あなたは足利義輝という人物をご存知ですか?
足利義輝は室町幕府第13代将軍として、応仁の乱(1467年)以降地に落ちていた将軍の権威を復活させようとしていました。
また、足利義輝は剣豪将軍としても有名であり、それまでの将軍とは違った将軍でもありました。
しかし、剣豪将軍・足利義輝の最後は悲運なものでもありました。
今回は足利義輝について
- 足利義輝の生い立ちとは?
- 足利義輝と織田信長の関係とは?
- 足利義輝の性格と刀の逸話とは?
を紹介します。
こちらを読めば足利義輝の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
2006年大河【功名が辻】第43回「決戦へ」をこれから観ます。家康(西田敏行)打倒の兵をあげた石田三成(中村橋之助)、
家康につくことを決意した山内一豊(上川隆也)と千代(仲間由紀恵)、一世一代の大博打、全財産を城もろとも家康に献上 pic.twitter.com/Dlw0AMtlKv— ヘルベルト•フォン•スダヤン (@suda_yan) 2014年12月12日
足利義輝の生い立ちとは?
足利義輝は天文5年(1536年)に京都東山にある南禅寺で生まれます。
- 父は足利義晴(第12代将軍)
- 母は慶寿院(近衛尚通の娘)
の嫡男として生まれます。
幼名は菊童丸です。
ちなみに弟には後に第15代将軍となる足利義昭がいます。
足利義輝と同じ1536年生まれの人物には
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井伊直親 → 徳川家康の重臣・井伊直政の父
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天海 → 天台宗の僧で後生には徳川家康に仕えた。明智光秀と同一人物であ るという説もある
がいます。
まず、足利義輝が生まれた1536年当時の日本の情勢を簡単に説明します。
当時の幕府は1467年に起こった応仁の乱の影響もあり、足利義政(第8代将軍)以降、将軍の権威は落ちており、将軍の代わりに実権を握っていたのが管領(幕府のナンバー2)の細川晴元でした。
上記のような状況の中、足利義輝の父で第12代将軍の足利義晴は、将軍の権威を復活させるために細川晴元と争いますが、何度も負けてしまい近江国坂本(現在の滋賀県大津町内の一部)に逃れていました。
足利義輝も父とともに近江国へ逃げ、ここで幼少期から少年期を過ごします。
天文15年(1546年)、11歳であった義輝は父から将軍職を譲られ第13代将軍に就任します。
また、将軍になったと同時に元服し名を菊童丸から義藤(よしふじ)に変えます。
足利義輝が将軍に就任してから2年後の天文17年(1548年)に、父と細川晴元が和解し京都へ戻ります。
これによって足利義輝は将軍として京へ入り、和解した細川晴元とともに政治を行おうとします。
しかし、この後、足利義輝の前に新たな敵が登場することになります。
足利義輝と織田信長の関係とは?
