日本経済の父 渋沢栄一の大親友 渋沢喜作とは?
栄一にどんな影響を与えたのか? 栄一と歩んだ幕末明治動乱の軌跡

NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、高良健吾さん演じる渋沢喜作に注目します。

生涯にわたり日本経済の父である渋沢栄一の傍にいた渋沢喜作とはどのような人だったのでしょうか?

渋沢喜作の生涯とエピソード、特に大河ドラマでは深掘りされなかった栄一渡欧時の戊辰戦争での喜作の逸話、栄一に与えた影響について解説していきます。

渋沢喜作(成一郎)のプロフィール

・名前:渋沢喜作(成一郎)(幼名: 成一郎)

・生年月日:1838年7月30日(天保9年6月10日)

・出生地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)

・死没:1912年(大正1年)8月29日(満75歳没)


【渋沢喜作】

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農民から武士を志す

渋沢喜作は1838年7月30日(天保9年6月10日)に現在の埼玉県深谷市血洗島の農家の家に生まれました。

父は渋沢文左衛門で、渋沢栄一(以下、栄一と略す)の2歳上の従兄になります。

幼少期には栄一と共に従兄の尾高惇忠のもとで学問を習いました。また、同時に従兄で川越藩剣術指南役大川平兵衛の弟子であった渋沢新三郎に神道無念流の剣術も習っています。

江戸時代では庶民は寺子屋で学ぶことが一般的であり、読み書きやそろばんを主に学んでいました。一方で武家は藩校で学ぶことが一般的であり儒学(四書五経)を主に学んでいました。

渋沢家は武家と同じように儒学を学んでいました。農家でありながら文武両道を目指し、武家と同じような教育を施されていたことが伺えます。

レベルの高い教育と剣術を学んでいたからこそ、世の動きにも敏感になり今の日本をそのままにしておけないという思想が生まれたと考えられます。

攘夷志士を志す

喜作が青年時代に入ると尊王攘夷思想を持つ尾高淳忠の影響を受け、栄一や尾高長七郎らと国家を憂いて論じ合うようになります。また、当時の血洗島周辺では尊王攘夷志士が来訪していました。

喜作や栄一は、農業の閑散期に江戸に行き長七郎のいた海保塾に入門、千葉周作の道場(以下、千葉道場)へ入門し攘夷志士たちと時勢について論じ、幕府への批判を行うことで尊王攘夷思想にさらに傾倒していきました。

高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ち計画

1863年8月、喜作は淳忠、栄一と3人で攘夷実行計画の密議を行いました。

高崎城を乗っ取り兵をそろえて、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという計画です。

さらに、喜作と栄一は再度海保塾や千葉道場を訪れ攘夷の志を同じくする志士たちをこの計画に引き入れました。

決行の2週間ほど前に京都へ情勢探索に行っていた長七郎が戻ってきました。

帰ってきた長七郎も含め喜作、淳忠、栄一、中村三平の5人で計画についての評議を行いました。

長七郎は京都で攘夷をもくろむ長州派が一掃されたこと、尊王攘夷思想のあった天誅組の変が失敗に終わったことを話し、決行しても犬死するだけだと計画の中止を主張しました。

一方で喜作や栄一たちは決行を主張し2日間にわたり大激論が交わされた末に中止となりました。

喜作たちの攘夷の夢はついえたのです。

そろばんより剣術をとった武者

攘夷計画を中止した喜作と栄一は、幕府に捕縛される危険があったため、1863年11月8日に伊勢参拝を兼ね京都見物に行くと吹聴し京都へ旅立ちました。

ここから喜作の武士としての活躍が始まるのです。

一橋家への仕官

喜作と栄一は一橋家家臣の平岡円四郎を頼りにして京都へ亡命しました。

大河ドラマでは栄一と喜作が高崎城乗っ取り、横浜外国人居留地焼き討ち計画時に江戸に行った際、円四郎の部下に捕らえられたことがきっかけで出会っていました。

史実ではドラマと同じタイミングで出会っていますが、捕らえられたわけではなく、もともと喜作と一橋家の家臣の川村恵十郎は面識があり、その紹介で出会ったようです。

一橋家は攘夷思想の強い藩であり、ちょうど領内の百姓で武芸の心得のあるものを新規で召し抱える命令を出していました。

攘夷思想をもつ二人は一橋家の家臣になる気はなくとも、一橋家の要人と繋がっていれば宿駅や関所越えの時に有利になるとの考えで円四郎のもとを訪れたようです。

ここで二人は気概を買われて、円四郎から一橋家へ奉公しないかとお誘いを受けます。

ここでは奉公の誘いを丁重に断った二人ですが、円四郎の好意により、上京する際は円四郎の家来の名義を名乗ることを許されます。 それで、上京の際に円四郎を頼りにしたのです。

