平清盛の戦友にしてライバルである源義朝という人物をご存知でしょうか。
保元元年(1156年)におきた保元の乱では、平清盛と共に戦い、実の父である源為義の首を自身の手で斬たっため、世間から大バッシングを受けることとなりました。
その後の平治元年(1660)の平治の乱では、平清盛と対立し、入浴中に平氏軍による襲撃を受け亡くなったとされています。
そんな源義朝という人物はいったいどのような生涯を送っていたのでしょうか。
今回は源義朝の
- 生涯
- 性格
- 政治政策能力
- 子孫や弟
- 平清盛との関係性
についてご紹介いたします。
これを読めば源義朝の生涯や性格、政治政策能力や子孫、また平清盛との関係性について知ることができますよ。
玉木宏氏、ご結婚おめでとう~🎊 #平清盛#源義朝 pic.twitter.com/gmTE8paBLx
— ☆ななたん☆10.20武道館☆ (@mayutan4649) 2018年6月21日
源義朝の生い立ち。父母兄弟や妻子供、家系図は?
源義朝は保安4年(1123年)ちょうど崇徳天皇が即位した年に
- 父・源為義
- 母・淡路守・藤原忠清の娘(白河院の近臣)
の長男として誕生します。
兄弟には
- 源義賢
- 源義憲
- 源頼賢
- 源頼仲
- 源為宗
- 源為成
- 源為朝
- 源為仲
- 源行家
- 鳥居禅尼
などがいたとされています。
源義朝の父・源為義は京都の治安維持を専門に行う検非違使という官職につき、白河法皇・鳥羽上皇に仕えていました。
また河内源氏のリーダー的存在でありました。
しかし、多くの問題行動を起こしたため白河法皇・鳥羽上皇から信頼を失うこととなり、源義朝の幼少期頃は源氏にとって不運な時期であったとされています。
そのような状況下で源義朝は少年期に京都、また父・源為義から離れ東国(関東地方)で育てられたとされています。
父や弟たちと離れ東国で育った源義朝は東国を拠点に独自で勢力を伸ばし、
- 三浦義明
- 大庭景義
らといった有力な豪族を傘下におさめました。
また
- 京都郊外の橋本の有力者の娘または三浦義明の娘との間に永治元年(1141年)源義平
- 相模の大豪族である波多野氏の娘(波多野義通の妹)と婚姻関係を結び、康治2年(1143年)には源朝長
- 遠江国池田宿の有力者の娘との間に久安6年(1150年)源範頼
が誕生しています。
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こうして源義朝は東国で勢力を広げていくこととなりますが、東国を拠点にしていたのは源義朝だけではなく他の源氏勢力もおり、その中でも下野国の足利には義朝の伯父・源義国の勢力とは対立関係となりました。
しかし、その対立関係は両者が同盟を結ぶことによって解消されたとされ、源義朝は20代半ばで南関東の豪族を統治するまでとなりました。
このように南関東で名前が知れ渡るようになると、京都でも源義朝の活躍は知れ渡るようになり、源義朝は京都へと上洛することとなり、源義朝は長男・源義平に南関東を任せ、京都へと上洛しました。
都へと戻った源義朝は熱田大宮司の娘・由良御前を正室に迎えます。
いつ正室に迎えたのかはわかっていませんが、2人の間には
- 久安3年(1147年)に源頼朝
- 仁平2年(1152年)に源希義
- 久寿元年(1154年)または久安元年(1145年)に坊門姫
が誕生しました。
妻・由良御前は熱田神宮の大宮司職・藤原季範の娘で、その家柄の
- 男子なら後白河院の北面武士になる者
- 女子なら後白河院母の待賢門院や姉・統子内親王(上西門院)に仕える女房となる者
が多かったとされています。
そのため源義朝は院近臣である妻・由良御前の後ろ盾を使用し、仁平3年(1153年)、31歳で従五位下・下野守に任じられることとなりました。
これによって源義朝は検非違使であった父・源為義の地位を超えることとなります。
父・源為義と対立関係となる
この頃、父・源為義は摂関藤原家と強い結びつきを持っていました。
鳥羽上皇と摂関家は度々、対立しており、親密な関係になることはありませんでした。
そのような状況の中
- 息子の源義朝は鳥羽上皇ら院近臣から信頼を受け従五位下・下野守に任じられた
- 父親の源為義は摂関藤原家から親密な関係を持つ
となり、源義朝、源為義親子は対立関係となります。
そのため、自身の息子・源義朝と対立関係となった父・源為義は、次男である源義賢(源義朝の弟)を源義朝に対抗させるため北関東へと向かわせます。
その源義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘と婚姻関係を結び、武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)を拠点とし勢力を伸ばし始めました。
これに対し源義朝は久寿2年(1155年)自身の長男・源義平に弟である源義賢を討たせ、対抗勢力を排除しました。(大蔵合戦)
簡単にまとめると源義朝・源義平(源義朝の長男)VS源為義(父)・源義賢(源義朝の弟)となります。
このように源義朝と父・源為義の関係性は修復不可能となっていました。
保元の乱の勃発
大蔵合戦が起きた翌年の保元元年(1156年)7月保元の乱が勃発します。
この保元の乱とは家督を巡り、後白河天皇と崇徳上皇が対立したもので、朝廷は後白河天皇方、また崇徳上皇方に分裂し、平家や源氏も巻き込んだ武力闘争へと発展しました。
