あなたは加藤清正という武将をご存知でしょうか?
加藤清正は豊臣秀吉の側近として活躍し、生涯、豊臣家に忠誠を誓っていました。。
また、熊本城を築城するなど、戦以外にも築城の名手でもあります。
しかし、加藤清正は幼いときに父を亡くすなど、苦労した過去もありました。
今回は加藤清正について
- 加藤清正の生い立ちとは?
- 加藤清正の経歴や最後は?
- 【エピソード】加藤清正の人柄や性格が分かる逸話
について紹介します。
加藤清正の生い立ちとは?
加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日に刀鍛冶(日本刀を作る職人)の加藤清忠の子として、尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれます。
加藤清正が3歳の時に父が亡くなってしまいます。
加藤清正は母とともに津島(現在の愛知県津島市)に移り住みますが、母が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母である大政所の従姉妹であったことから、羽柴家で面倒を見て貰い養育に受けます。
加藤清正は羽柴秀吉を兄のように慕い、また、一歳年上の福島正則らと幼少期を過ごします。
そして、織田信長の命で羽柴秀吉が近江国長浜城(現在の滋賀県長浜市)の城主となると、11歳だった加藤清正は長浜城へ行き羽柴秀吉の小姓として仕えます。
これ以降、加藤清正は羽柴秀吉の側近として多くの活躍を見せます。
加藤清正の経歴や最後は?
天正10年(1582年)に織田信長の命で羽柴秀吉は中国征伐を任されます。
加藤清正は中国征伐に参加し、冠山城(かんむりやまじょう)を攻めた際には城内に一番乗りし竹井という武将を討ち取ります。
同年6月に本能寺の変が起こり織田信長が亡くなると、明智光秀との山崎の戦いに参戦し羽柴軍を勝利に導きます。
さらに山崎の戦いから1年後の賤ヶ岳の戦い(対柴田軍)では柴田家家臣の山路正国を討ち取る活躍を見せ、「賤ヶ岳七本槍」の1人として数えられました。
賤ヶ岳の戦い以降の戦い
- 小牧長久手の戦い 天正12年(1584年) 対 織田信雄・徳川家康
- 四国征伐 天正13年(1585) 対 長宗我部氏
- 九州平定 天正14年(1586年)~天正15年(1587年) 対 島津氏
では前線ではなく羽柴秀吉の近くを守っていました。
また、豊臣秀吉からは豊臣政権の財務を任され
- 播磨国(兵庫南西部)や和泉国(大阪南西部)にあった豊臣政権直轄地の代官(領主に代わり治める)
- 讃岐国(香川県)の尾藤氏が改易され新領主が来るまでの代官
などを務めます。
九州平定の際には、肥後国(熊本県)を任されていた佐々成政が失政し改易されると、代わりに肥後国の領主となります。
肥後国では
- 隈本城(後の熊本城)を拠点に治める
- 国人一揆後の処理
- 田麦を特産品化し南蛮貿易の決済を行う
- 小西領の天草(熊本と鹿児島の間にある諸島)で一揆が起こると出陣し鎮圧する
といった活躍をします。
文禄元年(1592年)から始まった文禄の役では
- 二番隊の主将として4月17日に釜山に上陸
- 5月3日に朝鮮国の首都漢城(現在のソウル)を落とす
- 咸鏡道(かんきょうどう、朝鮮八道の1つで朝鮮半島北部に位置する)を平定し、朝鮮国の王子2人を捕虜にする
- 朝鮮国と満州の国境である豆満江(とうまんこう、川)を越え、オランカイ(モンゴル北部にいた民族集団の1つ)へ侵攻
- 明軍が朝鮮軍の援軍として参戦すると咸鏡道を引き渡し漢城へ後退する
- 文禄2年(1593年)6月の第2次晋州城の戦いでは北方から攻撃し城を落とす
- 明国との和睦交渉が開始されると、和睦交渉に反対したため、石田三成から強制的に京へ戻され謹慎となる
慶長2年(1597年)から始まった慶長の役では
- 日本軍の右軍を担当する
- 朝鮮国の黄石山城(こうせきさんじょう)を落とし、全羅道の道都全州を占領
- 同年12月に明・朝鮮が蔚山城を攻めてきますが守り切る
- 豊臣秀吉の死によって朝鮮から撤退
豊臣秀吉の死によって五大老の1人であった徳川家康の発言力が増します。
加藤清正は、豊臣政権を仕切っていた石田三成との関係悪化で徳川家康に接近し、徳川家康の養女を継室として迎えます。
慶長4年(1599年)3月28日には反石田三成の福島正則や細川忠興ら(あと5人)とともに石田三成の暗殺未遂事件を起こします。
慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ヶ原の戦いでは本戦には参戦しませんでしたが、九州で黒田勢とともに東軍に協力します。
江戸幕府下では
- 慶長10年(1605年)に肥後国の守護になる
- 慶長11年(1606年)には、娘を徳川家臣・榊原康勝(館林藩主)に嫁がせ後見人として藩政を行う
- 慶長15年(1610年)に徳川氏による名古屋城の建築に協力する
- 慶長16年(1611年)には二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見の仲介役をする
そして、慶長16年(1611年)6月24日に二条城からの帰国途中に船内で50歳で亡くなります。
亡くなった6月24日は加藤清正の誕生日でもありました。
死因は病死が一般的な説ですが、毒殺ではないかという説もあります。
2016年の大河ドラマ『真田丸』では、加藤清正(新井浩文)が二条城での会見の後に、徳川家康(内野聖陽)の家臣で忍びの服部半蔵(お笑いコンビ・ハマカーン浜田健司)に毒針を刺され、数ヶ月後に亡くなるというシーンがあります。
【エピソード】加藤清正の人柄や性格が分かる逸話
加藤清正のエピソード1.石田三成との関係
