あなたは島津義久という人物をご存知でしょうか?
島津といえば島津義弘を思い浮かべる人が多いと思います。
島津義久は島津義弘の兄で「島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)」の長男です。
多くの武功で有名となっていた島津義弘の影に隠れながらも、当主として島津家を守ってきた島津義久。
今回は島津義久について
- 島津義久の代表的な戦とは
- 【逸話】島津義久の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】島津義久の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば島津義弘の戦や強さがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
島津義久の代表的な戦とは
島津義久の代表的な戦い:三州統一
三州統一とは薩摩国・大隅国・日向国の3つの国を統一することを指します。
島津義久が当主となった永禄9年(1566年)は、島津氏はまだ薩摩国も統一していませんでした。
島津義久は当主となると天正2年(1574年)までに薩摩国と大隅国を統一します。
しかし、日向国を統一するのは困難を極めます。
日向国の伊東氏とは薩摩国を統一する前から真幸院(まさきいん、現在の宮崎県えびの市・小林市・高原市の総称)を巡って争っていました。
元亀3年(1572年)5月に伊東祐安(当主・伊東義祐の従弟)が島津領の飯野城へ攻めてきます。
飯野城には島津義久の弟・島津義弘がおり伊東軍を迎え撃ちます(木崎原の戦い)。
この戦いに島津義久は参戦しませんでしたが、島津義久が考案した「釣り野伏せ」という戦法が炸裂します(釣り野伏せの説明は後ほど)。
伊東軍3000に対して島津軍は300程度しかいませんでしたが、釣り野伏せによって大勝利を収めます。
そして、島津義久は天正4年(1576年)に伊東氏の高原城を攻略し、当主・伊東義祐は豊後国へ逃亡、伊東氏が衰退したため、島津義久は日向国を統一します。
これによって島津義久は最初の目標であった三州統一を果たしました。
【逸話】島津義久の勝ち戦と負け戦は?
島津義久の勝ち戦:耳川の戦い
この戦いは天正6年(1578年)11月に島津軍と大友軍の間で起こった戦いです。
島津義久は
- 天正2年(1574年)に大隅国の禰寝(ねじめ)氏・肝付氏・伊地知(いちじ)氏らを帰順させて大隅国を統一
- 天正5年(1577年)に日向国の伊東氏を倒して日向国を統一
し三州(薩摩国・大隅国・日向国)を統一します。
しかし、伊東氏の当主であった伊東義祐(よしすけ)が豊後国(大分県)の大友氏のもとへ亡命すると、大友氏が伊東氏再興のために天正6年(1578年)10月に日向国へ侵攻してきます。
耳川の戦いまでの経緯としては
- 同年4月 大友軍の攻撃よって松尾城が陥落(耳川以北の日向を奪われる)
- 同年7月 伊東家残党討伐のため石ノ城を攻撃するが敗北(佐土原へ後退)
- 同年9月 伊東家残党が籠もる上野城と隈城を落とす
また、足利義昭からの御内書(大友領への侵攻)を受け島津軍は北上し
石ノ城を降伏させる
- 同年10月 南下してきた大友軍が高城を攻撃してくるが守り抜く
そして、島津義久は10月24日に出陣し佐土原城を経て根城坂に着陣します。
両軍は耳川(現在は小丸川と呼ばれている)あたりで激突します。
両軍の兵力は
- 島津軍が3万人
- 大友軍(総大将:田原親賢)が4万人
と合わせて7万人が戦った大規模な戦となります。
この戦いで島津軍は島津義久をはじめ、島津義久の弟達(義弘・歳久・家久)が参戦し、ほぼ精鋭で大友軍を迎え撃ちます。
一方、大友軍は当主の大友義統(隠居した父の宗麟とともに政治をする)が参戦してないこともありまとまっていませんでした。
まとまりがなかった大友軍は、各部隊が好きなように島津軍に突撃していきました。
この大友軍の攻撃に対して、島津軍はお家芸でもある「釣り野伏せ(つりのぶせ)」という戦法を使います。
釣り野伏せとは
- 軍や部隊を3つに分け中央と左右に兵を配置
- 中央部隊が敵を攻撃し、少し戦った後に後退(囮)
- 敵が追撃してきたところを左右にいた伏兵(地形によっては側面部隊)が挟撃
- 中央部隊が反転し攻撃に加わる
という戦法です。
この戦法を使う上で一番大切なところは中央の囮部隊です。
戦争の歴史を見ていくと、戦で敵を追撃するのはとても危険なことだということがわかります。
理由は、伏兵が潜んでいることや追撃した部隊が前方で孤立してしまう可能性があるからでした。
囮部隊はいかに敵にばれないかが重要となります。
この戦法によって島津軍は大友方の将兵を多く討ち取り大勝しました。
耳川の戦いの結果、大友氏は勢力を縮小し、島津氏は勢力を拡大していくことになります。
島津義久の負け戦:根白坂の戦い
この戦いは天正15年(1587年)4月に島津軍と豊臣軍(九州平定軍)の間で起こった戦いです。
根白坂の戦いが起こる前の天正14年(1586年)に、島津氏は九州統一のために大友氏の豊後国へ侵攻します。