この争いは朝廷だけではなく、源氏も家族内で分裂となり
- 後白河天皇方に源義朝
- 崇徳上皇方に源為義(父)、源頼賢(弟)、源為朝(弟)
がつくこととなりました。
この際、平清盛も源義朝と共に後白河天皇に味方し、中核となり共に戦います。
結果、保元の乱は後白河天皇方の勝利、崇徳上皇方の敗北となりました。
敗者である崇徳上皇方についた父・源為義と弟の源頼賢・為朝らは朝廷により処刑されることとなります。
これに対し源義朝は、自身の自身の戦功に替えて父・源為義と弟の源頼賢・為朝らの助命を行いましたが、朝廷はその助命を許さず、源義朝は家族である父・源為義と弟の源頼賢・為朝を斬首することとなりました。
もともと父・源為義らと対立関係であった源義朝でしたが、家族を自身の手で殺めてしまうのは非常につらい出来事であったのではないでしょうか。
しかし、泣く泣く家族を処刑した源義朝は世間から親殺しといったレッテルを貼られることとなり非難を受けたとされています。
戦後の功績が称えられ、左馬頭という恩賞を与えられた源義朝でしたが、
- 恩賞に不満
- 助命嘆願をしたにもかかわらず父や弟が処刑された
- 望んで父や弟を斬ったのではないのに親殺しと非難された
- 共に戦った平清盛や平家一門に比べ待遇や恩賞が良くない
といった不満を持つように平治元年(1160年)に起きる平治の乱につながったとされています。
しかし、これらの不満が平治の乱に繋がったとされる一方
- 源義朝が与えられた左馬頭という恩賞は、当時の武士にとって破格な恩賞である
- 源義朝の父や弟の処刑は朝廷による裁決
- 平清盛も崇徳上皇方に味方した、一族を自らの手で処刑した
とされ、源義朝の不満が平清盛討伐、平治の乱に繋がったとは考えられないのではないか?という考えもあります。
平治の乱の勃発
保元の乱後、後白河天皇方に味方していた平清盛は出世を果たし、朝廷での発言権を持ち、また平家一門の地位も上昇していきました。
しかし、平氏一門の地位が上昇したのは平氏と親密関係にあった後白河院の側近・信西のおかげでした。
その後、信西が権力を握るようになり、権勢を振るうようになると、反信西派が誕生します。
この反信西派の中に藤原信頼という人物がおり、藤原信頼は反信西派の中でも中心的人物で、源義朝は
- 藤原信頼ともともと関わりがあった
- 信西をよく思っていなかった
ということから、反信西派に味方します。
こうして平治元年(1160年)12月、藤原信頼が主導となりクーデターが起こされました。
このクーデターは信西と関係の深い平清盛が熊野詣のため京都から離れてた隙をつき後白河上皇の御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇を軟禁、信西の焼き払うといったものでした。
自身の屋敷を焼き払われた信西は一度、逃亡するも捕えられ亡くなります。
このクーデターによって目的の信西の排除を成し遂げた反信西派は、二条天皇親政派と手を結び、朝廷の実権を握り、クーデターに関わった者たちに恩賞を与え始めました。
源義朝も信西追討の恩賞として播磨守に任官することとなります。
しかし二条天皇親政派と手を結んだ反信西派の藤原信頼でしたが、次第に両者は対立関係となります。
この頃になると、熊野詣のため京都から離れてた平清盛が京都へと帰ってきました。
二条天皇親政派は京都へと帰還した平清盛と手を結び、反信西派であった藤原信頼・源義朝に対し平治元年(1160年)12月27日京中で反撃が開始されました。
簡単にまとめると藤原信頼・源義朝VS二条親政派・平清盛ということとなります。
藤原信頼の戦力は三条殿襲撃に参加した
- 源義朝軍
- 源重成軍
- 源光基軍
- 源季実軍
- 源光保軍
による混合軍でした。
源義朝は
- 源義平(自身の長男)
- 源朝長(自身の次男)
- 源頼朝(自身の三男)
- 源義隆(自身の叔父)
などを率いていたとされています。
しかし二条親政派・平清盛の率いる兵力に対し藤原信頼・源義朝の軍の兵力は僅少であったとされ、戦闘が開始されると源義朝軍は瞬く間に壊滅状態となり敗北となります。
そのため源義朝は藤原信頼を見捨て
- 源義平(自身の長男)
- 源朝長(自身の次男)
- 源頼朝(自身の三男)
- 一族の源義隆
- 平賀義信
- 源重成(佐渡重成)
らとともに東国へと向け逃亡を図りますが、その道中で追討隊との戦闘がたびたびあり源頼長(次男)・源義隆・源重成(佐渡重成)が亡くなります。
また源義平(長男)・源頼朝(三男)ともはぐれることとなりました。
源義朝の最期
源義朝は追討隊との戦闘で馬を失い、へとへとの状態で尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町)に落ち延びます。
そこにいた長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せることとなりました。
しかし京を脱出した3日後の平治2年(1160年)1月3日、源義朝は身を寄せていた長田家で入浴をしていた際、長田忠致とその子・景致に裏切られ襲撃を受け、38歳で亡くなりました。
伝承によると源義朝は襲撃を受けた際「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされています。
【逸話】源義朝と平清盛との関係や違いは?天才で歴史的な功績も多数ある?
