新選組局長・近藤勇は有名な人物ですよね。
- NHK大河ドラマ「新選組!」
- 「龍馬伝」
- アニメ「BAKUMATSU」
にも登場しており、近藤勇を知らない方は少ないのではないでしょうか。
ですが近藤勇が一体どのようなことをした人物なのか、知らない方もいることでしょう。
そこで、今回は近藤勇の
- 生涯
- 性格
- 最期
- 新選組のエピソード
をご紹介いたします。
これを読めば近藤勇の生涯や性格、また最期、新選組の逸話などを知ることができますよ。
近藤勇の生い立ちと生涯
近藤勇は天保5年(1834年)、現在の東京都調布市野水である武蔵国多摩郡上石原村の百姓・宮川久次郎と、その妻・ゑいの三男として誕生しました。
幼名は勝五郎で、勇の他に、
- 長女・リエ(勇が誕生する前に死去)
- 長男・音五郎
- 次男・粂蔵
の兄弟がいました。
上層の家庭環境で育っていたとされる近藤勇は嘉永元年(1848年)11月11日、江戸牛込にある天然理心流剣術道場・試衛場に入門します。
翌年の10月19日になると近藤勇は近藤周斎の養子となり、近藤周斎の実家・嶋崎家の養子入りをおこない、嶋崎勝太と名乗りました。
万延元年(1860年)3月29日、近藤勇が26歳の時、御三卿・清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女・松井つねと結婚します。
文久2年(1862年)になると、妻・つねとの間に長女・たまが誕生しました。
この頃、勝太(近藤勇)は天然理心流の門人同士たちと交流を持つようになったとされています。
文久3年(1863年)正月、江戸幕府の尊皇攘夷論者・清河八郎は江戸幕府将軍・徳川家茂の上洛の際の将軍警護を行う「浪士組」の募集を行います。
近藤勇はこの浪士組に応募し、2月8日、浪士組一行と京都へ向かいました。
2月23日に京都へ到着すると、浪士組は各々に別れ壬生村の民家や、寺に宿泊します。
しかし、この夜、尊皇攘夷論者・清河八郎によって、浪士組が京都へと向かった真の目的は、徳川家茂の護衛ではなく、朝廷に君主を尊びが外敵を排除するといった思想の尊王攘夷の志を見せるためでした。
その他にも浪士組が京都へ連れてこられた理由は
- 江戸にいる過激な尊皇攘夷浪士達を江戸から追い出すため
- 過激な尊王攘夷浪士たちを幕府から切り離し、独立的な組織とし、尊皇活動を行う
このような理由であったとされています。
清河八郎は浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷に渡すと、浪士たちに江戸へ戻るよう命じます。
これに反抗した近藤勇、芹沢鴨らは京都に留まり、そのほかの浪士たちは江戸へと帰りました。
同年3月10日、京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持ために京都に残った浪士たちを差配するように命じられます。
こうして、京都に留まっていた近藤勇や芹沢鴨らは将軍在京中の市中警護である「壬生浪士組」を結成しました。
壬生浪士組の結成を行う
壬生浪士組の結成当初、運営がうまく進まなかったため3月25日に近藤勇は下総浪士・殿内義雄を暗殺します。
壬生浪士組は
- 芹沢鴨率いる芹沢一派
- 近藤勇率いる試衛館一派
- 殿内義雄、家里次郎、根岸友山からなる殿内・家里・根岸一派
で構成されていましたが、殿内・家里・根岸一派が瓦解したため、壬生浪士組は芹沢一派と試衛館一派の二派閥体制となりました。
8月18日、攘夷派である
- 孝明天皇
- 中川宮朝彦親王
- 会津藩
- 開国派の薩摩藩
が急進・過激攘夷派の三条実美らと、一部公家、また長州藩の起こしたクーデターを阻止するといった八月十八日の政変が起こります。
この八月十八日の政変で壬生浪士組は御花畑門で警護を行い、長州勢の残党狩りを行います。
この時の働きぶりが認められると武家伝奏から隊名「新選組」が与えられました。
新選組として活動を行う