京都につくと、周辺の志士たちから京都の情勢を訊ねて日々を過ごしました。

京都で倒幕の機運の高まりを目にした喜作と栄一は、淳忠や長七郎に上京を促す手紙を出しました。

手紙を手にし、江戸から帰郷する道中に長七郎は坂下門外の変で亡くなった河野顕三の故郷を訪ねます。

かつての同志は攘夷のために亡くなったのに自分は何も成し遂げていないということで精神的に不安定になったのでしょうか? 長七郎は通りがかりの飛脚を斬ったことで、捕縛されてしまいます。

長七郎の捕縛で、自分たちの出した攘夷に関する手紙を幕府側に没収されたとの知らせを受け、喜作と栄一は、捕縛の危険を感じます。

そんな長七郎の捕縛の知らせをきっかけに、喜作と栄一の魂胆が円四郎の耳に入ります。

しかし、円四郎は「この際、志を変えて、一橋家の家来になってはどうか。もしその気なら尽力して周旋する。」と一橋家家臣へスカウトします。

この誘いに栄一は仕官に傾き、喜作は反対しましたが、激論の末に仕官することとなりました。

元は倒幕の思想を持つ喜作と栄一を採用するとは、円四郎はとても大胆な人です。

また、それだけ、喜作と栄一の国家のために身を尽くしたいという気概を買っていたのだろうということが伺えます。

この一橋家の仕官を機に喜作は成一郎、栄一は篤太夫と名を改めました。

ドラマでも円四郎が二人を名付けていたシーンが印象的でしたが、史実でも円四郎が二人に名を与えたようです。

成一郎 幕臣となる

1865年の7月に十四代将軍である徳川家茂が急死します。

家茂には嫡子がおらず、ついに慶喜が十五代将軍となるというニュースが駆け巡りました。

慶喜が将軍となれば成一郎と篤太夫は幕臣となります。二人は失望し落胆しました。

傍仕えをしているうちに慶喜の先見性のある聡明さに気づいていたからです。

沈みゆく幕府の棟梁となるより、今後の日本国を支える立場でいてほしいと思ったのでしょう。

時を同じくして、成一郎軍制調役組頭に、栄一勘定組頭へ出世しました。

これ以後は、篤太夫理財のほうへ、成一郎軍事のほうへと互いに違う道を歩んでいくことになるのです。

9月になると慶喜の将軍家の相続が内定しました。

成一郎と篤太夫は相談の末、「またいつかお国のために命を投ずる時も巡り来るだろう」と仕方なく一橋家を去り、幕臣となりました。

大政奉還

1867年1月、成一郎と共に行動してきた篤太夫が慶喜の弟である民部公使徳川昭武のフランスでの博覧会への出席と留学に随行すべく旅立ちます。

ドラマではフランス行きを決めた篤太夫に慶喜が直々に弟を頼んだぞと話していましたね。

一方で成一郎は奥祐筆という役職へ出世しました。 幕府の御用部屋で政務の仕事をする役職です。

同年10月、慶喜は大政奉還を行い政権を朝廷へ返上、12月になると討幕派の公卿と薩摩藩は徳川家を新政府から排除する内容の王政復古の大号令を宣言しました。

この宣言に幕臣たちは激昂したため、慶喜は幕臣を連れ大阪城へ退去しました。

幕臣内では天皇の威光を笠に着た薩摩藩憎し、朝廷に忠心を尽くして、日本を立て直すのは徳川家であるという主張が本流となっていました。

家臣たちの主張を鑑みた慶喜は、朝廷に自らの真意を話したいということで、1868年1月に上京することを決めました。

慶喜は上京に際して先発隊を使者として京都へ遣わせましたが、この道中で薩摩藩が発砲したことにより、京都の伏見で戦いが起こりました。 鳥羽伏見の戦いです。

慶喜の上京は叶わず、この戦いで幕府軍は敗戦し、朝敵の汚名を着せられました。

慶喜 江戸へ戻る

慶喜は、自分がこれ以上大阪にいると戦火が大きくなるのではないかということを懸念し、江戸に戻って朝廷に恭順の意を示そうという思いから、密かに大阪城から軍艦で江戸へ戻ることになりました。

