ずっと前から様々な紙幣の顔となってきた聖徳太子。今の福沢諭吉の前にはなんと一万円札の顔だったですね。お札の顔に選ばれる人物はそれなりに有名な人ばかりです。中でも一万円札なんだから聖徳太子はかなりすごい人だったのでしょうね、
今回は
- 聖徳太子の生い立ち
- その経歴や最後について
- 人柄や性格のわかるエピソード
これらを見ていきたいと思います。
これを読めば、聖徳太子についてのドラマや小説がより楽しく見れます。
聖徳太子の生い立ちとは?
574年用明天皇の第2皇子として誕生しました。
母親は欽明天皇の皇女 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)という女性でした。
この時代の人名前が難しくて長いですね。
穴穂部間人皇女が厩戸の前を通りかかった時に産気づき、生まれたので厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられたといいます。
また別の説では、母が実母の叔父 蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷にちなんで命名されたともいいます。
聖徳太子という名前は皇子の死後つけられたもので存命中は聖徳太子とは呼ばれていませんでした。
当時としては珍しくなかったのでしょうが、聖徳太子の両親は母親違いの兄妹でした。父も母も欽明天皇の子供だったのです。
今なら考えられないですね。
575年2歳になった皇子は夜明け前に起き東に向かって「南無仏」と念仏を唱えたそうです。この行いは7歳まで続いたといいます。
579年に百済から経論がもたらされた際、皇子は瞬く間に経論を読み終えてしまいました。おそるべき6歳児です。
皇子の驚く行動はそれだけではありませんでした。
11歳になった頃、30人余りの子供達と遊んでいるときその子供たちが一斉に喋ったことを全て理解したというのです。
よく知られているのは10人の言葉を全て理解したということですね。実際にはそれ以上だったのかもしれません。
こうなると皇子はもはや人間離れした人物だったとしか思えないですね。
皇子は用明天皇にとても愛されて育ちました。しかし皇子が14歳の時用明天皇が病気で亡くなったのでした。
用明天皇亡き後次の天皇に誰を推すかで、蘇我馬子と物部守屋が対立しました。
蘇我馬子は額田部皇女(後の推古天皇)を、物部守屋は穴穂部皇子をそれぞれ天皇にしようと考えていました。
587年丁未の乱(ていびのらん)が起き、蘇我氏と物部氏は武力抗争を始めました。
厩戸皇子も蘇我氏側に付き戦いました。
そして皇子のいる蘇我馬子の軍が勝利をおさめたのです。
聖徳太子の経歴や最後は?
592年推古天皇が即位しました。
丁未の乱の後崇峻天皇が即位したのですが、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺します。
馬子は崇峻天皇が自分のいいなりにならなくなったので殺してしまったのです。
この辺りから蘇我馬子と皇太子との間に溝ができてきました。
翌年聖徳太子が皇太子となり推古天皇の摂政となりました。皇太子20歳の若さです。
摂政とは天皇に代わり実質的に政務を行う役職です。皇太子がいかに優れていたのかが伺えますね。
皇太子はこれまで蘇我氏に握られていた政治を取り戻し正しい国家づくりをしようとしました。
593年皇太子は四天王寺を建立します。
皇太子は丁未の乱の時、四天王の像を作り勝利の暁には四天王のための寺を建てると誓っていたのです。その誓いどおり四天王寺を建てたのです。
595年高句麗の僧恵慈が来日し、皇太子に仏教を教えました。その時恵慈は、隋は仏教を厚く保護し、多くの寺院が立ち並び仏教文化が花開いており、政治は中央集権国家が完成していることなどを伝えました。
この頃の日本は豪族が土地や人までも所有し、民は皆飢えていました。
596年法隆寺(飛鳥寺)が完成しました。
601年には斑鳩宮を建立しています。この年、朝鮮半島の南部に任那という日本にとって大切な土地がありましたが新羅に奪われてしまいます。
