足利直義の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは足利直義(ただよし)という人物をご存知ですか?

足利直義は鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した武将で、兄には室町幕府初代将軍・足利尊氏がいます。

室町幕府が成立すると、政治がうまくできない兄・足利尊氏に変わって、足利直義が政治を行っていました。

そのため、足利尊氏と足利直義の2人を合わせて「両将軍」と呼ばれるようになりました。

しかし、2人はやがて争うようになり「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる内紛状態に陥ってしまいます。

今回は足利直義について

  • 足利直義の生い立ちとは?
  • 足利直義の経歴や最後は?
  • 【エピソード】足利直義の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば足利直義の生涯や逸話がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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足利直義の生い立ちとは?

足利直義は徳治3年(1306年)に

  • 父は足利貞氏(鎌倉幕府の有力御家人)
  • 母は上杉清子(父は上杉氏2代当主の上杉頼重)

の3男として生まれます(異母兄を外すと次男)。

ちなみに、尊氏と直義には異母兄の足利高義(母は北条氏の娘)がいます。

足利直義が生まれた足利氏は名門清和源氏の流れを汲んでおり、鎌倉幕府を開いた源頼朝とは同じ先祖(源義家)をもっています。

ここで、近年の研究で新しく発見された足利直義の肖像画について紹介します。

その足利直義の肖像画というのがこれです。

神護寺三像「伝源頼朝像」Wikipediaより

この肖像画は長年、鎌倉幕府を開いた源頼朝のものとして考えられてきました。

しかし、この肖像画は源頼朝のものではなく足利直義のという新説が唱えられ、今では新説が有力視されています。

これ以上、この肖像画について書くと話が変わってしまうのでこれまでにしておきます。

簡単に言うなら明治時代以降の研究者(または政府関係者)による勘違い(思い込み)です。

足利直義が誕生した頃、執権・北条氏による独裁政治が行われていた

足利直義の生い立ちの話に戻します。

足利直義が生まれた頃の日本は鎌倉幕府がすでに末期にあり、将軍ではなくナンバー2の執権・北条氏が実権を握っている独裁政治でした。

そのため、反幕府(北条氏)の御家人や守護、さらには天皇家も幕府に対抗しようとしていました。

ただ、足利直義の父・足利貞氏は幕府に対して協力姿勢を見せていて、正室は北条氏の娘でした。

ちなみに、足利直義も最初の名前は14代執権・北条高時から「高」の字を賜り、足利高国と名乗っていました。

そして、この後、世の中はある人物の登場で急速に変化を見せていくことになります。

後醍醐天皇による倒幕運動

その人物というのが、第96代天皇・後醍醐天皇です。

後醍醐天皇 Wikipediaより

後醍醐天皇は文保2年(1318年)に即位すると、天皇中心の政治体制を築こうとします。

しかし、以下の2回ほど倒幕運動は失敗してしまいます。

  • 正中の変:正中元年(1324年)、倒幕計画が事前に発覚してしまい、天皇は処罰されませんでしたが、味方した者が何名か討たれる
  • 元弘の変:元弘元年(1331年)、これも事前に発覚し、天皇は隠岐島へ流されます

2回も失敗した倒幕計画でしたが、日本各地では反幕府の兵を挙げようとしている勢力が増えていきます。

足利直義の経歴や最後は?

