三島弥彦の生い立ちや金栗四三との関係性は?オリンピックでの逸話とエピソードがおもしろい!

現在放送されている大河ドラマ「いだてん」は日本人で初めてオリンピック選手となった金栗四三と三島弥彦が主人公となった物語です。

金栗四三は長距離走で、三島弥彦は短距離走でストックホルムオリンピックに出場しました。

今回はストックホルムオリンピック短距離走選手に選ばれた三島弥彦の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 家系図
  • オリンピックでの逸話

についてご紹介いたします。

これを読めばますます大河ドラマ「いだてん」を楽しくみることができますよ!

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三島弥彦の生い立ちや家族はどんな人?

三島弥彦は1886年、現在の東京都千代田区で薩摩藩士で警視総監となった三島通庸の五男として誕生します。

三島弥彦には19歳も離れた兄・三島彌太郎がおり、この兄は後に銀行員となります。

エリート一家で誕生した三島弥彦でしたので、生活に困るということはありませんでした。

三島弥彦の経歴

エリート一家で育った三島弥彦は身長約170㎝もあったとされています。

当時の成人男性の平均身長が155cm前後であったので、三島弥彦は非常に背の高い男性でした。

そのため運動神経も抜群で学習院に通っていたころは

  • 野球部でエース兼主将を務める
  • ボート部の選手となる

などスポーツで活躍を見せました。

それだけではなく頭も良かったので、学習院を卒業後は東京帝国大学(法科)へと進学すると、ここでも

  • 乗馬
  • 相撲
  • 柔道
  • スケート

などスポーツ活動を行っていたとされています。

また1909年ころから冒険小説家であった押川春浪が中心となって立ち上げられたアマチュアスポーツ団体・天狗倶楽部に参加するなど、活発なスポーツ活動を行います。

オリンピックの予選大会に飛び入り参加し、日本初のオリンピック選手となる

そんな中、1911年(明治44年)、スウェーデンで行われるストックホルムオリンピックの日本代表選手を決める予選大会が羽田運動場で行われます。

当時、まだ日本ではスポーツに理解が乏しくスポーツとは遊び。という認識がありました。

そんな中、体育教育に熱心であった嘉納治五郎のもとに日本初参加となるストックホルムオリンピックの参加要請が国際オリンピック委員会のピエール・ド・クーベルタン男爵から届けられます。

これを受け、日本は初めて1912年に開催されるストックホルムオリンピックに参加することとなったのです。

 

予選大会が羽田運動場で行われるにあったって三島弥彦のもとに審査員として手伝うようにと要請がありましたが、三島弥彦はこの要請に応じませんでした。

しかし、イベントの内容を知るとスポーツ好きの三島弥彦は友人らと共に観戦に向かいます。

こうして三島弥彦は出場選手を決める予選大会を観戦することとなったのですが、若い選手の走る姿を見て、いてもたってもいられなくなり、なんと予選大会に飛び入り参加してしまうのでした。

結果はなんと

  • 100m、400m、800mの短距離徒競走で第1位
  • 200mで第2位

と素晴らしい成績を残してしまいます。

この時、三島弥彦はこのように述べています。

「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やう」

こうして飛び入り参加したのに日本代表選手に選ばれた三島弥彦は、この時、長距離走でオリンピック選手に選ばれた金栗四三とともにストックホルム行きを手にしたのでした。

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ストックホルムへと旅立つ

オリンピックの出場が決まると三島弥彦は本格的に特訓をはじめ毎週土曜日は金栗四三とともにアメリカ大使館書記官・キルエソンから技法や心得を学ぶようになります。

この特訓もあってか予選競技会時400m59秒30であった記録が50秒台に縮むなどの成果を見せました。

こうして1912年(明治45年)5月16日、三島弥彦と金栗四三は現在の汐留貨物駅跡にあった新橋駅からストックホルムへと旅立つのでした。

この時、三島弥彦の家族や天狗倶楽部、また慶應義塾野球部のOB会であった「東京倶楽部」のメンバーらが三島弥彦を見送ったとされています。

まさかの予選敗退という苦い結果となる

1912年(明治45年)7月、日本から遠く離れたストックホルムの地に2人は降り立ち、7月6日、オリンピック開会式に参加しました。

日本からの参加はたったの2人だけであったため、少し寂しい行進となりましたが、かえって多くの人々の同情を集めることとなり注目された。と当時の日本人記者は述べています。