同年12月には戸次川の戦いで弟の島津家久が大友軍を破ると、大友義統が豊前国(福岡県東部)に逃亡したため、島津氏は豊後国のほとんどを占領下に置きます。
しかし、天正15年(1578年)3月に豊臣秀吉の九州平定軍が北九州に上陸すると、島津軍は劣勢となります。
九州平定軍が肥前の龍造寺氏や豊前・豊後の豪族も加わり総勢15万の大軍勢となったため、兵力の差から島津軍は戦線を後退します。
根白坂の戦いまでの経緯は
- 3月15日に豊後国府内城(大分県大分市)の島津軍が撤退
- 3月29日に日向国北部の要である松尾城が陥落
- 4月に入ると平定軍は九州西部の筑後国から南下する
- 島津軍は西の守りを諦め軍勢のほとんどを日向国都於郡(とのこおり)城に集結させる
そして、4月17日に両軍は日向国根白坂(宮崎県児湯郡木崎町)で激突します。
両軍の兵力は
- 島津軍が約3万5千人
- 平定軍(豊臣秀長勢)が約8万人
と圧倒的に島津軍は不利な状況でした。
島津軍は高城(根白坂北部にある城)を包囲する豊臣秀長(秀吉の弟)勢を夜襲します。
しかし、豊臣秀長が根白坂に砦を築いて防御を固めていたことから島津軍は苦戦します。
また、砦を守っていた宮部継潤の奮戦や砦への救援部隊(宇喜多勢や黒田勢)が挟撃してきたため、島津軍は壊滅し敗走します。
根白坂の戦いに負けた島津軍は日向国飯野城(宮崎県えびの市飯野)まで後退します。
さらに、根白坂の戦いから10日も経たない内に九州西部を南下していた平定軍が薩摩に侵攻してきたこともあり、島津義久は同年5月8日に降伏します。
島津家の降伏によって豊臣秀吉は九州平定をします。
島津家は薩摩・大隅・日向(一部)を安堵されました。
【最強伝説】島津義久の強さはどれくらい?
島津義久の強さといえば兄弟達との絆でしょう。
島津四兄弟とは
- 長男 島津義久
- 次男 島津義弘
- 三男 島津歳久
- 四男 島津家久
のことを指します。
戦国時代は他家との争いだけでなく、兄弟での家督争いが多くあった時代でもありました。
そんな時代に生まれた島津四兄弟ですが仲が良かったと言われています。
これには島津四兄弟の祖父で「島津家中興の祖」と呼ばれた島津忠良の教えが大きく影響しています。
島津忠良は『いろは歌』という人間としての生き方などを論じた教育法を創作します。
また、島津四兄弟を次のように評しています。
- 長男・島津義久・・「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将となる材徳が備わっている」
- 次男・島津義弘・・「雄略英略に関しては他よりも傑出している」
- 三男・島津歳久・・「始終の利害を察する知略では並ぶ者がいない」
- 四男・島津家久・・「軍法戦術に関しては一番すぐれている」
中でも、次男の島津義弘は多くの武功を残したため、家臣達の評価は1つ前に出ていました。
島津義久は戦場にはあまり出陣していないことから、武功はあまりなく弟達より影が薄かったですが、島津義久はこの弟達をまとめ上げていきます。
特に、腹違い(妾の子)であった四男の島津家久を気にかけていました。
ある日、島津義久は弟達と狩りに行った時の話です。
三男の島津歳久が腹違いの島津家久に対して遠回しに悪口を言いましたが、島津義久は島津歳久の言いたいことを察した上で次のように言います。
「母は違くても、自分が努力すれば優れた人間になれる」
これを聞いた島津家久は、以後学問と武芸に励み兄達にも劣らない功績を残します。
また、次男の島津義弘とは意見が対立した時期がありました。
その時期というのが豊臣秀吉による九州平定以降です。
豊臣秀吉は敵でありながら島津義弘ことを気に入り、島津義久を差し置いて島津家の当主と認めてしまいます。
これは島津家内で内紛を起こさせる豊臣秀吉の策であると言われていますが、島津義弘が晩年に記した『惟新公御自記(いしんこうおんいき)』には「予(私)、かたじけなくも義久公の舎弟(弟)となりて」と記しており、島津義弘は兄を尊敬していました。
この島津義久の器の大きさは弟達に伝わり、そして島津四兄弟の大きな絆となります。
これこそが島津義久の強さでしょう。
まとめ 島津義久のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで島津義久について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 島津義久は島津氏の当主となってから10年で三州を統一した
- 島津義久は島津氏の得意な戦法「釣り野伏せ」を考案した
- 島津義久はたった1代で九州の大部分を支配下に置いた
- 島津義久は弟達と助け合って島津家を守った
オススメ作品
島津義久を主役とした大河ドラマはありませんが、ぜひ島津四兄弟に関する大河ドラマを見てみたいですね。
本では桐野作人さんが書いた『島津義久 九州全土を席巻した智将』がオススメです。
ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上「島津義久の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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