将軍に置いて行かれた幕臣たちはどれほど絶望したでしょうか。

慶喜は臆病風に吹かれて幕臣たちを見捨てて江戸へ戻ったという見方が多いようですが、慶喜自身は、戦争をなるべく回避したかったのではないでしょうか。

アヘン戦争で敗れた清国に学ぶと、いつ日本国が外国の列強に負けてもおかしくないわけです。

そんな最中、国内で内紛を起こして、ゴタゴタしていると外国勢力に付け入る隙を与えることになりかねません。

先見の明があった慶喜のことですから、江戸へ戻った裏にはこういった考えがあったのかもしれません。

成一郎 彰義隊隊長となる

成一郎も鳥羽伏見の戦いで軽傷を負い江戸に戻りました。

朝敵の汚名を着せられた慶喜の無念を晴らさねばとの思いから、自らを隊長とする彰義隊を結成することになります。

彰義隊には、成一郎の従兄弟である淳忠平九郎も参加しました。

彰義隊の結成時には、箱根の険で新政府軍を迎え撃つという者、決死隊を募って敵軍の大将を狙撃すべしという、様々な好戦的な意見が出ていました。

その中で、成一郎

「主君の謹慎中にその家臣たる我々が戦争をするなどという、そんな間違った話はない。そうであれば、ここはあくまでも上様の思し召しを心にとめ、平和を心の底から願い出て、その願いが聞かれぬ時は武士としての意地を貫く。死をもって目的を果たすということにしてはどうだろう。」

という意見を出し、この考えが彰義隊のポリシーとなりました。

成一郎の中では、あくまで慶喜の考えに背かず、平和を追求したいという慶喜への忠誠心が一番にあったように思えます。

4月になると新政府は慶喜の罪一等を減じ、水戸への退去を命じました。

彰義隊は慶喜の水戸退去の警護を希望しましたが認められず、成一郎と数人の隊士で千住まで随行しました。

千住から江戸へ帰るように命ぜられましたが、それでも5人の隊士は新宿(葛飾区)あたりまで同行しました。

せめて君公の後ろ姿だけでもと、落ちのびていくかつての将軍を、ひれ伏し涙ながらに見送りました。

慶喜に同行できず、護衛もできない。誰がための彰義隊なのかと成一郎の中でも葛藤したことが想像に難くないでしょう。

彰義隊副隊長、天野八郎

慶喜の水戸行きを見送った彰義隊は、この後、渋沢派と副長である天野八郎派へと別れ、分裂していきます。

この天野八郎という人物はどのような人物なのでしょうか。

天野八郎は1831年(天保2年)生まれで、上野国甘楽郡磐戸村の農家の次男として生まれました。

幼い時から学問と剣術に勤しみ、「ここ片田舎に朽ち果てるのは男子の本分ではない。文武両道を納めて名を後世にあげなければ。」との一心で農家の息子でありながら文武両道に励みました。

1861年に武士を志して江戸に赴き、1865年江戸定火消与力の広瀬氏の養子となり、翌年幕臣である天野氏を継いだとされています。

経歴を辿ってみると、成一郎と重なる育ちと、思想の持ち主であることが伝わってきます。


【天野八郎】

彰義隊を離脱する

成一郎と天野の対立のきっかけはどこにあったのでしょうか?

当初の彰義隊は幕臣のみによる部隊としていましたが、天野八郎が身分を問わずに隊士を加入させることで統制の取れない集団へとなっていきます。

特に市中で乱暴狼藉を働く隊士は、天野八郎が後から引き入れたものが多かったようです。

幕臣のみの統制をとれる一団としたい成一郎と、とにかく人を集めて戦いに備えたい天野八郎考え方の違いから渋沢派天野派として、対立を深めていくことになっていきます。

また、もう一つの理由としては、成一郎主導の軍資金調達にあると考えられます。

成一郎来る新政府軍との戦いに、先立つものがなければ戦もできぬという考えから、彰義隊の名で豪商から御用金を借りていました。

この行動に対して、天野は、「ご主君が謹慎中に軍資金をこそこそ集めるとはけしからん。」と抗議しています。

江戸時代は、「武士は食わねど高楊枝」とのことわざがあるように、自分のふるまい一つで主君に恥をかかせることもあるため、自身の行動に気を付けるべきという価値観がありました。

