三淵 藤英とは? 同じ足利幕府奉公衆であった弟(異母弟)細川藤孝とは異なる人生を歩むこととなるその波乱万丈の人生!

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三渕藤英の生きた時代背景(??~1574)


<三渕藤英>(谷原章介)「麒麟がくる」より

将軍家などの跡目争いなどに端を発した応仁の乱は1467年に始まり、日本全国を戦国時代へと向かわせました。

応仁の乱自体は1477年に終結したものの、足利将軍家の権威は失墜し、それまでの身分にとらわれない下剋上の風潮が当然のこととなってしまいます。

三渕藤英は、各地で力をつけた戦国大名が台頭し、覇を競って合戦を繰り返すという戦国時代に生まれました。

足利将軍家家臣として、幕府の存続を何とか図っていく立場にありました。

しかし、13代将軍足利義輝が永禄の変で、松永久秀や三好三人衆に暗殺されるという事件が象徴しているように、すでに室町幕府の力は、有名無実化していました。

このような中、1560年に桶狭間の戦いで、大大名であった今川義元を打ち破り、またたく間に尾張、そして美濃を領土とした織田信長が数ある戦国大名の中でも一歩抜きん出ていました。

15代将軍足利義昭を擁立し、天下布武のスローガンのもとで、次々と有力大名を降していきます。

1570年には姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破り、翌年には比叡山を焼き討ちしました。

信長の台頭への危機感から1572年には足利義昭の指揮の下、信長包囲網が形成されましたが、有力大名の武田信玄が上洛の途上で病死すると包囲網は崩れ出し、信長は天下統一へと大きく前進します。

このような情勢の中で、三渕藤英は足利家、続いて織田家に仕えました。

三渕藤英の生涯

足利家の家臣として

三渕藤英の生まれた年は明らかではありませんが、弟で次男の細川藤孝が生まれたのが1534年であることから1530年前後ではないかと推測されます。

父の三渕晴員も室町幕府12代将軍である足利義晴に仕えていたことから、足利家の臣下となりました。

1540年くらいには足利家の家臣となっていたようです。

抗争の末、足利義晴が亡命先の近江坂本で子の義藤(のちの義輝)に将軍職を譲ると、 義藤はわずか11歳にして将軍職をつぐことになり、正式に第13代将軍となります。

このとき、京より赴いた朝廷からの勅使が坂本に到着し、将軍宣下を行いました。

一連の行動は、足利義晴がかつての先例に倣ったものであったとする意見があります。

義晴は11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされています。

また、朝廷は足利義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義輝の将軍宣下の翌日に義晴を右近衛大将に急遽任じています。

その後も、足利義藤(のちの義輝)は畿内の実力者であった細川晴元や三好長慶との抗争が続いて、京都を離れたり戻ったりを繰り返します。

そして、足利義藤は名を義輝と改めました。


<足利義輝>

ようやく1558年に三好長慶との和睦が、近江の大名である六角義賢の仲介によって成立すると、13代将軍足利義輝は正式に京都に入ります。

義輝は、将軍の権威の復活と幕府の再興を目指し、諸国の大名の争いの調停を積極的に行った他、諸大名の懐柔を進めました。

武田信玄と上杉謙信の争いについても調停を試みています。

また、伊勢氏が独占していた政所の支配にも終止符を打ち、将軍の政所掌握を果たすなど、着々と将軍親政への基盤を固めていました。

三渕藤英もこのように将軍権力の強化を目指す足利義輝のために奔走していたものと思われます。

しかし、このような義輝の統治は、傀儡としての将軍を望んでいた松永久秀や三好三人衆にとっては邪魔な存在でした。

そして、1565年、松永久秀と三好三人衆は義輝のいる二条御所に兵を向け、義輝を暗殺、自分たちの意のままに動く将軍足利義栄を擁立します。

足利義輝の暗殺は義輝と親交のあった全国の諸大名の反発を生みました。

上杉謙信は、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどでありました。

朝廷も弔意を示し、一般民衆も義輝を暗殺した松永久秀や三好三人衆への反発を公然と示すほどでした。

このような情勢を受けて三渕藤英は弟の細川藤孝と、義輝の弟で出家していた覚慶(のちの足利義昭)将軍につけようと考えます。

しかし、覚慶は幽閉されていたので、簡単なことではありませんでした。

藤英らは、監禁されていた興福寺から一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと共に覚慶を救出し、擁立して近江国矢島にて還俗させます。

