浮世絵の祖とされる岩佐又兵衛をご存知でしょうか。
岩佐又兵衛は織田信長に謀反を起こした荒木村重の子供とされる絵師です。
又兵衛の代表作として「洛中洛外図舟木本」「浄瑠璃物語絵巻」などがあげられます。
そんな又兵衛を漫画「へうげもの」で知ったという方も多いかと思います。
浮世絵師・岩佐又兵衛は一体どのような人物であったのでしょうか。
そこで、今回は岩佐又兵衛の
- 生涯
- 経歴
- 代表作
をご紹介いたします。
これを読めば絵師・岩佐又兵衛の生涯や、経歴、代表作について知ることができますよ。
福井新聞|謎の絵師、岩佐又兵衛の屏風一堂に 福井移住から400年、国宝「洛中洛外図」など https://t.co/0XyMxJfXpq 先日もツイートしましたが、岩佐又兵衛展では『へうげもの』生原画展も開催されます pic.twitter.com/m0GMrFOa7z
— いつまで (@bushou_mono) 2016年7月20日
岩佐又兵衛の生い立ちと生涯。荒木村重との関係
岩佐又兵衛は天正6年(1578年)織田信長の家臣であった荒木村重とその妻・だしから誕生しました。
しかし、翌年、父・荒木村重は主君・織田信長に謀反を起こします。(有岡城の戦い)
謀反を起こした父・村重は居城である有岡城で籠城しました。
この時、又兵衛や母・だし、また荒木一族たちも村重とともに有岡城にいたとされます。
しかし有岡城は信長に攻撃が仕掛けられ、
また
- 父・村重の側近である側近・中川清秀と高山右近が織田軍に寝返った
- 兵糧が尽き始めた
- 毛利氏の援軍が来なかった
このことから、父・村重は又兵衛や母、一族を置いて1人で逃げてしまいました。
父・村重は又兵衛の兄にあたる村次のいる尼崎城へ落ち延びます。
1人で逃げた父・村重に対し信長は、尼崎城と築城していた花隈城を明け渡せば、有岡城に残された一族を助ける。といった約束を持ちかけます。
しかし、父・村重は信長の要求を拒否したため、有岡城にいる又兵衛や母・だし、荒木一族は信長によって処刑されることとなります。
こうして荒木一族が処刑される中、又兵衛は奇跡的に乳母によって有岡城から救出され、摂津国の石山本願寺に保護されました。
父・村重に見捨てられたまだ2歳の又兵衛は、このような悲惨な幼少期を過ごしていたのです。
又兵衛の幼少期の記録は残されていませんが、成人すると、母方の岩佐の姓を名乗ります。
成人後は織田信長の息子である信雄に小姓として仕えたとされますが、母と一族を処刑した人物の子供に仕えるとは、なんとも気の毒な事です。
小姓として仕えた信雄が改易を受け、浪人となった又兵衛は「勝以」と名乗り、京都で絵師として活躍するようになります。
岩佐又兵衛の絵師の経歴。作品の代表作
又兵衛が絵を描くにあたって師としたのは、父・村重の家臣であった池永重元の息子・狩野内膳があげられますが、又兵衛の描く作品の中には
- 描線、省略を多く使用する海北派の画法
- 丁寧で繊細な作風が特徴とされる土佐派の技法
- 障壁画を得意とした狩野派の技法
これらの様々な流派の技法が使用されているため、又兵衛の師は誰であったか、未だ分かっていません。
慶長19年(1614年)又兵衛が40歳の時、福井藩主・松平忠直に招かれ現在の福井市に位置する北の庄へと移ります。
この時、福井藩主・松平忠直の御用絵師として活躍しましたが、松平忠直が配流となると、その弟である松平忠昌が福井藩主となりました。
松平忠昌が福井藩主となった頃も又兵衛は北の庄にとどまり、約20年を北の庄で過ごしました。
寛永14年(1637年)又兵衛は
- 2代将軍・徳川秀忠の依頼
- 大奥にいた同族の荒木局の斡旋
このどちらかの理由で、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫の婚礼道具の制作を命じられ、江戸へと移ります。
江戸へと移った又兵衛は20年ほど江戸にいたとされ、73歳で生涯を閉じました。
岩佐又兵衛が描いた作品
岩佐又兵衛は生涯、多くの作品を残してきました。
又兵衛の作品には「豊頬長頤」と呼ばれる、ぷっくりっとした頬に、長い顎をした特徴的な人物が多く描かれています。
岩佐又兵衛の代表作品:「洛中洛外図屏風舟木本」
洛中洛外図屏風とは京都の洛中洛外の
- 景観
- 風俗
を描いた作品です。
これは又兵衛が元和初年(1615)頃に描いたとされ、国宝に指定されました。