幕府の公認組織でありながら軍資金調達に奔走することは、慶喜にも恥をかかせることになるとの考えもあったのかもしれません。

成一郎は天野との対立により、離脱することを決め、「誓って官軍にならないこと、誓って降伏しないこと」の二点を約束し、自分と同じ意見を持つものたちと彰義隊を去り、振武軍を結成しました。

彰義隊の隊長は天野が務めることになりました。

その後、彰義隊と新政府軍がぶつかる上野戦争が勃発し、振武軍も駆けつけようとしましたが、わずか1日で上野戦争は終結してしまいます。

あまりにあっけない敗戦に、振武軍の隊士たちは落胆したことでしょう。

飯能戦争

上野戦争で彰義隊を倒した新政府軍は、次は成一郎率いる振武軍の追討を始めました。

成一郎たちは全軍を飯能村(埼玉県飯能村)の能仁寺に移し、背水の陣を敷きました。

飯能村は付近の諸村が一橋家の所領であり、成一郎自身も土地勘があったからだとされています。


【能仁寺】

5月23日、ついに振武軍への攻撃が開始されます。

新政府軍の攻撃から逃げ延びた振武軍のもとに、幕臣、山岡鉄舟の使者が来ました。

西郷隆盛を説得し、江戸城無血開城を進め、江戸の戦火を止めた山岡が、飯能の戦火も食い止めるべく、自分の代わりに使者をつかわせたのでした。

使者が伝えた山岡の書状は、「なにとぞ徳川家最後の面目を保たせるため、思いとどめてくれ。」といった内容でした。

しかし、振武軍はすでに新政府軍を夜襲すべく、特攻隊を出発させた後でした。

幕府方である山岡からの説得はすでに遅すぎたのです。

振武軍は新政府軍の攻撃により、散り散りに敗走することになりました。

平九郎の死

この戦いの中で成一郎の従弟でもあった平九郎が新政府軍と奮戦の末、自刃します。

時は少し戻りますが、平九郎栄一がフランスに発った際に渋沢家の養子に入っています。

その際に、姉のちよから「武士として立派に潔く死ぬのですよ」と厳しく引導を渡されていました。

この言葉が脳裏にあったからこそ、奮戦しながらも最期は自刃することを選んだのでしょう。

平九郎は自刃後、首を切られ、越生宿で名札もなくさらし首とされました。

本来、賊軍のさらし首を勝手に埋葬したりすれば命はありませんが、平九郎の立派な最期を見ていた村人は、密かに法恩寺の住職と計り首を境内に埋葬しました。

また、道に捨てられた平九郎の胴体は全洞院に埋葬されました。


【渋沢平九郎】

品川からの脱走と新彰義隊設立

敗走時、成一郎は淳忠と共に上州伊香保(群馬県渋川市)に逃れ、草津(群馬県草津町)に潜みました。

淳忠は飯能戦争の逃亡の後、帰郷しています。

一方で成一郎は上州から品川に行き、榎本武揚率いる旧幕府軍の軍艦開陽丸に乗り込んで、箱館へ向かいました。

そして船中でかつての同胞であった彰義隊の敗残兵たちと再会しました。

しかし、敗残兵の中に天野八郎の姿はありませんでした。

天野八郎は上野戦争で捕らえられ、獄中死していたのです。

榎本武揚は、彰義隊側に「渋沢は何か隔意あって君たちと別れたと聞き及ぶが、今日の場合、私怨などを持って互いに隔意あるべき場合ではないから、ちょうど君達も首領を失った今日、渋沢を首領にしたらよかろう。不承知か」と伝えます。

これに対して彰義隊側は、成一郎を首領に置くことは御免被ると拒否しました。

しかし、成一郎が条件さえ受け入れるのであれば、首領として迎えることとしました。

条件とは、天野八郎の志を継いで、天野として尽くしてもらいたいということでした。

成一郎は「全く私怨を忘れて天野として尽くしましょう。あくまで天野の志を継いでやりましょう。これまではどうも誠にすまなかった。」と、この条件を全面的に受け入れ、一度は袂を分かった彰義隊士たちと和解し、新彰義隊を設立することになります。

