画家として有名なフィンセント・ファン・ゴッホ。
ご存知ですよね?
「ひまわり」の絵が有名ですが、他の絵はどんな絵なのか知っていますか?
「そう言えば知らない…」という方多いですよね?
ゴッホはどんな人生を送った人なのかを知ってる人はもっと少ないと思います。
今回は、
- ゴッホの生い立ちとは?実在した?
- 【代表作品】ゴッホの生涯の経歴と最後は?
- 【エピソード】ゴッホの人柄や性格が分かる逸話
- まとめ ゴッホはどんな人?おすすめ映画
を紹介します!
これを読めば、ゴッホの生い立ちや性格、作品について知ることが出来ます。「ひまわり」を始めとした作品を見る時も、ゴッホのことを知っていれば、違う視点から見て楽しめます。
「ゴッホのことを知ってる!」という方も、もちろん大歓迎です!
ぜひご覧下さい。
ゴッホの生い立ちとは?実在した?
ヴィンセント・ファン・ゴッホは、19世紀のヨーロッパを生きた人です。
具体的には
- 1853年3月30日、オランダの北ブラバント地方フロート・ズンデルト村で生まれる
- 1890年7月29日、フランスのオーヴェルで亡くなる
という37年の生涯を生きました。
「地名を言われてもよく分からない…」という人は、下に載せている地図を参考にしながら読み進めて下さい。
(参考:『旅行のとも ZenTech』 https://www.travel-zentech.jp/world/map/netherlands/Map_of_Provinces.htm)
(参考:『地図(ベルギー)』 https://blog.goo.ne.jp/okubo-toshimichi/e/922dce5bcfdbb29f1d9f2278b426c527)
(参考:『フランス地図リンク集』 http://www.hir-net.com/link/map/france.html)
ヴィンセント・ファン・ゴッホ(長いので日本人に馴染み深いゴッホで統一します)は、キリスト教の牧師である父のテオドルス・ファン・ゴッホと母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスとの間の長男として誕生しました。
両親はゴッホの誕生をとても喜んで、「勝利者」という意味を持つ「フィンセント」と名づけます。スゴイ名前ですね。名前負けする人に育っちゃったら重荷になりそう…。
ゴッホの兄弟には、3人と妹と2人の弟がいました。弟の1人はテオドロスといい、ゴッホの父親と同じ名前を与えられていました。父親と弟が同じ名前で区別が付きにくいので、お父さんの方は「父」または「父親」、弟の方は「テオドルス」で統一します。
ゴッホは兄弟の中でも特にテオドルスと仲が良く、喧嘩をしながらも一生友達のような関係を築いていました。男兄弟同士って何か分かり合える物があるんですかね?女性で女兄弟しかいない私には分かりません。
さて、ゴッホの家族は一見普通の牧師の家庭に見えますが、親戚一同が実はスゴイ人々ばかりです。
- 一族の中から大蔵大臣(財務大臣のこと)や外交官を出したことがある、オランダでは名門の一族
- 父親の5人の兄弟のうち、長男・ヨハンネスは海軍将校、他の兄弟のフィンセント(ゴッホの伯父の1人です!)、ヘンドリック、コルネリウスは画商(絵画を売る商人のこと)として成功した
- 母・アンナは、宮廷の製本職人(機械がない時代に本の装丁を作っていた職人のこと)の娘
なんというかもう…庶民にとっては雲の上の存在です。
ゴッホはそんな家庭で、当然のようにお金持ちのお坊ちゃんとして育ちます。
そのせいか、ゴッホは気難しくてすぐに癇癪を起こす少年で、学校の教師と両親にとっては手がかかる問題児でした。
しかし、カッとなりやすいだけで家族のことは大切に思っており、得意な絵を描いて家族の誕生日プレゼントにもしていたようです。また、弟のテオドルスとは仲が良い兄弟でした。
両親は喧嘩っ早くて問題児扱いされるゴッホの将来を危惧し、親戚一同を集めて会議を開きます。
親戚集めて会議って、もう家庭の範囲が広すぎますよ…。
とにかく、学校はゴッホに合わないのだろうということで、画商として成功していた伯父の1人・セントが開いた画廊で働かせてみることになりました。
ゴッホは絵を描くのは得意でしたが、子どもの時から画家になりたかったとは思っていませんでした。
意外ですよね。
しかも、ゴッホが作品を作ったのは、27歳〜37歳のほんの10年間で、その間に約2千点にも上る作品を制作しているんです!
人間技とは思えませんよね。一時期話題になってたゴーストライターのような存在を疑ってしまいます。
しかし、これら全ての作品は、画家としてのゴッホが制作した物で間違いありません。
どうしてかと言うと、ゴッホはかなりの筆まめで、テオドルスや友人たちに数日ごとに手紙を送っています。その手紙の中には、
- 自分の生活のこと
- 普段何を考えているか
だけではなく、「今作っている作品のこと」を事細かに書いているのです。
しかも、その内容は実際の作品と合致する物ばかりなのです。
ここまで来ると、ゴッホにはゴーストライターのような人がいたのではなく、ゴッホという人間が全ての作品を創作したとはっきりと言うことが出来ます。
では、学校を辞めて働き始めたゴッホがどのようにして画家になったのか、見ていきましょう!
【代表作品】ゴッホの生涯の経歴と最後は?
さて、画商であるセント伯父の紹介で、ゴッホは16歳の時にグーピル商会に入ります。
この時からゴッホは様々な場所へ行ったり来たりするので、大きく
- グーピル商会時代
- 寄宿学校の教師時代
- 補助説教師時代
- 書店員時代
- 伝道師養成学校時代
- ボリナージュ時代
- ブリュッセル時代
- エッテン時代
- ハーグ時代
- ドレンテ・ヌエネン時代
- アントワープ時代
- パリ時代
- 南フランス時代
- ポントワーズ時代
と分けて紹介していきます。
グーピル商会時代
- 1869年〜1875年
- ゴッホが16歳〜22歳の間
- 職業は画商
ゴッホはまずグーピル商会ハーグ支店で働き始めましたが、それまでの問題行動が嘘のようになくなります。
画商という仕事はゴッホに会っており、かつ興味が持てる物で、ゴッホの熱心な仕事ぶりをハーグ支店支配人がゴッホの両親へ伝える手紙が残っています。
また、故郷を離れても仲が良い弟・テオドルスとは文通でお互いの近況を報告し合っていました。ゴッホの手紙に影響を受けたテオドルスは、1872年にセント伯父の紹介で、同じグーピル商会のブリュッセル支店に就職します。ゴッホはこのことをとても喜びました。
真面目な仕事ぶりを認められたゴッホは昇給しただけでなく、1873年5月にロンドン支店へと栄転します。
しかし、一見すると華々しいこれらの変化が、ゴッホの人生に決定的な変化を与えることになるのです。
ロンドン支店で働いていたゴッホは、1873年9月に新しい下宿先・ロワイエ家に引っ越します。そこの娘であるウルスラに、ゴッホはなんと恋をしてしまうのです!