~兄と共に倒幕運動に参戦~

元弘3年/正慶2年(1333年)、足利直義が27歳の時、後醍醐天皇が隠岐島から脱出し3回目の倒幕運動を開始します。

ただ、今回の挙兵は今までに失敗した時よりも、日本各地で倒幕運動が活発化していたことから、幕府は対処しきれませんでした。

元号が2つあるのは天皇家が大覚寺統と持明院統の2派に分かれていて、鎌倉幕府によって天皇を交互に立てていました(両統迭立)。

 大覚寺統である後醍醐天皇が隠岐島へ流されている際に、幕府が持明院統の光厳天皇を即位させ「正慶」に改元させます

「元弘」とは後醍醐天皇が改元したものですが幕府が認めませんでした。

この時、倒幕運動に参加していた武将の中には楠木正成がいました。

楠木正成 Wikipediaより

反倒幕勢力である幕府方につくも、後醍醐天皇方に寝返る

一方、後醍醐天皇が倒幕の軍を挙げた頃、足利直義は兄・足利尊氏(この頃の名は「高氏」)とともに幕府方にいました。

そして、足利直義は西国の倒幕勢力を討伐するために兄と京へ上洛します。

ところが、兄・足利尊氏が後醍醐天皇方へ寝返ると、足利直義も寝返り、京都の六波羅探題(鎌倉幕府が設置した朝廷を監視する機関)を攻め滅ぼします。

この六波羅探題の滅亡によって、上野国(群馬県)では新田義貞が倒幕方として挙兵します。

新田義貞 Wikipediaより

新田義貞の挙兵によって鎌倉をはじめとする関東は新田軍が平定していき、同年5月22日に新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡します。

~建武の新政と後醍醐天皇との対立~

鎌倉幕府が滅亡したことで、後醍醐天皇は天皇中心の政治体制を進めていきます。

これが「建武の新政」というものです。

足利直義は建武の新政下では左馬頭(さまのかみ)と相模守に任命され、鎌倉将軍府(鎌倉府の前身組織)の長・成良親王(後醍醐天皇の皇子)の執権(補佐役)になります。

一方、兄の足利尊氏は京都に残り後醍醐天皇に仕えます。

この時に後醍醐天皇の諱・尊治から「尊」の字を賜り名を「高氏」から「尊氏」に改名

しかし、足利尊氏と後醍醐天皇はうまくいっておらず、足利尊氏は要職には就いていませんでした。

ただ、足利尊氏は建武政権に部下を送り込むなど、間接的に政権に携わっていました。

中先代の乱で敗走

兄が京都にいる中、足利直義は鎌倉将軍府で働いていましたが、建武2年(1335年)に14代執権であった北条高時の遺児・北条時行が信濃国(長野県)で挙兵します(中先代の乱)。

この北条時行の反乱を鎮圧するために足利直義が対応にあたりますが、井出の沢(東京都町田市)で敗北してしまいます。

足利直義は成良親王と足利義詮(よしあきら、足利尊氏の子)を引き連れて鎌倉を脱出しました。

足利義詮 Wikipediaより

脱出した足利直義は成良親王を京へ送り、自分は再び反乱軍を迎え撃とうとします。

その頃、京にも北条時行反乱と足利直義の劣勢が知らされると、足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに直義の救援に向かいますした。

足利直義は建武2年(1335年)8月に兄・足利尊氏と合流すると、相模川の戦いで北条時行を倒し、同月19には鎌倉を回復します。

この際、兄の足利尊氏が京へ戻ろうとするところを止めて、鎌倉に本拠を置くように進言したとされています。

そして、足利尊氏は建武政権とは別に独自の武家政権を立てる動きを見せかけ、これによって、足利直義は足利尊氏とともに後醍醐天皇と対立するようになりました。

~後醍醐天皇方との戦いと南北朝の成立~

足利尊氏の勝手な行動に怒りを表した後醍醐天皇は、建武2年(1335年)11月に新田義貞に足利尊氏討伐の命を出します。

足利直義は兄の命で新田軍を迎え撃ちますが、駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で敗北します(手越河原の戦い)。

新田義貞、楠木正成を破る

新田軍に敗北した足利直義でしたが、兄・足利尊氏が出陣してくると箱根・竹ノ下の戦い新田義貞を破ります。

新田軍を破った足利直義は兄とともに京都へ進軍したが、延元元年/建武3年(1336年)に陸奥国(東北地方太平洋側)から楠木正成が上洛してくると、京都の市街戦で足利軍は敗れ九州へ向かいます。

九州へ逃れる道中に足利直義と足利尊氏に大きな味方が現れます。

その味方というのが持明院統の元天皇である光厳上皇(こうごんじょうこう)です。

上皇とは次期天皇に譲位した元天皇の尊称です(「太上天皇」の略)。

光厳天皇 Wikipediaより

九州へ逃げている道中に備中国(広島県東部)にて光厳上皇から新田義貞追討の院宣(いんぜん、上皇の命令が書かれた文書)を受けると、足利直義は筑後国(福岡県)で建武政権方の勢力を撃破します(多々良浜の戦い)。