「新選組」の隊名が与えられると、近藤勇は同じく試衛館一派であった土方歳三と共に
壬生浪士組の幹部であった新見錦を自殺に追い込みます。
この新見錦は同じ新選組の同士でありながら法令を犯すなど数々の悪行があったため、自殺に追い込まれました。
その後、
- 9月13日には芹沢一派の田中伊織を意に応じないとして暗殺
- 9月16日に芹沢一派を率いていた芹沢鴨らを暗殺
します。
こうして新選組は、近藤勇の主導のもと活動が行われました。
この頃になると
- 一橋慶喜
- 松平容保(会津藩主)
- 松平定敬(桑名藩主)
の三者によって一会桑政権が成立しました。
その後、新選組は謀反を計画していた熊本藩士・宮部鼎蔵の下僕である忠蔵を捕縛すると、宮部鼎蔵の自供から長州間者の大元締を行っていた薪炭商・古高俊太郎を捕縛します。
この古高俊太郎が中川宮邸放火計画を企てていたことを供述したため、新選組は捜査を開始し、中川宮邸放火計画に関わる一味が池田屋に潜んでいることを知ると、元治元年(1864)6月5日、池田屋に突入し中川宮邸放火計画、謀反の計画を企てていた宮部一派を壊滅に追い込みました。(池田屋事件)
新選組は池田屋事件において多くの功績を残したとして朝廷と幕府から褒賞金を与えられます。
その後、近藤勇は新選組の隊士募集のため、故郷へと戻り、故郷で伊東甲子太郎らの新隊士が新選組に加盟します。
このように池田屋事件以降、新選組に入隊する者が増え、最終的には200人を超えることとなります。
慶応元年(1865年)9月16日、幕府は大目付・永井尚志を長州訊問使とし、長州側との会見場所が安芸国広島の国泰寺であったので、これに近藤勇、武田観柳斎、伊東甲子太郎ら8名の新選組が同行します。
しかし、長州藩から新選組の長州入りを拒否されたため12月22日に京都に戻りました。
慶応2年(1866年)正月22日、幕府が長州藩の処分を決定すると、老中・小笠原長行が広島に派遣され、この際も近藤勇、篠原泰之進、尾形俊太郎、伊東甲子太とともに広島へと向かいました。
しかし、7月20日に大阪城で将軍・徳川家茂が亡くなったため長州征伐は中止となりました。
その後、同年9月26日、新選組の同士である伊東甲子太郎と篠原泰之進が近藤勇宅を訪れ、孝明天皇の衛士になることを主張します。
これに対し、近藤勇は反対したため話は平行線となり、近藤勇は以降、伊東甲子太郎と篠原泰之進の新選組からの脱退、分離を警戒しました。
近藤勇の予想は現実となり、慶応3年(1867年)正月18日、伊東甲子太郎と篠原泰之進らが遊説のため大宰府へと向かうと、そのまま新選組から分離し新たな御陵衛士を設立しました。
同年6月10日、新選組の隊士全員が会津藩の幕臣となります。
近藤勇は征長論(長州藩の討伐)を幕府親藩の集会で演説で行うようになります。
これに対し、同年8月8日、伊東甲子太郎らの御陵衛士は長州寛容論を主張しました。
同年12月9日、王政復古の号令が発せられます。
この王政復古は、明治天皇の名によって発せられたものでしたが、明治天皇は当時まだ15歳であったため、
- 岩倉具視らの公家
- 薩摩藩
- 長州藩
が裏で実権を握っていました。
王政復古の大号令の内容は
- 摂関制度の廃止
- 将軍職辞職を勅許
- 江戸幕府の廃止
- 総裁、議定、参与の三職を置く
というもので、京都にいた旧幕府勢は撤退を命じられます。
鳥羽・伏見の戦いの勃発
その後明治元年(1868年)1月3日、旧幕府軍と新政府軍の対立である鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
旧幕府軍の幕臣として新選組は戦いましたが、新政府軍に敗北となり幕府軍艦で江戸へと帰らされます。
近藤勇の最後は?首や墓や死因
江戸に戻った近藤勇は新選組を2月28日、甲陽鎮撫隊と改名し板垣退助の軍勢と戦いましたが、敗北となりました。(甲州勝沼の戦い)
その後、江戸へと逃げた近藤勇は甲陽鎮撫隊から大久保大和と名前を変えます。
