源義経の性格や経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

かの有名な源義経

弁慶との伝説や大河ドラマ「義経」「平清盛」に登場するので、知っている方は多いのではないでしょうか。

 

しかし、生い立ちや経歴をあまり詳しく知らないといった方もいるかと思います。

 

そこで今回は源義経の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

についてご紹介いたします。

 

これを読めば源義経の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。

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源義経の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

源義経は平安時代末期の平治元年(1159年)

 

  • 父・源義朝

 

  • 母・常盤御前

 

 

の三男として誕生しました。

 

母の常盤御前は父・源義朝の側室であったため、父・源義朝にとって源義経は九男であったとされています。

 

幼名は牛若丸であり、牛若丸には同母兄弟として

  • 仁平3年(1153年)に誕生した今若(阿野 全成)
  • 久寿2年(1155年)に誕生した乙若(義円)

がいたとされています。

 

また異母兄弟には、後に鎌倉幕府の初代将軍となる源頼朝がいました。

 

異母兄である源頼朝は源義朝と正室・由良御前との間にできた子供で、牛若よりも12歳も年上の兄であったとされています。

 

牛若(後の源義経)が誕生した平治元年(1159年)は平治の乱の真っ最中でした。

 

この平治の乱とは、藤原信頼と二条親政派が争った戦で、父・源義朝は藤原信頼に味方しました。

 

この時、源氏のライバルであった平清盛は二条親政派に味方したとされています。

 

この戦は藤原信頼が二条新政派に敗れる結果となり、父・源義朝は平治2年(1160年)1月3日、38歳で亡くなります。

 

この時、牛若(後の源義経)はまだ2歳であったとされ、父・源義朝との思い出はあまりありませんでした。

 

こうして平家方に敗れると、亡き父・源義朝の一族は平家方によって次々と殺害されることとなり、また異母兄である源頼朝は伊豆へと島流しの刑を受けることとなります。

 

このような中、命の危機を感じた母親の常盤御前は牛若(後の源義経)と今若、乙若を連れ平治2年(1160年)1月17日、京都を脱出すると現在の奈良県である大和国の宇陀にいる友人を頼り都落ちします。

 

しかし、友人は常盤御前や牛若(後の源義経)を匿うことを拒否したため、一行は大和国の大東で身を隠すこととなりました。

 

身を隠した母・常盤御前や牛若(後の源義経)でしたが、常盤御前の母親が、常盤御前らの身代わりとなって平家方の拷問を受けているということを知ると、母・常盤御前は京都に戻る決意をし、母・常盤御前、牛若(後の源義経)、今若、乙若らは平清盛もとに出向き、自首するのでした。

 

平清盛のもとに出向き自首するということは、命はないということを意味していましたが、平清盛によって4人は保護されることとなります。

 

実は平清盛が牛若(後の源義経)、今若、乙若らを保護した裏には、母・常盤御前が平清盛の妾になることで牛若(後の源義経)、今若、乙若らの命が救われたということがあったのです。

 

そうとは知らず

  • 兄の今若(後の阿野全成)はすぐさま醍醐寺
  • 兄の乙若(後の義円)すぐさま園城寺

へと預けられることとなり、その後出家しています。

 

牛若(後の源義経)はというと、この時まだ幼かったため、当分は母・常盤御前のもとで育てられることとなりました。

 

その後、牛若(後の源義経)が11歳となったころ、京都の鞍馬寺へと預けられることとなり、牛若(後の源義経)は遮那王(しゃなおう)と名乗り始めました。

 

源義経の生涯と最期。死因や経歴は?

遮那王と名乗る

鞍馬寺に預けられた遮那王(後の源義経)は熱心に修行に励みましたが、ある日、母・常盤御前が平清盛の妾になったことで、自分たちは命を救われたということを知ります。

 

この過去を知った遮那王(後の源義経)は僧になることを辞め、平家討伐を誓うのでした。

 

平家の討伐を誓った遮那王(後の源義経)は16歳になった頃、預けられていた鞍馬寺を抜け出します。

 

源義経と名乗り、異母兄・源頼朝と再会を果たす

鞍馬寺を抜け出した遮那王(後の源義経)は承安4年(1174年)3月3日、現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡にある鏡の宿でに泊り、自ら元服を行い、源義経と名乗り始めました。

 

その後、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼りに平泉へと向かい、藤原秀衡のもとで育ったとされています。

 

治承4年(1180年)8月17日、配流されていた異母兄・源頼朝が配流先の伊豆国で平家討伐を掲げ、兵を挙げます。

 

