坂上田村麻呂の生い立ちや生涯は?黒人伝説やいい人エピソード逸話を簡単に

あなたは坂上田村麻呂という人物をご存知でしょうか。

平安時代、蝦夷討伐のために征夷大将軍に任命された人物で、蝦夷の指導者であった阿弖流為(アテルイ)を破りました。

実は、多くの観光客が訪れる京都の清水寺を創建した人物としても知られています。

そんな坂上田村麻呂の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 黒人伝説
  • いい人とされるエピソードや逸話

をご紹介いたします。

これを読めば坂上田村麻呂の生い立ちや経歴、黒人伝説やエピソードを知ることができますよ。

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坂上田村麻呂の生い立ち。出身地や子孫、胆沢城について

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)

  • 父・坂上苅田麻呂
  • 母・畝火浄永の娘(詳細は不明)

の次男または三男として誕生しました。

坂上田村麻呂の出身地は諸説あり、現在の奈良市尼辻町付近である平城京田村里で誕生したのではとされています。

また他にも

  • 陸奥国田村庄で誕生したとされる坂上田村麻呂奥州誕生説
  • 蝦夷で誕生したのではとされる坂上田村麻呂夷人説

があります。

父・坂上苅田麻呂は左京大夫であたっため坂上田村麻呂は身分の高い家柄で誕生しました。

もともと坂上氏は、走る馬に乗りながら弓を射る馳射を得意とした武門の一族で、代々、朝廷に仕え、宮廷に寝泊まりしながら天皇などを守護していたとされています。

そのような家柄であったため、田村麻呂は近衛府に勤仕することとなります。

田村麻呂の子孫について

田村麻呂は後に三善清継の娘・高子と結婚し、2人の間には7人の子どもが誕生しました。

  • 長男・大野
  • 次男・広野
  • 四男・浄野
  • 五男・正野
  • 広雄
  • 高道
  • 娘・春子

また妻・高子以外の女性との間にも子供はいたとされています。

田村麻呂の娘・春子は桓武天皇の妃となり、葛井親王が誕生しています。

その葛井親王は嵯峨天皇皇女・斉子内親王と結婚し、田村麻呂の血筋は清和源氏とその分流へと受け継がれていくこととなります。

また子孫も

  • 陸奥守
  • 陸奥介
  • 鎮守府将軍
  • 鎮守府副将軍

などの官職につき、陸奥国の高官の多くが田村麻呂の血筋から輩出されました。

坂上田村麻呂の生涯と最期。死因は?

田村麻呂が誕生した頃、現在の東北に位置する陸奥国は蝦夷との戦争が激化していました。

蝦夷とは現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方、また北海道の大部分に住んでいた人々のことを指し、田村麻呂が誕生する前の飛鳥時代にあたる大化年間ころから朝廷による蝦夷開拓が行われていました。

神亀元年(724年)には蝦夷との境界であった現在の仙台市太白区付近に、大和朝廷が軍事的拠点として多賀城を造営します。

全面的な朝廷と蝦夷の戦闘はありませんでしたが、個々に衝突はあったとされています。

征夷大将軍・紀古佐美が阿弖流為(アテルイ)に大敗

延暦7年(788年)7月、公卿・紀古佐美が征夷大将軍に命じられます。

征夷大将軍と聞くと源頼朝や足利尊氏を思い浮かべる方が多いかと思いますが、征夷大将軍という官職は飛鳥・奈良時代からありました。

もともと征夷大将軍とは蝦夷討伐のための指揮官として設置された臨時の官職でした。

しかし鎌倉時代に入ると、蝦夷討伐を目的とした官職ではなくなっていきます。

そんな征夷大将軍に任命された紀古佐美は延暦8年(789年)、蝦夷と衝突を起こしましたが、蝦夷の指導者であった阿弖流為(アテルイ)に大敗します(巣伏の戦い)

征夷大将軍の補佐役に就任する

その後、延暦11年(792年)、公卿・大伴弟麻呂が征夷大将軍に命じられ、その補佐役として田村麻呂は征東副使に任命しました。

その翌年の延暦12年(793年)に軍を率いて蝦夷へと向かうと延暦13年(794年)に田村麻呂により蝦夷征伐が行われます。

この蝦夷討伐を

『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」

と記されているだけで、詳細な記録は残されていません。

征夷大将軍となる

その後、当時の征夷大将軍・大伴弟麻呂は高齢であったことから、延暦15年(796年)1月25日に田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、また鎮守将軍も兼任します。

