平滋子(建春門院)は巻き髪の美人だった?死因や中納言日記(たまきはる)の意味や内容あらすじ

あなたは平滋子(建春門院)という女性をご存知でしょうか。

後白河天皇から寵愛を受け、第80代天皇・高倉天皇の母親となった女性です。

非常に美しい女性であったとされる平滋子は男性からのみならず、女房からも美しいと評判でした。

大河ドラマ「平清盛」で女優の成海璃子さんが平滋子を演じられていたので、平滋子を知っている方も多いかもしれませんね。

成海璃子さんが演じられた平滋子は、平安時代の女性を代表するまっすぐな髪ではなく、クルクルとした巻き髪で登場していました。

では平滋子という女性は一体どのような人物であったのでしょうか

また実際、平滋子が巻き髪であったのかも気になります。

そこで今回は平滋子の

  • 生涯
  • 死因
  • 巻き髪
  • 美人とされる容姿
  • 中納言日記の意味やあらすじ

についてご紹介いたします。

これを読めば平滋子の生涯や死因、巻き髪や容姿、また中納言日記の意味やあらすじについて知ることができますよ。

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平滋子(建春門院)の経歴と最期の死因。建春門院の読み方や意味は?

平滋子は平安時代にあたる康治元年(1142年)

  • 父・平時信
  • 母・藤原顕頼の娘である祐子

の次女として誕生しました。

姉に冷泉局、妹に平清子がいたとされ、三姉妹でとされています。

また母は違いますが、2人の他に

  • 平信範(1112-1187)
  • 平時子(1126-1185)平清盛継室
  • 平時忠(1130-1189)
  • 平親宗(1144-1199)
  • 藤原親隆室(?-1177)
  • 帥局(?-1185) – 建礼門院女房
  • 坊門局  平重盛室、建礼門院女房

の兄妹がいました。

父・平時信の娘として誕生した滋子は、乳母・平政子によって育てられました。

父・平時信は、鳥羽上皇の近臣として仕えていたため、物心ついた滋子も鳥羽上皇の娘・上西門院の女房として仕えました。

 

宮仕えの際、滋子は、兄・時忠の官職が右少弁であったことにちなみ、「小弁(こべん)」という候名を用いたとされています。

滋子が仕えていた上西門院は後白河上皇の姉であったとされ、滋子の美貌を一目見た後白河上皇は、滋子を寵愛するようになります。

こうして寵愛を受けるようになった滋子は応保元年(1161年)4月、院御所・法住寺殿が完成した際、後白河上皇や後白河上皇の皇后・忻子とともに入御し、御所で暮らすようになりました。

この際、滋子は「東の御方」と呼ばれていたとされています。

しかし、もともと出仕していた女房であり、また高い身分出身の娘ではなかったため女御になることはできませんでした。

それでも後白河上皇は誰よりも滋子を寵愛していたとされ、どこへ行くにも共にしたとされています。

同年9月3日、滋子と後白河上皇との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生します。

この時、滋子は20歳。後白河上皇は35歳でした。

普通なら、天皇の子供が誕生すると、将来、天皇となるであろう皇子です。と公表するのが一般的でしたが、この頃、後白河上皇は二条天皇と激しく対立していたため、憲仁親王(後の高倉天皇)の親王宣下は延期されます。

二条天皇は後白河天皇の息子で、保元3年(1158年)8月11日に後白河上皇から譲位され即位した人物でした。

息子である二条天皇と政治主導権を巡り激しく両者は対立していたのですが、憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生して間もなくした頃、次期天皇として憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子にさせようという計画が平時忠によって企てられます。

二条天皇はこの計画を知ると、激怒し、計画を企てていた

  • 平時忠
  • 平教盛
  • 藤原成親
  • 坊門信隆

らを解任し、さらに後白河上皇の政治介入を停止するといった措置を行いました。

また翌年の応保2年(1162年)賀茂社において、二条天皇を呪った疑いで平時忠・源資賢の2人が信濃国に配流されるといった事件も起こります。

このようなことがあり、憲仁親王(後の高倉天皇)を立太子だけではなく、親王宣下すらも絶望的となりました。

この際、滋子は二条天皇の乳母が滋子の姉・時子であったことから、二条天皇方から直接圧力や攻撃を受けることはなかったとされています。

ちなみに、姉・時子の夫は平清盛です。

つまり、滋子にとって平清盛は義理の兄ということとなります。

こうして後白河上皇は政治介入を禁止されることとなりましたが、永万元年(1165年)7月、23歳で病によって二条天皇が崩御します。

これによって、後白河上皇の政治活動は再開され、同年12月に無事、憲仁親王(後の高倉天皇)の親王宣下を行うことができました。

 

二条天皇亡き後、天皇となったのは二条天皇の息子である六条天皇でした。

わずか2歳で即位した六条天皇の院政は後白河上皇が行うこととなります。

その後、仁安元年(1166年)10月10日、憲仁親王(後の高倉天皇)は立太子させられ、滋子はこれに伴い翌年正月には女御となることができました。

もともと身分の低い出身である滋子でしたが、自身の子供である憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子となったことで女御になることができたのです。

