平将門、菅原道真、崇徳天皇は日本三大怨霊として恐れられています。
しかし、怨霊と恐れられたのは3人だけではありません。
奈良時代に活躍した第50代桓武天皇の弟・早良親王(さわらしんのう)も怨霊となった人物の1人とされています。
早良親王の死後、疫病の流行、洪水などが相次いで起こったため、怨霊をおさめるための鎮魂の儀式が幾度と行われました。
ではなぜ早良親王は怨霊となり恐れられたのでしょうか。
今回はそんな早良親王の
- 生涯
- 家族
- 怨霊となった経緯
- 桓武天皇や崇徳天皇との関係性
についてご紹介いたします。
これを読めば早良親王の生涯や家族、桓武天皇や崇徳天皇との関係性について知ることができますよ。
早良親王の生い立ち。父母兄弟、家系図は?
早良親王は奈良時代にあたる天平勝宝2年(750年)に誕生したと考えられています。
父は第49代天皇・光仁天皇で母は百済系渡来人氏族出身の高野新笠でした。
兄弟に
- 長女・能登内親王
- 長男・山部親王(のちの桓武天皇)
がいたとされ早良親王は父・光仁天皇の次男であったとされています。
早良親王の母・高野新笠は低い身分であったため早良親王は父・光仁天皇の後継ぎとして立太子されることは予定されていませんでした。
そのため天平宝字5年(761年)に出家した早良親王は、現在の奈良県にある東大寺羂索院や大安寺東院に住むようになり、「親王禅師」と呼ばれるようになります。
しかし、宝亀3年(772年)3月2日、父・光仁天皇の皇后である井上内親王が、自身の夫・光仁天皇を呪詛するといった事件が起こります。
この事件によって
- 皇后・井上内親王は廃される
- その子供・他戸親王も廃される
といった事態となり、宝亀4年(773年)1月2日、早良親王の兄である山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となります。
その後、天応元年(781年)、兄・山部親王(のちの桓武天皇)の即位と同時に早良親王は還俗し、立太子となりました。
当時、兄・桓武天皇は藤原乙牟漏との間に第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が誕生していました。
この時、桓武天皇は45歳であったとされています。
今でこそ、まだ若いと言われる年齢ですが、当時45歳という年齢は老年であったとされ、桓武天皇が崩御し、安殿親王(後の平城天皇)が幼帝となる事態を想定し、早良親王が桓武天皇の後継ぎとして立太子となったのではと考えられています。
早良親王の最後や死因。なぜ死んだ?
こうして皇太子となった早良親王でしたが、延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に関わったとして乙訓寺(京都府長岡京市にある寺院)に幽閉されることとなります。
この造長岡宮使・藤原種継暗殺事件とは、兄・桓武天皇の側近とされる藤原種継が暗殺された事件です。
兄・桓武天皇は平城京(現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺)から長岡京(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区周辺)へと遷都の計画を立てていました。
平城京とは現在の奈良県にあった都で、東大寺や興福寺など大きな寺社勢力が存在していました。
それらの寺社勢力と政治が繋がることは良くないと考えていた兄・桓武天皇は寺社勢力と関係を絶つため、東大寺や興福寺を残し長岡京へと遷都の計画をたてたのです。
そのため兄・桓武天皇は藤原種継を造長岡宮使とし、政務を任せました。
事実上、遷都計画の責任者となった藤原種継は
- 藤原小黒麻呂
- 佐伯今毛人
- 紀船守
- 大中臣子老
- 坂上苅田麻呂
らとともに協力し、長岡京遷都を成功させます。
しかし、遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、造宮監督を行っていた藤原種継は何者かに矢で射られ亡くなりました。
暗殺を実行したとして大伴竹良らが捕縛されると大伴継人・佐伯高成ら10数名も捕えられ処刑されます。
しかし、これらの捕えられ処刑された者たちは春宮坊の者であったのです。
この春宮坊とは皇太子の日常的な家事などを支え仕える人たちのことです。
そんな春宮坊の多くが捕えられたため、皇太子である早良親王がこの事件に関わっていないはずがないと考えられ、早良親王は捕えられ兄・桓武天皇によって幽閉されることとなりました。
早良親王は幽閉された後、淡路国に配流されることが決定となります。
しかし、この間にも無罪を訴え続け絶食をした早良親王でしたが、配流先の淡路国に移送される最中、河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市の高瀬神社付近)で延暦4年(785年)9月28日に35歳で亡くなりました。
早良親王の遺体は都に返されることはなく、そのまま配流先の淡路国に捨てられたとされています。