翌年の延暦16年(797年)11月5日には桓武天皇によって征夷大将軍に任じられました。

この時、田村麻呂は40歳であったとされています。

こうして征夷大将軍となった田村麻呂は延暦20年(801)2月14日、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京から蝦夷討伐を目的とし出征します。

この時行われた蝦夷討伐の詳細についても、あまり分かっていませんが、『日本略記』には「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」と記されていることから、蝦夷討伐は成功したとされています。

平安京に戻ると田村麻呂は近衛中将に任じられました。

阿弖流為(アテルイ)を破る

延暦21年(802年)1月9日、田村麻呂は再び蝦夷へと向かいます。

前年、蝦夷討伐において確保した土地に蝦夷対策として胆沢城を築くために陸奥国に戻ったとされています。

この頃、どのような衝突あったのかは不明ですが、既に蝦夷の指導者・阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)、また2人の率いる500人余りの兵が降伏していたとされ、これによって蝦夷の討伏完了となっていたとされています。

同年7月10日、田村麻呂は阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)を引き連れ平安京へと戻ります。

平安京へ戻ると、朝廷は阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)の処刑を命じましたが、田村麻呂は2人の助命嘆願をしました。

しかし、田村麻呂の願いは受け入れてもらえず、阿弖流為(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)は河内国杜山で処刑されました。

その後、田村麻呂は延暦22年(803年)3月6日に平安京を後にし陸奥国へ下ります。

延暦23年(804年)1月19日、桓武天皇によって蝦夷征討が計画が行われると、田村麻呂は再び征夷大将軍に選抜され自身、3度目となる蝦夷遠征を行いました。

この際、副将軍に

  • 百済教雲
  • 佐伯社屋
  • 道嶋御楯
  • 軍監8人
  • 軍曹24人

を付けたとされ、蝦夷討伐の準備が行われます。

また蝦夷討伐の準備を行う傍ら、田村麻呂は同年5月には造西寺長官に任命され

  • 8月7日に桓武天皇巡幸の際、和泉国、摂津国に派遣
  • 10月8日に和泉国藺生野で行われた狩猟に随行

など行います。

また延暦24年(805年)6月23日には、坂上氏初となる参議に命じられました。

着実に蝦夷討伐の準備が行われていたのですが、同年12月8日、参議・藤原緒嗣が「蝦夷討伐のための軍事と造作が民の負担となっている」と述べ、桓武天皇がこの意見を認めたため、蝦夷討伐は中止となりました。

その後、延暦25年(806年)3月17日、桓武天皇が崩御となります。

薬子の変が起きる

皇太子・安殿親王の践祚され平城天皇となると、田村麻呂は平城天皇の側近として活躍し大同2年(807)4月12日には右近衛大将に任命されました。

しかし大同4年(809年)4月1日になると平城天皇は病気を患っていたため弟・神野親王へ譲位し、13日に嵯峨天皇(神野親王)が即位となりました。

この際、平城天皇から寵愛を受けて事実上の権力を持っていた藤原薬子とその兄・藤原仲成は、平城天皇が譲位することによって権力を失うことを恐れていたため、嵯峨天皇(神野親王)の即位には反対していたとされています。

弟・嵯峨天皇が即位したため平城上皇は平城京へと移りましたが、上皇になってもなお権力を持ち続けており、弟・嵯峨天皇のいる平安京を廃し、平城京へと都を移す詔勅を発します。

これに対し、弟・嵯峨天皇は一時平城京へと遷都を受け入れましたが、考えを改め平城京への遷都を拒否しました。

弟・嵯峨天皇は上皇になってもなお権力を維持し続け、勝手に平城京に遷都するといった詔を発した兄・平城上皇に対し、

  • 平城上皇から寵愛を受けていた藤原薬子を宮中から追放
  • 藤原薬子の兄・藤原仲成を佐渡権守に左遷

します。

これに対し、兄・平城上皇は激怒し、平城京から兵を引き連れ平安京へと挙兵しました。

そのため弟・嵯峨天皇は田村麻呂に平城上皇の挙兵の阻止を命じます

こうして大同5年(810年)9月12日、平城上皇の挙兵の阻止を命じられた田村麻呂は大和国添上郡越田村に差し掛かった平城上皇一行の進路を遮り、平城上皇は平城京へと戻っていきました。