そして、勢いに乗った足利軍は湊川の戦い(兵庫県神戸市)で楠木正成を討ち、延元元年/建武3年(1336年)6月に京都を制圧しました(延元の乱)。

南朝の誕生

後醍醐天皇は比叡山に逃れましたが、足利方の和議に同意し、神器を光厳上皇と光明天皇(光厳上皇の弟)に譲ります。

しかし、後醍醐天皇は同年12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、独自の朝廷を建てます。

この朝廷を南朝といいます。

この時、後醍醐天皇は光明天皇に譲った神器は偽物であると言い、自分が持ってきた神器が本物であると称します。

一方、足利尊氏は延元3年/暦応元年(1338年)に光明天皇より征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。

これを北朝といいます。

これら2つの朝廷が両立したこの時代は南北朝時代と呼ばれるようになりました。

~南北朝時代とは~

ここで南北朝時代について少し紹介します。

南北朝時代とは先程も書いたように北朝・南朝と南北に2つの朝廷が存在した時代のことです(1336年~1392年)。

北朝方の天皇は

  • 北朝1代 光厳天皇
  • 北朝2代 光明天皇
  • 北朝3代 崇光天皇
  • 北朝4代 後光厳天皇
  • 北朝5代 後円融天皇
  • 北朝6代 後小松天皇  100代天皇になる

南朝方の天皇は

  • 96代天皇 後醍醐天皇
  • 97代天皇 後村上天皇
  • 98代天皇 長慶天皇
  • 99代天皇 後亀山天皇

となります。

しかし、歴代天皇の即位順を見ると南朝方が正式な天皇として認識されていて、北朝方の天皇は北朝〇代と数えられています。

ただ、100代目の天皇は北朝6代目の後小松天皇であり、今の天皇陛下は北朝3代目の崇光天皇の血筋にあたります。

ちなみに足利直義と足利尊氏は北朝方です。

~観応の擾乱、直義が出家する~

延元3年/暦応元年(1338年)、足利尊氏は北朝方として室町幕府を開きます。

足利直義は左兵衛督に任じられて政務を担当しました。

将軍は足利尊氏で政務を足利直義が担当していることから「両将軍」と呼ばれ二頭政治(最高権力者が2人いる政治)を行っていきます。

  • 足利尊氏:守護職・地頭職の任免 軍事指揮権
  • 足利直義:所領関係の裁判権

上記のように担当を分けて幕府を運営していきました。

高師直との対立

ところが、正平3年/貞和4年(1348年)に足利直義は足利氏の執事であった高師直(こうのもろなお)と対立するようになります。

高師直 Wikipediaより

高師直は足利尊氏の執事ではありましたが、尊氏の代わりに政治を行っていました。

この2人の対立によって、幕府では足利直義派と高師直派に分かれて対立します。

さらに、北朝での内乱を好機と見た南朝も、北朝方に攻勢を仕掛けていました。

これが観応年間(1349年~1352)に起こったことから観応の擾乱と呼ばれています。

先手を打ったのは足利直義派でした。

直義側近の上杉重能が足利尊氏に高師直の悪行を進言し、高師直を執事職から解任させることに成功します。

しかし、この解任に高師直の弟である高師泰が反抗し、正平4年/貞和5年(1349年)に足利直義を襲撃します。

高師泰 Wikipediaより

高師泰の襲撃を受けた足利直義は兄・足利尊氏の邸に逃げます。

すると、高師直と高師泰の兄弟は足利尊氏に足利直義の罷免を求めます。

兄に促され出家する

この状況に足利尊氏は、なんと自分が解任にした高師直の要求を受け入れて、弟である足利直義に出家を促し政務から退かせました。

ここで、足利直義は1年ほど表舞台から姿を消します。

一方、足利直義により政務担当は鎌倉にいた足利義詮(尊氏の嫡男)を呼び戻して就かせます。

また、鎌倉には足利基氏(尊氏の四男)を向かわせ鎌倉府を設置しました。

~兄・足利尊氏との対立と直義の死~

足利直義の出家によって、大きな混乱はありませんでしたが、正平5年/観応元年(1350年)に事態は急変します。

足利尊氏が九州で勢力を拡大していた足利直冬(ただふゆ)を討つため九州へ出陣したのです。

この足利直冬は足利尊氏の庶子(本妻以外の女性の子)でしたが、尊氏から嫌われていたため、実子がいなかった足利直義が養子に迎えていました。

足利直冬 Wikipediaより

足利直義は足利尊氏が出陣したのを見ると京都を脱出して、高師直討伐を掲げて南朝へ寝返ります。

そして、足利直義は正平6年/観応2年(1351年)に

  • 光明寺合戦(兵庫県加東市)
  • 打出浜の戦い(兵庫県芦屋市)

