明智秀満(左馬助)とは? 謎めいた彼の一生と神話めいたエピソードにワクワク。

2001年、彼を主人公にしたゲームがCAPCOMより発売されました。その名も鬼武者。

「戦国の世に突如現れた怪物・幻魔に滅ぼされた鬼の一族より鬼の篭手を与えられ鬼武者となった明智左馬介の戦いを描いた作品。 途中鬼の力の宿った「龍玉」と呼ばれるアイテムを入手し、新たな武器を得ることができる。」

ゲームになったり教科書に乗ったり、はたまたパチンコの題材になったりと最近戦国武将も色々と忙しいですが、あえて明智秀満を主人公に据えるそのセンスには脱帽します。

なにせ、彼の一生はほとんどが謎に包まれており、正確なことは誰もわからないのです。逆に言えばどのように味付けも可能であり、脚本家の方はよだれを垂らしてしまうかもしれませんね。

「明智秀満(左馬助)」は、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では間宮祥太朗さんが演じています。間宮さんはほかにもBG~身辺警護人~にも出演されています。木村拓哉さん、斎藤工さん、仲村トオルさんと並み居るイケメンの中でも存在感ある方でこれからが楽しみな俳優さんの一人です。

では謎めいた明智秀満の生き様をたどってみることにしましょう。

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明智秀満の生い立ちは?

明智左馬助(明智秀満)の前半生については『明智軍記』に記載があります。
が、史料自体が矛盾を多く含み、あくまで俗説だと踏まえた上で振り返ってみましょう。

軍記によると、秀満は前半生を美濃にある明智城で過ごしました。
そこは長山城とも呼ばれて現在の岐阜県可児市にあり、秀満の父とされていた明智光安が城主。

光安は、明智光秀の叔父にあたります。 光秀の父とされる明智光綱が光安の兄。
つまり秀満と光秀の間柄は従兄弟になりますね。

しかし、彼らの美濃での生活は、突如として終わりを告げました。

弘治2年(1556年)、斎藤道三と斎藤義龍による争いが勃発。

長良川の戦いで道三が敗死すると、その味方をしたということで明智家も義龍に攻められるのです。 結果、明智城は落城。
光安は自害し、秀満は光秀らと共に城を出て浪人となりました。

その後光秀が信長に仕えるまでの間、一時史実から秀満は姿を消します。

明智秀満の能力

明智左馬助(明智秀満)が次に史料に登場するのは天正6年(1578年)頃のこと。

明智光秀の娘を娶った(めとった)ということが確認できます。 明智姓を名乗るようになっていた天正8年(1580年)頃。

左馬助が主君・光秀から絶対的信頼を勝ち得ていたことが、光秀の書状の出し方などからも確認できます。左馬助名義の副状(主となる手紙の補助的文書)が見つかっているのです。これは明智家代表補佐として自他共に認められていたことを示しています。
推定年齢は、天正10年(1582年)の頃でおおよそ30歳前後とされますので、光秀よりも20〜30歳程度は年下となりましょう。今でいうやり手、と言えそうです。

天正9年(1581年)には丹波国(現在の京都府付近)福知山城城代にも任命されておりました。
福知山地方は京都と山陰エリアをつなぐ交通の要衝です。  明智家の本拠地だった坂本城が京都と近江をつなぐ要衝だったことを考慮すると、その次に大事なところを任されていたことになります。

左馬助は文化人としての素養も持ち合わせていました。 光秀が主催した茶会でも饗応役(おもてなし)に指名されていたことがあります。  織田家にとって「茶」は政治的にも特別な存在。

主君・光秀のさらに主君である織田信長が茶器茶会を重要視していたのは有名な話で、戦場だけでなく、茶を通じた政治外交手腕も期待できる左馬助(秀満)は、光秀にとって極めて重要な存在だったに違いありません。

明智家においてだけでなく、織田家全体の中でも有力なポジションを築いたことでしょう。

しかし。

その生活も唐突に終わりがやってきます・・・。

上記の絵は絵本太閤記からの引用で、明智光秀がもてなし料理として家康に出した料理が腐っていたとして、激しく叱責される場面とされているシーンです。

それまでも信長の気まぐれに付き合ってきた光秀がこの事件を気に本能寺の変を決心した、とも言われる出来事でした。

明智秀満と本能寺の変

天正10年(1582年)6月1日――。

『政春古兵談』という史料によれば、光秀から「信長への謀反」を最初に打ち明けられたのは、他ならぬ明智左馬助とされています。

左馬助は当初、光秀の叛意に反対でした。 が、光秀が他の家臣複数にも同様の相談をしたことを知ると腹を括ります。

「複数人にその意思を明かしてしまった以上、信長公に知られるのも時間の問題、もう事を起こすほかない」として、結果的に光秀を後押ししたとも伝わっています。

いざ決断したら迷わない芯の強さも感じます。あまりにかっこよすぎて、本当の話は大変疑わしいところではありますが、ドラマでは盛り上がる場面となること間違いなし。

『麒麟が来る』ではどのように描かれるのでしょうか。

そして天正10年(1582年)6月2日未明。
戦国の世に激震を走らせた事件がついに始まりました。 本能寺の変です。

左馬助は光秀の命によって本能寺攻略の先鋒を務め、作戦そのものの成功に大きく貢献します。
さらには二条にいた織田信忠も自刃に追い込み、明智家にとってまずは理想的な展開を迎えます。

