立花誾千代の生涯と人物像は?結婚や死因。逸話と辞世の句

戦国・安土桃山時代

戦国時代の女城主として有名なのは井伊直虎ですが、武将・立花宗茂の妻・立花誾千代(たちばなぎんちよ)も女城主となった女性でした。

そんな立花誾千代をゲーム「戦国無双」でその名前を知ったという方も多いのではないでしょうか。

いかにも強い女性武将として登場していました。

今回はそんな立花誾千代の

  • 生涯
  • 人物像
  • 結婚
  • 逸話、辞世の句

 

などをご紹介いたします。

これを読めば、女武将・立花誾千代の生涯や人物像、結婚や死因を知ることができますよ。

 

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立花誾千代の生い立ちと生涯

立花誾千代は永禄12年(1569年)8月13日、大友氏の有力家臣であった立花道雪と、にし姫と称された問注所鑑豊の女子との間に誕生しました。

誾千代の出身地は現在の福岡県久留米市草野とされています。

  • 誾千代には義理の兄がいました。
  • しかし、その兄は、箱崎宮座主麟清の養子となっていました。
  • また、誾千代には姉がいましたが、その姉は12歳で亡くなっているので父・立花道雪の1人娘となります。

 

天正3年(1575年)5月28日、父・立花道雪には、後継ぎとなる男子がいませんでした。

よって1人娘である誾千代を跡継ぎにしようと考えます

一般的に、家督を継ぐのは男性とされていました。

しかし、後継ぎがいないため、まだ7歳であった誾千代に立花城の城督、城領、諸道具が譲られ、誾千代は7歳にして立花城の軍事的な指揮権を持つ城督となります。

 

立花誾千代の結婚や逸話

天正9年(1581年)、大友氏の家臣であった高橋紹運の長男・宗茂を父・立花道雪は養子に迎えます。

父・立花道雪と、高橋紹運は互いに大友氏の家臣であったため同僚という仲でした。

高橋紹運は自身の息子である宗茂を

  • 優秀な器量を持っていた
  • 高橋紹運の嫡男であった

 

この2つの事から養子に出すことを当初は嫌がっていたとされています。

しかし、同僚である立花道雪の頼みを断れず、息子・宗茂を泣く泣く養子に出しました。

 

天正10年(1582年)11月18日、立花誾千代と養子に入った宗茂は結婚します

この時、誾千代13歳、宗茂15歳でした。

その後、夫・宗茂が誾千代の父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに第二次太宰府観世音寺の戦いで初陣を飾りました。

 

誾千代の父・立花道雪が亡くなる

天正12年(1584年)9月11日、島津討伐のため、義父・高橋紹運とともに戦っていた父・立花道雪は柳川城攻めの最中に高良山の陣中で、病に倒れます。

 

そして翌年の天正13年(1585年)に誾千代の父・立花道雪は病によって亡くなるのでした。

 

その後、天正14年(1586年)7月27日には、義父・高橋紹運が岩屋城の戦いでの討死となりました。

誾千代は父・立花道雪に似た強くて武勇に長けた女性であったとされています。

そのような気の強い女性であったことからか、この頃から、誾千代と夫・宗茂は険悪な関係となりました。

 

夫・宗茂は大友氏の家臣から、秀吉の直臣となる

夫の宗茂は豊臣秀吉が天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)4月までに行った九州征伐で、高い功績を残し、秀吉から筑後国柳川13万2000石を与えられ大友氏の家臣から豊臣家臣となります。

 

誾千代と夫・宗茂は別居生活を始める

夫・宗茂は秀吉から筑後国柳川を拝領されました。

しかし、この3日後、誾千代は筑後国柳川に行かず、宮永村に移り住みました。

いわば別居状態となったのです。

この別居理由として

  • 側室を迎えようとした夫・宗茂に対して腹を立て、立花城を出た
  • 亡き父・立花道雪の墓から離れたくない。といって立花城を出た

 

などの推測がなされています。

 

