江戸時代初期、徳川家康の側近として活躍した天海(てんかい)と言う僧がいました。
不思議な逸話や謎が多い人で、そのため小説やドラマ・漫画やゲームなどにもよく登場します。
『ぬらりひょんの孫』では、御門院天海(ごかいどいんてんかい)というかなり不気味な人物として描かれています。
映画やドラマでも、個性的な役者さんが演じることが多くですね。
今回はこの天海について
- 謎多きその生涯とは?
- 逸話やエピソードからわかる天海という人物
- 天海と明智光秀の不思議な類似性とは?
について紹介します。
こちらを読めば、南光坊天海の生涯と人となりがわかります。
260年あまりの長い江戸時代の基礎を作った人物の一人である天海を知れば、もっと江戸の歴史が面白くなります。
ぜひ最後まで読んでください。
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天海の謎だらけの生い立ちと長い生涯
天海は、特に生い立ちから前半生は、資料が少なく謎だらけです。
生まれた年も多くの説がありますが、今回は最も一般的とされている年月を紹介しておきます。
- 天文5年(1536年) 会津の蘆名(あしな)氏の一族として生まれる。幼名は兵太郎
- 天文15年(1546年) 龍興寺で出家、隋風(ずいふう)と名乗る
龍興寺は、天台宗の寺院です。以降天海は天台宗の教えを多くの寺で学ぶ日々を過ごしています。
- 天文17年(1549年)宇都宮の粉河寺(こかわでら)に入る
- 天文22年(1553年) 天台宗総本山の比叡山に入山
比叡山を下山した後、天海は大津の三井寺(現在の園城寺)・奈良興福寺・栃木の足利学校で学び続けます。
- 元亀2年(1571年) 再び比叡山へ入山しようとするが、織田信長により比叡山が焼き討ちされたため、武田信玄の元に身を寄せる
- 天正16年(1588年) 武蔵国の無量寿寺北院(埼玉県川越市)に移り、名を天海と改める
天海と名乗るようになってからの足跡は、それ以前に比べるとよくわかっています。
- 慶長4年(1599年) 無量寿寺北院の住職になる
- 慶長8年(1603年) 江戸幕府が開かれる。徳川家康の側近となる
- 慶長12年(1607年) 比叡山探題奉行となる
比叡山はこの頃、内輪もめが激しく起こったために廃れていました。
天海は、比叡山延暦寺の南光坊に住み、延暦寺の再興を図ります。このときに住んだところの名を取り、南光坊天海と呼ばれました。
- 慶長14年(1609年) 天台宗の権僧正(ごんのそうじょう:僧正に継ぐ地位)になる
- 慶長17年(1612年) 無量寿寺北院を喜多院と改め、関東天台宗の総本山に定める
- 元和2年(1616年) 徳川家康が病床に付し、天海・本田正純・金地院崇伝(こんちいんすでん)に遺言を託す
- 同年 4月 徳川家康死去
家康死後の神号を天海は「権現」、金地院崇伝は「明神」を推しましたが、「明神」は、秀吉が「豊国大明神」と神号を与えられた後の滅亡を考えると不吉だといわれました。
この結果、天海が考えていた「東照大権現」に決まりました。
- 寛永元年(1624年) 上野に寛永寺を創建し、徳川将軍家の菩提寺とする
家康亡き後も天海は、将軍側近として江戸の町の整備などに尽力します。
- 寛永20年(1643年) 寛永寺にて天海が死去
天海死去の歳は数えでなんと108歳です。今ならおそらく140歳くらいまで生きていた感覚ではないでしょうか。とんでもなく長寿でした。
天海死去から5年後には、朝廷より”慈眼大師(じげんだいし)という追号(ついごう)が贈られました。これは、天台宗では700年ぶりの出来事でした。
天海のエピソードや不思議な逸話から見る人物像
天海は、家康の側近として江戸の町を作り、幕府の基礎を築く助けをしてきました。
特に宗教的見解から、江戸の町の設計に携わっています。
風水や陰陽では、四神(しじん)《東に青龍(川)・西に白虎(大路・道)・南は朱雀(湖・海)・北には玄武(山)》が揃う土地は、理想的な地形だと言われています。
江戸は、若干方角がずれていますが、理想に近い地形でした。
家康が関東への移封を命じられた時に城を江戸に築くと決めた大きな理由は、四神が揃っているということでした。
天海は、江戸の鎮守をより堅牢にするために様々な工夫をしています。
- 江戸城の鬼門(北東)に寛永寺を置く
- 更に寛永寺の隣に上野東照宮を建立
- 江戸城の裏鬼門(南西)にある増上寺を徳川家の菩提寺とする
- 主な街道からの邪気を防ぐために城門と交わる要所に平将門を祀った神社や塚を設置
若い時から多くの学問を学んできた、そしてとんでもない長寿だった天海だからこそできたことです。
長く続いた江戸時代、それは天海の功績もあったのです。
天海には不思議エピソードがいっぱい
始めにお話したように、天海の前半生は、ほとんど資料がないため、また素晴らしい知恵を持った高僧で、かなりの長寿だったために不思議なエピソードが多く語り継がれています。
