金栗四三の家系図や生い立ちは?逸話とエピソードが面白い!

現在放送中の大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三はマラソン選手

現在「箱根駅伝」と呼ばれている東京箱根間往復大学駅伝競走を開催に尽力し、日本のマラソン界を盛り上げた人物です。

そのため「日本マラソンの父」と呼ばれています。

今でこそ、観光地となっている大阪道頓堀にあるグリコのネオンサインは実は、マラソンを走り切った金栗四三のゴール姿がモデルとされています。

 

大河ドラマ「いだてん」の主人公・金栗四三は一体どのような生涯を送っていたのでしょうか。

 

今回は金栗四三の

  • 生い立ち
  • 家系図
  • 経歴
  • 逸話

などについてご紹介します。

 

これを読めば、「日本マラソンの父」金栗四三の生い立ちや家系図、経歴や逸話について知ることができ、より大河ドラマ「いだてん」を楽しく見ることができますよ。

 

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【画像】金栗四三の家系図は?

まず金栗四三の簡単な家系図をご紹介いたします。

金栗四三の家系図画像

画像の無断転載はご遠慮ください

金栗四三の生い立ちや家族はどんな人?

金栗四三は明治24年(1891年)8月20日、父・金栗信彦と母・スヤの7番目の子供として熊本県玉名郡春富村(現在は和泉町)で誕生しました。

 

父・金栗信彦が43歳の時に誕生したため「四三」と名付けられたとされています。

 

家系図を見て分かる通り、金栗四三は8人兄弟の7番目の息子で、賑やかな家庭で育ったとされています。

 

金栗四三は5歳頃になるまで、とても体が弱く両親は心配していたようです。

 

しかし、金栗四三が10歳となった明治34年(1901年)、玉名北高等小学校(現在の南関第三小学校)に進学すると、病弱体質であったことを忘れるくらい体は丈夫となり、自宅から小学校まで走ってい通学しました。

 

自宅から小学校まではなんと往復12㎞もあったとされ、金栗四三は毎日、この通学路を走っていたとされています。

 

しかし、この「かけあし登校」がマラソン選手となる金栗四三のマラソンの基礎となることをこの時は誰も知りませんでした。

 

その後、金栗四三は小学校卒業後、旧制玉名中学に進学します。

 

金栗四三は当時、成績優秀であったとされ友人の勧めで中学校卒業後、海軍兵学校を受験します。

 

しかし、角膜炎を患っていたため不合格となり、滑り止めとして受験していた東京高等師範学校(現在の筑波大学)に明治43年(1910年)入学するのでした。

 

この時、金栗四三の幼馴染である美川秀信も金栗四三と一緒に東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学します。

 

東京高等師範学校に入学

明治43年(1910)4月、ふるさとである熊本を後にした金栗四三と美川秀信は、東京高等師範学校に通い始めます。

 

金栗四三は入学した東京高等師範学校で、後に人生を大きく変えることとなる学校長・嘉納治五郎と出会います。

 

東京高等師範学校の学校長・嘉納治五郎は教育者でもありながら柔道家でもありました。

 

明治14年(1881年)には講道館と呼ばれる道場を設立するなど、柔道の普及活動を行っています。

 

そのため後に「柔道の父」と呼ばれることとなるのですが、そんな嘉納治五郎は柔道のみならず様々なスポーツの普及活動も行っており、東京高等師範学校では年に2回、マラソン大会が行われていたとされています。

 

金栗四三は入学早々に行われた春のマラソン大会に出場します。

 

しかし25位という結果に終わりました。

 

ですが、秋のマラソン大会に出場すると、1位にはなれなかったものの、3位という成績を収め、金栗四三は学校長・嘉納治五郎から「1年生にしては良い成績だ。」と激賞されました。

 

この活躍を知った東京高等師範学校の徒歩部(現在の陸上部)は2年生に進級する金栗四三を徒歩部に誘い、金栗四三は2年生から徒歩部に所属することとなります。

 

東京高等師範学校とはもともと教員になるための学校でしたが、この頃、幼馴染の美川秀信は教員になることを嫌がるようになり、学校には来なくなっていたとされています。

 

