郎(桐野利明)と田代五郎左衛門です。

赤松小三郎が四条烏丸通りに出た夕暮れ時、彼らはいきなり切りつけました。

さらに、赤松小三郎の前後から、彼らは数度切りつけました。

京都の中心地ですから、大騒ぎとなり、二人の賊は逃げ出しました。

これが、赤松小三郎の暗殺です。

  • 事件後の9月4日朝赤松小三郎の『斬奸状』(殺した理由を書いた文章)が三条大橋ほかに張り出されました。
  • 「この者は西洋かぶれで‥‥(中略)。許せない大罪人だから、天罰を与え、その首を取り、さらし首にしようと思ったが‥‥。」とありました。

 

実はこの時、誰が赤松小三郎を殺したのかは分かっていませんでした。

薩摩藩が、中村半次郎・田代五郎左衛門の犯行であることを隠蔽したからです。

そればかりか犯行後直ちに、薩摩藩は赤松小三郎の居宅に押し入り書籍や手紙などの資料全てを焼いてしまいました。

赤松小三郎の『薩摩』関連の資料がほとんど残されていないのはこのためです。

赤松小三郎の遺体を巡っても、薩摩藩と上田藩は揉めました。

事件そのものを隠蔽したい薩摩藩は、薩摩藩で引き取り埋葬すると主張しました。

上田藩は「わが藩の藩士なので、上田藩で葬儀を行う」と強く主張し、遺体を渡しませんでした。

 

没後 京都・黒谷金戒光明寺に埋葬される

9月6日赤松小三郎は、上田藩によって京都黒谷の金戒光明寺に埋葬されました。

この葬儀に際し、薩摩藩島津家から150両もの弔慰金が贈られ、また門下生であった薩摩藩士が30人以上が参列しました。

また、遺髪は故郷上田へ運ばれ、赤松家の菩提寺である月窓寺に、赤松小三郎遺髪の墓が建てられました。

これ以降、赤松小三郎の名は、明治維新の闇の中に閉ざされました。

 

赤松小三郎の暗殺者が、薩摩藩士・中村半次郎(のち桐野利明・陸軍少将、西南戦争で西郷隆盛と運命を共にした)らであったことが判明したのは、百年後の1967年(昭和42年)、桐野利明の『在京日記』が発見されたからです。

暗殺時にも、薩摩藩が疑われましたが、かん口令を敷き、口を閉ざしました。

『在京日記』には、狂気の暗殺者・中村半次郎が自慢気に殺害の様子を書いています。

殺害後の動きなどを見ると、中村個人の暗殺ではなく、薩摩藩が大きく赤松小三郎の暗殺に関わっていたことが推測されます。

なぜ、薩摩藩は赤松小三郎を殺さなければいけなかったのでしょうか?

  • 幕府のスパイ説
  • 卓越した指導力で、幕府の軍事力を向上させる

 

などの疑心暗鬼が、赤松小三郎を暗殺した理由として挙げられています。

 

1924年 従五位の官位を授かる

赤松小三郎の名が長野県内で再浮上するのは、1902年(明治35年)です。

「信濃毎日新聞」の主筆として活躍したジャーナリスト山路愛山が、「上田の奇傑赤松小三郎」という記事を、信濃毎日新聞に連載しました。

 

1906年、赤松小三郎の「薩摩塾」の教え子、伊東祐亨、東郷平八郎、上村彦之丞三人の海軍大将が、上田を訪れました。

京都で、赤松小三郎の教えを受けたことを語り、弔意を示しました。

 

1923年、三大将の推挙などがあり、赤松小三郎は没後半世紀以上経って、従五位の官位を贈られました。

 

赤松小三郎のエピソードとは?

波乱万丈の生涯を送った赤松小三郎ですが、そのエピソードは数えきれません。

ここでは、赤松小三郎のすごさを物語る「初めて」エピソードを紹介しましょう。

  • 日本で初めて議会政治を提唱した?
  • 日本で初めてのテクノクラート(高級技術官僚)だった?
  • 日本で初めて西洋兵学の軍事訓練を行った?
  • 日本で初めて書物に五線譜を写した?

