幕末の京都で活躍した新選組。
その中で、沖田総司と並び、剣の達人として知られている永倉新八。
あなたは知っていますか?
今回は、永倉新八の
- 生い立ちと家族について
- 経歴と人物像
- エピソードから見える永倉新八の性格
を紹介します。
こちらを読めば、永倉新八の生い立ち・新選組での活躍ぶりや経歴・性格や人となりがわかります。
2004年の大河ドラマ「新選組‼」などがもっと面白く見られます。2020年公開予定の「燃えよ剣」も楽しみになりますよ。
ぜひ最後までお読みくださいね。
大河ドラマの新選組!キャストがよすぎて、いまでもみてますお( ˙ ꒳ ˙ )山本耕史さんがだいすきで#今日は浪士組が初めて京に上洛した日なので大好きな新選組を載せよう pic.twitter.com/MLP4zDAF11
— 麗那クソネミ@ヘンリー余韻 (@sca_4db) 2014年2月23日
永倉新八の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
永倉新八の生い立ちや家族を紹介
永倉新八は、天保10年(1839年)4月11日、江戸で生まれました。
幼名は、栄吉もしくは栄治です。
諱(いみな・別名)は載之(のりゆき)です。
江戸生まれの江戸育ちであった永倉新八
松前藩は、今の北海道松前郡松前町にありましたが、永倉新八の父親は、松前藩の江戸藩邸に勤めていたので、永倉は江戸生まれの江戸育ちでした。
永倉新八の家族は
- 父親:長倉勘次
- 妻:小常・杉村介庵の娘きね
- 子:磯子(芸妓 尾上小亀)、杉村義太郎(新選組顛末記の著者)
父親の長倉という漢字が違いますが、本姓はこの”長倉”で、後に”永倉”に改名します。
19歳で松前藩を脱藩して「永倉新八」を名乗るようになる
8歳の時に、剣術を習うため岡田利章の神道無念流の剣術道場「撃剣館」に入門、どんどんと剣の腕を上げていきました。
18歳で本目録を取った後、元服して新八を名乗り、剣術修行に出るために19歳で松前藩を脱藩して「永倉新八」を名乗るようになりました。
当時、脱藩は藩に仕える侍にとって重大な罪でしたが、松前藩は剣術修行こそ武士の本懐として、見逃していたと伝わっています。
剣術の腕をどんどんと上げ、道場師範代を務めるようになる
永倉は、しばらく剣術修行に励む日々を送りました。
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江戸本所の百合元昇三(ゆりもとしょうぞう)の道場で剣術を学ぶ
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25歳の時に芳賀義道(はがぎどう):旧姓市川宇八郎とともに剣術修行の旅に出る
再び江戸にもどると、心形刀流「錬武館」の伊庭秀業(いばひでなり)の門人、坪内主馬(つぼうちしゅめ)に見込まれ、道場師範代を務めるようになりました。
近藤勇と出会う
その後、実践的な剣術の修行のために訪れた道場でいよいよ後の新選組局長、近藤勇と出会います。
「試衛館」の食客となる
天然理心流道場「試衛館」の居心地がよほどよかったのか、しばらくして永倉は「試衛館」の食客になりました。
「食客」とは、簡単に言えば居候:同居人みたいなものです。
道場の門弟に稽古をつける代わりに三食食べさせてもらう人たちと考えればいいでしょう。
それほど有名でもなく、裕福でもない近藤勇の道場「試衛館」には、なぜかその居候みたいな浪人がたくさんいました。
- 土方歳三(この人は居候というより、近藤の盟友:親友ですね)
- 沖田総司(内弟子:住み込みの門弟)
- 井上源三郎(内弟子)
- 藤堂平助
- 原田左之助
- 山南敬助
- そして永倉新八
後の新撰組の幹部が勢ぞろいです!
浪士隊に応募し上洛する
文久3年(1863年)、14代将軍徳川家茂の上洛警護のために浪士隊の募集が始まり、近藤以下「試衛館」の面々がそろって参加しました。
そして京に上洛。
新選組の隊員として活動をスタート
半月足らずで浪士隊の大部分が、江戸へ戻りましたが、「試衛館」のメンバーとほか数人が、京に残り、新選組の誕生となります。
ここからが、新選組の活躍のスタートです。
永倉新八の性格がわかる面白いエピソードとは?
