壇ノ浦の戦いは誰と誰が戦って勝者と生き残りは?時代や場所、経緯と結果をわかりやすく解説!

かの有名な壇ノ浦の戦いは、源氏と平家、最後の戦いです。

この戦いにおいて平家は滅亡し、長く続いた平家一門の全盛期は終わりを迎えることとなりました。

 

多くの方が知っているであろう壇ノ浦の戦いとは一体どのような戦いであったのでしょうか。

 

今回は壇ノ浦の戦いについて

  • 誰が争ったのか
  • 勝者
  • 生き残り
  • 時代
  • 場所
  • 経緯と結果

についてご紹介いたします。

 

これを読めば壇ノ浦の戦いの時代や場所系やけ家生き残りなどについて知ることができますよ。

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壇ノ浦の戦いの要約と解説。時代はいつで語呂合わせの覚え方は?

壇ノ浦の戦いが行われたのは平安時代末期に当たる元歴2年(1185年)3月24日です。

 

覚えやすいゴロ合わせは「いやー(118)、困った(5)平家が滅びる」です。

 

この戦いが行われる、約20年ほど前、朝廷と貴族との間で保元元年(1156年)7月、当時の天皇である、後白河天皇とその上皇、崇徳上皇の争いが勃発しました

 

この戦いは、保元の乱と呼ばれ平家出身の平清盛が後白河天皇方につき、後白河天皇に勝利を導きました。

 

また、その後平治元年(1160年)12月9日には二条親政派と実権を握っていた信西との間で平治の乱が勃発します。

 

このように平安時代末期は、朝廷と貴族の間で武力闘争が立て続けに勃発していました。

 

この頃、後白河上皇の第一子である二条天皇の乳母となったのは平清盛の継室である平時子でした。

 

そのため平清盛は二条天皇の乳父となることとなり、検非違使別当、中納言の地位が与えられ、後白河上皇、二条天皇との間で強い結びつきをもつようになります。

 

その後も、平清盛は自身の娘・平盛子を関白・近衛基実に嫁がせるなど、朝廷との関係性を深めるようになりました。

 

これに伴い平氏一門の地位も上昇し、ついに朝廷において発言権を持つようになります。

 

その後も

  • 応保2年(1162年)日宋貿易の発展に取り組む
  • 承安元年(1171年)自身の娘・徳子(建礼門院)を高倉天皇(安徳天皇の父)の中宮に送り込む

など、平清盛はさらに朝廷との間で絆を深め、平家一門はこれ以降、大活躍することとなったのです。

 

かの有名な「平家にあらずんば人にあらずという」は、この頃に述べられました。

 

この言葉は平家一門でない者は、もはや人ではないという意味です。

 

非常におごり高ぶったこの言葉を述べたのは、平時忠とされ、当時、平家がいかに活躍していたのかが分かります。

 

このように、平清盛の努力の甲斐もあって、平家一門は朝廷や、後白河法皇と良好な関係を持っていましたが、次第にその平家一門の調停を試みない姿勢が後白河法皇や朝廷の反感を買うこととなり、対立関係までに発展しました。

鹿ケ谷の陰謀

遂に治承元年(1177年)平家一門をよく思わない院政勢力が平家打倒の計画を企てます

 

実際この平家打倒の計画は平清盛に密告されることとなり、失敗に終わりました。

 

密告を受けた平清盛は陰謀に関わった人物を処罰しますが、陰謀に関わったとされる後白河法皇は処罰されることはありませんでした。

 

この事件は鹿ケ谷の陰謀と呼ばれています。

 

その翌年の治承3年(1179年)、後白河法皇は無断で平清盛の荘園を没収、平清盛の嫡男・重盛が亡くなると、これに対しても無断で平重盛の荘園を没収しました。

 

無断で荘園を没収されたためこれに対し、平清盛は怒りを露わにし同年11月、後白河法皇を幽閉させるといったクーデターを起こし、後白河院政を完全に停止に追い込みます。

 

その後、高倉天皇と関係を深めた平清盛は治承4年(1180年)2月、高倉天皇を譲位させ、高倉天皇と平清盛の娘・徳子との間に誕生した安徳天皇をわずか2歳で即位させました。

 

この安徳天皇はまだ2歳であったため、平清盛が後ろ盾となり、事実上、平家が権力を握ることとなります。

 

この安徳天皇の即位に不満を持つ人物がいました。

 

それは以仁王という人物です。

 

この以仁王はという人物は後白河天皇の第三皇子で、本来ならば天皇となれるはずの人物でしたが、幼い安徳天皇が即位していまったため、皇位継承が絶望的となってしまったのです。

