酒井抱一の生涯と代表作品。俳句。尾形光琳や弟子との関係は?

あなたは酒井抱一という絵師をご存知でしょうか。

煌びやかな装飾性・デザイン性を持つ琳派の代表的な絵師として有名です。

同時期に活躍した狩野派は、家系によって絵画技術が受け継がれていったのに対し、琳派は家系によって絵画技術が受け継がれていくのではなく、私淑によって絵画技術が継承されていきました。

そんな琳派に代表される絵師・酒井抱一はどのような絵師であったのでしょうか。

今回は酒井抱一の

  • 生涯
  • 代表作品
  • 俳句
  • 琳派の祖とされる尾形光琳との関係性
  • 弟子との関係性

 

についてご紹介いたします。

これを読めば、酒井抱一の生涯た代表作品、尾形光琳や弟子との関係性を知ることができますよ。

 

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酒井抱一の生い立ちと生涯

宝暦11年(1761年)7月1日、酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰と松平乗祐の娘・里姫の次男として誕生します。

父・酒井忠仰は、神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老などを務めていました。

神田小川町とは現在の東京ですので、抱一は生粋の江戸っ子ということとなります。

抱一の兄・酒井忠以は姫路藩主となっていたので、抱一は兄・忠以に何かあった時の保険として、たびたび仮養子にたてられていました。

安永6年(1777年)6月1日、抱一は17歳で元服を迎えます。

同年、兄・忠以に長男が誕生したため、仮養子願いは破棄となります。

文化芸術に非常に関心のある家庭で育つ

抱一が生まれた酒井雅楽頭家は文化芸術に非常に関心のある家庭でした。

兄・忠以は茶人・俳人でしたので、抱一の実家には兄の茶人・俳人仲間が集まり文化サロンのようになっていたとされています。

若い時の抱一は、文化芸術に関心を持たず、大名仲間と遊郭へ足を運ぶ日々を送っていました。

しかし、そんな抱一を兄・忠以は文化の道に誘い入れたとされています。

絵画に関心を持った抱一は最大の画派である狩野派の

  • 中橋狩野家の狩野高信
  • 狩野惟信

から絵の技術を学びます。

狩野派から学んだ抱一でしたが、酒井雅楽頭家は鎖国時代、唯一外国と関わりのあった長崎で誕生した様々な諸画派である長崎派の宋紫石、栄紫山とたびたび、交流があったため長崎派からも絵の技術を学んでいたとされています。

浮世絵師の歌川豊春に弟子入り

天明3年、4年(1783年、1784年)頃になると抱一は浮世絵師の歌川豊春に弟子入りし、浮世絵の技術を学びました。

様々な画派の絵画技術を学んだ抱一の作品、肉筆美人画「松風村雨図」には、長崎派と歌川豊春から学んだ絵画技法が見られます。

お遊び程度で絵の制作を行う

この頃に描いた肉筆美人画は、師匠の歌川豊春の作品並みの高い完成度でしたが、抱一は

  • 独自の美人画様式を作ることもない
  • 画号も新たに持っていない

 

このようなことから、抱一は若い頃、そこまで絵画制作に熱心に取り組んでいたわけではなく、お遊び程度で絵の制作を行っていた姿勢が見られます。

俳句にも挑戦

若い抱一は絵画だけではなく俳句にも興味を示し、当時大名の間で流行っていた江戸座俳諧の馬場存義に入門します。

俳句に興味を持つ抱一は江戸座の亡き遠祖・宝井其角の詠んだ俳句にも関心を持つようになりました。

抱一は句日記『軽挙館句藻』を書き続け、後の文化9年(1812年)には句選集『屠龍之技』を刊行していることから俳句に関しては熱心な活動を行っていたことが分かります。

寛政2年(1790年)兄・忠以が亡くなります。

仕方なく出家をした酒井抱一

兄が亡くなると抱一は寛政9年(1797年)10月18日、37歳の時に西本願寺の法主文如にしたがって出家をしました。

なぜ、抱一は出家したのかは分かっていませんが、西本願寺の門跡(僧侶)に会うため上洛した際

俳句仲間も連れ上洛したにも関わらず、本来の目的である西本願寺の門跡に会わず帰ったとされています。

このようなことから、抱一は自発的に出家したのではなかったのでは。とされています。

またこの頃

  • 兄・忠以亡き後、酒井雅楽頭家では世代交代が進み、実家での居場所が無くなった
  • 政治批判の禁止や風紀取り締まりなどの寛政の改革によって、浮世絵や狂歌に影響が及んだため転向を余儀なくされた