これを知った義経は、自身の平家討伐を誓っていたため、すぐさま異母兄・源頼朝のもとへと向かいました。

 

こうして、富士川の戦い(治承4年10月20日)を終えたばかりの異母兄・源頼朝と涙の対面を果たすこととなったのです。

 

平氏の討伐を行う

対面した異母兄・源頼朝はさっそく弟である源義経と、もう1人の弟・源範頼に軍の指揮官を任せ、自身は鎌倉に本拠地を置く東国の運営に専念しました。

 

寿永2年(1183年)7月、源氏方の木曾義仲が平氏を京都から追放させます。

 

これによって木曾義仲は京都入りを果たしました。

 

この木曾義仲という人物は源義賢と小枝御前の息子であり、源義経とっていとこにあたる人物です。

 

京都入りを果たした木曾義仲は後白河法皇に大変気に入られ、後白河法皇は源頼朝の京都入りを期待しました。

 

しかし、木曾義仲と後白河法皇は次第に対立関係となり、なんと木曾義仲によって後白河法皇は幽閉される事態となります。

 

そのため義経と源範頼は源頼朝から木曾義仲の討伐が命じられることとなり、木曾義仲は粟津の戦い(1184年1月20日)に討ち取られ亡くなりました。

 

このような木曾義仲との対立の間に平氏方は西国にあたる福原(兵庫県神戸市)で勢力を回復し始めていました。

 

そのため義仲と源範頼は再び源頼朝から平家討伐の命が下され、義経は寿永3年(1184年)3月20日一ノ谷の戦いで、兵庫県一ノ谷に本陣を置いていた平氏方に奇襲を仕掛け、平氏方を混乱に追い込み、鎌倉軍(源氏)の大勝利に導きました。

 

一ノ谷の戦いの後、義経は異母兄・源頼朝から京都の治安維持を任されることとなり、京都に留まります。

 

この間、義経は後白河法皇や朝廷から信頼されるようになり、元暦元年(1184年)8月6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられました。

 

また翌月には河越重頼の娘(郷御前)を正室を迎え、京都での生活は充実したものとなります。

 

義経にとって後白河法皇から認められることは非常に名誉あることでした。

 

しかし、義経が認められることに対し、異母兄・源頼朝は義経が後白河法皇に気に入られ、朝廷で権力を持ち始めるようになることを危惧しはじめるようになったのです。

 

その後も平氏討伐の戦は続き義経は

  • 元暦2年(1185年)3月22日の屋島の戦い
  • 同年3月24日の壇ノ浦の戦い

で大活躍を果たし、とうとう宿敵である平家を滅亡に追い込みました。

 

こうして義経はさらに後白河法皇や朝廷から信頼されるようになります。

 

異母兄・源頼朝との対立

この頃、異母兄・源頼朝のもとに「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」といった手紙が届きます。

 

この手紙を送ったのは義経の補佐である梶原景時からでした。

 

実は義経は壇ノ浦の戦いの直前、梶原景時と対立しており、そのため梶原景時はこのような手紙を送ったのです。

 

この手紙を読んだ源頼朝はますます、義経に対し不安を覚えます。

 

このころになると義経も、異母兄・源頼朝が自身に対し不満を抱いていると知ったのでしょう、壇ノ浦の戦いで捕らえた壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を鎌倉に護送するついでに、源頼朝に弁明しようとしました。

 

しかし、源頼朝は義経の鎌倉入りを許しません。

 

そのため義経は源頼朝に対し、自分に叛意はないといった書状を送ります。

 

しかし、この書状も受け入れてもらえず、義経は鎌倉入り果たせないまま京都へと戻りました。

 

京都へと戻った義経は自身を疑い、鎌倉入りを許さない源頼朝を恨み始めます。

 

そんな中、後白河法皇は義経を伊予守に任じました。

 

伊予守となった義仲に対し、源頼朝から以前、源義仲と手を組もうとしていた叔父の源行家の討伐が命じられます。

 

普通なら対立関係であっても、将軍の命は絶対です。

 

しかし、義経はなんと、体調の悪いふりをし「体調が悪いのでと」討伐を断ったのです。

 

これに対し源頼朝は「仮病を使い、命令を無視するとは何事だ。」と怒り、ついに、義経の討伐を決意しました。

 

源頼朝は義経の討伐の命を後白河法皇に出すよう迫り、後白河法皇はしぶしぶ、義経討伐の院宣を発します。

 

源義経の最期

討伐の目が向けられていることを知った義経は、文治3年(1187年)2月10日少年時代にお世話になった平泉の藤原秀衡を頼りに奥州へと向かいました。

 