で足利尊氏と高師直に勝利します。

また、この直後に高師直と高師泰は直義方の上杉能憲に殺害されます。

足利義詮の補佐として政務に復帰

高兄弟を排除した足利直義は再び京へ入り、足利義詮の補佐として政務に復帰しました。

しかし、足利尊氏との仲は良くならず、尊氏方の軍が播磨国(兵庫県南西部)と近江国(滋賀県)で足利直義討伐の準備をしているという知らせを受けると、足利直義は京を脱出して鎌倉へ向かいます。

そして、足利直義は鎌倉で兄の足利尊氏を迎え撃ちますが、正平7年/文和元年(1352年)1月に降伏します。

足利直義の急死

その後、延福寺に幽閉された後、同年2月26日に足利直義は急死します。

この時、足利直義は46歳でした。

死因ははっきりしておらず、自害または足利尊氏か尊氏派による毒殺だと言われています。

急死する1ヶ月前まで戦っていることから病死は考えにくいと言われています。

~足利直義死後の情勢~

足利直義の死によって観応の擾乱は終わりましたが、直義派の勢力が足利直冬を盟主として抵抗し、この抵抗は1364年まで続くことになります。

一方、足利尊氏は足利直義と高師直に分かれていた将軍権力を一本化させます。

しかし、北朝の天皇家内での対立や南朝の存在、さらに足利直義派であった武将達の抵抗などもあり、室町幕府は安定しませんでした。

南北朝の統一は足利直義の死から40年後の元中9年/明徳3年(1392年)、3代将軍・足利義満(足利尊氏の孫)の時代です。

足利義満 Wikipediaより

ちなみに、足利義満の時代が室町幕府の最盛期と言われています。

【エピソード】足利直義の人柄や性格が分かる逸話

ここでは、なぜ足利直義は兄と争うようになったかを書いていきます。

もともと兄・足利尊氏とは仲が良かった

最終的に兄・足利尊氏と戦うことになった足利直義ですが、もともとは2人の仲は良かったそうです。

兄と弟といっても、足利直義と足利尊氏は一歳差で、さらに同じ母をもつ兄弟でした。

足利直義が関東で北条時行の軍に押され劣勢になっていた際には、足利尊氏は後醍醐天皇の命令を無視してでも足利直義を助けに行っています。

性格で言うと、足利尊氏が感情の激しい性格であるのに対して、足利直義は冷静沈着であったことから、直義は尊氏に気を使い、争わないようにしていたのでしょう。

また、室町幕府で二頭政治が行えたのは以下の理由が挙げられます。

  • 足利尊氏は軍事には才能があるが政治には興味が無かった
  • 足利直義は軍事には向いていないが政治には優れていた

このように互いの短所を補い合ったため、大きな争いはありませんでした。

しかし、実際はそんなあまいものではなく、幕府内には権力への野心を持っている人物が大勢いました。

とくに、足利直義と高師直が対立した際の足利尊氏の行動は、室町幕府の一番の弱点を表したように思います。

兄・足利尊氏と仲が良かったとはいっても、足利直義は兄の行動には何度も悩まされていたでしょう。

しかし、真面目な足利直義は必要以上に兄を責めることも出来なかったとも考えられるでしょう。

まとめ 北条早雲はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで足利直義について紹介しました。

まとめてみると

  • 足利直義は室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟だった
  • 足利直義は鎌倉幕府を倒幕した
  • 足利直義は後醍醐天皇の争い北朝を立てた
  • 足利直義は足利尊氏と争った

足利直義が登場する大河ドラマには1991年の『太平記』で俳優の高嶋政伸さんが演じています。

『太平記』は足利尊氏(真田広之)を中心に鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を描いた作品です。

ぜひ観てみてください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上「足利直義の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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