 

日本で初めて議会政治を提唱した?

赤松小三郎の「建白七策」は、坂本龍馬の「船中八策」と良く似ています。

「船中八策」は、坂本龍馬が新国家体制の基本方針をまとめたものと言われていますが、最近はその存在を疑う研究が数多く発表されています。

龍馬に、西洋の議会政治に関する知識が乏しかったことや、龍馬が口頭で話したものを書き留めたと伝えられていることなどが、その理由です。

赤松小三郎の「建白七策」は、1867年の5月に出されました。

龍馬の「船中八策」は、同年の6月です。

内容の類似性から、赤松小三郎の「建白七策」が、龍馬の「船中八策」の基になったのではないかという指摘がされています。

また当時、議会政治に関しては、

  • 赤松小三郎の「建白七策」をはじめ、
  • 横井小楠(福井藩の政治顧問)、
  • 由利公正(福井藩士)、
  • 真木保臣(久留米藩士)

 

らが著したものがあり、龍馬はそれらを伝え聞いていた可能性が高いといえます。

赤松小三郎の「建白七策」が注目されるのは、

  • 議会政治をはじめ、
  • 人材登用、
  • 教育制度、
  • 職業選択、
  • 貨幣制度、
  • 軍事制度、
  • 産業

 

など幅広い範囲に及ぶものであることです。

しかも、先進的な西洋知識を基に練られたもので、現代の民主国家にも通じる内容を持っていることです。

 

日本で初めてのテクノクラート(高級技術官僚)だった?

赤松小三郎は、実践的な西洋兵学者であり、政策能力を兼ね備えた人物でした。

テクノクラートとは、高度な科学技術の専門知識と政策能力を持ち、国家の政策決定に関与できる上級職の技術官僚とされています。

赤松小三郎は、官僚という点は一致しませんが、軍事に関する優れた専門的な知識をもち、「建白七策」のような政策能力を兼ね備えていました。

赤松小三郎が、いかに優れた兵学者であったかは、教え子たちを見ればわかります。

赤松小三郎の教え子は、薩摩藩の若い藩士たちでした。

明治維新以降、薩摩藩の藩士たちは、立身出世を果たします。

維新後、日本の軍隊を支えた次の三人も、赤松小三郎の『薩摩塾』に学びました。

  • 伊東祐亨(海軍軍人・元帥海軍大将)
  • 東郷平八郎(海軍軍人・元帥海軍大将)
  • 上村彦之丞(海軍軍人・海軍大将)

 

このほかにも、薩摩藩出身の軍人の多くが、赤松小三郎の教えを受けています。

 

日本で初めて西洋兵学の軍事訓練を行った?

赤松小三郎の「薩摩塾」では、兵学を教えるだけでなく、実践的な軍事訓練も教えていたようです。

赤松小三郎の『英国歩兵練法』は、これまでの日本風の「戦(いくさ)」を、西洋の「軍隊」へと変えるものでした。

その中では、銃の構造から、正しい扱い方、持ち方、構え方などがイラスト付きで紹介されています。

また、気をつけ、前へ進めなどの号令に従う行進の仕方や、隊列を組んで戦う方法なども書かれていました。

次のような号令が、具体的な説明付きで取り上げられています。(1例)

  • 気ヲ付ケ
  • ソノママ休メ
  • 駆足進メ
  • 右向ケ
  • 一歩前ヘ

 

赤松小三郎の指揮の下、こうした号令に基づいた訓練が、薩摩藩邸に隣接した相国寺の境内で行われていたと思われます。

 

日本で初めて書物に五線譜を写した?

