あなたは武田信虎という人物をご存知ですか?
武田信虎は、あの戦国時代最強として人気がある甲斐の戦国大名・武田信玄の父です。
武田信玄との父子関係は悪く、武田信虎は武田信玄の謀反によって当主の座を追われてしまいます。
しかし、武田信虎は戦国大名・武田氏の礎を築き、後に武田信玄が勢力を拡大できたのは武田信虎のお陰でもありました。
今回は武田信虎について
- 武田信虎の生い立ちとは?
- 武田信虎の経歴や最後は?
- 【エピソード】武田信虎の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば武田信虎の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
NHK大河ドラマ「風林火山」(2006年)では、上杉謙信をあのGacktsさんが演じていました。上杉謙信(毘沙門天)と武田信玄(不動明王)の戦いでしたが、映画「跳んで埼玉」では埼玉と千葉の宿敵の戦いでした!https://t.co/gxfUh8Fyzxhttps://t.co/DAfHgrJNHw pic.twitter.com/vbLaix7tBC
— ツイてるヒロ (@wakuwakusun1) 2019年3月10日
武田信虎の生い立ちとは?
武田信虎は明応3年(1494年)または明応7年(1498年)に生まれます。
※今回は明応3年を基準に書いていきます。
- 父は武田信縄(武田氏第17代当主)
- 母は岩下氏
武田信虎の生年については以下の書物に書かれている死亡年から逆算したものです。
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『甲陽軍鑑』 1575年の長篠の戦いから1586年までの記録。武田家臣・高坂弾正が書いた軍学書から明応3年(1494年)に誕生と推定
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『高白斎記』信虎が生まれた1498年から1553年までの記録。武田家臣・駒井政武が原筆の日記から明応7年(1498年)に誕生と推定
武田氏の内部対立
武田信虎が生まれた頃の武田氏は幕府により甲斐守護を与えられていましたが、甲斐国どころか武田家内でも対立していて武田家も統一出来ていませんでした。
武田家内部の対立構造は
でした。
※もともとは武田信縄が後継者に決まっていましたが、ある時、武田信昌が急に油川信恵を後継にすると言ったことがきっかけで対立するようになります。
両陣営は明応7年に起きた明応の大地震によって一時的に和睦をしますが、永正2年(1505年)に武田信昌が亡くなると再び争います。
しかし、今度は永正4年(1507年)に武田信縄が37歳で亡くなってしまいます。
父・武田信縄の急死を好機とみた油川信恵は15歳の武田信虎を滅ぼそうとします。
武田信虎の経歴や最後は?
~武田本家の統一と国衆との戦い~
15歳だった武田信虎ですが、まだ、伯父の油川信恵は健在しており父と同じように争います。
しかし、武田信虎は15歳ながらに巧みな戦術で挙兵した油川信恵を討ち取ります。
これにより武田本家は武田信虎のもとで1つになりましたが新たな問題が起こります。
その問題というのが甲斐国の国衆や周辺の大名など諸勢力との対立です。
甲斐国の国衆や周辺の大名など諸勢力との対立問題が発生
武田家内での争いは周辺にも影響し甲斐は国内・国外の勢力を争います。
国内では国衆の小山田氏と争います。
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永正5年(1508年) 信恵ついていた国衆・小山田弥太郎を討つ(坊峰合戦)。 ※弥太郎の後を継いだ小山田信有に妹を嫁がせる
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永正7年(1510年) 小山田氏を見張らせるために都留郡近くに実弟・勝沼信友を配置
国外では信濃国の諏訪氏や駿河の今川氏と争います。
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永正6年(1509年) 諏訪氏が甲斐北西部へ侵攻してくる
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永正13年(1516年) 駿河の今川氏の侵攻によって信虎は敗走する
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永正14年(1517年) 駿河の今川氏と和睦する
このように国内・国外の両方を相手にしていた武田信虎でしたが、なんとか切り抜けます。
永正16年(1519年)には本拠(守護所)を甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、現武田神社)に移し、ここを本拠とします。
そして、大永元年(1521年)には今川氏の家臣・福島正成が攻めてきますが、これを撃破し今川勢を甲斐から駆逐します。
また、この年には勝千代(後の武田信玄)が生まれています。
~甲斐国の統一と信濃侵攻~
武田本家を統一した武田信虎は今度は勢力拡大に動きます。
