江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室・和宮親子内親王をご存知でしょうか。
仁孝天皇の娘でありながら、日本史上、唯一武家に嫁いだ女性です。
江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室・篤姫とは犬猿の仲であったことも有名です。
大河ドラマ「篤姫」では女優の堀北真希さんが和宮を演じ、篤姫を女優の宮崎あおいさんが演じられました。
今回は、皇女和宮の
- 生い立ち
- 生涯
- 性格
- 逸話
- 替え玉のエピソード
をご紹介いたします。
これを読めば、皇女和宮の生涯や性格、逸話、替え玉のエピソードを知ることができますよ。
堀北真希さんが演じた和宮様。
今も話題になる事、
評価される事が嬉しい! pic.twitter.com/bN46iR91O6— 後祇園 (@ayakasa015) 2018年2月5日
皇女和宮の生い立ちと結婚前までの生涯
和宮は弘化3年(1846年)仁孝天皇と側室・橋本経子の第八皇女として京都御所に隣接する橋本邸で誕生しました。
異母兄で当時の天皇であった孝明天皇から和宮の名前を与えられます。
嘉永4年(1851年)7月12日、和宮がまだ5歳の頃、異母兄・孝明天皇の命令によって有栖川宮熾仁親王と婚約しました。
この有栖川宮熾仁親王という人物は後の明治維新後、軍人となり明治天皇を支える人物となります。
当時、日本はまだ開国しておらず、外国船が次々と日本へ訪れては開国を迫っていました。
安政5年(1858年)6月27日、幕府によって日米修好通商条約の条約調印に関する奉書が京都に届けられます。
この日米修好通商条約はアメリカ側の領事裁判権を認めるも、日本の関税自主権はなかったことから、日本としては不利な条約でした。
攘夷派であった異母兄・孝明天皇は異国が日本に開国を迫るというのならば、争いは避けられないという考えを持っていました。
攘夷派とは、天皇を敬い、外国を日本から追い出すという思想のことを指します。
よって、異母兄・孝明天皇は日米修好通商条約には反対をしていました。
しかし、大老であった井伊直弼が朝廷の許可なしでこの日米修好通商条約を結んでしまいます。
幕府はこの条約を軍事が整うまでの一時的な条約として結びましたが、この事に対し、反対していた異母兄・孝明天皇は激怒します。
こうして勝手に幕府によって日米修好通商条約が結ばれたため、反幕府勢力によって譲位運動は過激化し、日米修好通商条約を勝手に結んだ井伊直弼は非難をあび、のちの桜田門外の変に繋がります。
朝廷と幕府が対立関係となると幕府は、異母兄・孝明天皇に再び鎖国状態に戻ると説明しました。
説明を受け入れた異母兄・孝明天皇に対し、幕府は、鎖国状態に戻すには幕府と朝廷の対立関係を修復しなければならない。関係修復のためには孝明天皇の異母妹である和宮様と同じ年の14代将軍徳川家茂が結婚することが必要と提案しました。
しかし、朝廷は万延元年(1860年)4月12日
- 有栖川宮熾仁親王と婚約が決まっている
- 和宮は異腹の妹であるため異母兄・孝明天皇では決められない
- 外国人の多くいる関東へ行くことを和宮は嫌がっている
ということから14代将軍徳川家茂が結婚を断りました。
これに対し、幕府は
- 有栖川宮熾仁親王と和宮はまだ内約であるため、婚約破棄しても問題ない
- 京都から関東へ移った際は大事に扱う
- 朝廷の人間も送り、また諸国から武士が参勤してくる関東であるため完全な警護ができる
と返答します。
和宮はこの結婚になかなか踏み切れませんでしたが、
- 父・仁孝天皇の回忌の際は上洛させること
- 大奥に入った際も実家である御所の流儀は守ること
- 御所の女官をそばに置くこと
- 困ったことがあれば、ただちに御所から伯父・橋本実麗を呼び寄せ、上臈か御年寄を御所に向かわせること
を条件とし、14代将軍徳川家茂との結婚を承諾しました。
皇女和宮の結婚。子供や最後の死因は?
