あなたは在原業平という人物をご存知でしょうか。
あまり聞いたことのない人物かと思いますが、女優の広瀬すずさんが主演した映画「ちはやふる」のタイトルは、在原業平が詠んだ「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」を由来にしたものとされています。
「ちはやふる~」を詠んだ在原業平は、美男子でありプレイボーイであったとされ、平安時代におけるモテ男でした。
そんな在原業平の
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
をご紹介いたします。
これを読めば在原業平の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。
「ちはやふるー結びー」のポスター、(ほぼ)全員で本当に近江神宮の楼門前で並んで撮影したんです。
さて、映画観終わって、このポスターを改めてよく見てみて下さい。観る前の印象と変わって見えていたら嬉しいです♪#ちはやふる #ちはやふる結び pic.twitter.com/sZGjPX8wOi
— ちはやふる公式 (@chihaya_koshiki) 2018年3月21日
在原業平の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?
在原業平は平安時代にあたる天長2年(825年)
- 父・平城天皇の第一皇子である阿保親王
- 母・桓武天皇の皇女である伊都内親王
の五男として誕生しました。
父・阿保親王の家系図をたどると、在原業平は
- 平城天皇の孫
- 桓武天皇の曾孫
母・伊都内親王の家系図をたどると、在原業平は
- 桓武天皇の孫
にあたります。
このように家系図からみて在原業平はとても高貴な身分でしたが、在原業平が生まれる前、
- 平城京で平城上皇
- 平安京で嵯峨天皇
と2つの朝廷が誕生し天皇同士で対立を起こしていました。
この対立の結果、平安京にいた嵯峨天皇が勝利したため、平城天皇の子供、つまり在原業平の父・阿保親王に皇位継承は認められず、皇位は嵯峨天皇方に継承されます。(薬子の変)
よって在原業平は、薬子の変がなければ、父・阿保親王に皇位継承がなされ、本来なら親王となれる人物でした。
藤原薬子と薬子の変をわかりやすく。美人の肖像画があるらしい?
父・阿保親王は天長3年(826年)に皇族から離れる臣籍降下を行ったため、在原朝臣姓を名乗ることとなりました。
在原業平は兄弟がいます。
- 長兄・兼見王
- 次兄・在原仲平
- 三兄・在原行平
- 四兄・在原守平
- 弟・行慶
- 妹・源弘室
- 妹・?
在原業平は後に紀有常の娘と結婚し
- 在原棟梁
- 在原滋春
- 在原美子
3人の子供が誕生しました。
在原業平の経歴や生涯。最後は?
承和12年(845年)仁明天皇時代、在原業平は天皇の秘書的役割であった蔵人として、仁明天皇に仕えていました。
嘉祥2年(849年)になると無位であった在原業平は従五位下に昇進となります。
しかし、仁明天皇が亡くなり嘉祥3年(850年)から文徳天皇が即位すると、昇進は止まり、官職に就いた記録も残されていないことから不遇な時期であったと推測されています。
天安2年(858年)8月に文徳天皇が急死すると、清和天皇が即位となりました。
この頃になると、在原業平は従五位上に昇進し、その後
- 左兵衛権佐
- 左近衛権少将
- 右近衛権中将
となり貞観11年(869年)に正五位下、貞観15年(873年)に従四位下と昇進を繰り返します。
次の陽成天皇時代においても昇進をし続け
- 元慶元年(877年)に従四位上
- 元慶3年(879年)には蔵人頭に叙任
となりました。
この頃になると、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を教えるなどを行います。
元慶4年(880年)5月28日に56歳で亡くなりました。
高貴な身分出身で、エリート街道を走っていた在原業平は和歌の才能もあったとされています。
歌人としての評価
在原業平は『日本三代実録』の中で「体貌閑麗、放縦不拘」と記されています。
これは美男子で自由奔放という意味です。
「体貌閑麗、放縦不拘」の後には、学力は乏しいが、優れた和歌を作っていた。という意味の「略無才学、善作倭歌」が記され、在原業平は自由奔放な美男子で学力は低かったが和歌の才能を持っていた人物であるということが分かります。
在原業平の詠った和歌は優れた和歌を集めた
- 『古今和歌集』に30首
- 『勅撰和歌集』に87首
が収録されています。
このようなことから優れた
