桂小五郎の性格と経歴は?生い立ちやエピソードの伝説が面白い

あなたは、桂小五郎という人物をご存知でしょうか。

 

現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」にも登場しています。

桂小五郎は、別名を木戸孝允といいます。

こちらの名前なら聞いたことがあるという方が多いかもしれません。

薩長同盟を推進し、明治維新に貢献した人物なのです。

 

では桂小五郎という人物は一体どのような人物であったのでしょうか。

そこで今回は桂小五郎の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

をご紹介いたします。

これを読めば桂小五郎の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。

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桂小五郎の生い立ちは?

桂小五郎は天保4年(1833年)6月26日、現在の山口県である長門国萩城下呉服町の藩医・和田昌景の長男として誕生しました。

長男であった小五郎でしたが、病弱体質であり、長生きできないと考えられ小五郎の姉に婿養子が入れられ、7歳の小五郎は天保11年(1840年)桂家の末期養子となりました。

この桂家に養子に入ったことで、長州藩の武士の身分が与えられます。

 

病弱な少年であっら小五郎でしたが、いたずらっ子であり、また

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を披露したことによって藩主・毛利敬親から褒美が与えられました。

弘化3年(1846年)には内藤作兵衛の柳生新陰流の道場に入門し剣術を学びます

 

嘉永元年(1848年)に自身の次姉と実母を失い、悲しみに暮れ出家すると周囲に漏らしていましたが、嘉永2年(1849年)16歳になると吉田松陰から山鹿流兵学を学び始めました。

桂小五郎の経歴と有名な伝説の逸話は?

嘉永5年(1852年)剣術を学んでいた小五郎は剣術修行のため江戸へと旅立ちます。

この際、江戸の三大道場の1つとされる練兵館に入門し斎藤新太郎から剣術を学び、免許皆伝を受け取ると、入門1年で塾頭となりました。

塾頭となった小五郎は、幕府講武所の総裁・男谷信友の弟子を破るなどし、小五郎は有名な剣豪となっていきます。

 

この間、嘉永6年(1854年)にペリーが2度目となる来航を行います。

これに刺激を受けた小五郎は、現地見学を江川英龍に申し入れ、来航したペリーを目にしました。

このように異国の人物や黒船を目にした小五郎は、最先端の異国の技術や学問を取り入れなければならないと感じ、塾頭をしながら

  • 幕府代官・江川英龍から西洋兵学、小銃術、砲台築造術を学ぶ
  • 浦賀奉行支配組の与力である中島三郎助から造船技術を学ぶ
  • スクネール式洋式帆船造船術を幕府海防掛本多越中守の家来・高崎伝蔵から学ぶ
  • 長州藩士の手塚律蔵から英語を学ぶ

など、最先端の学問や技術を学びました

 

文久2年(1862年)になると小五郎は

  • 周布政之助
  • 久坂玄瑞

らと共に、長州藩大目付・長井雅楽が唱えた開国論である航海遠略策を退け、倒幕へと進み始めます。

 

小五郎は、吉田松陰の、欧米の最先端の文化や技術を学んだ上で異国と対抗するといった攘夷思想の持ち主でした。

そのため

  • 欧米の最先端の文化や技術を吸収する
  • 欧米への留学

などを行い、そのうえで攘夷の実行という基本方針が立てられます

 

文久3年(1863年)5月8日になると、異国の文化、技術を学ぶため長州藩の留学生である

  • 井上馨
  • 伊藤博文
  • 山尾庸三
  • 井上勝
  • 遠藤謹助

が横浜港からイギリスへと旅立ちます。

 

この頃、小五郎は幕府から京都に来るようにと命令を受けました。

京都に行った小五郎でしたが、

公式合体派と呼ばれる

  • 穏健攘夷派の孝明天皇
  • 中川宮朝彦親王
  • 会津藩
  • 開国派の薩摩藩

によって京都から、尊王攘夷過激派である

  • 三条実美
  • 一部の公家
  • 長州藩

を追放するというクーデターが起こりました。

 