こうして文久2年(1862年)2月11日、和宮と14代将軍徳川家茂の婚儀が行われました。
夫となった家茂よりも、妻となった和宮の方が皇族出身であるため、身分は高く
- 主人が和宮
- 客分が家茂
という異例の逆転の立場で婚儀が行われました。
一般的に、将軍の妻となった女性を御台様と呼びますが、和宮は天皇の娘であったため、和宮様と呼ばれます。
大奥での暮らしは、御所を実家に持つ和宮にとって大変、窮屈でありました。
同じ大奥にいた先の将軍である第13代将軍徳川家定の妻・篤姫とは嫁姑関係であり、皇室出身である和宮と、武家出身の篤姫は、ともに生活習慣の違いや嫁姑関係から仲は悪かったとされています。
文久3年(1863年)2月13日、夫・家茂が戦のため江戸を発つと、和宮は夫を心配し増上寺へと足を運びます。
攻略結婚でしたが、夫の心配をしていた事が分かります。
同年6月16日には夫・家茂は江戸へと戻ってきました。
しかし、29日には再び夫・家茂に上洛の命が出され江戸を発ちます。
元治元年(1864年)7月19日、京都で蛤御門の変が起きます。
この蛤御門の変とは長州藩勢力と幕府の争いです。
夫・家茂は長州藩討伐の命令を出し、自らも討伐のため京都へ向かいました。
京都へ向かった夫・家茂は慶応2年(1866年)4月になると体調を崩し、7月20日に20歳で亡くなりました。
こうして和宮と家茂の結婚生活はたった4年で幕を閉じます。
夫亡き後、徳川家存続に奮闘する
夫・家茂が亡くなった後、一橋慶喜が江戸幕府第15代征夷大将軍となり、和宮は号を静寛院宮に改めます。
同年12月25日には父である孝明天皇が崩御し、慶応3年(1867年)1月9日に甥・明治天皇が践祚しました。
家茂が亡くなり徳川慶喜が江戸幕府第15代征夷大将軍となってからは幕府の力は弱まり、薩摩派などの倒幕派の勢力が力を付け始めました。
王政復古大号令を発し、誕生した明治新政府軍と徳川将軍家の争いである戊辰戦争が勃発し、新政府軍による江戸城への攻撃が迫ってきました。
これに対し和宮は、篤姫と共に
- 和宮は朝廷側に
- 篤姫は幕府側に
徳川家存続の嘆願書を送りました。
この和宮と篤姫の奮闘によって江戸城の無血開城となります。
仲の悪かった和宮と篤姫ですが、徳川家の存続に対しては同じ考えを持っていたため、協力しあうことができました。
江戸城と大奥を明渡すことになると、和宮は亡き家茂の母・実成院とともに江戸城を発ち、清水邸へと移り住みました。
明治維新後の明治2年(1869年)1月18日、和宮は聖護院を仮住まいとし、24日には明治天皇と対面します。
その後も、京都で滞在しましたが、東京に都が遷都されると明治7年(1874年)7月、和宮も現在の港区六本木1丁目にあたる麻布市兵衛町にあった元八戸藩主・南部信順の屋敷に移り住みます。
東京に移った際
- 皇族
- 篤姫
- 徳川家
などと交流を持ったとされています。
この頃になると、神経障害を患っていたため箱根塔ノ沢温泉で湯治を行っていたとされています。
しかし、明治10年(1877年)9月2日、脚気衝心によって32歳の若さで亡くなりました。
療養先の塔ノ沢で亡くなったとされています。
和宮と夫・家茂は攻略結婚でしたが、仲は良かったとされ、家茂は側室を持っていませんでした。
しかし、2人の間に子供は誕生せず、和宮は生涯子供を持つことはありませんでした。
【エピソード・逸話】皇女和宮の性格や替え玉の謎
和宮は、徳川家茂と結婚する際、
- 父・仁孝天皇の回忌には必ず京都へ帰ります
- 大奥にはいっても、実家の御所の流儀は守ります
- 実家の御所の女官をそばに置きます
- 何かあったら御所から伯父・橋本実麗を呼び寄せ、江戸から上臈か御年寄を御所に向かわせます
このような条件を幕府に突き付けました。
和宮は江戸に行っても実家のような暮らしは変えたくなかったのです。