1566年、覚慶足利義秋(のちの足利義昭)と名乗るようになりました。


<足利義昭>

しかし、足利義昭らはなかなか権力をつかむことはできず、若狭の武田氏や朝倉氏など有力者のところを転々としながら上洛への好機を探っていました。

1568年には、明智光秀の仲介などもあって、美濃を領土としたばかりで、権力を次第に固めつつあった織田信長のところにようやく落ち着くことになります。

1568年9月織田信長は足利義昭を将軍につけるべく上洛を果たし、10月足利義昭室町幕府15代将軍に就任しました。

足利義輝の暗殺以来の流浪に終止符が打たれ、ようやく三渕藤英らの念願が実現したのです。

足利義昭は、幕府の権威を再び取り戻そうとして、山城国の直轄領を掌握し、奉公衆である藤英その地を統括する伏見城主に任命しました。

このことからも藤英がいかに重用されていたかということが分かります。

1569年に信長から京都を追放されていた三好三人衆が足利義昭の御所に攻め込んでくると、藤英は池田勝正・和田惟政・三好義継らとともに、これを撃退しています。

あまり史料には登場しない藤英ですが、知勇ともに優れた武将であったことがうかがえます。

織田家の家臣として

足利義昭に重用され幕臣として活躍し始めた三渕藤英ですが、時がたつとともに次第に義昭の専横が目立つようになります。

織田信長はこれを阻止するために殿中御掟を制定しますが、これによって義昭と信長は次第に溝を深めるようになります。

それでも、専横を改めようとしない義昭に対し、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った後、1571年10月に17条の意見書を提出します。

この文書で、信長は義昭の行動を強く非難しており、これによって義昭と信長の対立は決定的になりました。


<織田信長>

足利義昭は信長包囲網を作り上げ、1573年、義昭に呼応した東の大戦国大名である武田信玄が上洛を開始

信長は窮地に陥り、義昭に和睦を申し入れますが、義昭はこれを一蹴し、幕府軍を動かし信長打倒を目指します。

しかし、頼みの綱であった武田信玄は、上洛の途上で死亡し、武田軍は撤退

好機と見た信長は京に攻め入ります。

ここにきて細川藤孝や荒木村重らの幕臣は義昭を見限り、信長につきます。

藤英にとって弟である細川藤孝が寝返ったのは衝撃でした。

義昭自身は巨椋池の傍にある槇島城に籠城すると、藤英は二条城を任されて、奉公衆の伊勢貞興らの他、日野輝資・高倉永相などと共に籠城しました。

しかし、信長の大軍に囲まれると7月8日には藤英以外の主要な人物はすべて退去してしまい、藤英とその軍勢だけが二条城に籠る事態となってしまいました。

そして、ついに柴田勝家の説得を受け入れて、7月10日に降伏しました。

足利義昭の籠る槇島城も7万の軍勢により包囲されました。

7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、義昭は、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏しました。

降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。

これにより藤英も信長に仕えることとなりました。

そして、いまだに淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に命じられ、細川藤孝と共にこれを陥落させ、8月2日友通を討ち取りました。

こうして藤英は織田家の家臣として生きることになります。

しかし、翌1574年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、嫡男の秋豪と共に坂本城で切腹を命じられました。


<明智館の門>

詳しく説明している史料はほとんどなく、切腹の理由は、明らかではありませんが、室町幕府の崩壊とともに三渕藤英の生涯も終焉を迎えました。

室町幕府の再興を目指して奔走した一生でした。

切腹の理由

ここからは、なぜ突然、三渕藤英が切腹を命じられたのかについて考えていきたいと思います。

これについては、織田信長は、藤英の切腹を室町幕府打倒に動いた時点からすでに決めていたのではないかと考えられます。

信長に次々と幕府方の武将が降る中、最後まで徹底抗戦していた藤英の存在は、信長にとって邪魔でしかなかったのではないでしょうか。

しかし、藤英には弟の細川藤孝や、同じく幕府に仕えていた明智光秀などがついていました。

すぐにも切腹させようとした信長に対し、藤孝や光秀が助命嘆願に動いたのではないでしょうか。

大きな功績のあった光秀や藤孝の嘆願を押し切って、藤英を切腹させることは、いかに信長といえども命じることはできずほとぼりの冷めた翌年になったのではないかと考えられます。

