後鳥羽上皇の性格と経歴は?和歌や刀の伝説が面白い

あなたは後鳥羽上皇という人物をご存知でしょうか。

天皇でありながら倒幕を企てるも、幕府軍に完敗し隠岐へと島流しされた人物です。

島流しされた後鳥羽上皇は配流先で亡くなりましたが、死後、怨霊として恐れられました。

天皇でありながら怨霊となった人物であり、また百人一首に後鳥羽上皇の詠んだ和歌が収録されているので、後鳥羽上皇をご存知の方は多いかと思います。

そんな後鳥羽上皇という人物は一体どのような人物であったのでしょうか。

今回は後鳥羽上皇の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • 怨霊伝説
  • 和歌

についてご紹介いたします。

これを読めば後鳥羽上皇の生涯や性格、怨霊伝説や和歌を知ることができますよ。

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後鳥羽上皇の生い立ち。家族や子供は?

後鳥羽上皇は

  • 父・高倉天皇(第80代天皇)
  • 母・藤原殖子

第4皇子として平安時代にあたる治承4年(1180)8月6日に誕生しました。

諱は尊成(たかひら)とされています。

父・高倉天皇(第80代天皇)は平安時代末期に第77代天皇となった後白河法皇の第7皇子です。

よって尊成(後鳥羽上皇)は後白河法皇の孫ということとなります。

父・高倉天皇は6人の女性との間に尊成(後鳥羽上皇)を含め

  • 平徳子(建礼門院)との間に第一皇子・言仁親王(安徳天皇)
  • 藤原殖子(七条院)との間に第二皇子・守貞親王(後高倉院)と第四皇子:尊成親王(後鳥羽天皇)
  • 堀河豊子との間に第三皇女・潔子内親王
  • 平範子(少将内侍)との間に第三皇子・惟明親王
  • 藤原公子(帥局)との間に第一皇女・功子内親王
  • 藤原氏(小督局)との間に第二皇女:範子内親王(坊門院)

計7人の子供が誕生していました。

この異母兄弟のうち、尊成(後の後鳥羽天皇)が誕生した治承4年(1180)頃、天皇であったのは平徳子(建礼門院)との間に誕生した、まだ幼い安徳天皇でした。

まだ幼い安徳天皇が即位する前、平清盛が朝廷と深い関係を持ち、朝廷内において平家は発言権を持つようになっていました。

発言権を持ち権力を持った平家の平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」つまり、平家でな者は、人ではない。強く言うと平家ではない源氏は人間以下であるといった事を述べます。

源氏や平家ではない者すべてを敵にまわすような発言ですが、当時朝廷内で権力を持っていたのは平家であり、平家全盛期であったためこのように豪語しました。

しかし、このような朝廷を顧みない平家の姿勢は朝廷から、次第に反感を買うこととなり、ついに朝廷によって平家討伐が源氏に命じられます。

後鳥羽上皇の経歴。最後や死因は?

尊成(後の後鳥羽天皇)が誕生した治承4年(1180)頃は朝廷が源氏に平家討伐を命じていた時期であり、源氏と平家との合戦が多く行われていました

安徳天皇のいる京都の御所に寿永2年(1183)7月25日、源氏の木曽義仲が迫ってくると、平家は安徳天皇を連れ西国へと逃れます。

この際、平家は三種の神器と呼ばれる、天皇即位の際に必要な祭具も持ち出してしまいました。

三種の神器とは

  • 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
  • 八咫鏡(やたのかがみ)
  • 草那藝之大刀(くさなぎのたち)

