上杉景勝の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

上杉謙信の後を継いで上杉家の当主となった上杉景勝。

上杉景勝は義兄弟との家督争いで勝利し当主となります。

当主となってからは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を相手に戦国の世を生きていきました。

今回は上杉景勝について

  • 上杉景勝の代表的な戦とは
  • 【逸話】上杉景勝の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】上杉景勝の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば上杉景勝の戦や強さがわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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上杉景勝の代表的な戦とは

上杉景勝の代表的な戦い1.天正壬午の乱

この戦いは天正10年(1582年)に本能寺の変が起き、旧武田領(甲斐・信濃・上野)をめぐって上杉・北条・徳川が争った戦いです。

上杉景勝は4年前の御館の乱で勝って当主になったばかりでしたが、北信濃を手中に収めるべく進軍します。

しかし、越後国での反乱(北越後の新発田氏)もあり、積極的には進軍せず北条との間だ講和します(北信濃の4郡を手に入れる)。

上杉景勝の代表的な戦い2.小田原征伐

この戦いは天正10年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を征伐をした戦いです。

上杉景勝も小田原征伐に参戦し、上野・武蔵方面から北条方の諸城を攻略していきます。

前田利家や真田昌幸らと進軍し多くの活躍をしました。

上杉景勝の代表的な戦い3.大坂の陣

この戦いは江戸幕府を開いた徳川家康が大坂の豊臣秀頼を滅ぼすために起こした戦いです。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の2回行われました。

上杉景勝は幕府方として参戦し、冬の陣では鴫野の戦い(しぎののたたかい)で敵将の井上頼次を討ち死にさせ鴫野を占領する活躍をします。

夏の陣では戦闘はせず京都と警備として八幡山に陣を構えていました。

【逸話】上杉景勝の勝ち戦と負け戦は?

上杉景勝の勝ち戦:御館(おたて)の乱

この乱は天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が急死したことで起こった後継者争いです。

また、この戦いはただの後継者争いではなく越後国内外にも大きな影響を与えることになります。

上杉謙信は亡くなる前に後継者を選んでいなかったことと、実子ではなく養子をもらっていたため後継者争いが起きてしまいます。

この時、後継ぎ候補となったのが

  • 上杉景勝(上杉謙信の姉が嫁いだ上田長尾家の出身)
  • 上杉景虎(相模国の戦国大名・北条家の出身)

の2人でした。

しかし、後継者選びといっても平和なものではなく上杉謙信のもとで生死を共にした家臣達も景勝派と景虎派に分かれて戦うことになります。

上杉景勝側には

  • 直江信綱(謙信の側近)
  • 斎藤朝信(謙信の側近)
  • 山吉景長(謙信の旗本)
  • 揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれた越後北部の国人(新発田氏・色部氏・本庄氏など)
  • 春日山城があった上越や景勝の本拠地・魚沼などの豪族ら

といった諸将がつきます。

特に身分が高く上杉謙信の側近・旗本であった家臣がついたことは大きな力となります。

一方、上杉景虎側には

  • 上杉憲政(元関東管領で謙信の養父)
  • 上杉景信(景勝の出身・上田長尾家と対立していた古志長尾家の出身)
  • 北条高広(きたじょう、上杉家重臣)
  • 加地秀綱(揚北衆であるが新発田氏と敵対していたため。景勝の従兄弟)
  • 北条氏政(北条家当主、景虎の実兄)
  • 武田勝頼(武田家当主、北条家と同盟を結んでいたため)
  • 伊達輝宗(伊達家当主、北条家と同盟を結んでいたため、伊達政宗の父)
  • 蘆名盛氏(蘆名家当主、伊達家と同盟を結んでいたため)

