あなたは武市半平太という人物をご存知でしょうか。
NHK大河ドラマ「新選組!」では俳優のデビット伊東さん、「龍馬伝」では俳優の大森南朋さんが演じられ知っているという方も多いかと思います。
剣術に優れていた武市半平太は「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵を愛弟子としていました。
では武市半平太という人物は、どのような人物であったのでしょうか。
今回は武市半平太の
- 生涯
- 生い立ち
- 経歴
- 性格
- エピソード
をご紹介していきます。
これを読めば、武市半平太の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。
私は龍馬伝の大森南朋が好きです💕 pic.twitter.com/zEW2PTzD1r
— ここあ@続く日々を奏でる(^-^)/ (@QbcpFtqXFAGp4PS) 2017年12月10日
武市半平太の生い立ちは?
武市半平太は文政12年(1829年)9月27日、現在の高知県高知市仁井田である土佐国吹井村で父・武市正恒、母・大井氏の娘から長男として誕生しました。
- 半平太の幼名は鹿衛と言い、諱は小楯(こたて)であったとされています。
- 幼少期の半平太の記録はあまり残されていませんが、天保12年(1841年)12歳となった半平太は一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学びました。
嘉永2年(1849年)父・武市正恒と母・大井氏の娘を相次いで亡くし、残された半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の養子となり、長女・富子と結婚します。
嘉永3年(1850年)3月になると高知城下に移り住み、小野派一刀流の麻田直養から剣術を学び始めました。
その後、嘉永6年(1853年)黒船に乗ったペリーが浦賀に来航します。
当時の人々にとって外国船は非常に大きなもので、世の中は騒然となりました。
半平太はこの時、藩から視察に行くよう命じられていましたが、待遇に不満があったため、辞退しています。
嘉永7年(1854年)になると、自身の道場を開きました。
しかし、安政元年に土佐国を襲った大地震によって家や道場は崩壊するも、翌年には新築を建て、そこに妻・富子の叔父で槍術家・島村寿之助を招き共同経営で道場を開きます。
この道場には120人の弟子が集まり、中には
- 中岡慎太郎(後の陸援隊隊長)
- 岡田以蔵(後の通称・人斬り以蔵)
がいました。
半平太の剣術は非常に優れたものであったため、幕府からり安芸郡や香美郡で剣術を教えるよう命じらていました。
その後、安政3年(1856年)8月、優れた剣術を認められた半平太は江戸での修行を幕府に許されます。
この江戸での修行には弟子の岡田以蔵、五十嵐文吉らを連れて行き、鏡心明智流の士学館に入門しました。
この同じ時期に、土佐藩郷士の坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場で剣術修行を行っていたとされています。
しかし、翌月の9月になると祖母が体調を崩したため半平太は土佐国へと帰りました。
江戸幕府内では、江戸幕府13代将軍徳川家定の後継として一橋慶喜を擁立していた土佐藩主・山内豊信と次期将軍に徳川慶福を擁立していた大老・井伊直弼が対立を起こしていました。
この頃、次期将軍は、徳川慶福が選ばれ14代将軍・家茂となると、大老・井伊直弼によって土佐藩主・山内豊信は同年10月、謹慎を命じられます。
土佐国の藩士達は土佐藩主・山内豊信に対する大老・井伊直弼の処置に不満を持ち、翌安政7年(1860年)3月3日、大老・井伊直弼を暗殺しました。(桜田門外の変)
半平太は祖母が亡くなると、7月
- 岡田以蔵
- 久松喜代馬
- 島村外内
とともに武者修行のための西国遊歴と旅立ちます。
実際は西国諸藩の動静視察であったとされています。
この旅の中で、半平太は国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰ります。
この『霊能真柱』は天皇を敬い外敵(外国人)を日本から排除するといった思想を持つ攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた書物です。
尊王攘夷とは
日本の歴史を遡ると
- 寛永16年(1639年)に外国船入港禁止(鎖国)
- 嘉永6年(1853年)、ペリー来航
- 嘉永7年(1854)3月3日、下田と函館2つの港を開港した日米和親条約
- 安政5年(1858)日本に不利な条約、日米修好通商条約
などがあり、日本は着実に、開国へと進んでいました。
これに危機感を抱き、天皇を敬い外敵(外国人)を日本から排除するとっいた思想の尊王攘夷派が誕生しました。
つまり開国を行おうとする幕府に反対する人たちのことを指します。
武市半平太の経歴と有名な伝説の逸話は?