無罪を訴えるため絶食したとされている一方で、兄・桓武天皇は意図的に食事を与えず、早良親王を餓死させたとも考えられています。
死後、怨霊として恐れられる
早良親王の死後、皇太子に立てられたのは桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)でした。
しかし、皇太子となって間もなく安殿親王(後の平城天皇)は病を発病し、また
- 桓武天皇の妃である藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子が病死
- 桓武天皇・早良親王の母・高野新笠が病死
- 疫病の流行
- 洪水
などが相次いで起こり、これらは早良親王の祟りではないかと考えられるようになります。
そのため桓武天皇は早良親王の怨霊の鎮魂の儀式を幾度か行ったとされ、延暦19年(800年)には「崇道天皇」と追称し、改めて早良親王の遺体は大和国に移葬されることとなりました。
【逸話】早良親王と桓武天皇や崇徳天皇の関係とは
桓武天皇との関係性
桓武天皇は早良親王の兄にあたります。
実の兄弟でしたが、藤原種継暗殺事件に関わったとして早良親王は兄によって幽閉され、配流されました。
早良親王が実際に事件に関わっていたのか、今でも謎のままですが、早良親王は冤罪を主張し続けるも、そのまま餓死となりました。
早良親王が亡くなった後、都では相次いで災害や疫病の流行、また桓武天皇に近い人物の死などが起き、早良親王の祟りであると恐れられます。
実の弟を幽閉したのち、餓死させ、あげくのはてには怨霊と恐れた桓武天皇は、
- 延暦19年(800年)、早良親王に対し崇道天皇と追称する
- 各地に早良親王の怨霊を鎮魂するため、早良親王を祀った神社を建立
など行いました。
崇徳天皇との関係性
崇徳天皇は平安時代に活躍した人物です。
早良親王は奈良時代の人物ですので、接点はありません。
しかし、崇徳天皇徒はいくつかの共通点が存在します。
崇徳天皇は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に保元の乱において敗れた人物です。
この保元の乱とは、崇徳天皇方と後白河天皇方に朝廷内で分裂した対立で、天皇後継者を巡り武力衝突となりました。
崇徳天皇と対立した後白河天皇は崇徳天皇にとって弟にあたります。
結局この対立で崇徳天皇は敗れ、讃岐国へと配流されました。
配流された崇徳天皇は、讃岐国で崩御しましたが、その朝廷内で相次いで後白河天皇の関係者が亡くなるなどし、崇徳天皇の怨霊だと恐れられることとなります。
怨霊を恐れた朝廷は、崇徳天皇の怨霊に対し、様々な鎮魂儀式を行いました。
その鎮魂儀式は明治、昭和に入っても続けられ、今では日本三大怨霊の1人とされています。
崇徳天皇が怨霊になった経緯を簡単にご紹介いたしましたが、早良親王との共通点として
- 兄弟同士で争った
- どちらも配流され、亡くなった
- 亡くなった後、怨霊と恐れられ、様々な鎮魂儀式が行われた
という点があげられます。
まとめ 早良親王のドラマや映画や小説はある?
早良親王の生涯や家族、怨霊となった経緯や桓武天皇・崇徳天皇との関係性についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると早良親王は
- 兄・桓武天皇の即位と同時に立太子なる
- 藤原種継暗殺事件に関与した疑いで幽閉された後、配流される
- 配流される最中、餓死によって亡くなる
- 怨霊と恐れられる
- 怨霊となったという点において崇徳天皇と共通する
早良親王は、藤原種継暗殺事件に関わったとして実の兄・桓武天皇に幽閉された後、配流された人物でした。
実際、事件に関わっていたのかは分かっていませんが、早良親王は無罪を主張するため絶食していたとされています。
しかし、配流先の淡路国へと移送中に餓死によって亡くなりました。
崇徳天皇と同様に、怨霊と恐れられた早良親王に対し、数々の鎮魂儀式が行われることとなりました。
そんな早良親王が登場する有名な映画は「陰陽師」です。
この作品では
- 早良親王を俳優の萩原聖人さん
- 桓武天皇を俳優の木下ほうかさん
- 安倍晴明を狂言師の野村萬斎さん
が演じられています。
主人公として早良親王が登場するドラマや小説はありませんでしたが
- 大森亮尚さんの「日本の怨霊」
- 山田雄司さんの「怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院 」
- 木本好信さんの「藤原種継: 都を長岡に遷さむとす」
に早良親王について詳しく記されています。
これを機に早良親王に興味を持ったという方は映画「陰陽師」や書籍「日本の怨霊」「怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院 」「藤原種継: 都を長岡に遷さむとす」を見てみてください。
以上「早良親王の父母や兄弟は?桓武天皇や崇徳天皇との関係性について」のご紹介でした。
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