日本は任那を奪還すべく新羅討伐に出ます。蘇我氏は武力行使を訴えましたが、皇太子は友好関係を結ぶことが大事だと考えていましたからここでも蘇我氏と対立することになりました。
そのため皇太子は飛鳥を出て斑鳩に移ったのでした。
602年皇太子の弟来目皇子を将軍とした新羅討伐軍が九州へ向かいましたが、そこで皇子が急死します。蘇我氏に暗殺されたとの説もあります。
次に当麻皇子を向かわせましたが、皇子の妻が亡くなりそれを悲しんで都へ帰ってきてしまいました。これで新羅討伐は中止となったのです。
友好関係を結ぶことを大切にしていた皇太子でしたがやはり軍は送ったのですね。
603年皇太子は冠位十二階を定めました。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け地位を表したものです。これによって中央貴族や地方の豪族などではなく才能のあるものを登用しようとしたのです。
翌年には17条憲法を定めました。役人としての心構えと、天皇に従い仏教を敬うことを定めています。
607年小野妹子を遣隋使として派遣しました。
614年最後の遣隋使となる犬神御田鍬(いぬがみのみたすき)を派遣しています。
620年皇太子は馬子と「国記」、「天皇紀」などを編纂しました。
皇太子と馬子は仲が良かったのか悪かったのかよくわかりませんね。平和主義の皇太子が馬子に合わせていたのか、それとも皇太子には敵わないと悟った馬子が従順したのか謎です。
622年皇太子は斑鳩宮で病に倒れます。その回復を祈りながら妻の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が亡くなり、その後を追うように皇太子も亡くなるのでした。享年49歳でした。
【エピソード】聖徳太子の人柄や性格がわかる逸話
- 聖徳太子の出生
- 聖徳太子は何人もの話が聞けた
- 前世の記憶
聖徳太子の出生にはミステリアスな話があります。
母の口から観音様が入りそれで受胎したというのです。まるでキリスト教のイエスの誕生とそっくりです。
生まれ落ちた時も、厩戸の前でした。イエスも馬小屋で生まれています。
キリスト教の話を後年になって真似たのでしょうか?
しかし釈迦も似たような受胎の仕方をしています。仏教文化が繁栄した日本ですから、真似だとすれば釈迦尊の方があり得そうですね。
聖徳太子が生まれた時手に仏舎利を握っていたそうですし。
聖徳太子は1度に何人もの話を聞くことができたと言われていますね。これ以降聖徳太子は豊聡耳(とよとみみ)とも呼ばれるようになりました。
子供の頃は30人以上の言葉を理解したと言いますからどれだけ神がかっているのでしょう。
おそらく何人もの話を1度に聞いたのではなく、何人もの人の話を1人ずつ聞いて丁寧に回答したということなのでしょう。
585年日羅(にちら)が来朝した時、用明天皇は皇子が日羅に会うことを許しませんでした。皇子は粗末な服を着て、他の子供達にまぎれて日羅の所へ行きました。日羅はすぐに皇子のことを見抜きました。それで皇子は身なりを整え再び日羅に会いに行くと、日羅の身体が光り、皇子の眉間から光が放たれたと言います。日羅は前世で皇子の弟子だったそうです。
身体が光ることもミステリアスなのに、前世の記憶まで持っているとはやはり神がかっていますね。
まとめ 聖徳太子はどんな人?大河ドラマや映画はある?
聖徳太子に関してその生い立ちや経歴などから人柄や性格を見てきましたがいかがでしたか。
これを読んでから、小説やドラマを見ればもっと楽しくなるでしょう。
ドラマ
「聖徳太子」 2001年NHK 演者 本木雅弘
大和朝廷と東アジアの情勢を背景に聖徳太子の人間像を描いたドラマです。
漫画
「日出処の天子」 作 山岸涼子
1980年から1984年にかけて「L a L a」に連載された漫画です。厩戸皇子と蘇我蝦夷を中心に皇子の少年時代から摂政になるまでを描いています。
小説
「聖徳太子」 岩波新書 作 吉村武彦
読みやすい文書で、聖徳太子の実像に迫る一冊です。
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