を指します。

京都から安徳天皇と三種の神器は姿を消したため源氏は西国へと向かいます。

この頃、朝廷では京都から安徳天皇がいなくなってしまったため安徳天皇に代わる新たな天皇を立てなければいけないと考え始めました。

三種の神器を用いず第82代天皇となる

安徳天皇に代わる新たな候補者として

  • 木曽義仲は以仁王(第77代 後白河天皇の第3皇子)を推薦
  • 祖父・後白河法皇は安徳天皇の異母弟である尊成(後の後鳥羽天皇)を推薦

し、尊成(後の後鳥羽天皇)は元暦元年(1184)7月28日、第82代天皇として即位しました。

この時、後鳥羽天皇はまだ4歳であったとされています。

平家は天皇即位に必要な三種の神器を持ち逃げてしまったため、後鳥羽天皇は三種の神器なしで即位となりました。

壇ノ浦の戦いによって平家が滅亡

後鳥羽天皇が即位した翌年の元暦2年(1185)、かの有名な壇ノ浦の戦いが勃発します。

この戦いは安徳天皇を連れ西国へと逃れていた平家が、現在の山口県下関市にあたる長門国赤間関壇ノ浦で源氏に追い込まれた合戦です。

壇ノ浦の戦いには源氏の圧勝となり、死を悟った平家一門は次々と海へと身を投げ捨てました。

こうして平家滅亡となったのですが、この際、幼い安徳天皇も海に身を投じ亡くなります

また平家が持ち出した三種の神器も安徳天皇とともに海へと沈みました

のちに源氏が回収しましたが、三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は見つからず、壇ノ浦の戦い以降、天皇即位の際は三種の神器が全て揃わない状態で行われることとなります。

第一皇子・土御門天皇に譲位する

こうして三種の神器なしで元暦元年(1184)7月28日に即した後鳥羽天皇は、この時まだ4歳であたっため、幼い後鳥羽天王に代わり祖父・後白河法皇による院政が行われます。

しかし、そんな祖父・後白河法皇は建久3年(1192)3月13日に亡くなってしまったため、関白・九条兼実が建久7年(1196)まで院政を行うようになりました。

後鳥羽天皇には

  • 藤原(九条)任子との間に皇女:昇子内親王
  • 源在子との間に皇子:為仁親王(土御門天皇)
  • 藤原(高倉)重子との間に皇子:守成親王(順徳天皇)、皇子:雅成親王、皇子:尊快入道親王
  • 藤原氏(坊門局・西御方)との間に皇子:道助入道親王、皇子:礼子内親、皇子:頼仁親王
  • 源氏(兵衛督局・加賀内侍)との間に皇女:粛子内親王
  • 某氏(尾張局)との間に皇子:道覚入道親王
  • 藤原氏(大宮局・対御方) との間に皇子:尊円法親王、皇子:行超
  • 藤原氏?(少納言典侍)との間に皇子:道守
  • 某氏滝との間に皇子:覚仁法親王
  • 某氏石(丹波局・右衛門督局)との間に皇女:凞子内親王
  • 皇女:凞子内親王との間に皇子:覚誉、皇子:道縁、皇子:道伊
  • 名前不詳の女との間に皇子、皇女

が誕生し、妻はそれぞれ違いますが19人の父親でした。

そのうちの妻・源在子と自身の第一皇子である3歳の土御門天皇(第83代天皇)に建久9年(1198年)1月11日、譲位します。

3歳の第一皇子・土御門天皇が即位すると、後鳥羽上皇(譲位した者は天皇から上皇となる)は、まだ幼い土御門天皇に代わり政務を行うようになりました。

自身の息子である土御門天皇は非常に穏やかな性格でありました。

そんな土御門天皇を見て後鳥羽上皇は「穏やかな性格では天皇は務まらぬ」と土御門天皇に退位を迫り、気性の荒い性格の持ち主であった自身の第三皇子・順徳天皇を第84代天皇とさせます。

第三皇子・順徳天皇が即位する

順徳天皇は14歳で第84代天皇となりました。

そのためまだ権力は持っておらず、後鳥羽上皇によって引き続き院政が行われます。

順徳天皇の代わりに父・後鳥羽上皇が政務を行っていたため、順徳天皇は王朝文化の研究を行うようになります。

この頃になると後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を滅亡させ天皇主権を取り戻そうと考え鎌倉幕府に向け挙兵の準備を行います。