立花城を出た誾千代は、宮永村に移り宮永殿と呼ばれるようになりました。

豊臣家臣の家臣となった夫・宗茂はその後、

  • 天正18年(1590年) 小田原征伐
  • 文禄元年(1592年)から始まった文禄の役で侵攻軍
  • 慶長2年(1597年)から始まった慶長の役で安骨浦の守備

 

に参加します。

 

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、亡き秀吉の権力を巡る関ヶ原の戦いが起きました。

  • この際、夫・宗茂は大津城の戦いに参加していたため、関ヶ原の戦いには参加せず、
  • 大津城の戦いで敵将の京極高次が降伏すると夫・宗茂は柳河城へと戻ってきました。
  • この時、誾千代は柳河城にいたとされ家士や従者とともに夫を出迎えたとされています。

 

しかし、この頃、黒田孝高、加藤清正、鍋島直茂が柳河を侵攻しており、鍋島直茂率いる鍋島勢が柳河城を攻め落とそうとしていました。

結局、黒田如水、加藤清正が夫・宗茂に城を明け渡すように説得し、柳河城は開城となります。

 

誾千代の夫・宗茂が無職になる

夫・宗茂はその後、改易され浪人となりました。

  • 今でいうと、無職ということです。
  • 無職になった夫・宗茂は加藤清正や前田利長から家臣にならないかと誘われますが、これを拒み、
  • 浪人の身でありながら京都に向かいました。
  • 一方、誾千代は夫が浪人となった頃から加藤清正のもとで肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に移り住みました。

 

立花誾千代の死因と辞世の句

肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に移り住んだ2年後の慶長7年(1602年)7月頃から誾千代は体調を崩し10月17日に34歳で亡くなりました。

  • 死因は明確に判明されていませんが、誾千代の病状を記した「当社御傳記」からはマラリア、赤痢に似た症状が記載がされています。
  • 夫・宗茂との間に子供はおらず、また亡き父・立花道雪には男の子供がいなかったため、父・立花道雪の血は途絶えてしまいました。
  • 誾千代が残した辞世の句を調べてみましたが、残念ながら史実には残されていませんでした。

 

夫婦仲は良くなかった?

誾千代と夫・宗茂は結婚してほどなくして別居となりました。

その後2人の間に子供はできなかったので、夫婦仲は良くなかったとされています。

しかし、

  • 夫が戦で不在の時は夫に代わって城を守った
  • 大津城の戦いから戻った夫を出迎えた
  • 夫が改易を受け浪人となり、誾千代は加藤清正に保護されるも、夫の再起を願って神社へ参拝していた

 

このようなことから、夫・宗茂と不仲になりながらも、心配していた様子が分かります。

 

まとめ 立花誾千代のドラマはある?

立花誾千代の生涯や人物像、結婚や死因をご紹介いたしました。

立花誾千代について簡単にまとめると

  • 立花道雪の1人として誕生する
  • 父の養子となった高橋宗茂と結婚。しかし、ほどなくして別居する
  • 夫・宗茂は改易を受け浪人となる
  • 誾千代は34歳で亡くなる
  • 夫婦仲はよくなかったとされるも、夫のことを心配していた

 

立花誾千代は死ぬまで、夫と別居生活を送っていたのですね。

  • 父に似て武勇に長けた女性でもあり、立花城の城主でもあった女性であったので、
  • 養子となり夫となった宗茂と真っ向からぶつかり合っていたのではないでしょうか。
  • しかし、夫が浪人となった際、再起を願って神社へお参りに行くなど、
  • 1度夫婦になった関係なので、夫のことは気にかけていました。

 

今でいう、ツンデレというところでしょうか。

そんな立花誾千代を題材にした有名な時代小説は

  • 山本兼一さんの「まりしてん誾千代」

 

です。

誾千代を題材にしている映画や大河ドラマは残念ながらありませんでした。

誾千代と宗茂を題材にした大河ドラマを見てみたいものです。

これを機に、立花誾千代に興味を持った方は山本兼一さんの「まりしてん誾千代」を読んでみてください。

以上「立花誾千代の生涯と人物像、結婚や死因、逸話と辞世の句」のご紹介でした。

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