などの出来事がありました。

このようなことから、抱一は致し方なく出家したと考えられています。

芸術や文芸に専念する

しかし、出家し武士から僧侶になったことで自由な時間は増え、抱一は芸術や文芸に専念するようになり

  • 絵師・谷文晁
  • 書家・亀田鵬斎
  • 歌人・橘千蔭
  • 歌舞伎役者・市川団十郎

などと交流を深めます。

尾形光琳に私淑し始める

寛政年間の半ば、抱一は尾形光琳に私淑し始めます

尾形光琳とは万治元年(1658年)に誕生し享保元年(1716年)6月2日に亡くなった絵師です。

抱一が生まれる前に活躍していた絵師です。

尾形光琳は、王朝時代の古典を学びながらも、尾形光琳が生まれる前に活躍していた俵屋宗達という絵師の作品を見て模写しながら絵画作品を残していました。

俵屋宗達の作品を模写しながら、絵画様式を確立させた尾形光琳の意匠感覚は「光琳模様」と呼ばれます。

尾形光琳の描く作品は絵巻物などに見られる平安時代に誕生した大和絵を基調に、金泥(金粉を使用した絵具)を多く使用した煌びやかな作品が多く残されました。

「琳派」と呼ばれる

このような作品を残した

  • 俵屋宗達
  • 尾形光琳
  • 酒井抱一
  • 神坂雪佳

などはのちに「琳派」と呼ばれるようになります。

当時の最大画家集団であった「狩野派」と違うところ

当時の最大画家集団であった「狩野派」と違うところは、

  • 狩野派は中国様式の水墨画を基調としていたが、琳派は大和絵を基調としていた
  • 狩野派は、幕府御用絵師であったが、琳派は御用絵師ではなく、フリーな絵師たちの集まりであった

ということあげられます。

尾形光琳の事績の研究を行う

自身が生まれる前に活躍していた尾形光琳の作品から絵画技術を学んだ抱一は、尾形光琳の事績の研究などを行い、尾形光琳の家系図や落款や略歴などの基本情報を記した『緒方流略印譜』を文化10年(1813年)に刊行します。

光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日には光琳百回忌を開催し、自宅で百回忌法要を行いました。

抱一による尾形光琳の研究は光琳百回忌の後も続けられ

  • 文化12年(1815年)『光琳百図』を出版
  • 文政2年(1819年)秋、光琳墓碑の修築
  • 文政6年(1823年)光琳の弟・尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版
  • 文政9年(1826年)『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版

 

するなどを行います。

このように尾形光琳の研究を熱心に行っていた抱一は尾形光琳の画風を取り入れ、また

  • 絵師・円山応挙を祖とする円山派
  • 絵師・呉春を祖とする四条派
  • 大和絵の技法を基調とする土佐派
  • 中国の絵師・沈南蘋が写生的な花鳥画の技法を伝えた南蘋派
  • 絵師・伊藤若冲

 

などの技法も積極的に取り入れ、独自の作風を確立し俵屋宗達、尾形光琳が京都で活躍していたのに対し、抱一は江戸で活躍していたため江戸琳派の創始者と呼ばれるようになります。

 

尾形光琳の金屏風「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描く

文化14年(1817年)になると、古河藩のお抱え蒔絵師・原羊遊斎と手を組み、蒔絵制作が本格的に行われます。

文政4年(1821年)抱一は、代表作となる銀屏風 「風雨草花図」の制作を行いました。

この作品は「夏秋草図屏風」とも呼ばれ、抱一が熱心に研究を行い私淑した尾形光琳の金屏風「風神雷神図」の裏面に描かれました。

抱一にとって私淑した憧れの尾形光琳の作品の裏面に描くことができたのは、とっても喜ばしい出来事であったのではないでしょうか。

酒井抱一の最期

その後、『十二か月花鳥図』の連作を取り組んでいた抱一でしたが、文政11年(1828年)下谷根岸にある自宅、雨華庵で68歳で亡くなりました。

 