真偽のほどは確かではありませんが、あの天海ならあり得るかもと思ってしまいます。
いくつか紹介しましょう。
1. 天海が名古屋で病にかかったときに江戸から医者が向かいました。途中の箱根で医者たちが持っていた松明の火が折からの大雨で消えてしまいました。辺りは真っ暗で途方に暮れていると無数の狐が現われて、狐火を灯して医者たちは無事に天海の元へ辿り着けました。
2. 「関ケ原合戦図屏風」の家康本陣に鎧兜姿の「南光坊」という人物が描かれています。これは天海だとされていますが、当時の天海は無量寿寺の住職でした。そんな立場の人が戦場へいくのでしょうか。
不思議なエピソードだけでなく、天海の臨機応変、機知にとんだ逸話も紹介しておきますね。
3. 天海は、家康亡き後も秀忠・家光に仕え、よく支えています。それぞれに対して長寿の秘訣を歌にして送っているのですが、2人の性格を考えて詠んでいるのが面白いです。
真面目で几帳面な秀忠には
「長生きは、粗食で正直なこと、毎日入浴し、読経をする、そして時々ご下風(おならのことです)を出しなさい」
短気で女好きの家光には
「気を長く、仕事は真面目に、女遊びはほどほどに、食べ過ぎずにおおらかな心を持ちなさい」
人を見る目も指導する力も優れていたのですね。
天海は明智光秀だった?!
天海の半生が謎に包まれているため、その出自や経歴には様々の異説があります。
中でも有名なのは、明智光秀が実は天海だったというものです。
明智光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ちます。
ですが、10日あまり後には中国地方に遠征していた豊臣秀吉の軍に攻め立てられ、京都小栗栖(おぐりす)の山中で討たれました。
なぜ織田信長を討ったのか、明智は天下を取るつもりだったのか、秀吉がなぜそんなに早く京へ帰ってこられてたのか、などなど本能寺の変についての謎も未だ多く残っていますが、それはまた別のお話です。
天海=明智光秀説は、とても興味深い話ですし、全く根拠のない話でもありません。
本能寺の変が起こったのは、天正10年(1582年)です。
天海の行動が史実にはっきりと表れてくるのは、先程も紹介した通り天正16年からです。
本能寺の変のあと、数年間どこかで匿われ(一説には徳川家康にかくまわれていたと考えられています)ほとぼりが冷めたころに天海として再び歴史の舞台に出てきたと考えても不思議ではありませんね。
他にも天海=明智説を裏付けるような事柄があります。
1. 日光東照宮の建物に隠された明智家の家紋「桔梗紋」・東照宮を見渡せる場所が「明智平」と呼ばれる
2. 徳川将軍の名前:秀忠・家光は、「光」と「秀」
3. 明智光秀の家臣、斎藤利光の娘が家光の乳母:春日局
4. 比叡山の石灯籠には、慶長20年(1615年)に光秀が寄贈したという記録がある
*慶長20年は豊臣家が滅亡した年です。もちろん光秀はとうに亡くなっているはず
5. 天海の筆跡と明智光秀の筆跡が酷似している
他にも天海ゆかりの寺に光秀の像があったり、光秀と天海を繋げても不自然ではないことがいくつも出てきています。
もちろん、こじつけと言ってしまえばそれまでです。
でも今私たちが知っている歴史がすべて正しいわけではありません。
「もしかしたら」「本当は、こうだったのかも」と想像することから歴史への興味が始まるのです。
あなたも一度 天海=明智説を調べてみては?
まとめ:南光坊天海の生涯と逸話から見つける人物像
今回は南光坊天海について紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 天海は徳川家康の側近として活躍した高僧
- 天海は江戸の町を長く守るために宗教的見地からに設計した
- 天海は機知に富み広い学識を持った人
- 天海は謎多き生涯だったことから異説が多い
謎が多く陰陽道などにもよく通じていたことから、天海はフィクションの中でも大活躍しています。
今回の記事で天海に興味を持ったあなたなら、ドラマや漫画・ゲームの中の天海も今まで以上に楽しめますよ。
おすすめの作品を紹介しておきます。
- 大河ドラマ 「徳川家康」 1983年 天海:竜雷太
- 大河ドラマ 「葵 徳川三代」 2000年 天海:金田龍之介
- 映画 「あずみ」 2003年 天海:佐藤慶
- 映画 「あずみ2 Death or Love」 2005年 天海:神山繁
- 漫画 「へうげもの」 2005年 山田芳裕
- 漫画 「ぬらりひょんの孫」 2008年 椎橋寛
- ゲーム 「サクラ大戦」 1996年
- 小説 「甲賀忍法帖」 1958年 山田風太郎
- 小説 「明智光秀」 1991年 早乙女貢
以上「南光坊天海の生涯とエピソードから見る人物像」でした
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