その後、平安京へと戻った

  • 平城上皇は出家
  • 藤原薬子は毒を飲み自殺

し、嵯峨天皇側の勝利に終わりました。

これら一連の騒動は薬子の変と呼ばれています。

坂上田村麻呂の晩年

その後、弘仁2年(811)1月20日には中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に国政に参加した記録が残されています。

しかし、同年、5月23日、田村麻呂は現在の京都市左京区にあたる平安京粟田口の別宅において病によって54歳で生涯を閉じました。

【いい人逸話】坂上田村麻呂の黒人伝説やエピソード

坂上田村麻呂黒人説

坂上田村麻呂は黒人であったという説があります。

この説は1911年、カナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンが

「遠い日本で、現代の日本人の先祖はその国の先住民であるアイヌに敵対し北上していたが、その軍団の指導者が有名な将軍でありネグロでもあった坂上田村麻呂だった」

引用

坂上田村麻呂黒人説 - Wikipedia

と記述していることから誕生したとされています。

また1915年、アメリカの公民権運動指導者であるW・E・B・デュボイスが黒人の戦士の一覧に坂上田村麻呂を加え紹介しました。

このようなことから、坂上田村麻呂は黒人であったという黒人説が2002年頃に至るまで取り上げられてきました。

しかし、坂上田村麻呂が黒人であったという明確な証拠はないため、坂上田村麻呂が黒人であったという説には疑問が残ります。

清水寺の創建者であった

あまり知られていませんが、坂上田村麻呂は清水寺の創建者とされ、このような伝説が残されています。

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By JKT-c – Taken by JKT-c., CC 表示 3.0, Link

宝亀9年(778年)「木津川の北流にある清泉を求めよ」という夢のお告げを信じた大和国興福寺の僧・賢心は清流を求め現在、清水寺のある音羽山にたどり着きます。

音羽山には金色に輝く清流が流れており、その清流をたどると滝修行を行っていた1人の僧侶がいました。

その僧侶は行叡居士といい、行叡居士は賢心に千手観音像を刻むための霊木を渡し、「これから東国に旅に出る、後は頼む」と言い残し、姿を消しました。

賢心はその言葉の通り、霊木に千手観音を掘り行叡の旧庵に安置しました。

それから2年後、坂上田村麻呂が妻・高子の病気平癒のため、鹿の生き血を求め音羽山に訪れます。

その際、修業中の賢心に出会い、賢心から行叡居士との話を聞きました。

話を聞いた田村麻呂は、このような神聖な場所で鹿を殺してはならないと反省し自らの邸宅を仏殿として寄進します。

その後、延暦17年(798)に寄進された仏殿を大規模に改築し、ここを本尊を祀ったとされています。

この仏殿こそが清水寺とされています。

清水寺の境内の中には平成6年(1994年)「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」と記された碑が建立されました。

まとめ 坂上田村麻呂のドラマや映画や小説はある?

坂上田村麻呂の生い立ちや経歴、黒人伝説やエピソードをご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 征夷大将軍として蝦夷討伐を行い、阿弖流為(アテルイ)を破る
  • 阿弖流為の助命嘆願を行った
  • 薬子の変で活躍
  • 黒人説があるも証拠はない
  • 清水寺の創建者

坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され蝦夷討伐を行った人物でした。

阿弖流為を破った詳しい経緯は残されていませんが、阿弖流為と母礼の助命嘆願をしたとされ、蝦夷の討伐を目的とした征夷大将軍でありながら人情を持っていたようです。

そんな坂上田村麻呂が登場する有名なドラマは『火怨・北の英雄 アテルイ伝』です。

この作品において

  • 坂上田村麻呂を俳優の高嶋政宏さん
  • 阿弖流為を俳優の大沢たかおさん
  • 母礼を俳優の北村一輝さん
  • 桓武天皇を俳優の近藤正臣さん

が演じられています。

阿弖流為の目線で蝦夷討伐が描かれてる作品です。

坂上田村麻呂が登場する小説は

  • 荻原規子さんの『薄紅天女』
  • 左高例さんの『BLACK TO THE FUTURE坂上田村麻呂伝』

があげられます。

これを機に坂上田村麻呂に興味を持った方は、ドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』、小説『薄紅天女』、『BLACK TO THE FUTURE坂上田村麻呂伝』を手に取ってみてください。

以上「坂上田村麻呂の生い立ちや生涯、黒人伝説やいい人エピソード逸話」のご紹介でした。

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