酒井抱一の有名な代表作品。絵と俳句

酒井抱一は生涯にかけて多くの作品を残しています。

その作品には円山派や四条派、土佐派などの多くの画派の技法を取り入れられ、自身の絵画様式を確立したため、江戸琳派の創設者と呼ばれるようになりました。

そんな酒井抱一の代表作品をご紹介いたします。

 

酒井抱一の代表作品1:「夏秋草図屏風」(「風雨草花図」)重要文化財

「風雨草花図」(通称:「夏秋草図屏風」)
By 酒井抱一Emuseum, パブリック・ドメイン, Link

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By 酒井抱一Emuseum, パブリック・ドメイン, Link

  • 尾形光琳の描いた「風神雷神図」の裏面に描かれた作品で重要文化財に指定されています。

 

抱一が60歳の頃に描いた作品とされています。

尾形光琳の描いた風神図の裏には秋草、雷神図の裏には夏草が描かれ「風神雷神図」とは対照的な、作品となっています。

現在は保存上の理由で「風神雷神図」とは別々に表装されています。

 

酒井抱一の代表作品2:「月に秋草図屏風」重要文化財

SakaiHoitsuAutumnFlowersandMoon.JPG
By オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアLordAmethさん – en.wikipedia からコモンズに IgiturCommonsHelper を用いて移動されました。, パブリック・ドメイン, Link

2曲1双の作品で、もともと京都の公家である二条家の襖絵であったとされています。

この作品を描いた抱一は65歳であったと推測されています。

 

酒井抱一の俳句1:「星一つ残して落つる花火かな」

酒井抱一の俳句2:「月照や野分の形の軒の萩」

【エピソード】尾形光琳や弟子との関係は?

酒井抱一は尾形光琳は直接会ったこともなければ弟子になったこともありません。

抱一が生きた時代に尾形光琳はいなかったので当たり前のことです。

しかし抱一はそんな尾形光琳に魅了され尊敬し、尾形光琳の技術を学びました。

尾形光琳もまた、俵屋宗達という人物を尊敬し私淑していたため、俵屋宗達と尾形光琳、酒井抱一は私淑という関係で時代を超えて結ばれています。

そんな尾形光琳を尊敬していた抱一ですので、尾形光琳の作品「風雷図屏風」の裏面に「夏秋草図」を描けたことは、非常に喜ばしい出来事であったことでしょう。

酒井抱一には、弟子がいました。

鈴木其一という絵師です。

抱一に弟子になった時期は分かっていませんが、抱一が自宅・雨華庵に住んでいた頃、鈴木其一も「雨華庵」の近くに住み、抱一の身の回りの世話をしながら、抱一から

  • 絵画技術
  • 茶道
  • 俳諧

 

などを学んでいたとされています。

また、抱一から、たびたび代筆を頼まれることがあったため、抱一の作品の中に、弟子・鈴木其一の作品も含まれていると考えられています。

 

まとめ 酒井抱一のドラマや映画はある?

酒井抱一の生涯、代表作品、尾形光琳や弟子との関係性のご紹介でいした。

簡単にまとめると酒井抱一は

  • 文化芸術に関心のある酒井雅楽頭家に誕生
  • 様々な画派から絵画技術を学ぶ
  • 出家すると、尾形光琳に魅了され私淑となる
  • 独自の作風を確立し江戸琳派の創始者となる
  • 68歳で亡くなる
  • 鈴木其一を弟子に持つ

 

酒井抱一は、尾形光琳の作品を模写し続け、様々な画派の技術を取り入れ独自の絵画様式を確立しました。

琳派を代表する俵屋宗達や尾形光琳が京都で活躍する一方、抱一は活躍の場を江戸に置いていたため「江戸琳派の創設者」と呼ばれるようになります。

そんな酒井抱一が登場するドラマや映画は残念ながらありませんでしたが、

  • 玉蟲敏子さんの『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい酒井抱一 生涯と作品』
  • 仲町啓子さん監修『別冊太陽日本のこころ177 酒井抱一 江戸琳派の粋人』
  • 小林忠さん編集『日本の美術463 酒井抱一と江戸琳派の美学』

 

などには、酒井抱一について詳しく記されています。

これを機に酒井抱一に興味を持った方は『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい酒井抱一 生涯と作品』、『別冊太陽日本のこころ177 酒井抱一 江戸琳派の粋人』などを読んでみてください。

以上「酒井抱一の生涯と代表作品。俳句。尾形光琳や弟子との関係性」のご紹介でした。

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