赤松小三郎の『英国歩兵練法』には、声の号令だけでなく、ラッパで号令を伝える『ラッパ譜』15枚が、五線譜に書かれています。

進軍駆足などの号令の楽譜が記載されています。

150年近く経っても、赤松小三郎の残した楽譜で、現在の消防団ラッパ手が演奏することができました。

正確に写譜されていることが証明されています。

日本人で書物に五線譜を写したのは、『英国歩兵練法』の赤松小三郎が最初だろう」という学者もいます。

これまでの幕府や諸藩などでは、きちんとした教本がなく集団としての軍事訓練は十分ではありませんでした。

赤松小三郎の『英国歩兵練法』は、銃器の正しい扱い方や、号令に従った集団的、組織的な軍事訓練を可能にしました。

 まとめ: 赤松小三郎がわかるおすすめ本など

上記が赤松小三郎の写真です。1867年4月に撮影したものだといわれています。

髷を切り、短髪で洋服を着ていることがわかります。全体写真を見ると、靴を履いています。

上田藩の人間で初めて、髷を切り洋装をしたと伝えられています。

写真の中で手にしている刀も独特で、鍔(つば)がS字形に曲がりサーベル状になっています。日本刀にしては、かなり特殊な和洋折衷的な作りになっています。

 

赤松小三郎の経歴や生涯、エピソードなどについて紹介しました。

最後に赤松小三郎についてまとめておきますね!

  • 赤松小三郎は、幕末の兵学者で政治思想家。
  • 勝海舟などに学び、オランダ語、英語、西洋兵学のスペシャリスト。
  • 坂本龍馬に先駆け、議会政治を提唱した。
  • 『英国歩兵練法』を翻訳し、英国式軍事訓練を教授した。
  • 教え子である薩摩藩士に暗殺された。
  • 没後半世紀以上、その功績は明らかにされなかった。

 

赤松小三郎は、わずか37年間の人生の中で、晩年の2~4年間に、激動の人生を送りました。

特に晩年の2年間は、時代が大きく変動した時期でもあり、時代のうねりの中で多忙な生活を送りました。

赤松小三郎は、勝海舟の門下生であったことから、坂本龍馬とともに取り上げられることがあります(後述の推薦本:龍馬の影)。

しかし、伝えられる話では、勝海舟の弟子というより、片腕的存在だったようです。

「海軍伝習所」では、オランダ語の授業の通訳を務めていたり、操船の知識や技術も群を抜いていたと伝えられています。

赤松小三郎は、幕末を生きた類まれな才能をもった人材でした。

ただ、いくつかの不運が、赤松小三郎の人生に影を落とし、命までも奪ったのではないでしょうか。

一般的な読み物として、おすすめするのは、次の作品です。

  • 『龍馬の影』江宮隆之(河出書房新書)
  • 『赤松小三郎ともう一つの明治維新』関良基(作品社)
  • 『明治民衆史を歩く』井出孫六(新人物往来社)
  • 『赤松小三郎先生 現代語訳版』赤松小三郎顕彰会
  • 『赤松小三郎実録』赤松小三郎顕彰会

 

*4・5番の書籍は、長野県上田市にある赤松小三郎顕彰会が編集したもの。

研究資料としては、上田市立博物館が発行した

  • 『松平忠固・赤松小三郎ー上田にみる近代の夜明けー』編集:上田市立博物館
  • 『赤松小三郎・松平忠厚ー維新変革前後 異才二人の生涯』編集:上田市立博物館

 

などがあります。

 

明治維新後150年を経て、赤松小三郎に関する研究が進められています。

が、『恩師殺し』という汚名だけは被りたくないのか、幕末の薩摩藩、西郷隆盛関係の物語や映画、ドラマでは、未だに「赤松小三郎」には触れません

薩摩にとって、アンタッチャブルな存在なのでしょう。

赤松小三郎が、薩摩藩の軍事にいかに貢献したか、また近代的な日本軍隊設立へどれだけの影響を与えたかなど、その功績はまだ正当に評価されていません

赤松小三郎の研究が、今後さらに進むことを期待します。

以上、「赤松小三郎の経歴や生涯、エピソード」でした。

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