この条件に対し、幕府は受け入れ和宮と家茂は結婚にいたりました。
御所のような暮らしを大奥でも続けたかった和宮ですが、大奥に入るとそうはいきません。
先の将軍である第13代将軍徳川家定の妻・篤姫と対面した際、会釈もされず和宮の席には敷物も用意されていませんでした。
また御所での生活では勅許が出なければ、足袋は履かないというのが決まりでした。
しかし、大奥では常に足袋を履くのが一般的であり、御所の暮らしを変えたくない和宮は大奥においても素足であったとされています。
御所の暮らしを変えたくない和宮でしたが、大奥の暮らしに合わせ、嫌々、足袋を履いたという記録が残されています。
このように大奥にいても、御所の生活スタイルを崩さなかった和宮は、少し頑固な性格であったことがわかります。
御所の生活スタイルを崩さなかった和宮に対し、武家出身の篤姫は良く思わず、和宮と篤姫は仲が良くありませんでした。
しかし、徳川家存続の危機が訪れると、2人は協力し徳川家を存続させ、明治維新後は親しく交流しています。
和宮の替え玉説について
和宮は亡くなった後、増上寺の徳川家墓所に夫・家茂とともに埋葬されました。
のちに発掘調査された際、和宮の左手はなぜが見つからず、また肖像画に左手が描かれていないことから、和宮は左手が無かったのでは?という推測がなされました。
しかし、小坂家の写真師によって撮影された和宮の写真が発見され、その写真には左手がしっかりと写っているので、和宮には左手があったことが証明されます。
よって和宮には左手があったということになります。
ですが、ここから和宮の替え玉説が誕生しました。
夫・家茂の棺桶に入っていた髪の毛のDNAを調べてみると、その髪の毛は和宮ではない別人のDNAであることが分かりました。
このことから、徳川家墓所に埋葬されていた左手のない女性は、和宮ではなく和宮の替え玉となった別の女性であったということとなります。
もともと、家茂のもとに嫁ぐことを嫌がっていた和宮ですので、替え玉として別の女性を家茂の下に送ったという替え玉説も納得ができますね。
ですが、現在でも替え玉説の真実は未だ分かっていません。
まとめ 皇女和宮はどんな人?ドラマや映画はある?
和宮の生い立ち、生涯、性格、替え玉のエピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 仁孝天皇の娘であった
- 攻略結婚によって徳川家茂と結婚
- 大奥に入った際は篤姫と対立
- 徳川家存続の危機が迫ると、篤姫と共に奮闘
- 明治維新後は江戸城から離れて暮らすも、32歳で脚気衝心によって亡くなる
- 子供はいなかった
- 替え玉説の真実は未だ分かっていない
江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室になった和宮は、天皇の娘でありながらも武家に嫁いだ女性でした。
たった4年の結婚生活でありながらも夫亡き後も徳川家存続を願い、犬猿の中であった篤姫とともに奮闘した和宮でしたが、発掘調査の結果、左手がなかったこと、DNAの調査では別人であったことから替え玉説が誕生しました。
未だ、替え玉説の真実は分かっていませんが、家茂に嫁いだ女性が和宮の替え玉であるのなら、一体その女性は誰なのか気になりますね。
そんな和宮が登場する有名なNHK大河ドラマは「篤姫」です。
この作品では
- 和宮を女優の堀北真希さん
- 篤姫を女優の宮崎あおいさん
- 徳川家定を俳優の堺雅人さん
- 徳川家茂を俳優の松田翔太さん
が演じられました。
またテレビドラマ「大奥」では
- 和宮を女優の安達祐実さん
- 篤姫を女優の菅野美穂さん
が演じられました。
これを機に、和宮に興味を持った方は大河ドラマ「篤姫」、テレビドラマ「大奥」を見てみてください。
以上「皇女和宮の性格と生涯、生い立ちや替え玉のエピソード・逸話」のご紹介でした。
コメント