女御になった滋子には

  • 平教盛
  • 平宗盛
  • 平知盛
  • 平信範

らが家司としてつき、平家一門で固められました

もともと、後白河上皇は滋子の義理の兄である平清盛と長い付き合いを持っていましたが、実際はその言動や行動を後白河上皇は嫌っていたとされています。

しかし平清盛の義理の妹である滋子との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生したため、朝廷内の要職に平家一門を付けたのです。

つまりこれまで後白河上皇、平清盛は長い付き合いを持っていたが、互いに少し距離をおいた関係を保ち続けていた。しかし、憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生したため、滋子が両者の仲介役となったということです。

仁安3年(1168年)2月、後白河上皇は、六条天皇を憲仁親王(後の高倉天皇)に譲位させ、7歳の憲仁親王(後の高倉天皇)を即位させます。

わずか在位2年8か月と非常に短い在位であった六条天皇は高倉天皇の譲位したことにより、上皇となりました。

この時、六条上皇は4歳であり、これまでの歴代最年少の上皇となりました。

その後、3月14日になると後白河上皇は皇太后・藤原呈子に九条院の女院号を与えます。

これは滋子を皇太后に立てるためであったとされ、20日に滋子は皇太后としてたてられました。

建春門院の院号が与えられる

翌年の嘉応元年(1169年)4月12日には天皇の生母として「建春門院(けんしゅんもんいん)」の院号が与えられます。

この頃になると、後白河上皇は出家し法皇となっていたとされています。

承安元年(1171年)正月、高倉天皇元服の儀式が行われました。

同年10月になると平清盛のもとへ滋子と後白河法皇は訪れたとされ、この際、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の妃として入内することが決められたとされています。

こうして12月14日、平清盛の娘・徳子は高倉天皇の妃となり、翌年の2月に中宮となりました。

滋子の晩年と夫婦仲

承安3年(1173年)4月12日未明、滋子の就寝していた法住寺・萱御所が火災に遭います。

この際、滋子は女房の健寿女などの誘導により無事、非難することができました。

この時、後白河法皇は今熊野社に参籠中であったため、京都にはいませんでしたが、滋子の身を案じ、一目散に御所に戻ったとされています。

このエピソードから後白河法皇が滋子を大切に思っていたということが分かりますね。

その後、承安4年(1174年)3月16日になると滋子と後白河法皇は、ともに厳島へと旅に出ます。

もちろん2人だけではなく

平氏一門から

  • 平宗盛
  • 平知盛
  • 平重衡

院近臣からは

  • 源資賢
  • 藤原光能
  • 平康頼
  • 西光

らが付き添いましたが、天皇や法皇といった身分の者が、后を連れて長距離の長旅をすることは前代未聞であったとされ、家臣・吉田経房は自身の日記において、「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」このようなことは前代未聞だ。危険が伴うというのに。ただ驚愕するばかりで、どうしようもない。と述べており、呆れている様子が分かります。

その後、後白河法皇が50歳を迎えたため、祝賀として安元2年(1176年)3月4日から6日にかけ、法住寺殿において盛大な式典が行われました。

この式典にもちろん滋子も参加しました。

その他にも、

  • 高倉天皇
  • 高倉天皇の妻・平徳子
  • 上西門院
  • 平氏一門
  • 公卿

などが参加したとされています。

特にこの時期は平家にとって全盛期であった時期で、平氏の繁栄の絶頂を示すものとなりました。

儀式が無事終わると、滋子と後白河法皇は3月9日に摂津国の有馬温泉へと旅行に出かけます。

滋子の晩年は、夫の後白河法皇とともに熊野や有馬、厳島へと旅行に行くなど、滋子と後白河上皇は非常に仲の良い夫婦であったことがわかります。

平滋子の最期

翌年の6月まで旅行していたとされていますが、帰って間もない6月8日、滋子は腫物が原因の病に倒れます。

その際、夫の後白河法皇は滋子の看病などを必死に行ったとされていますが、病状は悪化する一方で、 安元2年(1176年)7月8日、35歳で亡くなりました。

腫物が原因で亡くなったとされていますが、糖尿病に併発した腫物であったとも考えられています。

滋子亡きあと

滋子亡きあと、まだ子供のいない高倉天皇の立場は不安定なものとなったとされています。

この時、高倉天皇は元服をすでにしており、政務に関与するようになっていました。

しかし、未だに父親である後白河法皇が院政を行っており、院政の継続を望む後白河法皇と、自ら政治を行いたいと望む高倉天皇との間で対立が生じます。

また、もともと平家と後白河法皇の仲介役であった滋子が亡くなってしまったため、これまで良好な関係を保っていた両者は、次第に対立関係となり、滋子が亡くなった翌年の安元3年(1177年)6月、後白河法皇によって平家打倒の計画が企てられたとされる鹿ケ谷の陰謀が起こりました。