~織田信長登場までの足利義輝~
織田信長との関係といっても、足利義輝が京に入った天文17年(1548年)の織田家は信長の父・織田信秀の時代であり、領国も尾張国(現在の愛知県西部)の1国だけでした。
織田信長が家督を継いだのは天文21年(1552年)で足利義輝に謁見したのが永禄2年(1559年)と義輝と信長が会うのはまだ先のことです。
ここでは足利義輝が織田信長と会う永禄2年までの動きを紹介します。
細川晴元と若いし政治を行おうとした足利義輝でしたが、細川晴元の家臣であった三好長慶が晴元と対立するようになると、この争いに義輝も巻き込まれることになります。
三好長慶は管領職に晴元と以前から対立していた細川氏綱を擁立します(三好政権の開始)。
この時の陣容は
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細川晴元方 → 足利義晴・足利義輝
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細川氏綱方 → 三好長慶
に分かれ、また畿内(京都南部・大阪・奈良)の大名(六角氏や畠山氏ら)や諸勢力も加わることになります。
しかし、細川晴元陣営は三好長慶に敗れ、近江国坂本へ逃れることになります。
さらに、天文19年(1550年)に父の足利義晴が亡くなります。
足利義輝は父の無念を晴らすため三好長慶と戦うことを決めますが天文20年(1551年)には
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3月、三好長慶の暗殺に失敗する
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5月、長慶家臣・遊佐長教暗殺の犯人にでっち上げられる
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7月、幕府軍が長慶家臣・松永久秀と戦い敗れる(相国寺の戦い)
など、足利義輝は劣勢に立たされます。
ただ、三好長慶に室町幕府を滅ぼす考えはなく、あくまで幕府の実権を握ることが目的であったことから、足利義輝と三好長慶は和睦と対立を繰り返します。
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天文22年(1553年) 東山霊山城の戦いで三好軍に敗れる
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永禄元年(1558年) 六角義賢の仲介で三好長慶と和解する
~織田信長の謁見を受ける~
足利義輝が幕府の実権を巡り三好長慶と争っている頃の織田信長について。
天文21年(1552年)に織田家の当主となると尾張統一に動きます。
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天文23年(1554年) 織田一族の織田尾張守護代家を滅ぼす ※信長は織田弾正忠家
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弘治2年(1556年) 実弟の織田信勝と戦い勝利する(稲生の戦い)
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永禄元年(1558年) 再び謀反を起こそうとした弟・信勝を殺害する
織田信長は家督を継いでからわずか4年で織田弾正忠家をまとめ尾張の統一に動きます。
そして、織田信長は尾張の新たな統治者として認めてもらうために、永禄2年(1559年)2月2日に京へ上洛し足利義輝に謁見します。
これが足利義輝と織田信長が直接会った最初の出来事となります。
ただ、織田信長は足利義輝への忠誠を誓うことではなく、当時の京の情勢を確認するために上洛したともいわれています。
このあとの両者の行動としては
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足利義輝 → 将軍の権威復活のために三好長慶と争う
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織田信長 → 桶狭間の戦い(1560年)を機に上洛への道を探る
と、それぞれが目標を掲げ動きます。
~足利義輝の親政と最期~
三好長慶に実権を握られながらも、足利義輝は将軍として各地の大名との修好(親しくつきあう)に務め親政(国王・天皇・将軍が直接政治を行う)を行います。
以下の大名家の争いを仲介します。
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1548年、東北地方 伊達晴宗vs伊達稙宗 ※伊達政宗の祖父と曾祖父の争い
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1550年、関東地方 里見義堯vs北条氏康
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1558年、中部地方 武田晴信vs長尾景虎 ※武田信玄と上杉謙信の旧名
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1560年、中国地方 尼子晴久vs毛利元就
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1560年、九州地方 島津貴久vs大友宗麟
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1561年、東海地方 松平元康vs今川氏真 ※松平元康は徳川家康の旧名
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1563年、九州地方 毛利元就vs大友宗麟
他にも足利義輝は自身の名であった「義藤」や「義輝」の一字を与えます。
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「藤」 → 細川藤孝、筒井藤勝
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「輝」 → 毛利輝元(元就の孫)、伊達輝宗(政宗の父)、上杉輝虎(謙信の旧名)
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「義」 → 朝倉義景、島津義久、武田義信(信玄の嫡男)
これらは将軍の権威を利用しての足利義輝の親政と言えます。
そんな中、時代が少し戻りますが、織田信長と会った1年前の永禄元年(1558年)に足利義輝が権威を復活させる一筋の光が見えます。
実権を握っていた三好長慶に不満を持っていた畿内の大名
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畠山高政 → 河内国(大阪東部)の守護大名・戦国大名
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六角義賢 → 近江国(滋賀県)の守護・戦国大名