文久元年(1861年)4月、半平太は大石弥太郎に剣術修行を行ってほしいという名目で招かれ江戸に向かいます。
土佐国の藩士である大石弥太郎という人物は、江戸で攘夷派の様々な藩と交流を持つ人物でした。
こうして7月に江戸へ到着すると、尊王攘夷派である
- 長州藩の桂小五郎
- 長州藩の久坂玄瑞
- 長州藩の高杉晋作
- 薩摩藩の樺山三円
- 水戸藩の岩間金平
と交流を深めました。
この際、半平太は長州藩や薩摩藩、水戸藩が尊王攘夷運動をしているのに対し、自身の土佐藩は尊王攘夷運動が行われていないことに遅れを感じます。
このように、尊王攘夷派と交流を持った半平太は、開国を行おうとする幕府に尊王攘夷を迫ろうと提案します。
この提案に一同は賛成すると翌月に半平太は土佐勤王党を結成しました。
土佐勤王党の結成
9月になると、もっとたくさんの同士を集めるため土佐国へと戻り、同士集めを行います。
この時、坂本龍馬が筆頭加盟者となり土佐国において
- 間崎哲馬
- 平井収二郎
- 中岡慎太郎
- 吉村虎太郎
- 岡田以蔵
などが加わり最終的には192人となりました。
しかし、土佐国では
- 開国を唱える参政・吉田東洋が意欲的な藩政改革を進めていた
- もともと、幕府を尊崇する気風の強い土地柄であった
このようなことから吉田東洋に、この時代だからこそ、
- 天皇に尽くさなければならない(勤王)
- 日本は鎖国を突き通すべき(攘夷)
と説明しましたが、納得はしてもらえませんでした。
半平太は、薩摩や長州と勤王密約を実現するため、長州に坂本龍馬、久坂玄瑞などを派遣します。
しかし、半平太の活動は他の同志たちと温度差が生まれ
- 吉村虎太郎
- 坂本龍馬
- 沢村惣之丞
らが脱藩となりました。
吉田東洋の暗殺事件に関わる
半平太は、開国を支持する吉田東洋の暗殺を決断します。
こうして4月8日の夜、半平太は土佐勤王党の
- 那須信吾
- 大石団蔵
- 安岡嘉助
に吉田東洋の暗殺を命じ、吉田東洋は殺害されました。
この騒動を知った吉田派は土佐勤王党と一触即発となりますが、土佐勤王党を庇護していた山内大学、山内下総が吉田東洋亡き後の権力を掌握したため、実質、土佐勤王党が権力を握ることとなりました。
この騒動以前に、薩摩藩国父・島津久光、長州藩世子・毛利定広が入洛していたため、土佐国も入洛すべく、土佐勤王党の同士を京都に派遣させ、朝廷に働きかけ入洛催促の書簡を送りました。
またこの頃行われた、山内豊範の参勤交代には半平太を含む、土佐勤王党の数人が従事し京都へと向かいます。
京都に到着した半平太は他藩の応接役に命じられたため三条木屋町に居を構えました。
一方で、朝廷に
- 山城、摂津、大和、近江四力国を天皇の直轄地とし、直轄地にの親王以下の国司には諸国浪士を家来として与える
- 江戸への参勤交代を5年または3年に1度へと変更し、政令は全て天皇から諸大名に直接伝えるべき
といった王政復古を主張する建白書を提出しました。
京都において暗殺事件が多発する
この頃、京都では過激な尊王攘夷派が天誅と称して暗殺をするといった事件が多く発生していました。
この暗殺事件の中でも
- 越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)
- 安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)
- 幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)
に半平太は関わっており、主に半平太の下で暗殺を行っていたのは
- 門弟・岡田以蔵
- 薩摩藩士・田中新兵衛
とされています。
岡田以蔵は後に「人斬り以蔵」と呼ばれるほど暗殺を行っていたとされています。
文久2年(1862年)10月、半平太が朝廷に外敵(外国)を排除するといった攘夷運動を行ったかいもあり、朝廷は幕府に対し、攘夷を促すこととなり、朝廷は幕府に攘夷催促のための勅使
- 正使・三条実美
- 副使・姉小路公知
を派遣します。
この際、半平太らも警固役として同行することとなり江戸へと向かいました。
12月に、役目を終え京都に戻ると上士格留守居組への昇進されます。
その翌年の文久3年(1863年)3月には京都留守居加役になることができました。
土佐前藩主・山内容堂による土佐勤王党の弾圧が行われる
この頃、土佐前藩主・山内容堂は京都で土佐勤王党が台頭していたことに不満を持っていました。
そして、半平太以外の勤王党志士たちに他藩士との政事交際を禁じるといった通達を送ります。
土佐国では土佐勤王党に不満を抱いていた山内容堂が吉田東洋暗殺事件の捜査を行い、土佐勤王党の
- 平井収二郎
- 間崎哲馬
- 弘瀬健太
は牢獄に入れられ尋問を受けいました。
半平太は薩摩と長州がの間で不和が生じ、薩長和解調停案の決裁を山内容堂に手助けしてもらうため3月に土佐国に帰国した際、3人の助命を嘆願しますが、3人は死罪となります。
その後、京都での数々の暗殺事件の容疑として、半平太と土佐勤王党幹部らに逮捕命令が出され、半平太は投獄となりました。
半平太は、吉田東洋暗殺事件をはじめとする京都での暗殺事件に関与していない、と否定し続けましたが、同じく投獄されていた岡田以蔵が拷問に耐え切れず、京都や大阪での暗殺事件の首謀者、実行犯の名前を自白したため、半平太は慶応元年(1865年)閏5月11日「主君に対する不敬行為」罪目として切腹を命じられました。
こうしてこの日の20時頃に三文字割腹の法を用いて切腹し37歳で亡くなったとされています。
この三文字割腹の法とは、お腹に3本の線が残るように腹を切る切腹の方法です。
当時、この三文字割腹の法で切腹をしたのは誰もおらず、半平太が初めてであったとされています。
【エピソード】武市半平太の性格や人柄はどんな人?