しかし、後白河法皇が平家打倒を計画していると平清盛のもとに密告されたため、平清盛は後白河法皇方の重臣たちを処刑したとされています。

建春門院中納言日記(たまきはる)の作者やあらすじ内容解説

「建春門院中納言日記(たまはるき)」とは歌人・藤原定家の姉である健寿女が書き残した日記です。

この「たまはるき」とは原題名ではなく、冒頭に記された和歌「たまきはる 命をあだに 聞きしかど 君恋ひわぶる 年は経にけり」から付けられました。

この作者である健寿女は滋子が皇太后となった頃から、滋子の女房として12歳から仕えていたとされています。

そんな滋子の身近にいた女房・健寿女はこの日記のなかに、さまざまな滋子の素顔を書き残しました。

滋子の容姿について

日記の中で、「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」滋子は非常に美しく、この世にはこのような美しい人もいらしたのか。と記されています。

滋子は非常に美しい女性であったとされ、多くの女中も滋子の美しい美貌について残しています。

几帳面な性格であった

また日記には、「大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん」心構えは実に比類なくていらしたと記されています。

あらゆることにたいし、几帳面でしっかりとした性格であったとされる滋子は、女房達が退屈しないように気配りをしたり、またいつ後白河法皇や高倉天皇が訪れてもいいように常に威厳を正していたとされています。

そのため、「御所の御しつらひ、人々の姿まで、ことにかがやくばかり見えし」滋子のみならず、御所の調度から女房の姿まで、輝くように美しかったとされています。

また滋子は「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物。とぞ。」

つまり、女は心がけしだいでどうにでもなるもの。親や周囲のせいにしてはならない。自分の心をしっかり持ち、自身の身体を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運が訪れると述べていたとされています。

美しい美貌だけではなく、几帳面な性格で気配り上手であった滋子。それだけではなく、しっかりした心を持っていれば、自然と幸せは訪れるといった信念も持っていました。

 

まさに女性の鑑となる人物ですね。

【逸話】平滋子(建春門院)は巻き髪の美人だった?

大河ドラマ「平清盛」で女優の成海璃子さん演じられた滋子は、可愛らしい巻き髪の女性でした。

しかし、多くの方が想像される平安時代の女性というのは、長く真っ直ぐな髪をした女性ではないでしょうか。

また多くの絵巻物などで見ることのできる平安時代の女性は、ほとんどが真っ直ぐの髪をした女性です。

それもそのはず、平安時代において真っ直ぐではない髪の女性はブサイクな女性として扱われていました。

当時の美人の第一条件は真っ直ぐな髪を持つということです。

もし、滋子の髪が真っ直ぐではなく、くせ毛であったのなら、当時の美人の条件に当てはまらないため、美しい女性であった、美貌の持ち主であったと記されることはなかったでしょう。

またくせ毛を隠すために、当時はカツラを被っていた女性もいたとされるため、大河ドラマで登場した滋子のように、ブサイクとして扱われるくせ毛を堂々と人々の前に見せるということはなかったのでは。と疑問が残ります。

滋子に関する史料の中にも、滋子は巻き髪であったということは残されていないとされ、滋子の巻き髪はドラマ上の設定であるということとなります。

まとめ 平滋子(建春門院)のドラマや映画や小説はある?

平滋子の生涯や死因、「建春門院中納言日記(たまきはる)」や巻き髪についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 後白河上皇に寵愛を受け、高倉天皇を出産
  • 美しい女性であった
  • 後白河上皇との夫婦仲は非常に良かった
  • 後白河上皇と平清盛の仲介役を担っていた
  • 建春門院中納言日記(たまきはる)には滋子の素顔が多く記されている
  • 巻き髪ではなかった

平滋子は、もともと女房として朝廷に仕えていましたが、その美しさに目を留めた後白河上皇から寵愛を受けるようになり、高倉天皇の母となることができました。

あまり政治に関し、積極的に働きを見せた女性ではありませんでしたが、平清盛と後白河上皇の仲介役を務め、それによって平家一門は朝廷の要職を担うなど、平家一門にとって栄華の道が開かれることとなりました。

平家にとって滋子なしでは全盛期を迎えることはなかったといっても過言ではありません。

 

そんな平滋子が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品では

  • 平滋子を女優の成海璃子さん
  • 後白河上皇を俳優の松田翔太さん
  • 高倉天皇を俳優の千葉雄大さん
  • 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
  • 平徳子を女優の二階堂ふみさん

が演じられました。

>>大河ドラマ「平清盛」を見る

また永井路子さんの小説「波のかたみ―清盛の妻」にも平滋子は登場しています。

これを機に平滋子に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」、小説「波のかたみ―清盛の妻」を見てみてください。


以上「平滋子(建春門院)は巻き髪の美人だった?死因や中納言日記(たまきはる)の意味や内容あらすじ」のご紹介でした。

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