らがつきました。

景虎の血縁関係であった北条家はともかく、北条家と同盟を結んでいた武田家や伊達家といった大名家がついていたことは、景虎にとっては大きな力となっていました。

乱の始まりは上杉謙信が亡くなった翌日のことでした。

景虎派の柿崎晴家(父は上杉謙信の重臣・柿崎景家)が景勝派によって暗殺されます(事実かは不明)。

上杉景勝はすぐに春日山城の本丸に籠もり、3月24日には国内および国外に上杉家の後継者となったことを知らしめます。

一方、上杉景虎は春日山城の三の丸に籠城します。

上杉景勝は5月には三の丸に対し攻撃を開始します。

春日山城本丸を拠点にしていたことで景勝側が優勢に進んでいました。

しかし、景虎が実家の北条家やそのほかの同盟国に援軍を要請したため信濃方面からは武田家・北越後方面からは伊達軍・蘆名軍が越後へ向けて進軍してきます。

また、上杉景虎は三の丸から御館(謙信が関東管領・上杉憲政を迎えるために建てた館)に本拠を変えます。

景虎への援軍が侵攻してきたことで上杉景勝は劣勢となっていきます。

この劣勢の状況の中、上杉景勝は武田勝頼に目をつけます。

当時、武田家は北条家と同盟(甲相同盟)を結んでいたため景虎側として参戦していましたが、北条軍が越後に来ていなかったこともあり(北条家は関東で佐竹家・宇都宮家と対峙していたため遅れる)不信感を持っていました。

また、南には徳川家の脅威もあったことから上杉軍と戦うことに抵抗感がありました。

上杉景勝は同年6月に武田勝頼に上杉領を割譲するかわりに和睦したいと申し出てます。

両家の利害が一致したため甲越同盟を結びます(ただし勝頼は中立の立場を取る)。

ちなみに天正7年7月には勝頼の妹・菊姫を正室に迎えます。

武田家の脅威がなくなった上杉景勝は攻勢に出て景虎方の長尾景明や上杉景信を討ち取ります。

同年7月に入ると武田勝頼の仲介で和議が成立しますが、8月に徳川軍が武田領の駿府へ攻めてきたため武田軍が撤退すると和議が破綻します。

和議が破綻すると上杉景勝は乱の収束のためさらに攻勢に出ます。

9月に北条軍が本格的に春日山城へ進軍を開始します。

同年10月には景虎側の兵糧が尽き、さらに味方が相次ぎ離反していったために窮地に陥ります。

そして天正7年(1579年)に上杉景勝は景虎が籠もる御館に総攻撃を仕掛け、勝敗は大方決します。

上杉景虎は御館から脱出し鮫ヶ尾城に入りますが、城主の堀江宗親が景勝に寝返ったため、景虎は自害します(享年26歳)。

上杉景虎の死によって北条軍・伊達軍・蘆名軍は撤退することになります。

御館の乱で勝利した上杉景勝は正式に上杉家の当主となりますが、上杉家同士での戦いによって上杉家は衰退していきます。

さらに御館の乱よりも危険な存在であった織田信長がこの乱の隙を突いて上杉領に進軍してくることになります。

上杉景勝の負け戦:長谷堂城の戦い

この戦いは慶長5年(1600年)に上杉軍と最上・伊達連合軍との間で起こった戦いです。

別名、「北の関ヶ原」と呼ばれています。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の1人であった徳川家康が勝手な政治を行い、これに不満を持った石田三成が挙兵し、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こります。

上杉景勝は豊臣家の恩恵と反徳川家康の立場から西軍に味方します。

上杉軍は関ヶ原の戦いには参戦しませんでしたが、東北で東軍方の最上家と伊達家の押さえとして戦います。

上杉景勝は重臣の直江兼続を総大将に最上領を攻めます。

上杉軍は兵力の差で圧倒的に最上軍に勝っていたため、同年9月12日の畑谷を皮切りに9月18にまでには最上方の城を次々に落としていき、長谷堂城を包囲します。

長谷堂城は最上家の本拠・山形城の守る上での最重要拠点でした。

両軍の兵力は

  • 上杉軍が約2万5千
  • 連合軍が約1万人(最上軍7千、伊達軍3千)

と圧倒的に上杉軍が有利でした。

とくに長谷堂城の守備兵は約千人で対する上杉軍は1万8千と数で言えば簡単に落とせる状況でした。

しかし、上杉軍はなかなか城を落とせませんでした。

長谷堂城の城主・志村光安の戦略によって苦戦します。

上杉軍は兵力で勝っていたことから力攻めを行いますが、志村光安が指揮する寡兵(かへい、少数の兵)は防戦し、夜になると決死隊を編成し夜襲を仕掛けてきました。

また、長谷堂城の周りは深田であったため行動も上手くいきませんでした。

上杉軍が長谷堂城の攻略に苦戦している間の9月21には伊達政宗の援軍、さらには9月25日には最上家当主の最上義光が援軍に駆けつけてきます。

それでも上杉軍の方が兵力があったことから総攻撃を仕掛けますが、9月29日に使者から情報が入ります。

その内容が関ヶ原の戦いで石田三成の西軍が負けたという内容でした。

戦う大義名分がなくなった上杉軍は10月1日に撤退を開始し、最上・伊達連合軍の追撃を受けます。

上杉軍は総大将の直江兼続が殿軍を務め士気を高めるなどし、一方の連合軍は当主の最上義光が最前線で戦うなど激戦となりますが、前田慶次などの活躍で直江兼続は米沢城へ帰還しました。