しかし、問題はその後でした。 程なくして明智家には暗雲が立ち込めます。

事態は、光秀らには都合が悪く、かつ当初の想定にはなかったであろう展開へと流れていきました。

  • 信長の遺体を発見できず
  • 細川親子や筒井順慶らが協力を拒絶
  • 秀吉が中国大返しを強行

さて、少し話はそれますが光秀の計算を狂わせた、日本屈指の強行軍といわれる「中国大返し」。しかし10日で200km、単純計算で1日あたり20kmという数字だけを見ると、それほど大それたこととは思えません。

たとえば南北朝時代の武将である北畠顕家は、奥州から遠江まで約600kmを16日間で進んだといわれていて、1日あたりの距離はおよそ38kmと秀吉軍のほぼ倍です。

ではなぜ「中国大返し」が日本屈指の強行軍といわれているのでしょうか。その行程を時系列でみていきましょう。

「本能寺の変」が起きたのは6月2日。秀吉がこのことを知ったのは、諸説あるものの6月3日の夜から4日の未明にかけてだとするのが定説です。

備前・備中への道を遮断し、緘口令を敷くなど信長の死が毛利軍に伝わらないようにしたうえで、安国寺恵瓊を呼び出し、条件を譲歩して早急に和議を結びます。6月4日の10時頃には、和議の条件であった清水宗治の切腹がおこなわれました。

一方の毛利軍が「本能寺の変」を知ったのは、6月5日のこと。首脳陣のひとり吉川元春は秀吉軍の追撃を提案しましたが、小早川隆景は和議を結んだのだから遵守するべきだと主張。当主の毛利輝元は小早川に同意し、毛利軍は秀吉に敵対しない道を選ぶのです。

秀吉は、4日と5日は毛利軍の様子を探り、毛利軍が撤兵したのを待って6月6日の午後には撤退を開始します。

備中高松城から羽柴秀吉の居城である姫路城までの行程は明らかになっていません。
道中には宇喜多家の居城である沼城があり、休憩のために立ち寄ったとする説と、裏切りを警戒して別の道を選んだという説があります。

姫路城に到着したのは、6月7日の夕方から8日とされています。備中高松城から姫路城までの距離はおよそ90kmで、これを1日半から2日で駆け抜けた計算です。道中には、山陽道第一の難所とされる船坂峠があり、暴風雨にも見舞われ、河川が相次いで氾濫するなか進んだとの記録が残されています。

「中国大返し」が日本屈指の強行軍とされるのは、その全行程ではなく、備中高松城から姫路城までの移動を指したものだといえるでしょう。

その後秀吉は、休養を挟んで6月9日に姫路を出発。以降は、情報収集や味方との合流などをしながら、その日のうちに明石、10日に兵庫、11日に尼崎と進み、12日に富田に到着しました。

そして「本能寺の変」から11日後の6月13日、明智光秀との決戦に挑んだのです。

おそらく、その政治的解決力とスピードは光秀の予想を大きく上回るものであったのでしょう。

光秀は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢とぶつかり、6月13日に【山崎の戦い】へと発展。

勢いや兵数の勝る秀吉相手に大敗を喫し、翌14日に光秀は絶命します。小栗栖(京都市)の藪で落ち武者狩りに遭い、殺されたというのが定説です。

明智左馬助が合戦に参加しなかったのは、戦力にならないから?ではなく、最重要拠点の一つである安土城の守備を命じられていたからなのです。

安土城は地理的に、交通の要衝です。

京都から東へ向かって

  • 京都
  • 坂本城
  • 琵琶湖
  • 安土城
  • 岐阜城

と並んでおり、東海北陸地方への交通を押さえるポイントでした。そこを任されたという点からも左馬助(秀満)の存在感が窺い知れます。 しかし、光秀が秀吉に負けた以上、その意味もにわかに消失。敗戦の一報を聞いた左馬助は、安土城を脱出して、坂本城を目指します。