ゴッホは1年近く自分の恋心を伝えることが出来ませんでしたが、1874年7月、ゴッホは意を決してウルスラに結婚の申し込みをします。って、交際じゃなくていきなり結婚ですか⁉︎
しかし、彼女はゴッホの申し込みを素気無く断ります。というのも、ウルスラには既に婚約者がいたからです。オイオイ、好きな人の交友関係くらいまず調べろよ…。
失恋をしたゴッホは仕事にも身が入らなくなり、癇癪と気難しさが再び復活します。勤務態度も悪くなり、ゴッホを心配したセント伯父は、彼をパリ支店へ移動させました。
セント伯父としては「失恋で負った一時的な傷は、花の都パリで新しい恋でも見つければすぐに治るだろう」と考えたのです。しかし、セント伯父の目論見は思わぬ形で失敗に終わります。
ゴッホはパリでは肝心の新しい恋を見つけることはなく、ルーヴルやリュクサンブールに通い、絵画の世界に傾倒していきます。それだけならまだ良かったのですが、宗教画の影響で宗教の神秘的な世界に傾倒してしまいます。
その結果、身勝手な行動に拍車がかかり、怒ったグーピル商会の経営者とセント伯父によって、1875年12月にゴッホは解雇されてしまいます。
寄宿学校の教師時代
- 1876年4月〜6月
- ゴッホは23歳
- 職業は寄宿学校の教師
解雇されたゴッホが生活のために仕事を探すことにして、イギリスの新聞に掲載された求人広告に応募しました。
いくつかの応募先の中から返事が来たのは、ロンドンの近くのラムズゲートという場所にある寄宿学校からのみでした。
ゴッホは1876年4月16日、早速ラムズゲートに向かいました。
しかしラムズゲートは
- 貧しい人々が住む地域
- 10歳から14歳まで24人の生徒が寄宿学校に通っていたが、みな青白く痩せていた
- 授業料の滞納が日常茶飯事であり、生徒の家庭を訪問して授業料を徴収するのもゴッホの仕事だった
という地域の寄宿学校でした。
貧しい人々の生活を見たゴッホにとって、ここでの仕事は当然楽しい物ではありません。
その上、貧しい人々からお金を徴収しなければならないのです。牧師である父を見て育ったゴッホには、大都会ロンドンの繁栄の裏に隠された貧民街の事情は衝撃的な物でした。次第にゴッホは、貧しい人々の心を救う牧師になりたいと考えるようになります。
授業料の徴収を躊躇ったゴッホは、同じ年の6月に寄宿学校を首になりました。
補助説教師時代
- 1876年7月〜12月
- ゴッホは23歳
- 職業は牧師の下で働く補助説教師
ゴッホは寄宿学校を首になりましたが、貧しい人々の心を救う牧師になりたいという情熱は消えませんでした。
そんな志を持つゴッホに手を差し伸べたのは、牧師であり学校の経営も手掛けるジョーンズ氏でした。彼は牧師の正式な免許を持たないゴッホが、ジョーンズ氏の経営する学校で教師をしながら、ジョーンズ氏が管理する教会で説教師として働けるように手配をしたのです。
ゴッホはあくまでジョーンズ氏の仕事を手伝うという形なので、この時のゴッホの職業は補助説教師という物になります。
1876年11月4日、ゴッホはジョーンズ氏の教会で記念すべき初めての説教を行いました。
それだけに飽き足らず、ロンドンで最も貧しい地区に赴き、説教を行いました。
しかし、
- ろくに食事もせずに祈って働き、聖書を読む
- 元々の性格である異常な集中僻
が原因で無理が祟り、身体を壊してしまいます。
病気になったゴッホは、オランダのエッテンという場所に赴任していた両親の元へ送り返されました。
書店員時代
- 1877年1月〜4月
- ゴッホは23歳〜24歳
- 職業は書店員
ゴッホの両親は変わり者の息子に手を焼いていましたが、セント伯父が再び、ドルトレヒトという場所にある書店での働き口を紹介してくれました。
ゴッホは伯父の申し出をありがたく受け入れ、1877年1月にブラート氏という人物が経営する書店に就職します。
そこでゴッホは、
- 下宿した雑穀商の家では「慰め主キリスト」「エマオの巡礼」「悲しみの聖母」「キリストのまねび」など、たくさんの宗教画が所狭しと並べられていた
- ゴッホは毎日食事を取ることも忘れて夜通し聖書を読み、聖書の言葉をノートに書き写し、英語、ドイツ語、フランス語に翻訳した
- 店に出ても本を売ることに全く興味を示さず、ずっと聖書から目を離さなかった
- 他の店員たちからゴッホは気味悪がられたが、事前にゴッホが変わり者だと知らされていたブラート氏は寛大にゴッホのことを見守っていた
という生活を送りました。
ブラートさん、優しすぎやろ…。
受験生時代
- 1877年5月〜1878年7月
- ゴッホは24歳〜25歳
- 神学校への入学を目指して受験勉強をする
しかし牧師になりたいというゴッホの熱意は冷めることがなく、1877年4月、わずか3ヶ月で書店勤めを切り上げて、両親がいるエッテンへ戻ってしまいます。
当然両親はゴッホの希望に戸惑ってしまいますが、父が現職の牧師ということもあって、ゴッホが牧師になることを応援することにしました。
当時、オランダで牧師になるためには、難しい入学試験を突破して、神学校で6年間学ばなくてはいけませんでした。
そのため、ゴッホは
- 当時、アムステルダムでやもめ暮らしをしていた海軍中将のヤン伯父の元にゴッホは身を寄せ、受験勉強をした
- 母方の伯父であるストリッケルは、若くて優秀なユダヤ人のメンデス・ダ・コスタをゴッホの家庭教師にしてくれた
という環境で受験勉強に励みました。
その結果はどうだったのかというと、
- 試験に必要なギリシア語やラテン語、代数、幾何、歴史、地理などの勉強に必死に取り組んだ
- ヤン伯父に夜は休むようにといくら注意されても、毎日明け方まで勉強した
- メンデスは26歳、ゴッホは24歳と歳が近かったこともあり、2人は良い話し相手となった
- 最初のうちは、ゴッホの勉強の進捗は上手く進んでいた
- しかし、ギリシア語の動詞で躓いてしまい、克服することが出来なかった
- 勉強を始めて1年近く経った頃、メンデスはゴッホが試験に合格する見込みがないという結論を出さざるを得なかった
- 一方で、ゴッホも神の道で貧しい人々を救うために、このような勉強が何の役に立つのかと疑問を感じて苦悩していた
という散々な結果となってしまいます。
ゴッホは14ヶ月間の受験勉強の末、神学校に入学することは叶いませんでした。
伝道師養成学校時代
- 1878年8月〜1878年12月
- ゴッホは25歳
- ベルギーで伝道師になることを志す
ゴッホは失意の内にエッテンの両親の元に戻りますが、そんな彼に手を差し伸べたのは、補助説教師時代にゴッホを助けてくれたジョーンズ氏でした。
