あなたは、秋山徳蔵という人物をご存知でしょうか。
ドラマ「天皇の料理番」で俳優の佐藤健さんが演じていた秋山篤蔵は、実在した秋山徳蔵をモデルにしました。
モデルとなった秋山徳蔵はドラマと同様に、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の料理番を務めた人物です。
では秋山徳蔵は一体どのような人物であったのでしょうか。
今回は秋山徳蔵の
- 経歴
- 生涯
- 家族や弟子とのエピソード
- 逸話
をご紹介いたします。
これを読めば秋山徳蔵の生涯や経歴、家族や弟子とのエピソード、逸話を知ることができますよ。
今夜放送の八話まで、二時間をきりました~!今夜はパリ後編。篤蔵さん、いよいよ正念場です。出会いと別れを繰り返した先には…?
今夜もたくさんの愛を感じていただけると思います。お楽しみに! #天皇の料理番 pic.twitter.com/mVI0pG2NDv— 『日曜劇場 天皇の料理番』 (@ryoriban_tbs) 2015年6月14日
秋山徳蔵の経歴と生涯
高森徳蔵(秋山徳蔵)は明治21年(1888)福井県今立郡村国村の料理屋の高森家の次男として誕生します。
徳蔵の実家はとても裕福でした。
西洋料理との出会い
成人した徳蔵は、武生町橘(現在の越前市中心部)にある仕出し屋である「八百勝」で働いていましたが、鯖江にあった陸軍の連隊に訪れた際、今までに嗅いだことのない、香ばしい匂いを食堂で嗅ぎ、これが西洋料理との出会いであったと
- 自著『味』
に記されています。
コックを目指す
実家の仕出し屋が三十六連隊の将校集会所の賄いを行っていたため、その関係で集会所に訪れた際、徳蔵は初めて洋食・カツレツを口にします。
この時、まだ日本では洋食文化は根付いておらず、洋食を口にすることはあまりありませんでした。
このカツレツを口にした徳蔵は、あまりの美味しさから仕出し屋を辞め西洋料理のコックを目指します。
フランス修行を決意
高等小学校を卒業すると、明治37年(1904)単独で上京し華族会館の見習いとなりました。
翌年には西洋料理店・築地精養軒に移りました。
ここでは第4代料理長・西尾益吉から料理の基本を学びました。
この第4代料理長・西尾益吉はフランスの高級ホテルであるオテル・リッツ・パリのオーギュスト・エスコフィエから料理を学んでいたため、徳蔵もフランスでの修行を決心し、フランス語を学び始めます。
3代目料理長に就任
またその翌年の明治40年(1907)には三田にある東洋軒で働きました。
ここでは、3代目料理長に就任することができました。
フランスへと渡る
こうして料理の基礎を学んだ徳蔵は本格的な西洋料理を学ぶため明治42年(1909)私費でフランスへと渡ります。
フランスに渡った徳蔵は、ベルリンにあるホテル・アドロンの調理場で見習いとなり、パリにあった日本領事館の紹介によってオテル・マジェスティックの厨房で2年間、修行を行います。
フランスに渡った徳蔵でしたが、フランスでは東洋人であることを理由に人種差別を受けていました。
しかし、フランスは幸いなことに実力主義社会であったため、人種差別を受けながらも地位を上げていくこととなります。
その後
- キャフェ・ド・パリで半年、修行
- 高級ホテルオテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエの下で半年、修行
料理長に選抜される
こうして本場フランスで西洋料理を学んだ徳蔵は、その料理技術が認められ大正3年(1914)に予定される大正天皇即位の礼に集まった世界各国の賓客にフランス料理を提供する料理長として抜擢されます。
大正2年(1913)宮内庁から料理長に抜擢された徳蔵はフランスから日本へと帰国しました。
天皇の料理番となる
帰国した徳蔵は宮内省大膳寮の初代厨司長に任命されます。
同年7月には、下宿先で出会った秋山俊子に婿入りし秋山徳蔵となりました。
大正3年(1914)に予定されていた大正天皇即位の礼でしたが、昭憲皇太后が崩御したため、大正4年(1915)に行われました。
この大正天皇即位の礼で徳蔵は世界18か国の賓客を本格的なフランス料理でもてなします。
この際、出された料理の中に「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」という料理がありました。
フランスではザリガニを食べることが一般的なのですが、日本にいるザリガニはフランスのザリガニよりも小ぶりであったため、北海道に食用のザリガニを扱っていると知ると北海道から4,000匹のザリガニを、日光へと送ってもらったとされています。
しかし、式典に近づいたある日、ザリガニが厨房から逃げ出すという事件がおき、徳蔵や料理人たちは慌ててザリガニを探しました。
西洋料理の研究を行う
その後、大正9年(1920)宮内省からの命令で再びフランスへと渡り、西洋料理の研究を行います。
翌年に、皇太子裕仁親王が欧州へと訪問した際は、徳蔵も皇太子裕仁親王とともに各国主催の晩餐会を見学し、その後、アメリカのニューヨークにあるレストランを見学し大正11年(1922)に日本へと帰国しました。
『仏蘭西料理全書』を刊行
大正12年(1923)帰国した徳蔵は『仏蘭西料理全書』を刊行します。
この『仏蘭西料理全書』は第二次世界大戦後まで、西洋料理を学ぶ多くの人たちに読まれ続けられました。