美川秀信が学校に来なくなる一方で徒歩部に入部し、日々トレーニングを行っていた金栗四三は校内でも敵なしのマラソンランナーに成長していました。

 

嘉納治五郎がIOC委員に就任

明治42年(1909年)学校長・嘉納治五郎はアジアで初めてIOC(国際オリンピック委員会)委員に選ばれます。

 

当時、戦後真っ只中であった日本は平和の祭典、オリンピックに出場したことはありませんでした。

 

そんな中、IOCに就任した嘉納治五郎は1912年に開催されるストックホルムオリンピックの出場を要請されます。

 

日本初出場となる平和の祭典・オリンピックに出場を要求された嘉納治五郎はすぐさま大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)を設立すると、初代会長に就任しオリンピック参加に向け動き出します。

 

ストックホルムオリンピック出場予選大会の出場を見事勝ち取る

こうして大日本体育協会初代会長・嘉納治五郎はストックホルムオリンピックに出場する選手を決めるべく、オリンピック出場予選大会を明治44年(1911年)に開催しました。

 

徒歩部であり、マラソンランナーとして実力を持つ金栗四三はもちろんこの予選大会に出場します。

 

この際、金栗四三は足袋を履いて出場しました。

 

当時はシューズはあったものの、ランニング専用のシューズなどはなかったのです。

 

こうして出場した予選大会で金栗四三は、途中、足袋が敗れるアクシデントにあいながらも見事、優勝しオリンピック出場権を獲得しました。

 

金栗四三はこの予選大会でなんと当時のマラソン世界記録よりも27分早くゴールしたとされています。

 

金栗四三は長距離で予選大会を突破したのですが、短距離では三島弥彦が優勝をしていました。

 

見事、ストックホルムオリンピックの出場権を獲得した金栗四三と三島弥彦は、IOCにも出場を認められ、ストックホルムオリンピック出場が確実となりました。

 

ストックホルムオリンピック渡航費問題の発生

しかし、ここで問題が発生します。

 

なんと政府は日本からストックホルムに行くまでの渡航費や宿泊費は出さないと表明したのです。

 

これまで政府は渡航費や宿泊費などの補助は約束していたのですが、学生でありながら、運動競技と言う遊びで海外へ行くのは許しがたい。と考えを変えたのした。

 

当時はまだスポーツに理解が低く、スポーツとは遊びであるといった認識が持たれていました。

 

そのため勉学に励むべき学生が、遊びのために海外へ行くとは何事だ。とし、補助金の交付を取りやめたのです。

 

こうして渡航費が全額負担となってしまったので、金栗四三と三島弥彦はストックホルムオリンピックの出場を辞退します。

 

しかし、嘉納治五郎はなんとか2人を説得し、2人はストックホルムオリンピックの出場を決意したのでした。

 

兄・金栗実次の援助

問題となった渡航費は、もちろん学生である金栗四三が出せるはずがありません。

そこで金栗四三は熊本にいる兄・金栗実次に資金援助を要請したのです。

 

兄・金栗実次は弟・金栗四三がオリンピック選手に選ばれたことを非常に喜んでおり、補助金を全額出すと約束します。

 

また、この話を聞いた東京高等師範学校寄宿舎の舎監・福田源蔵は金栗四三を支援するための金栗四三後援会を立ち上げ、渡航費の寄付活動を始めました。

 

すると多くの人が金栗四三後援会に渡航費を寄付し、金栗四三の渡航費は兄・金栗実次の支援金と、寄付活動で集まった支援金によって負担されることとなりました。

 

ストックホルムオリンピック出場

こうして大正元年(1912年)金栗四三は日本から遠く離れたストックホルムに旅立ちます。

 

オリンピックに出場する金栗四三にコーチとして付き添っていたのは大森兵蔵という人物でした。

 

しかし、大森兵蔵は結核を患っており、ストックホルムに到着すると体調を崩し、金栗四三は1人での練習を余儀なくされます。

 

また宿泊先のホテルは非常に狭く、慣れない環境に金栗四三は不安を覚えます。

 

ストックホルムに到着した数日間は不安を覚えていた金栗四三でしたが、金栗四三らがストックホルムに到着した5日後、日本から嘉納治五郎らが到着し、金栗四三は落ち着きを取り戻しました。