彼はゴッホとゴッホの両親に、オランダで牧師になるよりもベルギーで伝道師になってみてはどうだろうという話を持ちかけます。
というのも、
- ベルギーでは伝道師養成学校で3年間だけ勉強すれば良い
- 伝道師には心のこもった分かりやすい説教をする能力が求められており、古典語の知識や神学はあまり要求されない
- 伝道師への適性と信仰心があれば問題とされない
という理由からでした。
これを聞いたゴッホはベルギーで伝道師になることを志し、1878年8月にブリュッセルの伝道師養成学校に入学しました。
ここでゴッホは、
- ボクマ師という人物の元で研修を受け、必死に努力した
- しかし子どもの時から抱える性格の問題が浮き彫りになり、身勝手な生活態度や乱暴な言葉遣いをした
- それらを何度注意されてもゴッホは改めることが出来ず、却って更に興奮状態に陥った
- 研修仲間や牧師たちはゴッホが暖かい心を持っていることは知っていたが、同時に何かに服従することが出来ない人物だとも感じていた
という行動をします。
牧師たちはこのようなゴッホに伝道師の資格を与えることは出来ず、まだ研修の途中だが、これ以上ゴッホが学校に留まることは無駄であろうという結論を出し、本人にも伝えます。
ゴッホは失意のうちに1878年12月に、伝道師養成学校を退学しました。
ボリナージュ時代
- 1878年12月〜1880年10月
- ゴッホは25歳〜27歳
- 貧困地区で自主的に伝道師として活動する
ゴッホは伝道師養成学校を退学した後、両親の元に戻る代わりに、養成学校で話を聞いたことがあるボリナージュという地域に行ってみることにします。
ボリナージュとは、
- ベルギー南部にある貧しい炭鉱地
- 激しい労働や石炭の埃による病気、炭鉱の爆発による事故死が蔓延していた
- 賃金は今までにないほど下落の一途を辿っていた
という地域で、ゴッホはこのような地域にこそ伝道師が必要だと感じていました。
ゴッホはボリナージュで、
- 街角に立ち、神の言葉を説いた
- 最初は住人たちに馬鹿にされたものの、次第に伝道師として人々に受け入れられるようになる
という活動をしました。
やがてゴッホの伝道師としての評判を耳にした伝道師委員会は、ゴッホを試験的に伝道師として任命し、月々の給料を支払うことを決定します。
伝道師として認められたゴッホは喜びを感じ、ますます伝道師としての活動をしていきます。
- ゴッホは鉱夫たちと付き合うために、自分も鉱夫のようなボロボロの衣服を着て、顔を煤で汚し、あばら家に住んで、藁の上で寝た
- 教区の信者たちの家を訪ねて歩き、必要とする人々には自分の衣服や金を全て分け与えた
- 炭鉱での爆発や感染症の流行、重病人が出た時など、人々を救うための行動や看護を率先して行った
これらのゴッホの行動に対して
- 当然、労働者たちは感謝した
- ブリュッセルの伝道委員会にとって、あまりに激しい自己犠牲と乞食のような身なりは、とても正気の沙汰とは思えなかった
人々の反応には違いが見られました。
そのため、試験期間の6ヶ月が過ぎた1879年7月に、ゴッホを解任しました。
ゴッホの伝道師としての活動を委員会に報告した視察官の記録には、「この青年は、良い伝道になくてはならない素質である良識と精神の均衡に欠けている」という言葉が残されています。
いやいや、それくらいしないと人々が救われないくらい貧しい地域だったんですよ…。そんな言ってゴッホを解任するなら、代わりになるようなことを委員会がしようよ!って思いませんか?
とにかく、解任されたゴッホは途方に暮れて、伝道委員会のメンバーの1人であるピーテルセン牧師の元へ行き、助言を求めました。
ピーテルセン牧師はボリナージュのキュエム村の牧師を補助する仕事を紹介しますが、牧師の道も伝道師の道も閉ざされてしまったゴッホは、仕事に身を入れることが出来ませんでした。
この頃、ゴッホは
- 両親から何でも良いからまともな仕事に就けば良いのに、どうしてそれを拒むのかと非難される
- ゴッホはそのような忠告に今まで従ってきたが、どれも結果は散々ではなかったかと主張した
- 仲が良かった弟のテオドルスも、「どうしてエッテンに戻って仕事に就かないのか。年金生活者のような暮らしをするつもりなのか。」と非難され、それまで文通をしていたのに9ヶ月間音信不通になる
という、家族からも弟からも見捨てられる状態に陥っていました。
そんな中、ゴッホは自分が一体何の役に立ち、何をすれば良いのかと苦悩します。
そして見つけた答えが、絵画を描くことだったのです。1879年から1880年までの苦悩の末、ゴッホは画家として身を立てることを決意しました。
1880年7月、テオドルスが自分との文通を辞めた後も、9ヶ月もの間こっそりと自分に送金してくれていたことを知り、ゴッホとテオドルスの文通が再開します。ってそれ気づかなかったことにビックリだよ!
とにかく、和解したゴッホの画家になるという決意を、テオドルスとグーピル商会ハーグ支店支配人のテルステーフが応援しました。
この頃、ゴッホへ手紙と共に送られたのは、
- ミレーやブルトン、ブリオン、ボートンなどの版画
- デッサンの教則本や解剖学、遠近法に関する本
で、ゴッホはそれらを見ながら
- 版画に描かれた人物のデッサンを研究し、猛烈な勢いで模写した
- 本に書いている練習法に従って、前に聖書を読んでいた時と同じような熱心さでデッサンの研究に取り組んだ
- デッサンのモデルは、ゴッホが伝道師時代に自らも彼らの生活の中に入って行った鉱夫や職工たちだった
という、それまでの経験と自分の性格の特徴を活かして絵画に熱中します。
ブリュッセル時代
- 1880年10月〜1881年4月
- ゴッホは27歳~28歳
- 駆け出しの画家としての生活をスタートさせる
1880年10月、画家としての成功を夢見て、ゴッホはブリュッセルへ引っ越します。
ブリュッセルでは、
- テオドルスの知り合いの画家であるアントン・ファン・ラッパルトと親交を結び、彼のアトリエを使わせてもらった
- ブリュッセルのミディ通り72番地で、1日3食の食事が出る部屋を借りた
- 家から生活費の仕送りを送ってもらう
という生活をしました。
ゴッホはデッサンの腕を磨けばすぐに収入を得ることが出来ると楽観的に考えていましたが(現実がそんな甘い訳あるかい!)、中々思うようには芽が出ませんでした。
その上、ラッパルトは1881年4月にオランダへ引っ越さないといけなくなってしまいます。そうなると、ゴッホは絵を描くことが出来るアトリエが無くなってしまいます。
ゴッホは仕方なく、エッテンの両親の元へ戻りました。
エッテン時代