こうして開会式の直後に行われた100m短距離走に三島弥彦は出場しましたが、まさかの予選敗退という記録に終わります。

日本ではぶっちぎりの記録を持っていた三島弥彦でしたが、まだまだ世界には通用しませんでした。

この時、三島弥彦は金栗四三に「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と言ったとされています。

その後に行われた200m予選でも最下位となり、400m予選は棄権を選び三島弥彦のストックホルムオリンピックは幕を閉じました。

一方、金栗四三もまた思うような走りをみせることはできませんでした。

ベルリンオリンピックでリベンジを願うも

2人の競技が終わると、三島弥彦は閉会式には参加せずにストックホルムを出国し次大会開催国であるドイツへと向かいます。

ドイツへと向かった三島弥彦は4年後のベルリンオリンピック会場の視察を行う、スポーツ用品を買い込むなどして翌年の2月に日本に帰国します。

三島弥彦は4年後のベルリンオリンピックにリベンジを誓っていたのです。

しかし、そのベルリンオリンピックは第一次世界大戦の影響を受け中止となり、そのまま、三島弥彦はオリンピック選手として表舞台に立つことはありませんでした。

三島弥彦の最期

選手として表舞台から消えた三島弥彦は1913年(大正2年)、兄・彌太郎の勤め先である横浜正金銀行に入行し、銀行員となります。

そして1954年(昭和29年)2月1日、67歳で亡くなりました。

【エピソード】三島弥彦の面白い逸話

エピソード1:スポーツマンではあったがおっとりした性格であった

三島弥彦はスポーツをこよなく愛していました。

そのため運動神経も抜群であったとされています。

しかし、その性格はおっとりとの温厚な性格でした。

天狗倶楽部を立ち上げた小説家の押川春浪は三島弥彦についてこのように述べています。

「三島君は大の楽天家である。暢気な先生である。度量の大きい、些事に無頓着なあくまでも鷹揚な人である」

エピソード2:痛快男子十傑投票の運動部門で1位に選ばれる

このようにスポーツも勉強もできる三島弥彦は学生や若者から多くの人気を得ていました。

そのため、雑誌『冒険世界』の中で掲載された「痛快男子十傑投票」では運動部門1位に選ばれています。

「痛快男子十傑投票」とは人気のある男子ランキングといった感じでしょうか。

誰しもが認めるスポーツマンであったのですね。

まとめ 大河ドラマいだてん以外に三島弥彦について知れる本はある?

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By published by 朝日ソノラマ – The Japanese book 『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』, パブリック・ドメイン, Link

三島弥彦の生い立ちや経歴、また金栗四三との関係性やオリンピックでの逸話についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • エリート一家で誕生
  • 身長170㎝もあった
  • スポーツ万能で勉強もできる
  • 飛び入り参加でオリンピック選手となる
  • ストックホルムオリンピックでは予選敗退
  • ストックホルムオリンピックを最後に表舞台から姿を消す
  • 銀行員となる
  • 温厚な性格

 

三島弥彦は金栗四三とともにストックホルムオリンピックに出場した人物でした。

ストックホルムオリンピックが開催された1912年はまだ日本人はスポーツは遊び。という認識を持っていました。

そのような中で2人は世界を相手に走ったのです。

現在放送されている大河ドラマ「いだてん」には俳優の生田斗真さんが三島弥彦を、歌舞伎役者の中村勘九郎さんが金栗四三を演じられていますよ。

大河ドラマの他に

  • 横田順彌『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』

で三島弥彦について知ることができます。

これを機に三島弥彦に興味を持った方は大河ドラマ「いだてん」を見てみてください。

以上「三島弥彦の生い立ちや金栗四三との関係性は?オリンピックでの逸話とエピソードがおもしろい!」でした。

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