この頃の武田信虎にとって一番の敵であった北条氏への備えとして、かつて関東管領として関東を治めていた山内上杉家と扇谷上杉家と同盟を結びます。
背後を抑えた武田信虎は信濃方面へ進軍します。
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大永5年(1525年) 甲斐と信濃の国境で激突し大敗する
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享禄元年(1528年) 信濃諏訪攻めを行うが諏訪軍によって敗北する
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享禄4年(1531年) 国衆の栗原氏や今井氏が反旗を翻す
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天文元年(1532年) 今井氏を攻撃し降伏させる
信濃侵攻は苦戦しますが、今井氏を降伏させたことで武田信虎は甲斐国の統一を成し遂げます。
甲斐国を統一した武田信虎は天文4年(1535年)に対立していた諏訪氏と和睦します。
さらに、天文5年(1536年)に駿河国の当主・今川氏輝が23歳の若さで亡くなると、家督を巡って氏輝の弟らが争います(花倉の乱)。
武田信虎は相模の北条氏綱とともに今川家の後継争いに介入し善徳寺承芳(後の今川義元)を支援しました。
花倉の乱は善徳寺承芳が勝利し今川義元に改名します。
武田信虎は今川義元と同盟を結び、さらに天文8年(1539年)には敵対していた北条氏綱とも和睦しました。
一方、信濃方面では諏訪氏の他に村上氏ととも同盟を結びます。
~息子・武田晴信の謀反とその後の生活~
甲斐の統一、北条氏との和睦、そして今川氏との同盟など、武田信虎は内政・外交の両方をうまくまとめていましたが、ここで1つの問題が出てきます。
その問題というのが財政難です。
財政難に直面
この頃の武田家は度重なる戦の影響から財政難に陥り、領民の生活が困窮していました。
しかし、武田信虎は増税をしてまでも戦をしていたことから、家臣や領民は不満を露わにしていました。
そんな中、天文10年(1541年)6月に娘婿の今川義元へ会いに行くために駿河国へ赴いた所、甲越の国境付近で息子の武田晴信が国境を封鎖し、信虎は強制的に隠居させられます。
強制隠居させられた武田信虎は抵抗することはせず、今川義元によって面倒をみられることになります。
その後は、京都の遊覧などの旅をし静かに世の流れを見ていました。
天正2年(1574年)には孫で武田家の当主となった武田勝頼にも会っています。
そして、孫の武田勝頼の顔を見た直後に信濃国高遠城で亡くなりました。
この時、享年81でした。
葬儀は武田信虎が建立した甲府の大泉寺で行われ、信虎は故郷へ帰ってくることができました。
【エピソード】武田信虎の人柄や性格が分かる逸話
武田信虎は長年「暴君」として語り継がれていて、大河ドラマでも武田信玄を嫌う「悪い父親」というように描かれています。
しかし、近年の研究では武田信虎の「暴君説」は否定されています。
なぜ、武田信虎が暴君で悪者として語り継がれてきたのでしょうか。
武田信虎が悪者として語り継がれてきた理由
その原因が『甲陽軍鑑』という軍学書です。
『甲陽軍鑑』は一番最初にも少し触れましたが、武田信玄の死後に家臣によって書かれ、その後、武田信玄を尊敬していた徳川家康が天下統一をすると、江戸時代には『甲陽軍鑑』がベストセラーとなります。
この影響で現在では滅んだはずの武田家が有名であり武田信玄が人気な理由の一つでもあります。
しかし、『甲陽軍鑑』は武田信玄を中心に書かれていることから、父・武田信虎への謀反を正当化する理由が必要だったと言われています。
その中で武田信虎を暴君として数々の悪行を創作したと言われています。
主な悪行としては
- 可愛がっていた猿を家臣に殺されたため手討ちにした
- 妊婦の腹を切った
- 諌言した家臣を斬った
が書かれています。
しかし、武田信虎が生きていた時代の史料には上記に書いたことは確認されておらず、事実かははっきりしていません。
逆に言えば、武田信虎は内政・外交において優秀であり、軍事面においては武田信玄と同じくらいの素質はあったように見えます。
ただただ、息子・武田信玄とうまくいかなかったことから、武田信虎は暴君として語り継がれてしまいました。
まとめ 武田信虎はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで武田信虎について紹介してきました。
まとめてみると
- 武田信虎は武田信玄の父だった
- 武田信虎は甲斐を統一した人物だった
- 武田信虎は武田信玄によって強制的に隠居させられた
- 武田信虎は武田信玄よりも長く生きた
武田信虎が登場した大河ドラマや映画
- 『天と地と』1969年 田崎潤
- 『武田信玄』1988年 平幹二朗
- 『風林火山』2007年 仲代達矢
があります。
ぜひ見てみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「武田信虎の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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