- 1881年4月〜1881年12月
- ゴッホは28歳
- 両親の元で絵画の研究に励む
ゴッホの帰郷を両親は暖かく迎えました。というのも、自分が進むべき道を迷っていた息子が進むべき道を見出したことを喜んでいたからです。しかも両親は牧師館の一部をアトリエに改装して、ゴッホが絵の勉強に集中出来るようにもしてくれたのです。
どれだけ両親が嬉しかったのか、これだけでもよく分かりますよね〜。
恵まれた環境でゴッホは、
- 『デッサン教則本』やミレーの木版画を手本にして、デッサンを描いた
- その数は、6ヶ月で約50点に上った
- 1881年7月、ラッパルトとテオドルスがエッテンに遊びに来て、ゴッホの制作を励ました
- いとこの画家マウフェとグーピル商会支店長テルステーフがゴッホのデッサンを見て、彼の才能を認めた
- マウフェは更に、ゴッホにとって有益な助言を行った
- ゴッホはマウフェの助言に従い、できるだけ生きたモデルを使って写生を行い、木炭だけでなくチョークや筆、刷毛を使って作品を制作するようにした
- 親戚の成功している画家からの評価は、ゴッホの家庭内での立場を安定させた
と、画家として望ましい研究を進めました。
しかし1881年8月にある出来事が起こります。アムステルダムにいる伯父のストリッケル牧師の娘ケイがエッテンに来ました。
ケイは夫を亡くしたばかりで、まだ幼い息子を連れて、傷心を癒すために都会を離れたのです。
このケイという女性にゴッホは何とすっかり夢中になってしまい、彼女に結婚の申し込みをしました。ケイの答えは「駄目です。絶対に駄目です。」でした。
夫を亡くしたばかりなので当然ですよね。考えなさいよ、ゴッホさん…。
しかし、思い込んだら突っ走るゴッホの性格は、この後も悪い方向に向かってしまいます。
- ゴッホは諦めずにケイに結婚の申し込みを続ける
- 怯えたケイは、アムステルダムの実家に逃げ帰ってしまう
- ゴッホは何度もケイに手紙を書くが、ケイは封も開けずに手紙を送り返した
- その年の11月の末、ゴッホはアムステルダムのケイの実家を突然訪れた
- ゴッホの父とケイの父・ストリッケル伯父はゴッホの常軌を逸した行動に既に激怒しており、ストリッケル伯父は訪ねて来たゴッホに「ケイは君のことを拒絶しており、怯えている。これ以上つきまとうのは止めてくれ。」ときつく言った
- するとゴッホは、目の前のランプの火に自分の片手を突っ込み、「この炎に手を入れている間にケイを連れて来てくれ!」と叫んだ
- ストリッケル伯父は飛びかかってランプの火を消し、ゴッホは手に火傷を負った
- 結局、アムステルダムでゴッホがケイに会うことはなかった
という完全なストーカー行為に出ます。
これ、当時は法律がなかっただけで、現代だったらストーカーで訴えられて前科がついた上にケイへの接近禁止命令が出てもおかしくないレベルですよ…。
正直に言って同情の余地もありませんが、傷心のゴッホはエッテンに戻った時に、父親と喧嘩をして家を飛び出してしまいます。
ハーグ時代
- 1881年12月〜1883年9月
- ゴッホは28歳〜30歳
- 画家である従兄弟の支援を受けるが、女性との同棲問題で人間関係が悪化する一方、作品へ望ましい影響が与えられる
エッテンの両親の家を飛び出したゴッホは、以前に自分のデッサンを評価してくれた従兄弟の画家・マウフェの元を訪ねます。
マウフェは快くゴッホの創作活動を支援してくれました。良い従兄弟だ…!
マウフェはゴッホのために、
- 絵の具やパレット、筆を提供した
- アトリエを整えるための資金を貸してくれた
- 知り合いの画家たちに紹介し、ゴッホと画家たちとの交流を取り持とうとした
という、従兄弟としては至れり尽くせりの支援をしました。
また、ゴッホの絵に対して適切で丁寧な助言もしましたが、ここでゴッホの性格の悪い点が出てしまいます。
- ゴッホはしばしば、マウフェの助言に激しく反発し、その度に2人は険悪な雰囲気になった
- マリス、デ・ボック、ブレイトネル、ウェイセンブルフなどの画家たちと交流し、彼らはゴッホにアドバイスを与えたが、ゴッホがアドバイスを聞き入れることが出来ず、交友関係を築くことが出来なかった
- 貧しい売春婦のシーンという女性と出会い、孤独を感じていたゴッホは彼女にのめり込んでしまった
- シーンはさらに、子連れでアルコール中毒であり、ゴッホと出会った時にはもう1人の子どもを妊娠していた
- モデル代に困ったゴッホは、シーンをモデルとしたデッサン『グレイト・レディ』『悲しみ』などの作品を描くようになった
- 支援者であるテルステーフやコル伯父、マウフェは、売春婦を職業とするシーンとの交際を止めるようにと、ゴッホに厳しく言った
- しかしゴッホはシーンとの結婚を望むようになり、支援者たちと絶縁状態になった
(参考:『悲しみ』https://www.musey.net/2787)
どうしてゴッホは恵まれた環境になると自分を抑えきれずに、わざわざその環境を壊すようなことを積極的にしてしまうんでしょう…?
元々彼が生まれ持った気質なんですかね?現代でもたまに、どうしても我慢が出来ない人っていますもんね。私もそうかもしれないし…。
とにかくゴッホは、周りの反対を押し切ってシーンとの愛を貫こうとします。
しかし、シーンとの同棲を始める前に、ゴッホは疲労と性病で1882年6月に約1ヶ月間の入院をしなくてはなりませんでした。それでも退院した7月にはお産を終えたシーンとの同棲を始めているので、余程ゴッホは彼女に惚れ込んでいたんでしょう。
この頃のゴッホは、
- 屋根裏部屋の狭い部屋で共に暮らすシーンと娘マリア、息子ウィレムをモデルにして「家族」をテーマに絵を描いた
- その代表的な作品は、『ベッドの前にひざまづく少女』
- それまで白黒のデッサンのみを描いていたが、絵の具を使って色のついた作品を制作するようになった
- 絵の具を使ったこの頃の作品に『教会にて』が挙げられる
- また、風景画にも積極的に取り組むようになった
という創作活動を続けます。一方で生活の方は依然として苦しいままでした。
- 弟テオドルスはゴッホへの経済的な援助を続けていたが、シーンとの結婚だけは諦めてほしいと思っており、ゴッホは弟との間では結婚の話を持ち出さなくなった
- テオドルス以外の人々からゴッホへの視線は冷たい物だった
- その上、ゴッホ特有の作品制作への過集中が加わり、次第に身体を壊していった
- シーンはゴッホに出会う前の経験から男性不信を心に積み重ねており、時々ゴッホを試すような振る舞いと裏切りを行った
- その結果、1883年9月にゴッホはシーンとの同棲を解消した
同棲の解消早っ!