剣術に優れていた半平太は色白で美形、また180㎝前後の身長であったとされています。
どう考えてもイケメンな半平太ですが、それぞれだけではなく南画や美人画などを描くことを得意としており、投獄された際は獄中自画像を描いたとされています。
また1歳年下の妻・富子とは大変仲が良かったとされています。
そんな妻・富子とのエピソードとして
- 子供がでいなかった武市夫婦を心配した吉村虎太郎が半平太の妻・富子が実家に帰った際、若い娘を半平太の屋敷に女中して送り込んだが、全く手を付けず、また吉村虎太郎の仕業と見破り、吉村虎太郎を叱った。
- 投獄された半平太を気遣い、妻・富子は夫・半平太と苦労を共にすべく、冬でも布団は使わず、板の間で寝起きしていた。
- 半平太が切腹する際の死装束は妻・富子の縫い上げたものであった。
- 投獄された半平太に毎日欠かさず3食の食事を届けていた。
このような逸話が残され、半平太と妻・富子は大変仲が良かったという事が分かります。
半平太が切腹し亡くなった後の葬儀では、3キロにも及ぶ会葬者の列ができたとされ、半平太が多くの人から慕われていたことが分かります。
まとめ 武市半平太の生涯が分かるドラマや映画
武市半平太の生い立ちや経歴、性格やエピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 半平太は剣術に優れ、自身の道場には多くの弟子が集まった
- 尊王攘夷派となり、土佐勤王党を結成
- 吉田東洋の暗殺以来、京都での暗殺事件に関わったとされる
- 幕府に対して攘夷実行を命じる
- 土佐国の前藩主・山内容堂によって土佐勤王党は弾圧されるも半平太は京都や大阪での暗殺事件に関わっていないと主張する
- 「主君に対する不敬行為」罪目として切腹を命じられ37歳で亡くなる
武市半平太は土佐勤王党を率いて攘夷運動に奮闘した人物でした。
しかし、過激化していく活動の中で吉田東洋の暗殺事件を起こし、土佐国前藩主・山内容堂によって土佐勤王党は弾圧されることとなります。
結局、開国に向かった日本でしたので、半平太は攘夷を成し遂げることができず亡くなりました。
その最期は、誰も成し遂げたことのない三文字割腹の法を用いて切腹し、亡くなったとされています。
そんな武市半平太が登場する有名な大河ドラマは「龍馬伝」です。
この作品では
- 武市半平太を俳優の大森南朋さん
- 坂本龍馬を歌手の福山雅治さん
- 西郷隆盛を俳優の高橋克実さん
- 岡田以蔵を俳優の佐藤健さん
が演じられました。
大森南朋さん演じる武市半平太は身長が高く、美形であったとされているので、ピッタリの役ではないでしょうか。
他にも、1997年に放送されたTBS大型時代劇スペシャル「竜馬がゆく」では椎名桔平さんが武市半平太を演じられ、また2004年に放送された同作品の武市半平太は沢村一樹さんが演じられました。
どの作品でも、武市半平太はかっこいい俳優さんが演じているようです。
これを機に、武市半平太に興味を持った方は
- 大河ドラマ「龍馬伝」また
- ドラマ「竜馬がゆく」
を見てみてください。
以上「武市半平太の性格と経歴、生い立ちやエピソードの伝説」のご紹介でした。
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