(左隻)退却する直江兼続を追撃する最上義光

(右隻)長谷堂城を攻撃する直江兼続

慶長出羽合戦 - Wikipedia

【最強伝説】上杉景勝の強さはどれくらい?

上杉景勝の強さと言えば、上杉家を上田長尾家が支配する体制を築いたことでしょう。

上杉景勝は御館の乱の勝利後、自身の出身であった上田長尾家だけを優遇し上杉家を支配していきます。

なぜ、上杉景勝が上田長尾家だけを優遇したのかというと、上杉家の後継者争いであった御館の乱は上杉家を真っ二つにして戦ったため、上杉家が衰退する原因となってしまいます。

また、西からは織田信長、東北からは蘆名氏や伊達氏といった大名が越後を狙っていたため早急に上杉家をまとめる必要がありました。

上杉景勝は御館の乱で争っていた上杉景虎についた国人を先代の上杉謙信の重臣であっても粛清していきます。

また、味方してくれた国人(とくに揚北衆の新発田氏)も粛清します(新発田氏は後に反乱を起こす)。

味方の新発田氏を粛清した理由は先代の上杉謙信の時代にありました。

上杉謙信の時代は越後国は統一されておらず、上杉家を中心とした連合政権でした。

ただただ上杉謙信の軍事的才能やカリスマ性についていったと言えるでしょう。

そのため、上杉謙信亡き後の越後は力をもっていた国人達がいつ独立してもおかしくない状況でもありました。

これらの理由から上田長尾家と与板衆(与板城周辺にいた勢力で城主は直江氏)を中心に上杉家を動かしていきます。

また、反乱を起こした新発田氏の討伐にはは10年近くかかりましたが最終的には滅ぼし越後統一を果たします。

上杉景勝はよく上杉謙信と比較され、徳川家康と敵対し会津120万石から米沢30万石と大減封となったことから上杉家を弱体化させた人物と言われていますが、上杉謙信の時代と違うのはすでに豊臣家や徳川家といった強大な勢力がいたことです。

上杉景勝の強大な相手には素直に従うというところも強さの1つかもしれません。

もし、豊臣家や徳川家に真正面から戦っていたら相模の北条氏の二の舞になっていたかもしれません。

ちなみに、徳川家康が西軍についた上杉をなぜ潰さなかったのかというと、上杉家が関ヶ原の戦い本戦に参戦していなかったことや関ヶ原の戦い以上の戦闘はコストがかかってしまうと考えたからです。

また、伊達といった大名に隙を与えないようにしたかったからともいわれています。

最終的には米沢30万石と大幅に勢力を縮小させてしまった上杉景勝ですが、強大な勢力を相手にうまく立ち回り幕末まで上杉家を残したことは大きな功績と言えるでしょう。

敢えて言うなら、上杉謙信のような次代のことは知らないみたいな人物(偏見)よりも、養子であろうが上杉家を守ろうとした上杉景勝のほうが大名としては立派だったでしょう。

まとめ 上杉景勝のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで上杉景勝について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 上杉景勝は御館の乱で勝ち後継者となった
  • 上杉景勝は豊臣秀吉の小田原征伐に従軍し天下統一を果たした
  • 上杉景勝は長谷堂城の戦いは優勢に進めたものの関ヶ原の戦いで西軍が負けると撤退した
  • 上杉景勝は大坂の陣に幕府方として参戦した。

オススメ作品

大河ドラマでは

  • 北村一輝さんが演じた『天地人』
  • 遠藤憲一さんが演じた『真田丸』

がオススメです。

本では

  • 花ヶ前盛明さんが編集した『上杉景勝のすべて』
  • 児玉彰三郎さんが書いた『上杉景勝』

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「上杉景勝の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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