源義朝と平清盛は戦友でもありライバルです。
保元元年(1156年)7月に勃発した保元の乱(後白河天皇VS崇徳上皇)では源義朝は平清盛とともに後白河天皇方につきましたが、平治元年(1160年)12月におきた平治の乱(信西VS二条親政派、藤原信頼)では
- 源義朝は藤原信頼
- 平清盛は信西派
に味方し、ライバル関係となりました。
戦友でもありライバルでもあった2人でしたが、
- 源義朝は保元の乱で勝利したものの、父や弟たちを処刑した挙句、平治の乱では平家方の襲撃を受け亡くなる
- 一方、平清盛は保元の乱で源義朝とともに功績を残すと、朝廷に勝利を称えられ大出世し、また平家一門の地位も上昇し、その後の平治の乱でも勝利に導く
といった違いがありました。
ともに武家という共通点を持ち、また保元の乱をともに戦った戦友であったため、両者はお互いを意識し合っていたに違いありません。
保元の乱後、破格な恩賞を与えられていた
保元の乱の後、源義朝もまた平清盛と同様に勝利の功績を称えられ左馬頭に任じられ内昇殿まで上がることが許されました。
平清盛に比べてこの恩賞は低いものでしたが、平清盛は幼少のころから高い位についていたのに対し、源義朝はこれまで無官でありながら保元の乱後、左馬頭に任じられるというのは武士にとって破格な出世であったとされています。
このような破格な恩賞から、源義朝は保元の乱において大いに活躍していたということが分かります。
まとめ 源義朝を描いたドラマや映画や小説はある?
By ? – 平治物語絵巻, パブリック・ドメイン, Link
源義朝の生涯や性格、政治政策能力、子孫や弟、平清盛との関係性についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 20代半ばで南関東の豪族を統治する
- 由良御前と結婚し、源頼朝が誕生
- 保元の乱を平清盛とともに戦う
- 保元の乱において、父や弟を処刑
- 平治の乱では、平清盛と対立
- 平治の乱で入浴中に襲撃を受け亡くなる
- 平清盛は戦友でもありライバル
源義朝は20代半ばで南関東の豪族を統治した後、保元の乱において平清盛とともに後白河天皇方につき、崇徳上皇方についた父や弟たちを処刑しました。
その後に勃発した平治の乱では戦友で会った平清盛とは対立関係となり、敗北後、落ち延びた長田忠致とその子・景致のもとで身を寄せるも裏切られ、入浴中に襲撃を受け亡くなりました。
平清盛と同時期に活躍した源義朝でしたが、その人生は父・弟を処刑し、また平治の乱後、落ち延び身を寄せたものの裏切られ最期を迎えたという悲しい人生でした。
そんな源義朝が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。
この作品では
- 源義朝を俳優の玉木宏さん
- 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
- 由良御前を女優の田中麗奈さん
- 源頼朝を俳優の岡田将生さん
が演じられています。
また
- 郡虎彦さんの小説 『義朝記』
- 田山花袋さんの小説『源義朝』
- 高橋直樹さんの小説『源氏の流儀 – 源義朝伝』
に源義朝は登場しています。
これを機に源義朝に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」、小説『義朝記』『源義朝』『源氏の流儀 – 源義朝伝』を見てみてください。
以上「源義朝について性格や政治政策能力を評価すると?子孫や弟との逸話、平清盛との関係や違い」についてのご紹介でした。
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