まだ結婚してなくて良かったかもしれません。何か皮肉だけど。
ドレンテ・ヌエネン時代
- 1883年9月〜1885年12月
- ゴッホは30歳〜32歳
- 貧しい人々をモデルにした画風が確立されていく
1883年9月11日、ゴッホはシーンを捨ててドレンテへ旅立ちました。
- 自分が既に30歳になり、デッサンを始めて3年、油絵を始めて3年が経つのに、何も成し遂げられていないことへの焦り
- 貧しいシーンと子どもたちを見捨て、シーンを再び売春婦の道へと落としてしまった罪悪感
- まともな人間関係を築くことが出来ない性格への情けなさ
- 自分に残された物は、絵画以外に何もない
という心境から、ゴッホは作品制作に一心不乱に打ち込みました。
ドレンテは貧しい泥炭地であり、ゴッホは暗い色彩で貧しい人々のリアルな姿を描きました。
しかし、1883年12月に再び身体を壊し、父の赴任先であるヌエネンに身を寄せました。仲違いしていた両親は、躊躇いながらもゴッホを家に置き、アトリエを与えます。
ゴッホは外に出て見てきた貧しい人々の姿をアトリエで絵画にしました。この時に多くの作品を制作しており、代表的な作品としては
- 『畑の農夫』
- 『ヌエネンの農婦の顔』
- 『座っている農婦』
- 『ジャガイモを食べる人々』
- 『機織り』(ペン画)
が挙げられます。
(参考:『ジャガイモを食べる人々』https://www.musey.net/1417)
(参考:『暖炉の側の農婦』https://www.musey.net/3067)
(参考:『ヌエネンの古い教会の塔』https://www.musey.net/2785)
(参考:『コテージ』https://www.musey.net/2791)
しかし1885年3月26日に、ゴッホの父親は脳卒中で急逝します。
ゴッホは悲しみに暮れましたが、新しく赴任してきた牧師と上手く関係を築くことが出来ず、さらに他の教会の聖職者とも揉め事を起こしてしまいます。
怒った聖職者たちは、教区の信者である農民たちに、ゴッホのモデルになることを禁止しました。って、聖職者が私情でそんな権力の乱用をしちゃダメでしょ!
絵画のモデルを探すのに苦労する環境になってしまいましたが、ちょうどその頃、ゴッホは色彩の研究をしたいと考えていました。というのも、デッサンのみを描いていた時には専ら白黒で絵を描いていて、色の研究などしたことがなかったからです。
よくそんなんで後世で大作と呼ばれる『ジャガイモを食べる人々』を描いたなと思いますが、この時は本人含めて誰もそんな大作だとは思わなかったのですね。この天才肌め。
さて、色彩の研究をしたいと思っていたゴッホの頭に、ある画家の名前が浮かびました。
その画家の名前はルーベンスです。ルーベンスは巨匠と言われる画家で、素晴らしい色彩の絵画を描くことで知られていました。ちなみに本物のルーベンスと『フランダースの犬』は何の関係もありませんので、勘違いしてる人は今ここで頭の中の関係図をリセットして下さい。
ルーベンスの絵画がたくさんあったのは、フランスのアントワープの街でした。
ゴッホは「ルーベンスの絵を見て色彩の勉強をしたい!」(意訳です)とネロも顔負けの目的意識を持って、突然ヌエネンを旅立ちました。
1885年11月のことです。それ以後、ゴッホが故郷であるオランダの地を踏むことはありませんでした。
アントワープ時代
- 1885年11月〜1886年2月
- ゴッホは32歳
- 色彩の研究を重ね、絵画での色使いが鮮やかな物になる
アントワープでゴッホは2つのジャンルの作品を見て、衝撃を受けます。
1つ目は、言わずと知れたルーベンスの作品で、「今までの自分の絵に比べたら断然色使いが明るい。自分の絵は暗すぎるだろ!」(意訳です)という衝撃です。
2つ目はなんと、日本の浮世絵です。「なんで日本の浮世絵がフランスにあるの⁉︎」とびっくりしますよね。
実はこの時代、西洋にはない東洋的な物が画家の間で流行った時期があり、それに目をつけた画商たちが東洋の絵画をたくさん仕入れて取引をしていたのです。その中に、はるか極東の島国の作品である浮世絵も入っており、浮世絵は当時のヨーロッパの人々の目にはエキゾチックで魅力的な作品に見えたのです。日本で育った人間には分からん感覚だ。
とにかくゴッホは日本の浮世絵を見て、「単純な線で描かれているのに、何て明るく力強い色をだしているんだ!」(意訳です)と衝撃を受けます。
そしてゴッホは、「やっぱり自分で研究をするだけではダメだ。まずは絵画の基礎をきちんと教わらないと。」(意訳です)と考え直し、1886年1月に無料の美術学校に入学しました。
「33歳になってやっと基礎を学ぶんかい!」というツッコミはさて置き、我が強い性格のゴッホが人から教えを受けようと自主的に思うようになったのはすごい成長ですね。
それくらいゴッホにとっては衝撃が強かったんです。日本の浮世絵、グッジョブ‼︎
しかし、入学してからのゴッホは、やっぱりゴッホでした。ここまで読んだあなたは、大体想像がつきますよね?
- ゴッホは美術学校に入学してから、昼間は油絵の授業、夕方はデッサン、夜間は画家のクラブでモデルを使った作品を制作した
- 限界まで頑張ったせいで、色彩への理解が深まった代わりに、またしても体調を崩した
- 学校の教師はゴッホの絵を見ても「腐った犬のような絵」と言い捨て、評価してくれない
「体調を崩すほど過集中になってしまうのは、ゴッホはいい加減、自分の身体の限界を学んだ方が良いのでは?」とツッコミたくなりますね。
しかし、天才は周りに理解されないとは言え、美術学校の先生は見る目がなさ過ぎるでしょ!
後世に名を残すゴッホの絵を「腐った犬のような絵」ですってよ!せめて教師なら、思っても言わないでオブラートに包んだ言葉を選びましょうよ!
