岩倉具視の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード、逸話が面白い

岩倉具視(いわくらともみ)と言われると、あなたはどんな人物を想像しますが?

最近では、大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、笑福亭鶴瓶さんが強烈なキャラクターの岩倉具視を演じていらっしゃいましたね。

今回は、岩倉具視について

  • 生い立ちや経歴・功績は?
  • エピソードから見える岩倉具視のすごいキャラクターとは?
  • 逸話から見える岩倉具視の人物像とは?

を紹介します。

こちらを読めば、岩倉具視の生い立ちや明治維新での功績、人となりが分かります。

幕末のドラマには欠かせない岩倉具視を知ることで、幕末や明治維新がもっと面白くなります。

ぜひ最後まで読んでくださいね。

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岩倉具視の生い立ちと経歴・さまざまな功績

岩倉具視は文政8年(1825年)、下級公家堀川康親(ほりかわやすちか)の次男として生まれました。

岩倉具慶の養子となる

次男であったために堀川家を継ぐことはできません。

ですが、幼いころより優秀だったおかげで、天保9年(1838年)同じ下級公家の岩倉具慶(いわくらともやす)の養子になりました

養子先の岩倉家も下級公家で生活は楽ではありませんでした。

ですが、28歳の時に関白:鷹司政通(たかつかさまさみち)に歌道を習いに行ったことから、岩倉具視の人生が大きく動き出しました。

能力主義の人材登用や公家の教育の充実などについて書いた意見書を朝廷へ提出したこともあります。

下級の公家であっても朝廷の中での重要な仕事ができるように改革をしたかったのです。

あまり変化を求めない公家の中で、その当時から岩倉は異質な存在でした。

安政5年(1858年) 廷臣八十八卿列参(ていしんはちじゅうはちきょうれっさん)事件

これは、幕府が日米修好通商条約の勅許を得るための仲介をした関白の九条久忠のもとへ、88人の公家たちが押しかけて阻止した事件です。

この事件の首謀者の一人が、岩倉具視です。

これをきっかけに岩倉具視は、朝廷での発言力を強め、大の異人嫌いだった孝明天皇からも大きな信頼を得ることができました。

岩倉は、朝廷の発言力を高めるために幕府と調停に働きかけ、第14代将軍徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹和宮(かずのみや)との結婚を成功させました。

外国の脅威に不安定な状況にあった政治を安定させる

幕府と朝廷が力を合わせることで、ペリー来航以来外国の脅威に不安定な状況にあった政治を安定させようというのが、岩倉の考えでした。

この考え方を”公武合体“といいます。

薩摩藩の島津久光(ひさみつ)も公武合体派で、岩倉とも接触していました。

ところが・・・。

文久2年(1862年) 幕府との関係を疑われ、職を追われ、蟄居(ちっきょ)させられます。

尊王攘夷派が大多数だった公家たちを敵に回し、その後5年間、謹慎生活を強いられました。

尊王攘夷とは、天皇を敬い、外国人を追い払うという思想です。まだ外国人に対して拒絶反応がある当時の多くの人々はこの考え方でした。
その後
  • 慶応2年(1866年) 孝明天皇崩御。岩倉は謹慎中ながら討幕派と接触するようになる
  • 慶応3年(1867年)12月 大政奉還。岩倉の謹慎が解かれる
  • 同年 11月 王政復古の大号令
  • 慶応4年(1868年) 1月~明治2年(1869年)5月 戊辰戦争

戊辰戦争が終わり、旧幕府軍が全降伏することで、徳川幕府:江戸時代は終わりました。

徳川の時代から明治新国家の時代へ

明治新政府が樹立すると、岩倉は副総裁として明治天皇をサポートする立場になります。

事実上のトップです。

明治政府のトップとして、岩倉は版籍奉還・廃藩置県・憲法制定(大日本帝国憲法)など、新しい日本の近代国家としての基礎を作るために奔走します。

  • 明治4年(1871年) 岩倉使節団の特命全権大使として欧米各国を歴訪
  • 明治6年(1873年) 帰国。明治六年政変

岩倉使節団には、岩倉具視や大久保利通・木戸孝允など政府の要人が含まれていたため、岩倉らが不在の間は、西郷隆盛・江藤新平らが政府の仕事をしていました。

岩倉たちと留守を守っていた西郷たちが当時の朝鮮への対応・扱いをめぐり、対立するようになります。

武力を使ってでも朝鮮を服属させるべきだ主張した(征韓論)西郷たちが負け、政治から手を引きます。

その後、西南戦争が始まり、西郷隆盛は戦死します。

ちなみに、征韓論を唱えていたとされる西郷ですが、実は武力で朝鮮を服従させるという言葉は言っていません。

西郷自身が朝鮮へ行って話し合いをするつもりだったのですが、岩倉や大久保がそれも許さず、心ならず戦争になってしまったというのが本当のところです。

少し話がそれましたね。

でも、この明治六年政変で岩倉を恨んでいた人たちがいたのです。

その後

  • 明治7年(1874年) 赤坂喰違(くいちがい)で襲撃を受けるが、九死に一生を得る
  • 明治16年(1883年) 食道がんで亡くなる

岩倉は日本初の国葬で送られました。

 

岩倉具視の明治新国家への貢献度は、私たちには想像できないくらい高かったのです。

岩倉具視の性格がわかる面白いエピソードとは?