- 6人の歌人を選んだ六歌仙
- 36人の歌人を選んだ三十六歌仙
のうちの1人として選ばれました。
『伊勢物語』の中の主要部分にも在原業平の和歌が収録され、当時、和歌の才能を認められていたことが分かります。
【エピソード】在原業平の人柄や性格が分かる逸話
美男子で、自由奔放、また和歌の天才であった在原業平は高貴な女性たちから、とても好かれていました。
そんなモテ男と関係を持っていた女性たちを紹介いたします。
友人である惟喬親王の娘を妻にする
在原業平は文徳天皇の第一皇子・惟喬親王と交流を持っていました。
この惟喬親王という人物は文徳天皇の子供であるながら、藤原家出身の母親を持っていたため、次期天皇になることができませんでした。
当時、父親、母親の両方が天皇家の血筋を引いている子供が天皇になれた時代でした。
このようなことから次期天皇になれなかった惟喬親王と交流を持ちます。
在原業平自身も、薬子の変によって親王になれたかった人物ですので、共感できることがあったのではないでしょうか。
そんな友人・惟喬親王の娘・紀有常女を妻とします。
恋愛や結婚に年齢や身分は関係ありませんが紀有常女からすると父親の友人と結婚ということなります。
在原業平と紀有常女の間には3人の子供が誕生します。
藤原高子との関係
藤原高子とは清和天皇の女御となった人物です。
清和天皇の女御になる前、藤原高子は清和天皇の妃となるため、東五条院で天皇女御の候補として大切に育てられていました。
しかし、天皇女御の候補者でありながら在原業平と男女関係となり、東五条院を抜け出し駆け落ちをします。
ですが失敗に終わり、在原業平との関係は崩れ藤原高子は清和天皇の女御となりました。
恬子内親王との関係
恬子内親王は伊勢神宮の巫女となった女性です。
皇女の未婚の女性のみが伊勢神宮の巫女となることができ、巫女になった女性は神に仕えていました。
あるとき、在原業平は勅使として伊勢国に旅立ち、斎宮の館に宿泊します。
そこで在原業平と恬子内親王は出会い、なんと一晩だけ男女関係を持ってしまいました。
神に仕えていた女性と関係を持つなんて、在原業平は怖いもの知らずだったのでしょう。
しかしこの関係があったため、在原業平と恬子内親王には男の子が誕生してしまいます。
神に仕える巫女がたまたま出会った男性との間に子供を作るなどもっての外、この出産は内密とされ、生まれたばかりの男の子は長屋王の玄孫・高階峯緒が引き取り育てたとされています。
「和歌知顕集」によると在原業平は3733人もの女性と関係を持っていたと記され、もし本当であれば、とんだプレイボーイということになります。
朝廷内での恋愛模様、友情、政治的な駆け引きなどを記した『伊勢物語』に登場する主人公が在原業平の生涯と似ていることから、『伊勢物語』の主人公は在原業平をモデルにして作られたと考えられています。
このように女性関係のエピソードがたくさんあることから、在原業平はイケメンであったことがわかりますね。
まとめ 在原業平はどんな人?ドラマや映画はある?
在原業平の生い立ちや経歴、性格やエピソードをご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 高貴な身分出身
- 昇進を繰り返していた
- 美男子で自由奔放な男性
- 知識や学力は乏しいが優れた和歌を詠う
- モテ男であった
在原業平は「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」を詠んだ人物でした。
この和歌は、「いろいろなことが起きた太古の昔の神様でさえ、聞いたことはありませんでした。この竜田川がこれほど綺麗に紅色に染まるということを。」という意味です。
竜田川とは現在の奈良県生駒郡斑鳩町田竜田にある川で、現在でも紅葉の名所となっています。
この和歌は、藤原高子が清和天皇の妃となった頃、宮中にある屏風に和歌を添えるため、在原業平が、屏風に描かれた絵を見て詠んだとされています。
これから紅葉の時期ですので、在原業平が詠んだ美しい紅葉を見に行かれてはいかがでしょうか。
そんな在原業平が登場するドラマや映画はありませんでしたが、在原業平をモデルにした『伊勢物語』には、ある程度、在原業平に関する事実が記されているとされているので、在原業平に興味を持た方は、『伊勢物語』を読んでみてください。
以上「在原業平の性格と経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。
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