新彰義隊の分裂

旧幕府軍は箱館に上陸すると五稜郭に陣を構え、松前藩を攻略すべく進撃しました。

北国の寒さが厳しくなる11月のことです。

松前藩攻略に成一郎率いる彰義隊も参戦し、勝利をあげました。

が、この戦でまたしても旧彰義隊士たちと分裂するきっかけが生まれました。

彰義隊は松前城突撃時に真っ先に城に入ったため、先陣を切った証として隊の旗を立てるつもりでした。

しかし成一郎の命により、軍資金用に松前藩の金蔵からお金を運び出すことが先になります。

その間に、同じく松前藩攻略に参加していた額兵隊に旗を立てられてしまいます。

この出来事が、彰義隊士たちに不満を生じさせました。

またしても、隊の名誉より軍資金調達に走るという、天野八郎たちと対立したときと同じ状況でした。

天野の志を継ぐと言っていた成一郎でしたが、やはり先立つものがなければ、戦いは続けられるぬという思いがあったのでしょう。

このことをきっかけに、新彰義隊は再び分裂することになります。


【五稜郭】

戦況の悪化と脱走

一時は松前城を攻略し箱館政府を樹立した旧幕府軍でしたが、年が明け、4月なると新政府軍の攻撃を受けるようになります。

新政府軍は北海道に上陸後、5月11日、五稜郭と箱館へ総攻撃を行いました。

旧幕府軍の拠点は五稜郭と千代ヶ岡陣屋、弁天台場の3か所となりました。

成一郎の率いる渋沢派の小彰義隊は、千代ヶ岡陣屋に潜んでいましたが、一本木方面に進み新政府軍と奮戦しました。

陣屋は陥落し、五稜郭へ逃げる者もいましたが、成一郎は湯の川方面へ脱走しました。

いざ幕府のために死ぬとなると、命が惜しくなったのか、または生きて国のために尽くす方が有益と思ったのでしょうか?

成一郎のように脱走する兵士は多く、旧幕府軍は瓦解していきました。

5月18日、旧幕府軍は降伏して、戊辰戦争は終結します。

成一郎は、降伏後も潜伏していましたが、のちに出頭し、降伏しました。

武士から実業家へ

新政府軍に降伏した成一郎は、東京の軍務官糾問所に投じられます。

1871年になると赦免され、栄一が受取人として出頭し、栄一宅に引き取られました。

当時、成一郎は33歳、ここから第二の人生として実業家の道を歩んでいくことになります。

赦免を機に、名を成一郎から喜作に戻すことになりました。

名を変えることで、自ら武士の時代に終わりを告げたのでしょう。

しかし、喜作には商才があまりなく、何かあるたびに栄一に助けてもらうことになります。

留学と短いサラリーマン経験

喜作は、栄一の配慮により、大蔵省の勧業課に勤めることになりました。

最初は実業家ではなく、サラリーマンとして経験を積むことになるのです。

1872年、喜作は製糸法の調査研究のために、イタリア・フランスへ留学しました。

道中、栄一へ宛てた手紙が残っており、「自分も折角ヨーロッパに来たのだから、何か一事ぐらいはその損得を会得したい。ゆくゆくは妻などを扶助できるようにと、商法を勉強している。(中略)私も無用の輩だが、帰国後は生活を簡易にして、月給取りにならなくとも、外人と貿易したいと思っている。」との心情が綴られていました。