永倉新八は、新選組二番隊長を務め、様々な活躍をしました。
エピソード1 池田屋事件で4名の浪士たち討ち取り大活躍
有名なところでは、池田屋事件がありますね。
危ういところで桂小五郎は難を逃れましたが、幕府を倒そうと計画をしていた討幕派の中心人物が何人も池田屋事件で斬られました。
そのため明治維新が1年遅れたともいわれています。
永倉は20名以上の浪士がいた池田屋へ、近藤、沖田、藤堂たちわずか数人で斬り込み、刀が折れ、左手の親指を負傷しながらも4名の浪士たち討ち取るという戦いぶりでした。
エピソード2 剣の天才であった
新選組で剣の達人といえば、沖田総司が有名ですが、新選組にいた元隊士の話によると剣術の腕は、
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順である」
剣の天才ともいわれる沖田総司よりも強かったという言葉が残っています。
エピソード3 揺るがない正義を持っていた
池田屋事件で新選組の名は天下にとどろくことになりましたが、その後近藤のわがまま勝手な振る舞いが目立ってきました。
すると永倉は、数名の隊士とともに、新選組を脱退する覚悟で近藤の行状を、新選組を預かる会津藩藩主松平容保(まつだいらかたもり)に訴えます。
「試衛館」時代には、同じ道場で、上下の関係なく切磋琢磨して来た近藤が、まるで一人だけ偉くなったような様子を見せることに我慢が出来なかったのでしょう。
局長として権力を持った近藤に尻尾を振る隊士もいる中で、永倉は己の信念をもった行動力のある人でした。
そんな永倉に新選組の仲間は、こんなあだなをつけていました。
「がむしん」:がむしゃらな新八
自分が正しいと思ったことは、周囲の思惑や権威に惑わされずにがむしゃらにやり通す人だったのですね。
それは、とても勇気のいることです。
永倉は、揺るがない正義を持っていた人なのです。
エピソード4 鳥羽伏見の戦いで刀一本で突撃
永倉はその後も新選組の中心的存在として多くの戦闘に参加しました。
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禁門の変:京都の御所周辺で幕府軍と長州軍が戦う
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油小路事件:新選組の内紛
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鳥羽伏見の戦い:大政奉還、王政復古の後。戊辰戦争の始まり
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甲州勝沼の戦い:新選組とした永倉が戦った最後の戦い
鳥羽伏見の戦いでは、がむしんのあだ名にふさわしい活躍をしています。
最新の武器を持つ薩摩藩を中心とした官軍に攻めあぐねていた時、永倉は決死隊を募り、夜の闇に紛れて刀一本で突撃をしたのです。
驚いた敵方は、一時は引いて行ったのですが、すぐに巻き返されました。
でもやはり永倉は剣の人です。生き生きと刀を振るう姿が目に浮かぶようです。
エピソード5 近藤勇と袂を分かつ
勝沼の戦い後、近藤が永倉たちを自分の家来のように扱ったことで、永倉はついに近藤と袂を分かちます。
永倉にとって近藤は「試衛館」の仲間であり、勝手に殿様気分になってしまった近藤には、嫌気がさしてしまったのでした。
近藤たちと別れてから、永倉は靖兵隊を結成し、官軍(薩長軍)と闘い続けましたが、会津藩が降伏したことを聞き、松前藩に自首しました。
永倉の大叔母が松前藩藩主の側室だったことから、寛大な措置となり、明治2年(1868年)2月には松前藩士として帰参が認められました。
戊辰戦争は終わり、江戸時代も終わりました。
永倉新八も明治時代を生きることになります。
永倉新八の人物像がわかる面白い逸話とは?