長州藩は京都からの追放処分を受ける

このクーデターは八月十八日の政変と呼ばれ、このクーデターによって長州藩である小五郎らは京都から追放処分となりました。

追放処分を受けた小五郎でしたが、偽名を使い京都に残り情報収集を行います

 

この際、京都から追放されたはずの尊王攘夷・勤王の浪士たちが京都三条木屋町にある池田屋で会合が行われ、小五郎も参加すべく池田屋へと向かいます。

しかし、予定時刻よりも早く到着してしまったため、対馬藩邸を訪れ大島友之允と対談をしていました。

この間、池田屋には京都の警護などを任されていた新選組が押し入り、尊王攘夷派の浪士たちは襲撃を受けます。(池田屋事件

小五郎は間一髪で新選組の襲撃から逃れることができたのです。

 

その後、追放処分を受けていた長州藩でしたが、長州から300名の兵が上洛し、京都での劣勢を挽回を試みます。

しかし、蛤御門の変で江戸幕府に味方していた会津藩と武力衝突となると、長州藩は大敗となってしまい、長州藩の劣勢を回復は思うようにはいきませんでした。

 

武力衝突を望まない小五郎は、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら京都での潜伏生活を行っていましたが、会津藩が京都で長州藩士の残党狩りを始めたため、京都での潜伏生活を諦め、但馬国の出石で再び潜伏生活を始めました。

会津藩によって長州征伐が行われる

その後、会津藩が長州藩に対し討伐を行います。

会津藩は長州藩の討伐のための討伐軍を編成しました。

 

このような危機に直面した長州藩でしたが

  • これまで藩をまとめてきた長州正義派
  • 正義派の藩制指導に反発する俗論派

内部紛争を起こします。

小五郎や高杉晋作らは長州正義派に属しており、高杉晋作が俗論派に対し軍事クーデターである功山寺挙兵を行ったため、長州藩の政権は、正義派が握ることとなりました。

 

その後、小五郎が但馬国の出石で潜伏生活を行っていると知った高杉晋作、大村益次郎は小五郎を長州藩の統率者として迎え入れ、小五郎は長州藩で外交、政務全般を担当しました。

その後、長州藩は土佐藩の

  • 土方楠左右衛門
  • 中岡慎太郎
  • 坂本龍馬

らによる仲立ちで、慶応2年(1866年)1月22日、薩摩藩と薩長同盟を結びます。

薩長同盟を結ぶと、長州藩は薩摩藩の名義で長州討伐に備え、イギリスから武器や軍艦を購入しました。

 

その後、2度目となる長州征伐が幕府軍である会津藩、新選組によって行われましたが、短期間で幕府軍を突破し、長州藩の勝利に終わりました。

またこの間、将軍であった徳川家茂が急死し、幕府側は引き下がる形となります

その後、徳川慶喜が第15代将軍となると、政権を天皇に返す大政奉還を決意し、天皇中心の新しい政府である明治維新政府が誕生しました。

 

明治時代になり多くの政策を行う

孝明天皇の後を継いだ明治天皇はこの頃まだ10代であったため、明治維新に活躍した人物らが中心となり政治を行うようになります。

小五郎は岩倉具視から、政治的実力を見出され、総裁局顧問専任となり太政官制度の改革後は

  • 外国事務掛
  • 参与
  • 参議
  • 文部卿

などを行い

 

  • 五箇条の御誓文
  • マスコミの発達推進
  • 封建的風習の廃止
  • 版籍奉還
  • 廃藩置県
  • 人材優先主義
  • 四民平等
  • 憲法制定と三権分立の確立
  • 二院制の確立
  • 教育の充実
  • 法治主義の確立

など多くの政策を行います。

 

しかし、原因不明の脳発作のような持病を患い、明治政府での政務執行が厳しくなります

 

明治10年(1877年)2月になると、明治政府と西郷隆盛率いる士族が西南戦争を起こしました。

小五郎は、以前から旧薩摩藩を非難していたため、西郷軍征討にあたるため有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に命じ、自身は明治天皇とともに京都へと向かいます。

しかし、この際、持病が悪化し、同年5月26日には朦朧状態となり45歳で亡くなりました。

 

