平安時代の終わり頃、栄華を極めた一族がいました。
平氏です。中でも平清盛の時代が最盛期で、「平氏にあらずんば人にあらず」などという言葉も残っているほどです。
そんな時の実力者 平清盛について
- その生い立ちとは
- 平清盛の経歴や最後は?
- 平清盛の人柄や性格のわかるエピソード
これらに焦点を当ててみてみましょう。これを読めば平清盛に関する小説やドラマがより楽しく見れますよ。
平清盛の生い立ちとは?
平清盛は1118年に平忠盛の長男として生まれました。出身地については京都だったという説が有力ですが、三重県津市だという見方もあります。
母は祇園女御の妹だと言われています。
父の忠盛は伊勢平氏の棟梁で、播磨や伊勢の国主として重用されていました。
朝廷でも頼られ、伊勢平氏の中で初めて昇殿を許された人物でした。
母親についてはいくつか説があります。
当時白河法皇の寵妃に祇園女御という女性がおり、その妹にあたる人が清盛の母だということになっていますが、別節には祇園女御自身が母親ではないかと言われています。
法皇は自分の寵妃を気に入った家臣に妻として与えていました。
清盛の父忠盛も、白河法皇から祇園女御を妻として下されたのではないかというのです。
事実祇園女御の妹はすぐに亡くなり、祇園女御が清盛を育てたと言いますから全くない話ではないでしょう。
また別説には、祇園女御が忠盛に下された時すでに清盛を身ごもっていたのだと言われています。
清盛は12歳で従五位下・左兵衛府になります。
従五位とは位のひとつで貴族として認められたことになります。
本当に白河法皇の御落胤だったのでしょうか。それともいかに父忠盛が朝廷に気に入られていたからでしょうか。
平清盛の経歴や最後は?
清盛が15歳の時、父の忠盛は武士として初めて昇殿を許されます。異例の出世です。
1136年ごろ清盛は、高階基章の娘を正室に迎えています。この女性は、1139年に長男重盛を翌年次男基盛を産んでいますが程なくして亡くなってしまいました。
清盛は1137年20歳で肥後守になっています。父の忠盛が熊野本宮を造営した功績によるものでした。
こうしてみると清盛が順調に出世したのは父の影響が大きかったと言えるでしょう。
妻を病気で亡くした清盛は、時子という女性と再婚しました。
時子は清盛との間に、宗盛、知盛、徳子らを産んでいます。
1147年祇園社(八坂神社)で神人(じにん)と小競り合いになり放った矢が宝殿に当たるという事件が起こりました。これを祇園乱闘事件といいます。
祇園社の末社である延暦寺は、忠盛、清盛親子を配流するよう強く訴えますが、鳥羽上皇は2人をかばい、清盛の罪を罰金刑で済ませました。
その後安芸守に任じられると、清盛は厳島神社を信仰するようになります。
1153年父忠盛がなくなりました。清盛36歳でした。
この時から清盛は平氏の頭領となります。
1156年後白河天皇と崇徳上皇の兄弟間で、皇位継承問題などをめぐって争いが起こります。保元の乱です。
清盛は後白河天皇側につき源義朝とともに、源為義や平忠正らを討ち勝利します。
これで敗れた崇徳上皇は怨霊になったと言われています。
1159年平治の乱が起きます。これは後白河天皇と二条天皇派の親子ゲンカです。この時源義朝や源重成といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の王となることができました。清盛の一人勝ちです。
1161年中納言となった清盛ですが、後白河上皇に嫁いだ妻の妹の滋子が皇子(安徳天皇)を産みます。
1165年二条天皇が若くして亡くなりました。その息子である六条天皇が即位するのですが、後白河上皇にとっては孫になりますから、院政をしたがります。
清盛は後白河上皇を信用できないと考えていたのですが、タイミング悪く病にかかってしまいます。
後白河上皇は六条天皇を退位させ、安徳天皇を位につけました。
わかりにくいですが、孫を退位させて息子を即位させたのです。
清盛は回復すると出家し、厳島神社の大規模な造営をします。父の代から続いている日宋貿易にも力を入れました。
清盛は政治から退くかに見えたので、後白河上皇との関係は良好でした。
1170年後白河上皇を福原に迎え、宋の特使と面会させたりしていましたが、平家の荘園が500を超えたことをきっかけに関係は悪化してきます。