藤原秀衡は義経を将軍にたて鎌倉勢に対抗しようと、積極的に義経の力になろうとしましたが、文治3年(1187年)10月29日、病によって亡くなります。

 

藤原秀衡の後を継いだのはその息子・藤原泰衡でした。

 

この頃になると義経は平泉の奥州藤原氏のもとにいるということが源頼朝にも伝えられ、源頼朝は奥州藤原氏に対し圧力をかけ始めます。

 

藤原秀衡の後を継いだ息子・藤原泰衡も義経を将軍にたて鎌倉勢に対抗する姿勢を見せましたが、結局、源頼朝の圧力に屈することとなり、義経は文治5年(1189年)6月15日に現在の岩手県西磐井郡平泉町で鎌倉勢に襲撃を受け、亡くなりました。

 

この時、義経は31歳であり、鎌倉勢に襲撃を受けると正室・郷御前と、娘を殺害したのち、自害したとされています。

 

【エピソード】源義経の人柄や性格が分かる逸話

源義経は今でいうイケメンであったのではと考えられています。

 

源義経の生涯と、主従を描いた作者不明の『義経記』によると、源義経は傾国の美女・楊貴妃や美しい女性であったとされる松浦佐用姫に例えられ、女性のような美貌の持ち主しであったとされています。

 

また源氏、平家の盛衰興亡を描いた『源平盛衰記』には源義経は「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」と記されました。

 

このようなことから源義経は女性のように美しい色白の青年であったことが分かります。

 

また大山祇神社に奉納されている義経の甲冑から義経は150㎝前後の身長であったということが分かっています。

 

しかし、美しい青年であったとされる一方で平家の栄華と没落を描いた『平家物語』によると、源義経について「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」義経は色白で背の低い男性で、前歯が飛び出していたということが記されています。

 

義経が本当に美しい青年であったかどうかは分かっていませんが、色白で身長の低い青年であったことは確かです。

 

ちなみに、義経の母・常盤御前は非常に美しい女性であり、1000人の中から選ばれた美女とされています。

 

そのような美しい女性から誕生した義経でしたので、色白のイケメンであったかもしれませんね。

まとめ 源義経のドラマや映画や小説はある?

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By 不明 – 中尊寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link

源義経の生い立ちや経歴、性格やエピソードについてご紹介いたしました。

 

簡単にまとめると

  • 源義朝と常盤御前の息子として誕生
  • 源頼朝は異母兄にあたる
  • 鞍馬寺に預けられた後、平家討伐を誓う
  • 異母兄・源頼朝とともに平家の討伐を行うも、異母兄・源頼朝と対立
  • 異母兄・源頼朝によって自害に追い込まれ、31歳で亡くなる
  • 身長の低い、色白の青年であった

 

源義経は幼いころに父を亡くし、その後、鞍馬寺に預けられるも自身の過去を知ることととなり平家の討伐を誓いました。

伊豆へと配流されていた異母兄・源頼朝と再会すると2人は力を合わせ見事宿敵である平家を滅亡させます。

しかし、2人の間には対立が生じ、源義経は異母兄・源頼朝によって自害に追い込まれるのでした。

 

そんな源義経が登場する有名な大河ドラマは2005年に放送された「義経」です。

この作品では

 

  • 源義経を俳優の滝沢秀明さん

 

  • 遮那王時代の源義経を俳優の神木隆之介さん

 

 

  • 源義朝を俳優の加藤雅也さん
  • 源頼朝を俳優の中井貴一さん
  • 常盤御前を女優の稲森いずみさん
  • 静御前を女優の石原さとみさん

が演じられています。

 

また2012年に放送された大河ドラマ「平清盛」にも源義経は登場し、この作品では

 

  • 源義経を俳優の神木隆之介さん

 

  • 源義朝を俳優の玉木宏さん
  • 源頼朝を俳優の岡田将生さん
  • 常盤御前を女優の武井咲さん

が演じられています。

 

ここで注目したいのが、大河ドラマ「平清盛」で源義経を演じた俳優の神木隆之介さんです。

 

神木隆之介さんは2005年の大河ドラマ「義経」で義経の少年時代である遮那王を演じられていました。

 

その神木隆之介さんが2012年の大河ドラマ「平清盛」では青年の源義経を演じられています。

 

色白で美少年であったとされる源義経の配役として神木隆之介さんはピッタリの俳優さんではないでしょうか。

 

これを機に源義経に興味を持った方はぜひ大河ドラマ「義経」「平清盛」を見てみてください。

 

以上「源義経の性格や経歴はどんな人?生い立ちや面白いエピソード」のご紹介でした。

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