 

ストックホルムオリンピックが開催された明治45年(1912年)7月6日、金栗四三は、「NIPPON」と表記されたプラカードを、三島弥彦が日本国旗を掲げ開会式に参加します。

 

開会式終了後、さっそく金栗四三はマラソンに、三島弥彦は100m、200m走の予選に出場しました。

 

マラソンに参加するのは総勢68名であったとされ、その中でもアジア地区からの出場は金栗四三だけであったとされています。

 

金栗四三は緊張しながらも、スタートを切りますが外国人選手と争うことは初めてだった金栗四三は序盤から遅れをとります。

 

しかし、折り返し地点では17位まで順位をあげており、そのまま1位を目指すことに期待されました。

 

ですが、通過地点を過ぎたあたりから、金栗四三はふらつきはじめ26.7㎞地点で意識を失います。

 

金栗四三が意識を失う原因となったのは

  • 白夜による睡眠不足
  • 気温35度による日射病
  • 初参加であったため、体調管理やスケジュール調整などのノウハウがなかった
  • 舗装された路面で走ることに慣れておらず、膝を痛めた

などとされています。

 

意識を失った金栗四三は救出されましたが、意識が戻ったのは競技が終わった翌日の7月15日の朝のことでした。

 

こうして金栗四三は思うようなマラソンをできず、明治45年(1912年)9月18日、日本に帰国します。

 

金栗四三が帰国する少し前の明治45年(1912年)7月20日、明治天皇が崩御し、日本は悲しみ包まれていました。

 

そのため金栗四三らが帰国した際は出迎えや労いの言葉は少なかったとされています。

 

春野スヤと結婚

日本に帰国した金栗四三は東京高等師範学校で勉学に励む傍ら、4年後のベルリンオリンピックに向けトレーニングを開始し始めます。

 

この頃、金栗四三は23歳という年齢であり、熊本にいる兄から紹介された同石貫村の医師の娘・春野スヤと出会い、東京高等師範学校の卒業後の大正3年(1914年)春野スヤと結婚しました。

 

実は金栗四三は23歳の時に熊本県玉名郡小田村の資産家・池部氏の養子になっているのですが、養子に入った後も金栗を名乗っていたとされています。

 

結婚した金栗四三でしたが、故郷・熊本には戻らず妻・春野スヤを熊本に残し1人、東京で次のオリンピックに向け練習を重ねます。

 

また東京高等師範学校の先輩が赴任する学校に足を運び、生徒たちに体育の指導を行うなど、マラソンの普及活動も行っていました。

 

現在の箱根駅伝である東京箱根間往復大学駅伝競走の開催実現に向け尽力

こうして妻を熊本に残し、ベルリンオリンピックに向けトレーニングに励んでいた金栗四三ですが、大正3年(1914年)7月28日、第一次世界大戦が勃発したため、ベルリンオリンピックは中止となってしまいます。

 

これまでベルリンオリンピックに向けトレーニングに励んでいた金栗四三は非常にショックを受けましたが、後に行われる大正9年(1920年)に開催されるアントワープオリンピックに向け練習を開始しました。

 

大正6年(1917年)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走に関東組のアンカーとして出場、大正9年(1920年)には金栗四三は第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(現在の箱根駅伝)の開催実現に向け尽力します。

 

この第一回箱根駅伝において金栗四三の母校である東京高等師範学校が優勝し、ここから箱根駅伝の伝統が受け継がれていくこととなります。

 

アントワープオリンピック・パリオリンピックに出場

また同年4月、金栗四三はアントワープオリンピックに出場します。

 

この時、金栗四三は30歳を超えていました。

 

2度目となるオリンピックは16位という結果に終わり、帰国後、再び4年後のパリオリンピックに向け再びトレーニングを開始します。

 

またトレーニングを行う一方で金栗四三は東京府女子師範学校(現在のお茶の水女子大)に就職します。

 

東京府女子師範学校に就職した金栗四三は日本でのスポーツ振興の必要を感じ、また女性も男性と同じく心身を鍛える必要性を感じていたので、女性のスポーツ進出に熱心に取り組みました。

 

大正13年(1924年)金栗四三はパリオリンピックに出場します。

 