途中、琵琶湖近郊の打出浜で、秀吉方の武将だった堀秀政と戦い、敗れ、逃げ延びる形で明智本拠の坂本城へと向かうのです。

信長に寵愛されていた光秀の重臣という立場から、一転して「重要指名手配犯」に成り下がってしまった左馬助。

安土城から坂本城へ急行する場面で、彼を有名たらしめたエピソードが残されています。

明智左馬助(秀満)の湖水渡り

どうしてもこの部分は秀満でなく左馬助というほうがリズムが良いので、そう書くことにさせて下さい。

打出浜で堀軍に敗れ、絶体絶命の危機を迎えた左馬助。

単騎で戦場を離脱し、坂本城への帰還を果たそうと考えました。しかし、陸地は四方を敵に囲まれ、突破が難しい状況であることは明白です。

そこで左馬助(秀満)は、打出浜に近接していた琵琶湖に馬を引き入れ、湖を馬に泳がせる形で戦場を離脱したという伝説があるのです。

【明智左馬助の湖水渡り】

と呼称され、現代でも人気小説のモチーフにされるほどの知名度を獲得しております。
そうは言っても「馬で琵琶湖を渡る」のは非現実的な見方。

打出浜から坂本城のある対岸までは距離にして数キロ以上あり、馬上で湖を渡るなんて芸当できるワケがありません。
この伝説は秀吉の功績をまとめた『川角太閤記』に収録されていますが、近年の研究においては「坂本城まで逃げ延びたのは事実だが、逃走手段は馬ではなく舟であろう」と指摘されており、それがごく自然な見立てかと思います。

ただ、この話で「左馬助(秀満)が跨ったまま馬に長距離を泳がせた」は甚だ疑問ではありますが、単純に「馬が泳ぐだけ」なら問題ありません。 実は馬は泳ぎが上手であり、現代競馬においても、故障明けの競争馬やリラックスを目的としての『プール調教』が存在するほどなのです。

もしかしたら主の左馬助が舟に乗った後、単独で琵琶湖を泳ぐ愛馬の姿を堀軍の兵士らに見間違えられたのかもしれません。

後世の脚本家?史実家?が話を付け足したのか、事実は闇の中ではありますが、物書きや喋り手にとって、このような神秘的な話は大いに盛り上がるところで、事実を突き詰めるといった意味ではだめなのかもしれませんが、人間臭くて遠く明智秀満本人もしかり、話をする演じ手とそれを聞いて野次を飛ばす観客・・・。

こういった想像力が膨らむのも歴史を調べる楽しさの一つではないでしょうか。

明智秀満の最後

坂本城へとたどり着いた秀満は、敗色が色濃いことを悟り、事後処理に奔走しました。

まず、敵に処刑されることが確実であった光秀の妻子を自らの手で絶命させ、追撃してきた堀秀政に対し、坂本城内に存在した文化財を譲り渡しました。

そこで文化財と目録を確認した秀政が、左馬助の愛用していた脇差が存在しないことに気づきます。

すると・・・。  疑問を呈する堀秀政に対して、明智秀満はこう伝えました。

「この脇差は光秀がかつて仕えていた朝倉家に伝わるものであり、彼が命に代えてでもと秘蔵していたものだ。そのため私が死後光秀に渡したいと思う」 そして城に火を放って自害するのです。

と、その前にもう一つ、入江長兵衛という若武者との間にも次のような逸話が残されています。

長兵衛は、一番槍の功名を挙げようと坂本城に乗り込み左馬助の前に現れました。

もともと長兵衛とは親交があったとされる左馬助(秀満)。功を急ぐ彼にこう語りかけます。
左馬助は長兵衛に語りかけました。

「私も武将として、時には我身を犠牲にしてでも武名を挙げようと腐心してきた」

「はい・・・」

「ところが、見ての通り今はこのような立場だ。たとえここで功名を挙げたとしても、結局は私のようになってしまうかもしれない。  貴殿も武士を辞め、生き死にの日常とは離れた一生を送ってみてはどうか」

そして餞別として黄金を与えると、長兵衛は後世、その資金をもとに商人として大成したというものです。

まさにワクワクのお話ですね。きっと事実は違うのかもしれませんが。ただ、志半ばで斃れた左馬助の人柄や想いが伝わってくるのではないでしょうか。

かくして全ての事後処理を終えた左馬助(秀満)は、坂本城に火を放ち自害しました。

享年は史料によって幅が大きく断定はできませんが、おおよそ20代後半~40代前半と推定されています。

ひるがえって自分のことと置き換えてみても、自分の職場であり、主君や仲間の思い出の場である城に火を放つ・・・主君の家族を殺害する・・・とてもつらい選択だっただろうと思います。

上の写真は首里城が残念ながら炎を上げて燃えるものですが、大してその歴史的価値のわからない自分でさえショックでした。ましてや・・・。

明智左馬助は、史実上わずか5年ほどの足取りしかわかっていません。生涯の多くが今なお謎に包まれています。

しかし、ミステリアスな存在感と悲劇的な末路がかえって注目され、これからも光秀の右腕として語り継がれていくのではないでしょうか。

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