この作品では、2500人もの人物が描かれ、又兵衛の特徴的人物技法である「豊頬長頤」が多く見られます。
岩佐又兵衛の代表作品:「浄瑠璃物語絵巻」
義経説話の1つである牛若と三河矢矧の長者の娘・浄瑠璃の恋愛譚が描かれました。
金箔、金銀泥などが多く使用され華やかな作品となっています。
岩佐又兵衛の代表作品:「山中常盤物語絵巻」
奥州にいる牛若に会いに牛若の母は都から旅立ちますが、その道中、盗賊によって殺害されてしまいます。
その仇を牛若が討つといった仇討物語です。
この作品では残虐的な殺害シーンが多く描かれています。
【エピソード】岩佐又兵衛と古田織部。岩佐又兵衛の師匠となった人物
古田織部とは戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
千利休の下で茶を学び、千利休の弟子を表す利休七哲の1人とされています。
漫画「へうげもの」では、又兵衛と古田織部の関わりが多く描かれましたが、実際、又兵衛と古田織部が関わっていたのかは判明されていません。
しかし、又兵衛の父・村重は、又兵衛や母、一族を見殺しにし1人で有岡城から逃げた後、信長が亡くなると茶人として復活し、千利休の下で茶を学びました。
父・村重も古田織部と同様に、利休七哲の1人とされており、そんな村重の息子と古田織部はもしかしたら、どこかで関わっていたかもしれませんね。
岩佐又兵衛の師匠について
又兵衛の残した作品の中に、「金谷屏風」と呼ばれる作品があります。
この作品は、
- 「虎図」
- 「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」
- 「源氏物語・野々宮図」
- 「龐居士図」
- 「老子出関図」
- 「伊勢物語・烏の子図」
- 「伊勢物語・梓弓図」
- 「弄玉仙図」
- 「羅浮仙図」
- 「唐人抓耳図」
- 「官女観菊図」
- 「雲龍図」
12の作品からなり、これらをまとめた屏風が「金谷屏風」です。
この作品では
- 海北派、長谷川派、雲谷派の画法を取り入れた水墨画
- 土佐派的白描画
などの画法が使用され、このような様々な画法が使用されるため、又兵衛の師が誰であったか判明されていません。
浮世絵の祖とされる岩佐又兵衛
又兵衛は浮世絵の祖とされています。
又兵衛の他にも江戸初期に活躍した菱川師宣が浮世絵の祖と呼ばれています。
浮世絵とは、当時の庶民の生活や、日常を描いた風俗画の事をさし、又兵衛はその風俗画を描くことを得意としていました。
よって、又兵衛は浮世絵の祖と呼ばれるようになります。
一方、菱川師宣も多くの浮世絵を残しており、浮世絵の祖と呼ばれるようになります。
浮世絵が始まった時期などは未だ曖昧な定義であるため、よってどちらも浮世絵の祖と呼ばれるようになりました。
まとめ 岩佐又兵衛とへうげもの。ドラマや映画はある?
岩佐又兵衛の生涯、経歴、代表作品のご紹介でした。
簡単にまとめると
- 父は荒木村重であった
- 父・村重が謀反を信長に起こすと、一族は見殺しにされ、2歳であった又兵衛は家族を失う
- 乳母に救出され石山本願寺に保護される
- 絵師となる
- 代表作「洛中洛外図舟木本」「浄瑠璃物語絵巻」「山中常盤物語絵巻」などを残す
- 特徴的技法は「豊頬長頤」
- 江戸でなくなる
絵師・岩佐又兵衛は父・荒木村重に一族を見殺しにされ、悲運な人生を送った人物でした。
しかし、絵の才能を発揮した又兵衛は多くの作品を残し、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫の婚礼道具の制作を依頼されるまでとなります。
そんな岩佐又兵衛が登場するのは山田芳裕さんの漫画作品「へうげもの」です。
この作品では又兵衛の他に、父・荒木村重も登場し、また
- 絵師・長谷川等伯
- 女性芸能者・阿国
- 茶人・千利休
など、当時の代表的な文化人が多く登場します。
この物語はフィクションとされていますが、登場人物の多くは実際に登場した人物なので、歴史好きの方にはもってこいの漫画です。
これを機に岩佐又兵衛について興味を持ったという方は漫画「へうげもの」を読んでみてください。
以上「岩佐又兵衛の生涯や絵師の経歴、作品の代表作」のご紹介でした。
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