信長の上では既定路線であった藤英の排除が、光秀と藤孝の助命嘆願があって遅くなったと考えるのが一番妥当なように思われます。

細川藤孝との違い

幕臣として切腹した三渕藤英とは異なり、織田信長の下で出世していったのが藤英の異母弟である細川藤孝です。

なぜ二人の間にはこのような差異が生まれたのでしょうか。


<細川藤孝>

足利義昭と織田信長の対立が先鋭化すると、藤孝は1573年3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示しました。

義昭が信長に背く恐れがあることを藤孝が信長に伝えていたことが明らかになっています。

藤孝は、義昭が追放された後の1573年7月に山城国長岡一帯(現長岡京市、向日市付近)の所有を許され、名字も改めて長岡 藤孝と名乗りました。

その後、藤孝は光秀の下で、信長の天下統一事業を支えていくことになり、数々の功績をあげ、信長から丹後国南部の領有を認められます。

本能寺の変でも光秀側にはつかず、その後は羽柴秀吉にも重用され、文化人としても活躍しました。

さらに関ケ原の戦いでは徳川家康方につき、子の忠興は豊前国小倉藩39万9000石の領有を認められました。

藤孝は晩年、京都で悠々自適の生活を送りました。

余りにも対照的な藤英と藤孝の生涯ですが、運命を分けたのは信長に恭順したか否かというところにあると思います。

最後まで幕府のために徹底抗戦した藤英と、室町幕府の限界を見切った藤孝のどちらが評価されるべきかは、各人の判断によるでしょう。

本能寺の変とのつながり

ここからは一つの仮説を考えてみたいと思います。

それは、三渕藤英の切腹が本能寺の変の原因になったのでは? という考えです。

本能寺の変直前に、明智光秀羽柴秀吉の中国平定に加勢することを命じられました。

その一方で現在の丹波近江の所領を召し上げられ、まだ現実には織田家の領地となっていない出雲石見を与えられました。

まだ実質的に領土となっていない所領を与えられるだけというのは、現在の所領召し上げと同じような意味を持ちました。

この時、光秀はかつて同じ幕臣であった藤英のことが彼の頭をよぎったのかもしれません。

このままでは、自分も藤英と同じように最後は切腹させられてしまうのではないか?

という考えが、光秀に浮かんだとしても不思議ではありません

そして、滅ぼされる前に滅ぼすという戦国時代のならわしの下、本能寺の変へと突き進んだのではないでしょうか?

これは、単なる仮説に過ぎませんが、意外にリアリティがあるように思えます。

まとめ

三渕藤英の登場するドラマや本、ゲーム


<三渕藤英>(谷原章介)「麒麟がくる」より

三渕藤英の登場するドラマは、2020年の「麒麟がくる」です。

谷原章介さんが藤英を演じています。

これによって藤英の知名度がかなり上がったように思われます。

>>「麒麟がくる」(放送済回まで)を見る

その他では、1992年「 信長 KING OF ZIPANGU 」でも藤英は登場していて、渡辺寛二さんが演じていました。

>>「信長 KING OF ZIPANGU」(全話配信)を見る

三渕藤英を直接とらえた本はなく、

・黒嶋敏著「天下人と二人の将軍: 信長と足利義輝・義昭 (中世から近世へ)」( 平凡社 2020)

天下人と二人の将軍: 信長と足利義輝・義昭 (中世から近世へ)

・久野雅司著「足利義昭と織田信長 (中世武士選書40) 」( 戎光祥出版 2017)

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

などが藤英の生きた時代のことについて詳しいと考えます。

ゲームでは、三渕藤英は登場していて、

・「信長の野望 創造」

においては、能力値は統率39、武勇35、知略62、政治57となっており、やや低い設定となっています。

信長の野望・創造 戦国立志伝

三渕藤英は、室町幕府の再興、将軍権力の回復を目指して最後まで奮闘した人物です。

幕府は滅亡してしまいましたが、その忠誠を最後まで貫いた素晴らしい武将でした。

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