らが蜂起(軍を興す)し、久米田の戦いで三好長慶の弟・三好義賢を討ち取ります。
三好義賢は三好長慶にとってただの弟ではなく三好政権を支えていた重臣の一人でもありました。
これは三好氏衰退の始まりとなります。
しかし、足利義輝は三好長慶を討とうとはせず、あくまで長慶との協調を選びます。
一方、尾張の統一と上洛を目標とした織田信長は、桶狭間の戦い(1560年)での勝利を皮切りに
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永禄6年(1563年) 今川家から独立した松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ(清洲同盟)
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永禄8年(1565年) 織田一族の織田信清を滅ぼし尾張を統一する
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武田信玄と同盟を結ぶ
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伊勢地方(三重県)に進出する
など積極的に勢力拡大を行います。
この頃、足利義輝と争っていた三好長慶が急死してしまいます(1564年)。
三好長慶の死因は三好政権を支えていた弟達の相次ぐ死と嫡男・三好義興の死による精神的ショックによるものだと言われています。
この三好長慶の後を継ぐようにして三好氏家臣の
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松永久秀、松永久通
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三好長逸(ながやす)、三好宗渭(そうい)、岩城友通ら三好三人衆
らが三好長慶の養嗣子(養子が後継者)・三好義継の後見役として実権を握り、松永氏と三好氏の連立政権を樹立します。
しかし、この連立政権の樹立が足利義輝の命運を決めることになります。
足利義輝は三好長慶の死を好機と見て
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武田信玄や上杉謙信に上洛要請をする
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松永久秀と三好三人衆の新将軍・足利義栄(義輝の従弟)の就任要請を拒絶する
と将軍の権威復活に動きます。
ところが、この足利義輝の行動に危機感を持った松永久通(久秀の嫡男)や三好義継、そして三好三人衆は永禄8年(1565年)5月19日に事を起こします。
清水寺の参詣(お参り)を名目に1万の兵を集め足利義輝がいる二条御所へ押し寄せます。
三好軍は将軍の屋敷に押し入ると、要求ありと偽り足利義輝を暗殺します(永禄の変)。
この時、足利義輝は30歳でした。
また、足利義輝の死と同時に実母の慶寿院は自害し、側室の小侍従殿や義輝弟の周暠(しゅうこう)は殺害されます。
唯一生き残ったのが義輝の弟で後に第15代将軍となる足利義昭です。
将軍権威の復活を夢見た足利義輝でしたが、義輝の最期は暗殺されるという悲運なものでした。
足利義輝の死から2年後の永禄10年(1567年)2月には、京の真如堂(京都市左京区浄土寺真如町にある真正極楽寺)で義輝の追善(冥福を祈ること)が行われます。
この追善には畿内を中心に約8万人の群衆が集まったそうです。
これを見ても足利義輝の存在は群衆にとっては、細川氏や三好氏の政治からの脱却を願ったものだとも言えます。
足利義輝の死後、将軍の地位を巡っては
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足利義栄 → 義輝の従弟で三好三人衆が擁立
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足利義昭 → 義輝の弟
が争うことになります。
~織田信長の上洛~
足利義輝の死によって将軍の権威が再び落ちましたが、今度は三好三人衆と三好義継・松永久秀の間で権力闘争が起きます。
※三好三人衆と松永久秀が擁立した14代将軍・足利義栄は病弱であったため政治はせず
この畿内の混乱に目をつけたのが織田信長です。
織田信長は足利義輝の弟で唯一生き残った足利義昭を保護し、上洛の大義名分を得ることに成功します。
また、足利義昭も兄・足利義輝と同じように将軍の権威復活を目標としていました。
足利義輝が暗殺された永禄8年(1565年)から上洛をした永禄12年(1569年)の間の織田信長の行動としては
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永禄8年(1565年) 義輝家臣・細川藤孝に義昭上洛に協力する旨を伝える
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永禄10年(1567年) 美濃斎藤氏を稲葉山城から追い出し岐阜城に改名する
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永禄11年(1568年) 妹のお市を近江国の浅井長政のもとへ嫁入りさせる
など着実に上洛の準備をします。
そして、永禄11年(1568年)9月7日に織田信長は足利義昭とともに上洛を開始します。
この時の畿内は織田信長に協力的な勢力と非協力的な勢力に分かれていました。
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協力的な勢力 → 三好義継、松永久秀ら
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非協力的な勢力 → 三好三人衆、六角義賢ら
織田信長は松永久秀らの協力もあり、永禄11年(1568年)10月18日に足利義昭を第15代将軍に就任させます。
※14代将軍・足利義栄は永禄11年(1568年)9月30日に病気によって亡くなっている
これ以降は、多くの方も知っているように織田信長は足利義昭を利用して実権を握っていくことになります。
そして、元亀4年(1573年)に足利義昭が織田信長に追放されたことで室町幕府が終焉を迎えることになります。
足利義輝と織田信長の関係としては直接的な関係はあまり無かったものの、足利義輝が織田信長へ与えた影響は義輝の死後のことでした。
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足利義輝の弟・足利義昭を保護することで上洛する大義名分を与えたこと
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足利義輝を殺害した三好三人衆らを討伐する大義名分を与えたこと
など、二人の関係性は間接的なものが深かったようです。
足利義輝の性格と刀の逸話とは?