アントワープで色彩を学ぶことは出来ましたが、絵画を理解してもらえなかったゴッホは、わずか3ヶ月でアントワープを去ります。
これは、はっきり言って早めに去って正解だと、私は個人的に思いました。いつまでも自分の作品をディスられ続ける環境になんていたら、筆を折りたくなってしまいますから、精神衛生上は良い判断でした。
パリ時代
- 1886年2月〜1888年2月
- ゴッホは32歳〜34歳
- パリで印象派の画家たちの影響を受ける
1886年2月、ゴッホはアントワープを去り、弟テオドルスが住むパリへ向かいました。
ゴッホがパリに向かった理由は、主に2つありました。
- 以前よりテオドルスから、一緒に暮らして生活費をいくらか浮かさないかと提案され、パリに来るようにと誘われていた
- 当時の有名な画家であるコルモンのアトリエに入門し、絵画の基礎でアントワープでは学べなかった部分を学びたいと考えたから
テオドルスはゴッホと共に暮らせることを喜び、ゴッホもテオドルスが借りているアパートからコルモンのアトリエに通いで入門することが出来ました。
コルモンのアトリエでは、
- まだ22歳だったトゥールーズ・ロートレック、18歳だったエミール・ベルナールなど、後に名を馳せる画家たちと交流した
- また、ベルナールやジョン・ラッセル、リシュアン、ロートレック、ゴッホたちは、お互いに作品のモデルになり、これらの画家たちやゴッホの姿を描いた作品がたくさん残された
- ゴッホ自身がモデルを務めた経験から、鏡を見て『自画像』を描くことを始めた
- しかし、ゴッホはコルモンや他の画家たちの意見を全く聞かず、次第にアトリエでは嫌煙される立場になり、わずか4ヶ月でアトリエを去った
アントワープで謙虚に教わろうとしていたあの姿勢はどこに行ったんだ⁉︎
また、画商であるテオドルスの伝手で、印象派の画家たちと交流するようになります。
印象派とは、
- 19世紀のフランスで起こった絵画の画風の変化と、その変化にこだわって絵を描いた画家たちのことを指す
- それまでの絵画は専らアトリエで、輪郭線をはっきりさせ、光と陰の使い分けの技法を徹底させていた
- 一方、印象派の絵画は最初から最後まで、実際の自然やそこで生活する人々、動植物を目の前にして、戸外で制作する
- また、輪郭線ははっきりと描かずに、淡い色使いの使い分けで、ぼんやりとした輪郭線を示す
- 淡い色彩を使うことで、仄かな明るさや躍動感も絵画の中に入れ込むことが出来る
画風と、そのような絵画を描く画家のことです。
こうした印象派の絵画は、当時のフランスでまだ生まれたばかりで、ゴッホは印象派のことを何も知りませんでした。
しかし、テオドルスの紹介で、印象派の画家たちの溜まり場であるピガール広場の「ヌヴェル・アテーヌ」や印象派の絵画を描く専門の画材が売られているタンギー爺さんの画材屋に足を運びました。
また、当時の印象派は芸術界で認められていなかったため、画家たちが自主的に展覧会を行いました。
ゴッホはそれらの展覧会にも赴き、印象派の技法を貪欲に研究して、自分に絵に取り込んでいきました。
他にも、
- テオドルスの紹介で駆け出しの画家であるポール・ゴーガンと会い、2人は意気投合した
- タンギー爺さんの好意で、ゴッホの絵は彼の店に飾られた
- さらにゴッホは、ゴーガンたちを誘って大衆レストランの主人を説得し、自分たちの作品をレストランの壁に飾ってもらった
- しかし、レストランでの展覧会は上手く行かず、ゴッホはレストランの主人との大喧嘩もしてしまった
- 次にゴッホは、当時の芸術家たちの溜まり場となっていた酒場「タンブーラン」に絵画を飾ってもらった所、芸術家たちから好評だった
- ついでに、ゴッホは「タンブーラン」の女主人アゴスティナ・セガトーリと一時期愛人関係になった
という活動を積極的に行います。なんか、女性関係が段々と器用になっている気がしなくもないような…。
とにかく、ゴッホはパリにいた期間に印象派の影響を多大に受け、
- 『居酒屋タンブーラン』
- 『アニエールの岸辺』
などを制作します。
(参考:『タンギー爺さん』https://www.musey.net/1420)
(参考:『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』https://www.musey.net/3065)
(参考:『カフェ・タンブランの女』https://www.musey.net/2802)
しかし、
- 周囲との人間関係がまたしても悪化した
- テオドルスが結婚することになり、これ以上自分がパリで弟と暮らしていたら迷惑になると考えた
- お酒の飲み過ぎで神経をやられていた
という理由から、ゴッホは1888年2月に突然パリを旅立ちました。
南フランス時代
- 1888年2月〜1890年5月
- ゴッホは34歳〜37歳
- 南フランスの太陽と風景を描くことにこだわり、ゴッホ独自の代表的な色彩が完成した
パリを旅立ったゴッホがどこに行ったかと言いますと、南フランスのアルルという町に移り住みました。
そこで、ゴッホはそれまで獲得した技法を駆使して、アルルに滞在するわずか15ヶ月の間に、約200点もの作品を制作しました。
- 並々ならない生来の過集中
- アルルに降り注ぐ明るい太陽を見て、自分なりの色彩を得た
ことがゴッホの創作意欲に火をつけたのです。
実際、この時期に色彩豊かなゴッホの有名な絵画の多くが制作されています。
具体的には、
- 『刈り入れ』
- 『花咲く果樹園』
- 『アルルの黄色い家』
- 『アルルの寝室』
- 『海辺の釣り船』
- 『サント・マリの農家』
- 『夜のカフェ・テラス』
などがあります。
(参考:『種まく人』https://www.musey.net/422)
(参考:『花咲く果樹園』https://www.musey.net/3072)
(参考:『黄色い家』https://www.musey.net/1426)
(参考:『ファン・ゴッホの寝室(アルルの寝室)第3バージョン』https://www.musey.net/732)
(参考:『サント=マリーの眺め』https://www.musey.net/3079)
(参考:『サント=マリーの3件の家』https://www.musey.net/3073)
(参考:『夜のカフェ・テラス』https://www.musey.net/1)
こう書くと、この時期からゴッホの人生は上手く行き始めたようにも思えますが、実際にはゴッホの絵はまだ売れておらず、相変わらず貧乏なままでした。
また、
- 地元の人々と旅を重ねた自分との違いを思い知り、人々の間にいても孤独感を感じた
- 従兄弟で師匠だったマウフェが亡くなったという報せが届き、悲しみに打ちひしがれた
- 故郷オランダへの望郷の念に襲われることもあったが、アルルに来たことを後悔はしていないので、オランダに戻ろうとはしなかった
- ゴッホが借りていた部屋の家主が、部屋で絵を描くからという理由で法外な家賃を請求してきたことからトラブルになった
- 人と関わらない画家という職業と、人々の芸術活動への理解のなさから、芸術家同士で家を借り、一緒に住んで創作活動をする計画を立て始めた
という、孤独とまるで修行僧のような苦しみを持って芸術に向き合う日々を続けていました。
ゴッホは芸術家同士で家を借り、刺激し合いながら創作活動をする計画の第1歩として、パリにいた時に意気投合したゴーガンにアルルへ来ないかと誘います。
ゴーガンは中々南フランスに向けて出発することは出来ませんでしたが、1888年10月28日にゴッホの誘いに応えて、アルルに到着します。
ゴーガンを待っている数ヶ月間の間も、ゴッホはさらなる作品を作り続けました。
- ゴッホは特に強烈な夏の日の太陽の色に取り憑かれ、その美しい色を再現する試みを何度もした
- その結果生まれた作品が、有名な『ひまわり』である