仲恭天皇が即位する

この鎌倉幕府討伐の計画に賛成した順徳天皇は、父・後鳥羽上皇とともに鎌倉幕府に挙兵するため、自身の息子である懐成(仲恭天皇)に譲位しました。

こうして、譲位された順徳天皇の息子・懐成は承久3年(1221)4月20日に4歳で即位し第85代天皇・仲恭天皇となりました。

この時も後鳥羽上皇は院政を行い、権力を握り続けます。

よって後鳥羽天皇は

  • 第83代天皇・土御門天皇
  • 第84代天皇・順徳天皇
  • 第85代天皇・仲恭天皇

においてすべて院政を行っていたということとなります。

この頃になると

  • 関白・九条兼実は出家
  • 公卿・土御門通親は急死
  • 後白河法皇はすでに亡くなっている
  • 源頼朝はすでに亡くなっている

となっていたため、後鳥羽上皇の邪魔をする者はいませんでした。

そのため、上皇となってもなお、天皇の代わりに政務を行っていた後鳥羽上皇は実質的な天皇と君臨していたとされています。

隠岐へと配流される

鎌倉幕府を倒し、天皇主権を取り戻そうと考えていた後鳥羽上皇は承久3年(1221)5月14日に当時の鎌倉幕府の執権・北条義時討伐の院宣を発すると、有力御家人などを集め鎌倉幕府に向け挙兵します。(承久の乱

しかし、約190,000を率いる幕府軍に完敗となり後鳥羽上皇は嫡男・北条泰時に捕えられてしまいました。

捕えられた後鳥羽上皇は承久の乱の首謀者であったため隠岐へと配流されることとなり、また後鳥羽上皇のみならず

  • 順徳上皇は佐渡島へと配流
  • もともと討幕計画に反対していた土御門天皇は、父・後鳥羽上皇が配流されていることに対し忍びないと感じ、承久の乱に関わっていないにも関わらず自ら申し入れ土佐国へ配流
  • 雅成親王は但馬国へ配流
  • 頼仁親王は備前国へ配流
  • 仲恭天皇は廃される

このような罰を受けました。

この承久の乱で幕府軍に完敗した朝廷は、以降、幕府に従属するようになり、幕府によって皇位継承の管理、朝廷の監視がされるようになりました。

隠岐へと配流された後鳥羽上皇は、配流される前に出家していたため法皇となります。

後鳥羽上皇は配流先の隠岐で仏道に励みながら和歌作りに励んでいたとされています。

18年間ほど隠岐で生活していましたが、延応元年(1239)2月20日、60歳で崩御しました。

【伝説】後鳥羽上皇の性格は?政治・刀・和歌のエピソード

怨霊伝説について

後鳥羽上皇は配流先の隠岐で、仏門に励み和歌をよく詠んでいたとされていますが、嘉禎3年(1237)に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」と置文を記しました。

引用

後鳥羽天皇 - Wikipedia

万が一、自身が怨霊となるようなこととなれば、この世に災いを起こすであろうと残したのです。

このような置文を記して後鳥羽上皇は配流先の隠岐で崩御したのですが、後鳥羽上皇が崩御した後

  • 延応元年(1239)12月5日に有力御家人・三浦義村
  • 延応2年(1240)に北条時房

が亡くなりました。

当時の人々は、2人の死の原因は後鳥羽上皇の怨霊であると恐れ、そのような記録が公家平経高の日記『平戸記』に残されています。

このようなことから後鳥羽上皇は怨霊となったという怨霊伝説が誕生しました。

天皇であるにも関わらず怨霊と恐れられたのは後鳥羽上皇だけではなく崇徳天皇という人物も死後、怨霊として恐れられました。

後鳥羽上皇の性格について

後鳥羽上皇は、源平合戦が繰り広げられていた時期に誕生しました。

当時の天皇である安徳天皇が京都から姿を消したため代わりの天皇として即位したのが後鳥羽天皇です。

即位の際、これまで歴代天皇が使用していきた三種の神器を用いずに即位したため異例の即位であると考えられています。

そのため、周囲の人間が後鳥羽天皇の行う政策に対し批判する際、必ずと言っていいほど三種の神器を用いず即位したことが不徳に繋がったとされました。

つまり、「三種の神器を使用せずに即位したから、後鳥羽天皇はダメな天皇なんだ」というわけです。

4歳で即位し、天皇として君臨した後鳥羽天皇にとって、三種の神器を用いずに即位したということは非常にコンプレックスであったとされ、そのコンプレックスの克服のため、院政を3回も繰り返し自身の威厳を周囲にアピールしたとされています。

