仙石秀久の生涯と強さがわかる逸話は?性格はどんな人か逸話

「鈴鳴り武者」と呼ばれた武将、仙石秀久をご存知でしょうか。

「鈴鳴り武者」という異名は戦場で敵を引き付けるために仙石秀久が自身の陣羽織にたくさんの鈴を縫い付けたことから、このような異名が付けられました。

では一体、仙谷秀久はどのような人物であったのでしょう。

今回は仙谷秀久の

  • 生涯
  • 性格
  • 強さ
  • 逸話

をご紹介いたします。

これを読めば仙谷秀久の生涯や性格、逸話、強さなどを知ることができますよ。

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仙石秀久の生い立ちと生涯

仙谷秀久は天文21年(1552年)1月26日、仙石治兵衛久盛の四男として誕生しました。

生まれは現在の岐阜県加茂郡坂祝町である美濃国加茂郡黒岩とされています。

四男であったため秀久は仙谷家の家督を継ぐ可能性は低く、萩原国満の養子にだされます。

しかし、織田氏と斎藤氏の対立が激しくなる中で、秀久の兄たちが次々と討死となり、秀久は急遽、仙谷家へと戻りました。

永禄10年(1567年)主君である斎藤龍興が信長との対立である稲葉山城の戦いに敗れると、秀久は信長に気に入られ、信長を主君とし、配下である豊臣秀吉の寄騎に任命されます。

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元亀元年(1570年)の信長と浅井長政との対立である姉川の戦いに参加した際は、敵軍の山崎新平を討ち取ったことによって、褒美として秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられます。

この頃、秀吉に仕えていた野々村幸成の娘・本陽院を正室に迎え、甲斐国の浪人の娘・慶宗院を側室に迎えました。

生涯、秀久には10男6女の子供が誕生します。

その後、

  • 天正5年(1577年)以降の中国攻略
  • 天正7年(1579年)茶臼山城を任され播磨道を警護
  • 湯の山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行に任命
  • 天正9年(1581年)淡路遠征に参加

などを行います。

 

明智光秀の討伐に参加する

天正10年(1582年)6月2日、信長が明智光秀の謀反によって本能寺で亡くなると、この時、高松城を包囲していた秀吉は明智光秀討伐のため京都へと急ぎます。

こうして天正10年(1582年)6月13日、光秀討伐のため畿内に戻った豊臣軍と明智軍との戦いである山崎の戦いがはじまります。

この時、秀久は淡路にいた明智側の豪族の討伐にあたりました。

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賤ヶ岳の戦いにおいて、長宗我部元親と争う

その後、織田家の重臣であった柴田勝家との対立である天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いが起きます。

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この戦で秀久は四国勢を抑えるために淡路へと向かい、四国の長宗我部元親と争うこととなりました。

まず喜岡城を攻めるも、高松頼邑の防衛は堅く失敗、次に讃岐国にある引田城に入城します。

この引田城に天正11年(1583年)4月21日、長宗我部軍の香川信景たちが攻め込んでくるも、秀久の伏兵が迎え討った、戦況は優勢となりました。

しかし、長宗我部軍の援軍によって秀久は翌日の22日に敗走となります。(引田の戦い)

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引田の戦いに敗れた秀久は淡路島と小豆島の防衛に力を注ぎ、その功績が称えられ天正11年(1583年)にて淡路国5万石を与えられ洲本城に入城しました。

その後の

  • 四国攻めで喜岡城を攻略
  • 木津城攻めで主要な城を攻略、水源を断つ

このような奮戦の功績から讃岐1国が与えられ、聖通寺城または高松城に入城します。

 