- また、人物画を描きたいと思ったゴッホは、アルルで唯一の友人であった郵便夫をモデルに『郵便夫ルーランの肖像』を制作した
- 印象派の影響が段々と薄くなり、自分なりの色彩で、色を自由に使って自分を押し出すような作品が多くなった
(参考:『郵便配達ジョセフルーラン』https://www.musey.net/2777)
(参考:『ひまわり(12本)』https://www.musey.net/2766)
(参考:『ひまわり(15本)』https://www.musey.net/413)
(参考:『ひまわり(5本)』https://www.musey.net/3063)
ゴーガンがアルルに来るとゴッホは喜び、2人はゴッホが「黄色い家」と呼んだ建物の中の部屋で、共同生活を始めました。
2人の生活は、
- ゴーガンが料理を担当したことで、外食ばかりだったゴッホの食生活に良い変化があった
- 生活力があるゴーガンの提案で、2人は毎月一定額のお金を出し合って、1つの箱に保管し、何か生活のために必要な物があったら、相手に相談してその箱の中のお金を使うようにした
- 熱心に制作に励み、絵画について語り合うことで、お互いの作品に影響を与え合った
- この時期、ゴッホはゴーガンのデッサンを模写し、ゴーガンは『ひまわり』を制作しているゴッホの姿を描いた
など、仲間がいることの安心感と刺激から、良い滑り出しを見せました。
ゴッホもゴーガンの影響を受けながら、
- 『赤い葡萄園』
- 『自画像(レ・ミゼラブル)』
- 『葡萄の収穫(人間の悲劇)』
- 『アルルの散歩』
- 『エッテンの思い出』
- 『アルルの女』
などの作品を制作しました。
(参考:『黄色い家』https://www.musey.net/1426)
(参考:『赤い葡萄畑』https://www.musey.net/2800)
(参考:『アルルの女』https://www.musey.net/2807)
しかし、1ヶ月も経たないうちにゴッホとゴーガンの間で議論が白熱するようになり、2人の関係は険悪になってしまいました。
そんな関係を修復するどころか、ゴッホは1888年12月23日にある決定的な事件を起こします。
- ゴーガンが夕飯の後に街を散歩していると、背後から誰かが近づいてくる足音が聞こえた
- ゴーガンが振り返ると、カミソリを持ったゴッホがゴーガンに飛びかかろうとしていた
- ゴーガンは驚いたが、怒りを込めてゴッホを睨みつけた
- するとゴッホはくるりとゴーガンに背を向けて、来た道を帰って行った
- ゴッホの様子に只ならぬ物を感じたゴーガンは、身の安全のためにその日は家に帰らず、ホテルに泊まった
- 次の日の朝、ゴーガンが家に戻ってみると、家の周りに人だかりができていた
- 何があったのかと思い、ゴーガンが家の中に入ると、ベッドの上に血だらけのゴッホが横たわっていた
- その後発刊された新聞記事によると、ゴーガンと別れたゴッホは娼館を訪れ、ラシェルという娼婦に切り取った自分の右耳を渡し、「これを大事に持っていてくれ」とだけ言って立ち去った
- ラシェルからゴッホの奇行を聞かされた人々が、驚いてゴッホの家の周りに集まった
この時、ゴッホは既に精神を病んでしまっていました。
ゴーガンはこれ以上ゴッホとの共同生活は続けられないと考え、テオドルスにゴッホの状態を連絡すると、自分はすぐにパリへ戻りました。
まあ、友達としてはこんな状態だったら芸術より治療を優先してほしいと思いますし、下手したら殺されてたかもしれないので自分は側にいない方が良いと思ったのでしょうね。
ゴッホがどうしてこのような異常行動を起こしたのかは、よく分かっていません。多分ゴッホ自身にも理由はよく分からなかったのではと、私は思います。
精神を病んだ人は自分でも思考回路がコントロールできない物なんです。だからこそ、充分な治療が必要なんです。根性論で乗り越えるなんて、絶対にやっちゃいけないことなんですよ!
その後、ゴッホは一時的に退院もしましたが、再び異常行動を繰り返します。
とうとうアルルの住人たちからゴッホは危険人物と見なされるようになり、街から追い出すようにという署名活動まで行われました。
実際、この頃のゴッホは
- 自傷行為
- あり得ない妄想に取り憑かれる
- 痙攣などの発作が突発的に起きる(この症状は生まれつき「てんかん」という病気を持っていたのではないか、と現代では言われています)
自分でもコントロールが出来ないほど酷い状態でした。
そのため、ゴッホ自身も望んだ通り、アルルから25キロほど離れたサン・レミという場所にある精神病院に入院しました。
1889年5月8日のことでした。
それまでゴッホは、作品の制作を始めると創作活動にのめり込み、ほとんど飲まず食わずの状態に自然となっていました。
医者はこの異常な集中力による身体への栄養不足が病気を悪化させると考え、当初は病院での創作活動を禁止しました。そりゃそうだ。
少し治療が進むと医者は特別にゴッホのためのアトリエを作り、限られた時間内なら創作をしても良いという許可を出しました。何て良い病院なんだ…。
その頃、ゴッホは病院の敷地内を散歩できるほど回復しており、病院内の風景を描いた作品を描いています。
(参考:『アルルの病院の庭』https://www.musey.net/2809)
(参考:『自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)』https://www.musey.net/2811)
(参考:『包帯をしてパイプをくわえた自画像(耳を切った自画像』https://www.musey.net/79)
(参考:『刑務所の中庭(囚人の運動:ドレを模して)』https://www.musey.net/3060)
ゴッホの病状は、良くなったり悪くなったりを繰り返していましたが、入院生活の間ゴッホにとって嬉しい報せが届きます。
- 弟テオドルスに初めての子どもである男の子が生まれ、テオドルスは兄と同じフィンセントの名前を子どもにつけた
- 美術の雑誌『メルキュール・ド・フランス』で、美術評論家のアルベール・オーリエがゴッホの作品を絶賛した
- 1890年2月15日、テオドルスが展覧会に出品したゴッホの作品『赤い葡萄園』が人に売れた
- これはゴッホの人生の中で最初に売れた絵画であり、最後の作品でもあった
ポントワーズ時代
- 1890年5月〜1891年1月
- ゴッホは35歳
- 亡くなるまで健康状態が安定しない中で作品を作り続けた
しかし1890年4月に、ゴッホはこれまでにないほど激しい発作を起こしました。
「牢獄のような精神病院の病棟に兄をずっと入院させるのは、却って健康に悪いのではないか?」と考えたテオドルスは、自分が信頼する医師であるガシェにゴッホを託すことにしました。
ガシェ医師はポントワーズという街に近いオーヴェル・シュル・オワーズに住んでおり、医師であると同時に熱心な美術愛好家でもあった人物です。
1890年5月17日、退院したゴッホをテオドルスはパリで温かく迎え、テオドルスの妻と子どもを紹介し、兄弟は数日間共に過ごしました。
またこの時、ゴッホは画材屋のタンギー爺さんを訪ねており、出発する際にはまたいつかパリに戻ってくることを約束しています。
1890年5月21日、ゴッホはガシェ医師の自宅に到着します。
しばらくゴッホは発作が起きることもなく、
- 『ガシェ医師の肖像』
- 『オーヴェルの平野』
などの作品を順調に創作しました。
(参考:『医師ガシェの肖像』https://www.musey.net/3061)
(参考:『オーヴェルのガシェ医師の庭』https://www.musey.net/3088)
(参考:『オーヴェルの教会』https://www.musey.net/2773)