喜作はサラリーマンを好まず、独立して、自営業を行いたい性分だったようです。

1873年に帰国したところ、栄一はすでに大蔵省を退官していたため、喜作も退官し、栄一の勧めで、小野組糸店に入社します。

しかし会社は翌年倒産し、図らずも喜作のサラリーマン生活は終わりを迎えます。

自営したい喜作としては、願ったり叶ったりだったのではと思われます。

ギャンブル気質な喜作と栄一の助力

職を失った喜作は、栄一のアドバイスもあり、米と蚕糸の店を出すことになり、東京深川で渋沢商店という廻米問屋を始めました。

喜作は仕事に熱中したので、米店は繁盛し、さらに1879年には横浜で吉田幸兵衛の事業を引き継ぎ、生糸問屋を開業し、お金を儲けました。


【横浜渋沢商店】

しかし、1881年に喜作は米相場に手を出して失敗し、十数万円もの損失を作ってしまいました。

この借金の保証人になっていたのが栄一で、喜作の借金はすべて栄一が返済しました。

この後、数年は栄一の深川・横浜での日本最初の倉庫会社創設にも協力したり、深川正米市場を設立して、頭取として勤めたりとまじめに働いていました。

1885年に、今度は銀相場に手を出し、70万円の損失を出します。

今回、栄一は保証人ではありませんでしたが、条件を付けて借金の整理を引き受けてくれることになります。

条件は、喜作が隠居して息子に店を譲り、家業から手を引くことでした。

喜作は条件を受け入れ息子に店を譲りました。

喜作自身もまじめに働いていれば問題はないのでしょうが、二度も相場に手を出すことなどから、ギャンブル気質があったことが伺えます。

これは商売を続けていくうえで致命的と言えます。

また、何かあっても、栄一が救ってくれるという依存心もあったのかもしれません。

その後も栄一は、喜作を気にかけ、栄一が新しい事業を設立すると、喜作に適切と思われる職種の場合には、役員に就任させていました。

しかし、失敗することも多く、そのたびに栄一が喜作をフォローしていたそうです。

実業家としての喜作は、商才がなく栄一におんぶにだっこだったようです。

喜作の晩年と栄一との絆

1893年、喜作は北海道製麻株式会社の社長に就任しました。

喜作は、札幌から十勝まで足を延ばし、広大な原野の開拓を夢に見たのです。

これに関しては、栄一も学理的農業経営を試みたいという願望があり、企画に賛同しました。

しかし、極寒の原野は働く者たちにとってあまりに過酷な環境であり、事業は不振になっていきました。

事業不振の折には、栄一からの資金援助もありましたが、1904年になると喜作は病のため退社し、栄一の息子が経営を引き継ぎました。

1912年8月30日、喜作は持病のリュウマチが悪化し、75歳でこの世を去りました。

この追悼会の時に、栄一は「たとえ喜作が背いても、私は喜作を生涯背かなかった」と語り、栄一がいかに根気強く喜作を支え続け、厚い友情で結ばれていたことかが伺えます。

まとめ

・渋沢喜作は、埼玉県深谷市血洗島の農家の家に生まれ、高いレベルの教育を受け、幕末の混沌とした日本国を変えたいとの思いから攘夷志士を目指しました。

・攘夷をあきらめた喜作は、一橋家の家臣として武士として取り立てられ、徳川幕府の幕臣となり、戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられた徳川慶喜の無念を晴らすべく奮戦しました。

・戊辰戦争から激動の幕末を駆け抜けた成一郎は、最初こそ慶喜の無念を果たすべく討死する覚悟で戦っていましたが、敗走を重ねるうちに討死するより生きて国家に尽くそうという思いが芽生えたのか、最終的には新政府軍の箱館上陸に伴い戦況が悪化した旧幕府軍から脱走し、新政府軍に降伏することになりました。

・赦免されたのち、成一郎は喜作と名を改め、武士から実業家へ転身しましたが、商才がなく、失敗するたびに栄一にフォローされていました。

喜作の存在は、栄一の人生にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?

栄一は、喜作の霊前で「親戚の関係は申すまでもございませぬが、第一に郷里を同じくし、又年輩を等しくし、其嗜好に其業体に、其教育に殆ど一身分体と申しても宜しい有様に、成長致したのでございます。(中略) 郷里に成長致して、共に其業を勉め、其業務の間に農民ながら文武の道に心懸け、いささか社会国家に貢献しようと考へたことも、全く同一でございます」と語っています。

喜作は栄一にとって一番の親友であり、ライバルでもあり、自分が歩めなかった武者の道を突き進んでくれた存在であり、何かあると放っておけない己の半身だったのでしょう。

切磋琢磨して文武に励み日本国の将来について真剣に考え、時には意見をぶつけ合い、叱咤激励しあえる渋沢喜作の存在は、日本経済の父とまで呼ばれる渋沢栄一の思想と行動力を育む一役を担ったのではないでしょうか?

※参考文献:

・国史大辞典編集委員会編(1986年11月20日)『国史大辞典 第七巻』吉川弘文館
・朝日新聞社編(1994年11月30日)『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社
・渋沢華子(1997年12月15日)『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 ―そしてその一族の人びと』国書刊行会
・渋沢栄一記念財団編(2012年10月15日)『渋沢栄一を知る辞典』東京堂出版
・斎藤孝(2020年7月9日)『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』フォレスト出版
・菊地明(2010年12月18日)『上野彰義隊と箱館戦争史』新人物往来社
・渋沢青淵記念財団竜門社編(1955年4月30日) デジタル版『渋沢榮一伝記資料 第一巻』渋沢栄一伝記資料刊行会
・野口武彦(2010年1月25日)『鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間』中央新書
・文科省(幕末期の教育)  「幕末期の教育」

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