九州征伐に参加するも、改易となる

天正14年(1586年)長曽我部元親が降伏したため四国平定を果たした秀吉は次に九州征伐を開始します。

この頃、薩摩の島津氏は九州平定を目前に控えていました。

そんな中、島津氏からの侵攻を避けるため、未だ島津氏に平定されていない豊後の大友宗麟は天下統一を目前に控えた秀吉に助けを求めます。

こうして、豊臣軍と島津軍の戦いがはじまりました。

この九州平定で秀久は先陣として派遣予定の四国勢の軍監を任されます。

この四国勢は6000人ほどの兵力で、同盟国の大友氏の軍制20000の兵力となり、敵軍の島津軍よりも多くの兵力となりました。

しかし、大友軍の士気は低く、また秀久が軍監をする四国勢はもともと敵同士であり、長宗我部元親の降伏間もないこともあったため、結束力はあまりありませんでした。

天正14年(1586年)12月6日、大友氏の鶴ヶ城は島津家久によって攻撃を仕掛けられます。

この戦で、唯一、戦意旺盛であったのは豊臣軍だけでしたが、その豊臣軍はなかなか出陣せず、秀久は苛立ちを見せたとされます。

大友氏の鶴ヶ城が攻撃を受けたのに対し、秀久は救助のために戸次川を渡り、大友氏に攻撃を仕掛けようと提案しました。

この作戦に対し、長宗我部元親は反対しますが、十河存保は秀久の作戦に賛成したため12月12日の夕方から戸次川を渡り大友氏に攻撃を仕掛ける戸次川の戦いが始まります。(戸次川の戦い)

戸次川の戦いでは、島津家久率いる島津軍1万余と戦闘になりますが、豊臣軍の積極的な攻めによって一時的に優勢な展開となりました。

しかし、島津氏の増援によって

  • 秀久隊は壊滅状態
  • 長宗我部信親隊、十河存保隊は総崩れ
  • 長宗我部元親隊は戦闘することなく伊予国へ敗走

よって、戸次川の戦いで、秀久は敗北となりました。

もともと秀久は秀吉から豊後国にて防備を固めよ。と命じられていたにもかかわらず、独断で戸次川の戦いを引き起こし、また敗北となったため

  • 秀久の領土である讃岐国を没収
  • 高野山追放の処分

このような処罰を受け、改易となりました。

 

小田原征伐に参加する

改易となった秀久でしたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の頃になると三男・仙石忠政と共に徳川家康から陣借りし参加します。

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この戦の際、秀久は敵軍を引き付けるため、鈴を一面に縫い付けた陣羽織を着ていたため「鈴鳴り武者」と呼ばれるようになったとされています。

また

  • 伊豆山中城攻めで先陣を務める
  • 小田原城早川口攻めで虎口を占領

などの活躍をはたし、小田原征伐の後には秀吉によってその活躍が称えられ、再び豊臣軍家臣として復帰することができました。

その後

  • 文禄元年(1592年)の朝鮮出兵で肥前名護屋城の築城工事
  • 文禄3年(1594年)で伏見城築城工事

に参加し、秀吉によって功績が称えられます。

 

関ヶ原の戦いでは徳川軍に味方する

慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると、秀吉亡き後の権力を巡って武断派と文治派の対立が起きますが、秀久は陣借りの恩を返すため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に味方します。

真田攻めのために徳川家康の三男・徳川秀忠が出陣すると、秀久も秀忠軍に参陣します。

上田城の戦いで秀久が敵将・真田昌幸によって足止めを食らうと、秀久は自身を真田の人質にし、秀忠を家康のもとへ向かうよう勧めました。

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このようなことから後に秀久は家康の後を継いだ秀忠が征夷大将軍となった時、重用されるようになり、信濃小諸藩の初代藩主となります。

信濃小諸藩の藩主となった秀久は

  • 領地の開拓、整備に取り組む
  • 小諸城を大改修し近代城郭とさせる
  • 街道の伝馬制度、宿場街の整備に取り組む

などを行い幕府からの信頼を得ました。

しかし、江戸へ向かっていた秀久は江戸から信濃小諸へ帰る道中、病を患い63歳で慶長19年(1614年)5月6日に亡くなりました。

 

【逸話】仙石秀久の勝ち戦と負け戦は?