1177年鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれる会合が行われましたが密告により清盛の知るところとなります。
清盛はこの会合に加わったものを処罰しましたが、まだ後白河上皇は罪に問いませんでした。
ところが清盛の娘で近衛基実に嫁いでいた盛子が亡くなると、後白河上皇は盛子の荘園を取り上げました。
1179年清盛の嫡男重盛が病で亡くなると、重盛の領地を没収したのです。
清盛はさすがに怒って、後白河上皇を幽閉し、院政を停止させました。そして高倉天皇と平家による政権作りを始めます。
清盛は福原にいるので、息子宗盛たちに政治を任せようとしました。しかし残念なことに息子たちは政治に向いていないようでした。仕方なく清盛が復帰して政権を振るうことになります。
1180年高倉天皇が清盛の娘徳子との間にもうけた安徳天皇に位を譲ります。安徳天皇は幼いので見かけ上は高倉上皇の院政のようですが、実際は清盛をはじめとした平家の政権であることは間違いありません。
この頃から平家に不満を持つものが増えてきました。
後白河上皇の皇子 以仁王が平家討伐を実行しますがすぐに鎮圧されます。
しかしこれを機に各地の武士たちが立ち上がるようになりました。
そう伊豆へ流されていた源頼朝も挙兵したのです。
そんな危うい時期に清盛は熱病に倒れこの世を去らなければなりませんでした。1181年清盛64歳でした。
そのわずか数年後に平家が滅亡するなどは思っていなかったでしょう。しかし自分の亡き後の一族のことにかなりの不安を抱えての旅立ちだったかもしれませんね。
【エピソード】平清盛の人柄や性格がわかる逸話
- 平清盛は温厚だった
- 貿易で国を豊かにしたかった
- 女性に目がなかった
平清盛に関しては、かなり悪どいイメージがありますね。敵対するものを排除して平家がのし上がったような。
しかし実際はそうではなかったようです。
清盛はかなり温厚で情深い人物だったといいます。源義朝と敵対した際、息子の頼朝や義経の命は助けて流罪や仏門に入ることで済ませています。戦国時代なら一族は根絶やしにするのが当たり前だっただけに、平安の世はまだそのくらい緩かったのでしょうか。
ただこの温情が平家を滅亡させることになったのはあまりにも皮肉と言えるでしょう。
平清盛は日宋貿易をしていました。これは父の忠盛が始めたことでした。その意思を継いで清盛も大輪田泊(現在の神戸港)の大規模な修繕などを行い、貿易によって国を豊かにしようと考えていたのです。
宋からの輸入品に宋銭があります。国内で宋銭が流通することで通貨の概念が定着することを清盛は考えたのでした。
貿易は当然平家に富をもたらしたのですが、清盛は国全体のことを考えて貿易に励んでいたのでした。
平清盛は綺麗な女性に目がなかったようです。祇王、祇女という白拍子の姉妹を寵愛していましたが、新たに仏御前という若い綺麗な白拍子が舞を見て欲しいとやってきました。清盛は若い仏御前を気に入り、祇王と祇女の姉妹を追い出してしまいます。
姉妹は出家し仏門に入りましたがそこへ仏御前が訪ねてきます。2人を追い出した清盛のような人の世話になりたくないと、仏御前も出家してしまうのでした。
女性を泣かせた罰は大きかったと思いますよ。
まとめ 平清盛はどんな人?大河ドラマや映画はある?
平清盛の経歴や人柄について調べてきましたがいかがでしたか?
栄華を極めた平家も清盛の死であっけなく終わってしまいましたね。
「奢れるものも久しからず」ですね。
平清盛についてもっと知りたいと思ってくれたら嬉しいです。
ドラマ
「平清盛」 NHK大河ドラマ 2012年 演者 松山ケンイチ
平清盛の生涯を通して、平家の繁栄から滅亡までを描いた作品です。
小説
「新 平家物語」 吉川英治
1950年から1957年まで「週刊朝日」に掲載された歴史小説です。
平家だけではなく源氏や他の公家たちの盛衰まで描いた大作です。
以上、「平清盛の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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