 

そのため、安徳天皇の即位を心から喜べず、むしろ安徳天皇を廃位させようと考えます。

 

こうして後白河天皇の第三皇子・以仁王は治承4年(1180年)

 

  • 安徳天皇の廃位
  • 新政権の樹立
  • 事実上、政治権力を持つ平家の打倒

 

を発します。

 

これによって全国で平氏打倒を目的とした源氏と平家の戦いが繰り広げられることとなりました。

 

平家討伐の開始

寿永2年(1183年)4月、京都にいた安徳天皇と平家一門のもとに、平家討伐を目的とした源義仲が迫っているという報告が入ります。

 

そのため平家一門は安徳天皇を連れ西国へと逃れました

 

この際、平家は天皇即位の儀式に必要な三種の神器も持ち出したとされ、朝廷は三種の神器の奪還も急ぐように源氏に命じます。

 

また西国へと安徳天皇が逃れたため、京都では天皇不在となってしまったため、朝廷は安徳天皇に代わる天皇として後鳥羽天皇(高倉上皇の第四皇子)を寿永2年(1183年)9月8日に三種の神器を用いずに即位させました。

 

これによって天皇は2人存在することとなり、前代未聞の事態となりました。

 

この頃になると西国へと逃れた平氏と安徳天皇は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたる福原に陣を構えたとされ

  • 瀬戸内海を制圧
  • 中国、四国、九州も支配

します。

 

同年1月26日、後白河法皇は源頼朝に対し

 

  • 平氏の討伐
  • 三種の神器の奪還

 

を命じると、

  • 源範頼率いる大手軍5万6千余騎
  • 源義経率いる搦手軍1万騎

が寿永3年(1184年)2月4日に京都を発ち、福原に陣を構えていた平氏に襲撃をしました。

 

この戦いは一ノ谷の戦いと呼ばれ、この戦いにおいて平氏は敗走し、現在の高松市にあたる屋島へと逃れることとなります。

 

内裏を置いて屋島を本拠地にした平氏は、屋島のみならず、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置きました。

 

しかし、元暦2年(1185年)2月19日、本拠地であった屋島はまたもや源義経軍に襲撃を受け、平家一門は敗走となり、大将・平知盛のいる長門国彦島へと逃れることとなりました。

 

この戦いは屋島の戦いと呼ばれ、敗走した平氏はこれによって瀬戸内海の制海権を失うこととなります。

 

壇ノ浦の戦いの場所を地図で解説!

この頃になると九州にいた平氏一門は源範頼軍によって破られていたため(葦屋浦の戦い)、救助の望みは無く島に完全孤立状態となり、こうして、彦島へと逃れた平氏一門は源平合戦最後の戦いである、壇ノ浦の戦いを迎えることとなりました。

 

壇ノ浦の戦いの舞台は現在の山口県下関市に位置する長門国赤間関壇ノ浦です

 

海上戦となったため、彦島に残る平氏一門を一掃すべく、源義経は

  • 摂津国の渡辺水軍
  • 伊予国の河野水軍
  • 紀伊国の熊野水軍

など約840艘を集め平氏に挑みました。

 

これに対し平家は

  • 松浦党100余艘
  • 山鹿秀遠300余艘
  • 平氏一門100余艘

合わせて500余艘の編成であったとされています。

 

源氏に対し、平氏は圧倒的に兵力不足でした。

 

しかし、平氏は海上戦となる関門海峡の海流を熟知していたため有利な状況でした。

 

こうして元暦2年(1185年)3月24日、攻めてきた源義経軍の水軍に対し、孤立していた彦島から大将・平知盛率いる平氏軍が出撃し、壇ノ浦の戦いが始まりました。

 

午の刻(昼の12時頃)に始まったとされる戦いは、潮の流れを熟知していた平氏軍がはじめ優勢でした。

 

海上戦に慣れていない源氏軍は平氏軍に押される形となり、義経軍は満珠島・干珠島の付近まで追いつめられることとなります。

 

しかし平氏方に味方をした潮の流れでしたが、やがて潮の流れは変わり始め、それに乗じて源氏方の総攻撃が開始されました。

壇ノ浦の戦い.png
GFDL, Link

この総攻撃はあっという間に平氏軍を壊滅状態へと追い込み、死を悟った平氏一門は次々に海に身を投げ捨てます。

 

大将の平知盛も、平氏一門の敗北を悟ると

  • 建礼門院(平徳子)
  • 二位尼(平時子)
  • 安徳天皇

などが乗る女船へと乗り移り、

 

