島田魁。
新選組の中で唯一すべての戦争を経験したといわれる隊士。
大柄な島田がどのように過ごしてきたのか気になりませんか?
さて今回は、島田魁について、
- 島田魁の性格がわかる面白いエピソードとは
- 島田魁 の人物像がわかる面白いエピソードとは?
- 島田魁の生い立ちや家族を紹介
を紹介します。
これを読めば幕末を生き抜いた島田魁がどんな人物かわかります。
ぜひご覧下さい。
島田魁の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
島田魁の性格がわかる面白いエピソードとは
いったいどれだけの戦争を経験したのでしょう。
まずは経歴からご紹介いたします。
その1・新選組入隊前
1828年、美濃国方県郡雄総村、庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれます。
その後、29歳の時に江戸に出て心形刀流の坪内主馬道場で修行をしています。
そこで師範代をしていた永倉新八と知り合い、仲良くなっているのです。
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その2・新選組入隊後
島田家から戻るように言われた島田ですが、藩を抜け京へと向かいます。
そこで壬生浪士組の噂を耳にし入隊を決めます。
そうして改名した新選組で諸士調役兼監察を任されることとなるのです。
又副長である土方の徹底した隊規の取締りによる隊士の粛清等、汚れ役も引き受けていました。
1864年6月には諸士調役兼監察の能力を存分に発揮し、池田屋事件の発端となる古高俊太郎捕まえる事に貢献します。
その後の組織再編では伍長も掛け持ちで任されることとなるのです。
1867年11月の油小路の変では、二刀流だった服部武雄と戦っています。
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同年12月には、御陵衛士残党による近藤勇襲撃では近藤の護衛として同行。
馬上で狙撃された近藤の馬を走らせ命を救ったのは島田だったのです。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いでは、永倉らと決死隊を組織し敵陣に斬り込みますが、敵の銃撃が激しく撤退。
その際装備が重く、伏見奉行所から土塀を越えられずにいた永倉を、自慢の怪力で持ち上げて逃がしたと言います。
その3・戊辰戦争
戊辰戦争中は、伏見から箱館までずっと土方に従い行動しています。
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しかし1869年、明治政府による箱館総攻撃が始まると、土方が馬上で撃たれ亡くなってしまいます。
旧幕府軍にとって絶望的な状況のなか、島田は新選組の仲間と共に、弁天台場に立てこもり激しい抵抗を続けます。
立てこもりを始めてから4日後、食糧も弾薬も尽きてしまいます。
榎本の降伏により、旧幕府軍も抵抗をやめ、箱館戦争は終結します。
武士道を貫こうとする島田にとっては辛い決断だったことでしょう。
その4・明治以降
降伏後島田は11月まで謹慎生活を送っています。
その後、名古屋藩預かりとなり、謹慎が解かれると地元で剣術道場を開き家族と静かに暮らしています。
1886年には西本願寺の夜間警備員となり、1900年3月に勤務先の西本願寺で倒れて亡くなっています。
享年73。葬儀には永倉も参列していました。
島田魁の人物像がわかる面白い逸話とは?
さてそんな島田はどんな人物だったのでしょう。
逸話1:好物は甘いもの?
島田は大柄で、新選組一の怪力だったと言われています。
土方が最期を遂げた「戊辰戦争」でもその片腕となって戦い、自分の体を盾として、素晴らしい勢いで戦っています。
一方で酒が一滴も飲めず、甘いものが大好きだったという子供っぽい一面もありました。
中でも「島田汁粉」というものがあり、これは甘すぎて誰も食べられなかったといいます。
私もお汁粉好きなので、少し食べてみたい気もしますが…(笑)。
逸話2:永倉との仲
永倉との交友はずっと続いており、仲もよかった島田。
大坂で相撲取りとケンカになった際には、慌てたあまり、誤って永倉の腕に斬りつけてしまうというミスをしたことがあります。
しかし友情にヒビが入ることはありませんでした。
逸話3:新選組の誇り
戊辰戦争後、島田は京都に剣術道場を開いています。
そんな島田のものに、明治政府の海軍になった榎本武揚の使いが来たことがありました。
「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」という榎本に対し、島田は「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」と断っています。
新撰組の隊士として、保身のために降伏する榎本には賛同できなかったためか、最後まで誇りを固持したのです。
これは島田の言ってる事がとてもよくわかります。
いくら身分が上でも会いたいっていうなら自分からきてほしいものですよね…
島田魁の生い立ちや家族を紹介
ではそんな意外な一面を持った島田。
どのように育ったのでしょうか。
1828年、美濃国方県郡雄総村、庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれます。
島田は幼い頃に羽栗郡石田村、永縄半左衛門の養子となっています。
半左衛門死後は厚見郡日野村にいる母方の祖父、川島嘉右衛門に預けられることに。
その頃から剣術修行に目覚め、優れた才能を持っていた島田。
名古屋城内の御前試合で優勝し、大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐことになるのです。
その後江戸の道場で出会った永倉と親しくなり、新選組へと加入することになります。
島田がとても強かったためにいろんなところへ養子にいってるんですね。
ちなみに島田はこの当時では珍しく身長が大きく180㎝あったと言われています。
180㎝あったら今でも結構大きいですよね…
うらやましい…
【結論】島田魁はどんな人?性格や人物像がわかる逸話・エピソードを紹介
さて、島田魁の性格や生い立ちをご紹介しました。
ざっくりまとめますと……
- 島田魁は優れた才能を持っていた
- 島田魁は見た目と反して甘い物が大好物だった
- 島田魁は新選組としての誇りを最期まで貫いた
島田は大柄で力持ちだったなんて写真からは想像できませんよね…
さてそんな島田の『島田魁日記』など新選組の様々な記録を残したものが京都の”霊山歴史館”にございます。
京都に行った際はぜひ足を運んでみてくださいね。
以上、「島田魁の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い」でした!
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