昭和46年(1971)になると
- フランス料理アカデミー名誉会員
- パリ調理士協会名誉会員
- フランス主厨長協会会員
となります。
秋山徳蔵の最期
昭和に入ると昭和天皇から、無くなっていく郷土料理を記録するように。と言われたため、徳蔵は西洋料理のみならず、東北地方の郷土料理も熱心に学び、献立の記録などを行いました。
満州国皇帝の溥儀が日本に来日した際、溥儀が主催した食事会で、満州料理を担当するなども行います。
昭和47年(1972)84歳の頃、徳蔵は料理人を引退し、昭和48年(1973)に勲三等瑞宝章を受章すると、翌年に86歳で亡くなりました。
明治・大正・昭和三代天皇の食事の好み
明治天皇・大正天皇、昭和天皇の料理番となった徳蔵は、それぞれの天皇の食事の好き嫌いなどを把握していました。
- 明治天皇
明治天皇は酒豪であった。
- 大正天皇
大正天皇は明治天皇よりも酒は飲まなかったが、祝膳の時には日本酒、日常の食事の際には、葡萄酒やベルモットを好んで飲んでいた。
辛い料理を好んで食べていた。
- 昭和天皇
昭和天皇はざる蕎麦を特に好み、週に1回は献立に出していた。
薄味が好みで、うなぎ、天婦羅、中華料理も好んでいた。
甘い食べ物に関しては、おはぎ、お汁粉、果物、和菓子が好きであった。
猫舌で、酒は苦手であった。
太平洋戦争後の食糧難時代にはいると、昭和天皇の食事は贅沢はせず、丸麦の混ぜられた米を食べていた。
と記録しています。
このような記録から昭和天皇は食糧難時代、日本の食糧事情を配慮して、贅沢なものを食べようとせず、国民の事を第一に思っていたことが分かります。
秋山徳蔵の家族構成は?兄・妻・子供など
徳蔵は生涯のうち、2度の結婚をしています。
徳三が26歳の時に結婚した先妻・秋山俊子は熱心なカトリック信者でした。
この2人の間には
- 匡
- 栄子
- 鉄蔵
3人の子供が誕生します。
しかし、3人目の子供である鉄蔵が6歳になった時、先妻・秋山俊子は結核にかかり昭和3年(1928)に亡くなりました。
徳蔵は先妻・秋山俊子から貰った鈴を常に持ち歩いていたとされています。
その翌年、後妻となる岸本きくと再婚します。
岸本きくとの間には
- 三郎
- 四郎
の2人の子供が誕生しました。
【エピソード】秋山徳蔵と貞明皇后との逸話
徳蔵は皇室に対する忠誠心が非常に厚い人物であったとされ、貞明皇后(大正天皇の皇后)との、このような逸話が残されています。
競馬観戦をやめる
徳蔵は、遠方に競馬観戦に行くのが趣味でした。
休日に泊りがけで競馬観戦に行った際、宿泊先のホテルに宮内省大膳寮から電話がかかってきます。
この電話の用件は貞明皇后様が、客人に、中華料理をもてなししたいという事、徳蔵が遠方にいることを伝えると、では徳蔵が帰ってきてからでいい。との事でした。
しかし、徳蔵は急いで夜行列車に乗り込み帰京します。
帰京した徳蔵に対し、貞明皇后は徳蔵に、わざわざ帰ってこなくても良かったのに。と気を遣いました。
徳蔵は、貞明皇后が自身に気を遣っていたことを知ると、これ以来、遠方での競馬観戦を行うことを辞めたという逸話が残されています。
貞明皇后を思い、急な仕事のために趣味を辞めた徳蔵でした。
ヘビースモーカーだった
また徳蔵は、愛煙家でした。
第二次世界大戦後、GHQ高官から煙草を貰うようになると、ますます喫煙量は増え、1日60~70本吸うようになっていました。
ヘビースモーカーとなってしまった徳蔵は、頭痛を起こすようになり、仕事に支障をきたすことも十分承知していました。
しかし、なかなか煙草を辞めることはできません。
そんな中、昭和26年(1951)、貞明皇后が崩御します。
徳蔵は母や姉のように慕っていた貞明皇后が亡くなって以来、「天皇陛下の料理人」として職務を全うするため、きっぱりと煙草を辞めました。
まとめ 秋山徳蔵はどんな人?ドラマや映画はある?
秋山徳蔵の生涯、経歴、家族や貞明皇后とのエピソードをご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 初めて洋食を口にしたことでコックを目指す
- フランスに渡り西洋料理を学ぶ
- 天皇の料理番となる
- 皇室に対する忠誠心が非常に厚い人物であった
- 2度の結婚をする
秋山徳蔵は生涯のすべてを天皇の料理番として捧げた人物でした。
皇族に対して非常に厚い忠誠心を持っていた人物であったとされ、また料理技術に関して非常に貪欲で、世間的には格下とされる料理人に対しても頭を下げ料理を学んでいたとされています。
そんな秋山徳蔵が登場する有名なドラマは
- 「天皇の料理番」です。
この作品は
- 杉森久英さんによる小説「天皇の料理番」
をテレビドラマ化されたものです。
1980年、1993年、2015年と、3回テレビドラマで放送されました。
- 1980年に放送された「天皇の料理番」では、秋山徳蔵役を俳優の堺正章さん
- 1993年に放送された「天皇の料理番」では、秋山徳蔵役を俳優の高嶋政伸さん
- 2015年に放送された「天皇の料理番」では、秋山徳蔵役を俳優の佐藤健さん
が演じられました。
これを機に秋山徳蔵に興味を持った方はぜひ、
- 「天皇の料理番」
を見てみてください。
以上「秋山徳蔵の経歴と生涯。家族や貞明皇后とのエピソードや逸話」のご紹介でした。
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