1890年7月6日に、ゴッホはテオドルスに招かれ、再びパリを訪れます。今度の訪問でゴッホは、ベルナードやローレットなどの懐かしい画家仲間たちと再会しました。しかし、
- テオドルスの妻は疲労が原因で寝込んでしまった
- テオドルスは、ゴッホへの援助と妻の医療費などで出費がかさみ、経済的に困った
という現状を目の当たりにします。
弟に負担をかけてしまっている負い目を感じながら、ゴッホはオーヴェルに帰りました。
オーヴェルに着いて間もない7月27日、いつものように散歩に行ったゴッホが遅くまで戻らず、下宿先のラヴー夫妻は心配になり始めました。
すると急ぎ足で帰ってきたゴッホが黙って2階の部屋に上がり、ゴッホの様子に違和感を持った夫妻は、彼の部屋へ向かいました。
部屋では、ゴッホが脇腹から血を流しながら、ベッドに横たわっていました。
驚いたラヴー夫妻は急いでガシェ医師を呼び、ガシェ医師はゴッホの心臓近くに達していた弾丸を取り除こうとしました。しかし、弾丸は摘出が困難な位置にあり、当時の医療技術では手の施しようがありませんでした。
連絡を受けたテオドルスがオーヴェルに着いて兄を抱きしめて泣いていると、ゴッホはテオドルスに「泣かないでくれ。みんなのためを思ってしたことなんだ。」と言いました。
28日の夜にゴッホの容体は悪化し、29日午前1時30分に、フィンセント・ファン・ゴッホという天才的な画家はこの世を去りました。
37年の閃光のような生涯でした。
ゴッホの身体になぜ弾丸が打ち込まれていたのかという謎は、今でも分かっていません。主に2つの説が考えられています。
- 自殺説…ゴッホは下宿先近くの畑を歩いている姿を農民に目撃されており、それが彼の最後の目撃証言でした。ゴッホは「自分がいなくなればテオドルスにもう迷惑をかけなくてすむ」と考え、畑で銃での自殺を図ったのではないか、という説です。しかし銃弾が心臓に命中しなかったことで失敗したと思い込み、その日は一旦下宿先へ戻ったと考えられています。
- 銃の暴発説…ゴッホは時々オーヴェルに住む子どもたちの遊び相手をすることがあり、この日も偶然会った子どもたちの相手をしていて、ゴッホが常に身につけていた護身用の銃が暴発したのではないか、という説です。子どもの1人がゴッホが持つ銃に興味を持って触ったところ、何かの弾みで銃が暴発してしまい、ゴッホを撃ってしまったのです。ゴッホは子どもたちを庇うためにその場で助けを呼ばず、下宿先に戻って自分で自殺を図ったように見せかけたと考えられています。この説を唱える人々は、「自殺ならその場でもう一発撃ち込むか、黙って自殺を図った場所にいて死ぬのを待つはずだ。ゴッホ自身が自殺を図ったとはっきり言った訳ではないし、わざわざ下宿先に戻って、自分の異常行動からしてしまったことのように他人に見せるのは不自然だ。」と主張します。
いずれにしても、はっきりとした証拠もなく、ゴッホ本人の口から真相が語られることはありません。
鬼才の画家は最後の瞬間まで、歴史のミステリアスな人物の1人であったのです。
【エピソード】ゴッホの人柄や性格が分かる逸話
さて、ここまで読んだ方がよく分かるように、ゴッホは
- 気性が激しい
- 思い込んだら、周囲の目を気にせずに行動する
- 強情で頑固なため、自分が正しいと思ったことは、はっきり主張する
- 柔軟な対応が出来ず、人間関係が悪化しやすいことに悩んでいた
という性格でした。
一方、
- 社会の底辺で生活する人々を放っておけない
- そのため、自分なりの方法で彼らの力になりたいと考えていた
- 権威や国家のやり方に疑問を持った
- 家庭的な温もりを求めた
という人間的な一面も持っていました。
これは、
- 貧困地区の寄宿学校で働いたことで、貧しい人々を救う牧師を志した
- ボリナージュで伝道師として独自に活動した
- ドレンテでは、絵のモデルとして当時は珍しかった庶民や農民の生活を好んで描いた
- オランダで神学校を受験するための知識重視の勉強をしていて、こんな知識が神の道を説くのに何の役に立つのかと苦悩した
- ベルギーで、伝道師として自主的に活動したことを伝道師委員会から認められなかった時、理由が分からずに戸惑った
- 家庭的な女性を求め、恋をした女性に振り向いてほしいあまり、ストーカーまがいの行動まで取った
- シーンとの同棲生活では、周囲との反対を押し切ってまで同棲に踏み切り、血が繋がらないシーンの娘と息子のことを可愛がって、絵のモデルにもした
などのエピソードから分かります。
一見、ゴッホは激情家で頑固者と見られて、生前は全く彼の人柄は理解されませんでした。
しかし、テオドルスやボリナージュの人々、ゴッホの才能を見抜いた人々、シーンと彼女の子どもたちなど、少数ですが彼の正直過ぎて優しすぎる性格を理解している人がいたことも事実です。
ミステリアスで神がかっている、典型的な天才と見られがちなゴッホですが、彼だって1人の人間です。
ゴッホという人間の根底にある優しさと素直さ、苦しむ人々への共感、優しい世界を求める渇望を知った上で彼の作品を見てみると、今までとは違う見方で作品を楽しむことが出来ます。
まとめ ゴッホはどんな人?おすすめ映画
ゴッホの性格と経歴、作品、エピソードについて紹介しました。
最後にゴッホについて簡単にまとめておきますね!
- 19世紀のオランダとベルギー、フランスで生きた画家
- 作品を作ったのは27歳〜37歳の間の10年間のみ
- 激情家で頑固、思い込んだら周囲の目を気にせずに行動する厄介な人だと生前は思われていたが、本当は正直で優しすぎる性格だったため、社会への疑問を黙っていることが出来なかっただけだった
- 権威よりも自然や農民、貧しい人々を題材とした作品を作ることを好んだ
- 絵画は基礎的な部分だけ他人から教わり、後は独自に技法を研究した
- 過集中であり、1度制作に取り掛かると食事もろくに取らず、頻繁に体調を崩していた
- 晩年は精神的にも病んで異常行動を取るようになり、本人の希望で精神病院に入院したこともある
- 最後は自殺なのか他殺なのか、今でも議論されている
太く短く、人間臭く生きた生涯だったからこそ、ゴッホの作品は現代人をも惹きつける輝きがあるのですね!
そんなゴッホの人生を知り、「もっとゴッホのことを知りたい!」と思ったそこのあなた!
ゴッホが残した大量の手紙と専門家たちの研究を元に忠実に再現されたゴッホの人生を、映像で楽しんでみませんか?
- 『ゴッホ 真実の手紙』 監督:アンドリュー・ハットン 制作:BBC
- 『フィンセント・ファン・ゴッホ 新たなる視点』 監督:デビッド・ビッカースタッフ 制作:ライブ・ビューイング・ジャパン、カルチャヴィル
という映画がお薦めです。
どちらも想像上の神がかったゴッホではなく、人間としてのゴッホをリアルに描いた映画です。
ぜひご覧ください!
以上、「ゴッホの性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした!
参考文献
フィンセント・ファン・ゴッホ:https://www.musey.net/artist/1
旅行のとも ZenTech:https://www.travel-zentech.jp/world/map/netherlands/Map_of_Provinces.htm
地図(ベルギー):https://blog.goo.ne.jp/okubo-toshimichi/e/922dce5bcfdbb29f1d9f2278b426c527
フランス地図リンク集:http://www.hir-net.com/link/map/france.html
『ゴッホ:燃え上がる色彩 (「知の再発見」双書)』 著:パスカル ボナフー 翻訳:高橋 啓、嘉門 安雄 出版社: 創元社
『書簡で読み解く ゴッホ 〔逆境を生きぬく力〕』 著:坂口哲啓 出版社: 藤原書店
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