仙石秀久の負け戦:戸次川の戦い

戸次川の戦いは天正14年(1587年)12月12日におきた秀久、長宗我部元親・長宗我部信親、十河存保ら率いる豊臣勢と島津家久率いる島津勢との戦いです。

島津家久が豊後にある大友氏の鶴ヶ城を攻撃したため、その救出として秀久らの豊臣勢は戸次川を渡り、島津勢を攻撃しようと作戦をたてます。

もともと、秀吉は秀久に対し豊後国にて防備を固めるよう命じていましたが、秀久はその命令を無視し作戦を決行しました。

この戸次川の戦いにおいて

  • 島津勢 10,000~13,000
  • 豊臣勢 20,000(戦闘可能なのは6,000のみ)

という兵力で豊臣軍は優勢でした。

しかし、実際、戦闘可能であったのは6,000の兵力だけでした。

当初、島津勢が島津氏の得意とする「釣り野伏せ」の戦術の準備をしている間に、豊臣勢は攻撃を仕掛け、一時的に優勢となります。

しかし、島津氏の増援によって久秀本隊は壊滅状態に陥り、長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れし豊臣勢の敗北となります。

これに対し、秀吉は独断で戸次川の戦いを行った、また敗北したということから、秀久を改易にし、処罰を与えました。

 

仙石秀久の勝ち戦:小田原征伐

小田原征伐は天正18年(1590年)におきた豊臣秀吉率いる豊臣軍と北条氏直率いる北条軍の戦いです。

  • 豊臣軍 本隊 161,135、九鬼・毛利勢20,630、前田・上杉勢 35,000
  • 北条軍 82,000

この戦において兵力は圧倒的に豊臣軍が優勢でした。

仙石秀久は先の九州征伐において戸次川の戦いでは敗北となり、改易を受けていました。

しかし家康が秀吉との仲介となり陣借りをすることによって、秀久は三男・忠政とともに旧臣ら20名、浪人衆を率いて参加します。

秀久はこの戦で、糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織、さらに陣羽織の一面に鈴を縫い付けることによって敵を引き付けました。

このことから「鈴鳴り武者」の異名が付けられます。

戦場において目立っていたのはこのような恰好だけではなく、秀久の槍働きも目立っていました。

伊豆山中城攻めでは十文字の槍を振りながら先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の1つを占拠します。

このような秀久の活躍は豊臣軍の勝利に貢献しました。

改易を受けていた秀久はこの戦いにおいて、秀久の勇猛を称えると

  • 秀吉の愛用品であった金の団扇
  • 信濃国小諸に5万石

を与えられ、秀吉の家臣として復帰することとなります。

 

【エピソード】仙石秀久の強さはどれくらい?

秀久は戸次川の戦いで、秀吉の命令を無視し、独断で作戦を決行した上に敗北し改易となっていました。

しかし、浪人となった秀久に復帰のチャンスが訪れます。

それは小田原征伐です。

小田原征伐では派手な格好をし、自ら敵を引き付け、伊豆山中城攻めで先陣を務めました。

この活躍によって豊臣の家臣に復帰した秀久は1度の失敗でどん底に落とされてもなお、大名復帰のために努力した人物でした。

秀吉の家臣で失態を犯し処罰を受けた家臣は何人もいますが、大名へ復帰できたのは数少ない者だけでした。

このことから、秀久が小田原征伐において非常に大きな功績を残していたことが分かります。

 

まとめ 仙石秀久のおすすめ作品や本。大河ドラマ

仙石秀久の生涯、性格、逸話のご紹介でした。

秀久について簡単にまとめると

  • 信長に気に入られ、秀吉に仕える
  • 本能寺の変の後、明智光秀の討伐に参加する
  • 賤ケ岳の戦いの際は長宗我部元親と戦闘を繰り広げる
  • 戸次川の戦いでは敗北となったため改易となるも小田原征伐で秀吉から許しを得る
  • 関ヶ原の戦いでは東軍に味方
  • 「鈴鳴り武者」の異名を持つ

秀久は1度、改易を受けるも復帰を果たした数少ない大名でした。

改易を受けた後、鈴を縫い付けた陣羽織を着て敵を引き付けることから捨て身の覚悟で、戦に参加していたことが分かります。

そんな仙石秀久が登場する大河ドラマは残念ながら、ありませんでしたが、主人公として登場した作品は、宮下英樹さんの漫画『センゴク』が有名です。

このシリーズは

  • 『センゴク 天正記』
  • 『センゴク 一統記』
  • 『センゴク 権兵衛』

と続き、仙石秀久の生涯が描かれます。

これを機に仙石秀久に興味を持った方はぜひ宮下英樹さんの『センゴク』を読んでみてください!

以上、「仙石秀久の生涯と強さがわかる逸話、性格、どのような人物か」のご紹介でした。

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