当時の公家社会は、生まれた身分でその後の人生や出世がほぼ決まっていました。

公家の中では下級のほうの生まれだった岩倉が、ここまでのし上がったのは、岩倉に能力があったからだけではありません。

身分にとらわれない実力主義を意見したり、関白が決めたことを覆すために強硬な手段に出すなど大胆すぎる行動があったからこそです。

自宅を博打場として貸していた

岩倉は、貧乏な公家だったため、生活のために自宅を博打場として貸していました。

博打打ちややくざまがいの人がが多く集まって賭け事をする、そんな場所を提供していれば、いろいろともめ事もあります。

そんな中で、岩倉は鍛えられてきました。

頭脳明晰なだけではなく肝が据わっているのは、そんな環境を生きてきたからです

岩倉と帝の密な関係

岩倉は、和宮を降嫁(幕府へ嫁がせる)させるための話し合いをするために、江戸へ下っています。

その時帝(天皇)は、身分に低い公家である岩倉が馬鹿にされないように勅使(帝の手紙:意見を代わりに述べる役割)という立場を与えました。

当時の帝:孝明天皇は、それだけ岩倉を信頼していたのです。

岩倉は、戊辰戦争でも帝の力を利用しています。

慶応4年(1868年)1月鳥羽伏見の戦いが始まります。

数で優っていた旧幕府軍は、ぐんぐんと押してきます。

岩倉たち薩長を中心とした軍は劣勢でした。

ですが、最新の銃を武器に次第に巻き返します。

そして、錦の御旗がひるがえります。

この瞬間薩長軍は,官軍になりました。官軍とは、帝の軍:正規軍ということです。

戊辰戦争の中でも特にドラマチックなシーンです。

旧幕府軍は賊軍とみなされ、旧幕府軍についていた藩が次々と寝返りました。

錦の御旗をきっかけに官軍が優勢となり、戊辰戦争での勝利を迎えることができたのです。

この錦の御旗は、もともと朝廷内にあったわけではないのです。

いずれ幕府と戦になる、そのときのために岩倉が作らせていたのです。

今と違って手作業で機を織って作る御旗、少なくとも戊辰戦争の始まる数か月前には作らせていたのです。

なんという準備の良さ、というか先を見る目のすさまじいこと。

そして、自分の信じたことを実行するためには、帝さえ手段にする凄さとバイタリティー。

でも、公家である岩倉は帝の力を利用するだけでなく、とても敬っていました。

明治天皇との信頼関係

明治天皇の補佐をする中で、強い信頼関係もできていました。

実は、食道がんで亡くなる前日、明治天皇が岩倉を見舞っています。

岩倉は、明治天皇のお顔を見てから逝ったのです。

岩倉具視と帝とのきずなの深さがここに表れています。

ほかの公家にない岩倉の行動力や熱い心意気が、帝との深い絆を生んだのです。

岩倉具視の人物像が分かる面白い逸話とは?

江戸時代の人々と明治時代の人々を比べると、服装以外にも大きく違うところがあります。

それが、髷(まげ):ちょんまげです。

文明開化を推進する中で、政府は民衆に対し、髷を切ることを勧めています。

髷は、外国人が見るととても異様な光景で、これは文明が遅れているためだと見られていたのです。

髷を切らなかった岩倉具視

木戸孝允などは、いち早く髷を切りましたが、岩倉は頑として切りません。

岩倉使節団の時も髷は結っていました。

アメリカについたときに、いやに注目されていた岩倉。

実は馬鹿にされていたと知り、さっさと髷を切ってしまいましたが。

岩倉が最後に手掛けていた仕事は、京都御所を保存することでした。

明治天皇はすでに東京に移り住み、今やだれも住んでいない京都御所でしたが、千年以上続いた京の都の象徴を残しておこうとしていたのです。

先進的な考えを持っていた岩倉ですが、何でもかんでも外国に染まるのではなく、伝統あるものは残そうとしていたのですね。

やはり心の奥には、京の公家としての誇りや伝統を愛する気持ちがあったのです。

まとめ:岩倉具視の経歴やエピソードからわかる人物像

今回は、明治維新の立役者の一人:岩倉具視を紹介しました。

簡単にまとめておきましょう。

  • 岩倉具視は下級公家ながら明治新政府を樹立させた人物
  • 岩倉具視は行動力も度胸もある人物
  • 岩倉具視は謹慎中でもあきらめない性格
  • 岩倉具視は伝統も大切にする人

岩倉具視は、公家とは思えない破天荒な行動が印象的で、幕末の小説やドラマでは、強烈なキャラクターとして描かれることが多いです。

 

「西郷どん」では笑福亭鶴瓶さん、「篤姫」では片岡鶴太郎さん、「八重の桜」では小堺一樹さんが演じられていました。

鶴瓶さんの大阪チックな岩倉には、少しびっくりしましたが、行動力や反骨精神が表れていて面白かったですね。

岩倉は、少し得体のしれない人物として描かれることが多く、公家らしからぬバイタリティーや実行力は、やはり少し変わった人として映ってしまうのでしょう。

こんな得体のしれぬ岩倉具視をもっと知りたいならこんな作品がおすすめです。

  • 維新ー岩倉具視外伝 堀和久
  • 言葉の皮を剥きながら 永井路子

明治維新までの岩倉を中心に描かれた作品です。幕末を生き抜いて明治という時代を生んだ原動力の一人、岩倉具視の生きざまをじっくりと楽しんでください。

ちょっと趣の違う岩倉具視を紹介

  • 曇天に笑う 2018年3月公開

もちろんフィクションの中の岩倉です。東山紀之さんが演じていますが、実際の岩倉のキャラクターをほうふつとさせる部分もあって面白いです。

以上「岩倉具視の強烈な生き方と人となり」でした。

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