さて永倉新八とは、いったいどのような人物であったのでしょうか。
永倉新八の逸話1 きねと結婚
明治4年(1870年)、松前藩家老の仲介で、藩医の杉村介庵の娘、きねと結婚しました。
婿養子となり、一男1女をもうけました。
永倉新八の逸話2 島原の芸妓小常を妻に迎える
永倉は、京都新選組時代に、島原の芸妓小常を妻にむかえ、磯子という娘が生まれています。
小常とは死別しており、磯子は小常の姉に預けられました。
そのため、永倉はわが娘とは生後間もない時に会ったきりでした。
磯子は、無事成長して関西で有名な役者、尾上小亀となり、明治33年(1900年)に永倉と再会を果たしています。
永倉自身も一度きりしか会えなかった磯子を探していた様子もあり、再会できた時はさぞうれしかったのことでしょう。
磯子と再会した後永倉は、久しぶりに京へ向かい、元隊士の島田魁(かい・さきがけ)とも再会をしたという話が伝わっています。
新選組の時代は、永倉にとって青春であり、かけがえのない日々だったのです。
その熱い血、がむしんと呼ばれていた永倉の心は、年齢を重ねても生きていました。
永倉新八の逸話3 抜刀隊に志願するも断られる
明治27年(1894年)日清戦争開戦時、永倉は抜刀隊に志願しています。
永倉55歳の時です。残念ながら(?)断られたのですが、この時いった捨て台詞が永倉らしい!
「元新選組の手を借りたとなっては、薩摩の面目まるつぶれというわけかい」
新選組2番隊長の誇りですね。
永倉新八の逸話4 映画好きだった
晩年の永倉は、映画が好きで、よく孫を連れて映画館に行っていました。
ある時映画館の出口で地元のやくざにからまれました。
孫を連れた弱々しい老人に見えたのでしょうが、すごむやくざに対して永倉は、鋭い眼光と大喝でやくざを退散させました。
毎日のように浪士と命のやり取りをしていた永倉ならではの出来事です。
孫に見せるやさしいまなざしとは、比べようもない恐ろしい眼力だったのでしょうね。
永倉新八の逸話5 新選組の功績を世間にアピール
近藤たちとは袂を分かった永倉でしたが、新選組は彼にとっても大切な存在でした。
新選組の功績を世間に知ってもらおうとこんなふうに尽力していました。
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新選組に好意的だった松本良順とともに近藤勇と土方歳三の墓を建立
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「新撰組回顧録」「同志連盟記」などを遺した
永倉新八の逸話6 新選組幹部の中では1番長生きした
大正4年(1915年)一月5日、虫歯が原因の骨膜炎と敗血症を起こし、小樽で亡くなりました。
享年77歳、新選組幹部の中では一番の長生きでした。
遺骨は、永倉の遺志により新選組隊士の墓にも分骨されました。
最期まで、新選組を誇りに思い、その仲間を思っている永倉、がむしんだったのです。
【結論】永倉新八の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
永倉新八の生い立ち・経歴やエピソードについて紹介しました。
最後に永倉新八について簡単にまとめますね。
- 永倉新八は幕末に新選組の2番組隊長として活躍した武士
- 永倉新八は松前藩藩士の次男として生まれた
- 永倉新八は剣術修行の中で大切な仲間と出会った
- 永倉新八の剣術の腕は新選組随一
- 永倉新八のあだ名はがむしん:がむしゃらの新八
- 永倉新八は信念を持った剣と情の人
幕末の動乱期に京の都を駆け抜けた新選組。
その2番隊長として活躍した永倉新八は、明治という時代に生き残ってしまった新選組の元隊士として誇りをもって生きた人です。
永倉新八をもっと知りたいならこの作品がおすすめです。
- 浪士文久報国記事:新選組戦場日記
永倉が明治8年ごろに書き記した回顧録です。少し難しいですが、わかりやすく解説した本もありますのでそちらを読んでみてください。
- 新選組戦場日記 永倉新八「浪士文久報国記事」を読む 木村幸比古著
- 歳三の首 藤井邦夫著
こちらはちょっと趣の違う小説で、題は「歳三の首」ですが、主人公は永倉新八です。
戊辰戦争後、戦死した土方の首をさらそうとする役人を永倉が阻止しようという話です。
もちろんフィクションですが、考え方の違いで一度は袂を分かった土方の名誉を永倉が守ろうとする姿に永倉の本当の人物像が隠れているような気がしてしまう作品です。
思ってもみない展開が待っているのですが、それはあなたが読んでみてからのお楽しみです。
そしてやはり
- NHK大河ドラマ「新選組‼」
ぐっさんこと山口智充さんが永倉新八を演じたドラマです。まっすぐで時に思慮深く、時にがむしゃらな永倉が魅力的です。
永倉新八をもっと知りたくなったあなた、ぜひ読んで、見てください。
以上「永倉新八の人物像・生い立ちとすごいエピソード」でした。
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