加藤清正以外に豊臣秀吉の有力な家臣として上げられのが石田三成です。
加藤清正も石田三成も豊臣秀吉の下で世の中をよくしようと考えていました。
しかし、2人は朝鮮征伐以降仲良くなることはありませんでした。
理由は、朝鮮征伐の際に石田三成が加藤清正の勝手な行いを豊臣秀吉に言ったことで、加藤清正が謹慎処分を課せられたからでした。
特に豊臣秀吉が亡くなると加藤清正の怒りが爆発することになります。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権は五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)が政治を引っ張って行きます。
しかし、豊臣政権内では日本を統治する上で、武力で支配する武断政治派と法律で支配する文治政治派に分かれていました。
加藤清正や福島正則といった若いときから戦場で戦っている武士達は当然武断政治を推し、豊臣政権内で事務や財務の仕事をしていた石田三成は文治政治を推すことになります。
この対立は五大老の1人であった前田利家(豊臣秀吉とは親友で秀頼の後見を任される)のお陰でがどうにか争いは起こりませんでした。
しかし、前田利家が亡くなると、加藤清正は同じく石田三成に反感を持っていた福島正則や黒田長政ら7人と石田三成を襲撃します(石田三成暗殺未遂事件)。
暗殺には失敗しましたが、関ヶ原の戦いで石田三成は負け処刑されました。
加藤清正にとっては憎き石田三成が亡くなったことは良いことでしたが、以後、徳川家康が勢力を拡大し結局は豊臣家は滅んでしまいます。
加藤清正は豊臣家を守るどころか、徳川家康にいいように利用されてしまいました。
もし、加藤清正が石田三成と協力できていたら、豊臣秀吉亡き後も内紛が起こらず豊臣家を守っていけたでしょう。
加藤清正のエピソード2.砲撃・地震でも崩れなかった熊本城の宇土櫓
江戸時代
加藤清正は戦以外にも城の築城でも活躍を見せます。
加藤清正が築城した城といえば熊本城です。
また、熊本城には築城された当時まま残され国宝となっている宇土櫓があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kumamotojo-Utoyagura.jpg
熊本城の築城年は1469年から1487年の間とされていて(最初は隈本城)、現在のような天守が作られたのは慶長11年(1600年)のことです。
また、加藤清正が関ヶ原の戦い(1600年)の功績で肥後国を与えられると、慶長11年(1606年)には名を熊本城に改名します。
熊本城は別名・銀杏城とも呼ばれています。
理由は築城する際に銀杏の木を植えたからです。
加藤清正が朝鮮征伐に参戦した際に、敵の兵糧攻めに苦しんだことから、熊本城の壁に干瓢(かんぴょう)を埋め込んだり、畳の下に里芋の茎を仕込むなど、朝鮮征伐の時の教訓を活かすための城作りをします。
このような熊本城ですが、現在に至るまで多くの困難を乗り越えてきました。
熊本城があった肥後国は加藤清正の子(加藤忠広)が改易(領地没収)となり藩主が加藤家から細川家へと変わります(幕末まで続く)。
明治時代以降
明治10年(1877年)に西郷隆盛が明治政府に対して反乱を起こした(西南戦争)際には、熊本城は反乱軍の攻撃を受けます。
しかし、熊本城は天守などが焼失しますが、宇土櫓や石垣は一切被害をうけなかったといわれています。
この時に西郷隆盛は「私は官軍(政府軍)に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」と嘆いたといわれています。
太平洋戦争の時にも熊本大空襲によって熊本は甚大な被害を受けますが、熊本城は奇跡的に焼失を免れました。
熊本地震
そして、記憶に新しい2016年4月14日の熊本地震では、最大震度7の揺れを受けて熊本県では関連死を含めると250人以上にもなり、2018年4月13日までには約18万人(Wikipediaより)が避難生活を強いられました。
熊本地震は熊本城にも大きな影響を与えました。
この地震によって大天守の瓦や櫓・石垣が崩壊するなどの被害を受けました。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kumamotojo_2016-07-14_1.jpg
しかし、加藤清正の時代に築城された石垣や宇土櫓は被害を受けませんでした。
熊本城の復興には全国から多くの寄付金が集まり、2018年現在も修復作業が行われています。
熊本城の完全な修復は約20年もかかるといわれています。
1日でも早く復興することを願っています。
まとめ 加藤清正はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで加藤清正について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 加藤清正は3歳の時に父を亡くし、豊臣秀吉のもとで暮らす
- 加藤清正は若くして豊臣秀吉の側近となる
- 加藤清正は石田三成と仲が悪かった
- 加藤清正は関ヶ原の戦いでは東軍についた
- 加藤清正は築城の名手でもあった
大河ドラマでは主役のはありませんが、最近でいうと新井浩文さんが演じた『真田丸』や阿部進之介さんが演じた『軍師官兵衛』などがあります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上「加藤清正の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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