死の直前、小五郎は、大久保利通の手を握りながら「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷隆盛を案じた言葉をつぶやいたとされています。

 

桂小五郎の名前について

桂小五郎は、木戸孝允という別名を持っています。

木戸孝允で、覚えたという方も多いかもしれません。

小五郎は生涯において多くの改名を行いました。

ここでは小五郎の名前についてまとめていきます。

 

小五郎は和田昌景の長男として誕生しました。

よってこの時は「和田」の姓を名乗っていましたが、8歳になると桂の養子となり「桂」の姓を名乗るようになります。

この頃から名乗っていた「小五郎」という名前は通称で、この名前は生家和田家の祖先の名前から付けられました。

 

幕末期に入ると、小五郎は幕府から命を狙われていたため、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種類以上の名前を用いました。

第2次長州征討前に小五郎は藩主・毛利敬親から「木戸」の姓を与えられます

藩主・毛利敬親が「木戸」の姓を与えたのは、小五郎が長州藩の統率者として迎えた際、幕府から指名手配されている小五郎を長州藩の責任者であると公言できなかったため、「桂小五郎」という人物を行方不明扱いにさせるため「木戸」という姓を与えたとされています。

 

その後

  • 33歳の時は「木戸寛治」
  • 36歳からは「木戸準一郎」

と名乗るようになります。

 

桂家当主を引き継いでいた小五郎は「孝允」という諱を持っていましたが、明治時代に入ると諱と通称を用いることが廃止され、戸籍に氏と名前を登録しなければなりませんでした。

この際、小次郎は藩主・毛利敬親から与えられた「木戸」の姓と諱である「孝允」を登録し、「木戸孝允」と名乗るようになりました。

 

昔の人は、名前は1つだけではなく、諱と通称があったので、混乱しそうになりますが、桂小五郎と木戸孝允は同一人物ということです。

 

【エピソード】桂小五郎の性格や人柄はどんな人?

桂小五郎は、身長174㎝あったとされています。

そんな小五郎の顔は写真で残されているのですが、現在でも通じるほどのイケメンです。

 

高身長で、イケメンな小五郎は、人に住所を尋ねると、必ずその住所をメモしていたとされ、まめな性格であったことが分かります。

また、部下や後輩の家に気軽に訪問する一面を持っていたため、部下や後輩たちは、小五郎が急に家に来るため困惑していたと記録されています。

部下や後輩に対して非常に親切で、後輩や部下たちを自身の家に招いては様々な料理を提供したと有地品之允は残しています。

後輩思いの人物だったのですね。

 

まとめ 桂小五郎の生涯が分かるドラマや映画

桂小五郎の生い立ちや経歴、性格やエピソードをご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 欧米の最先端の学問や技術を取り入れつつ尊王攘夷派の中心人物となる
  • 幕末には命を狙われるも、京都で過ごす
  • 明治時代になると総裁局顧問専任になる
  • 木戸孝允に改名
  • 西南戦争の半ば、持病によって45歳で亡くなる
  • 後輩思いの優しい人物であった

桂小五郎は薩長同盟を推進し、明治維新に大きく貢献した人物でした。

 

高身長でイケメン、かつ後輩思いの桂小五郎は、とても魅力のある人物ですね。

そんな桂小五郎が登場する有名な大河ドラマは現在放送中の「西郷どん」です。

 

この作品では

  • 桂小五郎を俳優の玉山鉄二さん
  • 西郷隆盛を俳優の鈴木亮平さん
  • 大久保利通を俳優の瑛太さん

が演じられています。

他にも

  • 大河ドラマ「花燃ゆ」では俳優の東山紀之さん
  • 大河ドラマ「八重の桜」では俳優の及川光博さん
  • 大河ドラマ「龍馬伝」では俳優の谷原章介さん

が演じられました。

 

どの大河ドラマでも、桂小五郎を演じるのは、かっこいい俳優さんばかりですね。

これを機に、桂小五郎に興味を持った方は大河ドラマ「西郷どん」「花燃ゆ」「八重の桜」「龍馬伝」などを見てみてください。

以上「桂小五郎の性格と経歴、生い立ちやエピソードの伝説」のご紹介でした。

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