この時、金栗四三は34歳。選手年齢を考え一線を引こうと考えましたが、予選を突破してしまったため、自身3度目となるオリンピック出場となりました。

 

しかし、32.3km地点で途中棄権という結果に終わり、このパリオリンピックが金栗四三の最後のオリンピックとなりました。

 

幻となった東京オリンピック

帰国後は故郷の熊本に帰り、スポーツの普及活動を行っていたとされています。

 

昭和6年(1931年)この年、IOCは東京でオリンピックの開催を表明しました。

 

そのためIOC委員の嘉納治五郎は日本で初めて開催されるオリンピックに向け、金栗四三を東京に呼び戻し、金栗四三はオリンピック開催実現に向け奔走します。

 

しかし、日中戦争が勃発、またIOC委員の嘉納治五郎が亡くなるといった出来事があり、日本政府は東京オリンピックの開催を中止、東京オリンピックは幻のものとなってしまいました。

 

金栗四三の最期

東京オリンピック中止を受け、再び熊本へと戻った金栗四三は

  • 熊本県体育会(後の熊本県体育協会)を創設し、初代会長に就任
  • 第1回金栗賞朝日マラソンなどの開催に尽力
  • 昭和28年(1953年)ボストンマラソン日本選手団団長として渡米し、山田敬蔵選手をサポート
  • 昭和35年(1960年)に開催された第15回国民体育大会の最終聖火ランナーを務める
  • 昭和37年(1962年)玉名市名誉市民として顕彰される

などの出来事がありました。

 

また昭和42年(1967年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招かれ、スウェーデンへと向かっています。

 

金栗四三は晩年、故郷の熊本玉名市で過ごしたとされ、昭和58年(1983年)11月13日、92歳で生涯を閉じました。

 

【エピソード】金栗四三の面白い逸話

大阪の観光名物の1つである道頓堀グリコサイン。

 

道頓堀グリコサインというのは江崎グリコが設置している看板の事で、今では大阪の名物として知られいます。

多くの方が目にしたことがあるかもしれませんね。

 

実はこの道頓堀グリコサインに描かれている男性は

 

  • 金栗四三
  • 極東選手権競技大会(1923年開催)で活躍したフィリピンのフォルチュナト・カタロン選手
  • パリオリンピックで金栗四三と同じく活躍した谷三三五選手

がモデルとされています。

Dotonbori Glico LED signs at 3rd November 2014.JPG
By Tokumeigakarinoaoshima投稿者自身による作品, CC0, Link

まとめ 大河ドラマいだてん以外に金栗四三について知れる本はある?

Shiso Kanaguri 1924.jpg
By 不明 (Asahi Shinbun) – [1], パブリック・ドメイン, Link

金栗四三の家系図や生い立ち、経歴と逸話のご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 「かけあし登校」でマラソンの基礎を築いた
  • 東京高等師範学校で嘉納治五郎と出会う
  • ストックホルムオリンピックでは意識を失い棄権
  • アントワープオリンピックは16位、パリオリンピックは棄権
  • マラソン競技普及に務める
  • 現在の箱根駅伝である東京箱根間往復大学駅伝競走の開催実現に向け尽力
  • 春野スヤと結婚

金栗四三は3度のオリンピック出場経験をもとに、日本でスポーツの普及を行った人物でした。

毎年、1月に開催される箱根駅伝は金栗四三らの努力によって今も続けられているのです。

 

そんな金栗四三は大河ドラマ「いだてん」で主人公として登場しています。

 

大河ドラマ「いだてん」でも金栗四三の活躍を知ることはできますが、

  • 金栗四三・明石和衛が記した『ランニング』
  • 金栗四三が記した『小学校に於ける競技と其の指導法』
  • 佐山和夫さんの『箱根駅伝に賭けた夢「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』

などの書籍で金栗四三について知ることができます。

 

これを機に金栗四三に興味を持った方は金栗四三が記した『小学校に於ける競技と其の指導法』、佐山和夫さんの『箱根駅伝に賭けた夢「消えたオリンピック走者」金栗四三がおこした奇跡』を読んでみて下さい。

 

以上「金栗四三の家系図や生い立ちは?逸話とエピソード」のご紹介でした。

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