「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と述べます。

この言葉は、源氏方の武者たちに強姦されるかもしれません。といった示唆であり、これを聞いた二位尼(平時子)は、平家一門の滅亡と死を悟り、三種の神器のうちの

  • 天叢雲剣
  • 神璽

を身に着け、幼い安徳天皇を抱き入水しました。

 

こうしてわずか6歳の安徳天皇は崩御安徳天皇の祖母である二位尼(平時子)は59歳で亡くなりました。

 

安徳天皇と二位尼(平時子)が入水したのを見て

  • 建礼門院(平徳子)
  • 平教盛
  • 平経盛
  • 平資盛
  • 平有盛
  • 平行盛
  • 平宗盛
  • 平知盛
  • 平家長

などが入水しましたが、そのうちの

  • 建礼門院(平徳子)は源氏方に救助され、その後、出家
  • 平宗盛は命を惜しんで、陸を目指し泳ぐも源氏に捕えられ、その後処刑

されています。

 

また壇ノ浦の戦いで生き残った者のの多くは源氏方に捕えられることとなり、その一部は処刑となりました。

 

こうして平家は25年にわたる平氏政権の幕を閉じることとなり、勝利を収めた源頼朝は後に鎌倉幕府を開き、武家政権を確立していくこととなりました。

 

壇ノ浦の戦いのエピソード集。三種の神器の逸話など

源義経の反則行為

壇ノ浦の戦いの序盤、潮の流れは平氏方に味方し、この勢いに乗った平氏は源義経の首を取ろうと襲撃しました。

 

しかし、自身の不利を悟った源義経は、平家方の非戦闘員である漕ぎ手を矢で射るよう命じたとされ、源義経は命拾いします。

 

当時、戦において非戦闘員である者を射ることは反則行為でした。

 

ですが、反則行為を知っていたであろう源義経は、あえて反則行為をすることで戦況を一変させたのです。

 

こうして源義経は命の危機を脱し、潮の流れが反転すると、平氏に対し源氏の総攻撃が開始されました。

三種の神器のその後

天皇即位の儀式に必要な三種の神器は、安徳天皇とともに平家に持ち出されました。

 

三種の神器とは

  • 神璽
  • 八尺瓊勾玉
  • 天叢雲剣

をさします。

 

壇ノ浦の戦いにおいて、平家が源氏に総攻撃を受け壊滅状態となると、平家の滅亡を悟った二位尼(平時子)が三種の神器のうち天叢雲剣と神璽を身に着け入水しました。

 

また三種の神器のうちの八尺瓊勾玉も海に沈んだとされています。

 

壇ノ浦の戦い後、海に沈められた神璽と八尺瓊勾玉は源氏に回収されましたが、天叢雲剣のみは海に沈んだままとされており、今でも見つかっていないとされています。

 

現在、存在する天叢雲剣は伊勢神宮から献上された剣を「天叢雲剣」としたものとなっています。

まとめ 壇ノ浦の戦いのドラマや映画や小説はある?

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By 伝土佐光信 – 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, Link

以上、壇ノ浦の戦いが起きた時代や場所、勝者や生き残り、エピソードのご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 壇ノ浦の戦いは平安時代末期の戦い
  • 源氏と平家が戦い、源氏が勝利した
  • 壇ノ浦の舞台は現在の山口県下関市に位置する長門国赤間関壇ノ浦
  • 安徳天皇が入水し崩御した
  • 三種の神器も海に沈んだ
  • 生き残った建礼門院(平徳子)は出家した
  • 25年にわたる平氏政権の幕を閉じた戦いであった

壇ノ浦の戦いは、源氏と平家の最後の戦いでした。

安徳天皇はわずか6歳でこの戦に巻き込まれ命を落とすこととなりました。

平家全盛期「平家にあらずんば、人にあらず」と平時忠は述べていましたが、栄華を誇った平家はあっけなく壇ノ浦の戦いで滅亡となりました。

 

そんな壇ノ浦の戦いを描いた有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品では

  • 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
  • 平知盛を俳優の小柳友さん
  • 源頼朝を俳優の岡田将生さん
  • 源義経を俳優の神木隆之介さん

が演じられています。

 

 

  • 司馬遼太郎さんの小説「義経 (上)(下)」
  • 安部龍太郎さんの小説「天馬、翔ける 源義経」

 

も壇ノ浦の戦いが登場しています。

 

これを機に壇ノ浦の戦いに興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」小説 「義経 (上)(下)」「天馬、翔ける 源義経」を見てみてください。

 

以上「壇ノ浦の戦いは誰と誰が戦って勝者と生き残りは?時代や場所、経緯と結果をわかりやすく解説!」についてのご紹介でした。

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