幼少期から三種の神器を用いず即位した天皇として見られていた後鳥羽天皇は、気性の荒い性格でした。

しかし、自身の第一皇子・土御門天皇は気が弱く、非常に穏やかな性格です。

そんな土御門天皇に譲位するも、優しい性格では天皇は務まらぬ。と自分とよく似た性格の気性の荒い性格の持ち主であった自身の第三皇子・順徳天皇を即位させました。

父に似て気性の荒い性格であった第三皇子・順徳天皇は後鳥羽天皇が企てた幕府討伐計画にも賛成し、挙兵しました。

一方、穏やかな性格であった第一皇子・土御門天皇は後鳥羽天皇が企てた倒幕計画に反対しています。

和歌について

気性の荒い性格であった後鳥羽天皇でしたが、和歌の才能があったとされ中世屈指の歌人とされています。

いつ頃から和歌に興味を持ったのかは分かっていませんが、第一皇子・土御門天皇に譲位した頃から和歌を詠み始めていたのではとされています。

正治元年(1199)以降に自ら歌会や歌合なども開きました。

歌人・藤原俊成に師事すると勅撰集の撰進にも興味を持ち始め、『新古今和歌集』の編纂を開始しました。

そんな後鳥羽天皇が詠った「 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」は百人一首にもとられています。

この和歌は「ある時は人をいとおしく思うが、ある時は人を恨む。思い通りにいかない世の中であるからこそ、悩んでしまう。」という意味です。

刀つくりを好んでいた

後鳥羽天皇は刀を打つことを非常に好んでいたとされています。

1人で刀を作っていたのではなく、御番鍛冶と呼ばれる優秀な刀工に手伝わせていました。

自身が作った刀には16弁の菊紋を毛彫りを残しています。

この菊紋は「御所焼」「菊御作」と呼ばれており、この菊紋こそが皇室の菊紋のはじまりとされています。

壇ノ浦の戦いにおいて三種の神器は海に沈められ、そのうち、草薙剣(くさなぎのつるぎ)のみが見つからないままとなりました。

三種の神器なしで即位し、そのことにコンプレックスを抱いていた後鳥羽天皇。

そんな後鳥羽天皇が刀つくりを熱心に行っていたというのは、因縁を感じます。

まとめ 後鳥羽上皇のドラマや映画や小説はある?

後鳥羽天皇の生涯や経歴、性格や和歌、刀や怨霊伝説についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 源平合戦の真っ只中で誕生
  • 三種の神器なしで即位
  • 三種の神器なしで即位したことをコンプレックスにもつ
  • 院政を3回も繰り返す
  • 承久の乱を起こす
  • 隠岐へ配流され崩御
  • 怨霊と恐れられる
  • 刀つくりを熱心に行った

後鳥羽上皇は承久の乱を起こした人物でした。

三種の神器なしで即位した天皇であることをコンプレックスとしていた後鳥羽上皇であったからこそ、コンプレックスが原動力となり承久の乱を起こすことができたのではないでしょうか。

気性の荒い性格であったとされていますが、一方で和歌を愛し『新古今和歌集』の編纂を行う、また刀を熱心につくるなど、繊細な一面もありました。

誕生した時期が源平合戦真っ最中でなければ、三種の神器が揃うことなく即位したことがなければ、芸も秀でる非常に優秀な天皇であったと感じます。

そんな後鳥羽上皇が登場するドラマや映画は残念ながらありませんでしたが、

  • 『史伝 後鳥羽院』
  • 『後鳥羽院のすべて』
  • 『後鳥羽院 我こそは、にい島守よ』

といった伝記を読めば、後鳥羽上皇について深く知ることができます。

これを機に後鳥羽上皇に興味を持った方は『史伝 後鳥羽院』『後鳥羽院のすべて』『後鳥羽院 我こそは、にい島守よ』を読んでみてください。

以上「後鳥羽上皇の性格と経歴、和歌や刀の伝説」のご紹介でした。

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