足利義輝は剣豪将軍として知られ、宣教師ルイス・フロイスが書いた『フロイス日本史』には「とても武勇にすぐれて、勇気ある人だった」と書かれています。
足利義輝は剣豪として有名な塚原卜伝(つかはら ぼくでん、1489年~1571年)から指導を受けた直弟子の一人と言われています。
塚原卜伝から指導を受けた人物としては以下の人物がいます(伝承上の人物もいます)
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成田長泰 → 武蔵国忍城の城主 映画『のぼうの城』の成田長親(野村萬斎)の伯父
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細川幽斎 → 細川ガラシャの夫・細川忠興の父 ※本文に出てくる細川藤孝のこと
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今川氏真 → 今川義元の嫡男
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上泉信綱 → 上野国(群馬県)生まれの兵法家 弟子に徳川将軍家の兵法指南役となる柳生宗矩の父・宗厳(むねよし)がいる
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山本勘助 → 武田信玄の軍師
塚原卜伝から剣術を教わった足利義輝でしたが、この教わった剣術が発揮された有名な事件があります。
その事件というのが足利義輝が最期を迎えた永禄の変です。
永禄の変で足利義輝は屋敷に押し寄せてきた三好軍の兵を自ら迎え撃ち、薙刀を手に応戦します。
この際、足利義輝は薙刀以外にも畳に数十本の刀を刺して戦い、刃がかけると新しい刀を持って一人多くの敵を討ち取ったと言われています。
しかし、次第に体力が無くなっていき、最後は転倒したところを襖(ふすま)をもった敵兵に抑えられ、その上から何本もの槍で刺されて絶命したと言われています。
そして、足利義輝が最後に持っていた刀は、かつて源頼光(948年~1021年)が鬼を退治した時に使われた「童子切安綱」であったと言われています。
この時の状況を織田信長の家臣だった太田牛一は自身が著した『信長公記』に「数度きつて出て、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と書き残します。
将軍の権威復活を志にして戦国の世を生きていった足利義輝でしたが、最期は心半ばで殺害されるという悲運な生涯でした。
しかし、足利義輝の最期は将軍としてではなく、一人の武人として敵を討ち、散っていったようにも見えます。
まとめ 足利義輝は結局どんな人?大河ドラマや映画や小説はある?
ここまで足利義輝について紹介してきました。
まとめてみると
- 足利義輝は室町幕府第13代将軍だった
- 足利義輝は武勇に優れて将軍だった
- 足利義輝は将軍の権威復活に尽力した
- 足利義輝は最期は殺害された
大河ドラマでは
- 『天と地と』(1969年) 山本学
- 『国盗り物語』(1973年) 竹脇無我
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年) 宮田恭男
- 『功名が辻』(2006年) 山口祥行
があります。
本では
- 『剣豪将軍義輝』(1995年) 宮本昌孝
- 『剣豪将軍義輝(上・中・下)』(2011年) 宮本昌孝
があります。
ぜひ見てみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「足利義輝の性格や刀の逸話。織田信長との関係をわかりやすく解説」でした。
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