4月になり、近藤勇は再起をかけ現在の千葉県流山市である下総国流山に大久保大和を屯集しましたが、新政府軍によって近藤勇らを捕らえる計画が企てられており、近藤勇は4月3日に新政府軍に捕らえられました。
こうして、4月25日、中仙道板橋宿近くにある板橋刑場で、斬首され35歳で亡くなりました。
近藤勇の首は斬首されたのち、京都の三条河原で3日間、見せしめとして代の上に置かれましたが、その後、首の行方は不明となっています。
近藤勇の墓は、
- 東京都三鷹市の龍源寺(出身地であるため)
- 処刑場の近隣でJR板橋駅東口前にある寿徳寺境外墓地
にあります。
【エピソード】近藤勇の性格が分かる面白い逸話
近藤勇の変わった特技
近藤勇は、こぶしを丸ごと口に入れられるという変わった特技をもっていました。
この変わった特技は、戦国時代に活躍した加藤清正も持っていたとされていたため、近藤勇は、この特技を見せながら、加藤清正のように出世したい。と述べていたとされています。
拳が丸ごと口に入るなんて、口の大きい人物であったのですね。
関羽に憧れていた幼少期
近藤勇は、父から「三国志」や「水滸伝」などの物語を読み聞かさられたとされ、近藤勇は、中国後漢末期の将軍・関羽に憧れていたとされています。
わがままな性格の持ち主であった
近藤勇について
- 根岸友山は「思慮モナキ痴人ナリ」
- 田島応親は強情
- 結城無二三は部下が少しでも間違えるとガミガミいい、衆人稠座の中でもかまわず侮辱する。極度な潔癖。
- 西村兼文は一徹短慮の者。
- 中村維隆はおべっか者。
- 永倉新八はわがままの挙動。
と証言しました。
このような証言から、近藤勇は痴人で、強情、わがままな性格であったことが分かります。
一方で、
- 渋沢栄一は温厚な人物で、無鉄砲に乱暴を働くような人物ではない
- 綾瀬村の住民は、いつもニコニコ笑っていた
- 八木為三郎はニコニコしていて、無駄口の聞かない、立派な人物
- 佐藤俊宣は、両頬に笑窪ができるくらいニコニコしていて、優しい人物
と証言しています。
このような証言から、近藤勇はわがままな一方で、常に笑顔であった人物のようです。
まとめ 近藤勇はどんな人?ドラマや映画。
近藤勇の生涯や性格、最期やエピソードをご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 天然理心流剣術道場・試衛場に入門
- 浪士組に応募し、京都に向かい江戸へ戻るよう命じられるも、京都に留まる
- 「壬生浪士組」を結成し、その後「新選組」に改名
- 鳥羽・伏見の戦に参加
- 新政府軍に捕らえられ、斬首刑によって亡くなる
- わがままな性格であったが、常に笑顔であった
新選組の局長であった近藤勇は、わがままやで強情な性格であったとされていますが、新選組を率いたそのリーダーシップは、近藤勇が憧れていた関羽に近い人物であったのではないでしょうか。
そんな、近藤勇が登場する有名なNHK大河ドラマは「新選組!」です。
この作品では
- 近藤勇を香取慎吾さん
- 土方歳三を山本耕史さん
- 沖田総司を藤原竜也さん
- 斎藤一をオダギリジョーさん
が演じられました。
近藤勇は口の大きな人物で常に笑顔であったとされている人物なので、香取慎吾さんは、近藤勇の役にピッタリですね。
またNHK大河ドラマ「龍馬伝」では近藤勇を原田泰造さんが演じられました。
原田泰造さんも近藤勇の役にピッタリの人物です。
他にも現在放送中のアニメ「BAKUMATSU」にも近藤勇は登場しています。
この作品に登場する近藤勇は、仲間思いで、みんなから頼られる兄のような存在です。
声は声優の佐藤拓也さんが担当されています。
これを機に近藤勇に興味を持った方は
- 大河ドラマ「新選組!」
- 「龍馬伝」
- アニメ「BAKUMATSU」
を見てみてください。
以上、「近藤勇の性格と最後、新選組のエピソードや面白い逸話」のご紹介でした。
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