あなたは太田道灌(おおたどうかん)という人物をご存知ですか?
太田道灌は鎌倉時代から続く名門上杉氏の諸家の1つ扇谷上杉家の家宰(主君の代わりに家政を行う)です。
マイナーな人物ですが主家・扇谷上杉家に忠誠を誓い仕えたことから「忠義の将」とも呼ばれています。
また、江戸城(現在は皇居)を築城した人物でもあり、関東の歴史ではとても重要な人物です。
今回は太田道灌について
- 太田道灌の生い立ちとは?
- 太田道灌の経歴や最後は?
- 【エピソード】太田道灌の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば太田道灌の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
太田道灌の生い立ちとは?
太田道灌は永享4年(1432年)に
- 父は太田資清
- 母は長尾景仲(山内上杉家の家宰)の娘
の子として生まれます。
幼名は鶴千代で元服後は資長(すけなが)と名乗り、後に法名である道灌に改名します。
※今回は太田道灌で書いていきます。
多田源氏の流れを汲む家系で誕生
太田道灌の生まれた太田氏は清和源氏の嫡流である多田源氏の流れを汲む家系です。
太田氏は代々扇谷上杉家の家宰を務めていて、父・太田資清は山内上杉家の家宰であった長尾景仲と共に「関東不双の知恵者」と称されていました。
そんな太田氏に生まれた太田道灌ですが、幼い頃は下野国足利荘(栃木県足利市)にあった足利学校(鎌倉時代から続く関東における最高学府)に通っていました。
この足利学校に通っていたことで、太田道灌は文武に優れた武将に育つことになります。
太田道灌は文安3年(1446年)に元服し、名を鶴千代から資長に改名します。
太田道灌の経歴や最後は?
~太田道灌が登場するまでの関東情勢~
まずは、太田道灌が幼少の頃の関東の情勢について紹介します。
南北朝時代から関東地方は室町幕府によって設置された鎌倉府が治めていました。
そしてこの関東管領上杉氏は室町時代初期に主に以下のような4つの家に分かれます。
- 扇谷上杉家(おうぎがやつ)
- 山内上杉家(やまのうち)
- 犬懸上杉家(いぬがけ)
- 宅間上杉家(たくま)
中でも、関東管領を独占していたのが山内上杉家と犬懸上杉家の2家でしたが、応永24年(1417年)に犬懸上杉家の上杉禅秀が鎌倉公方・足利持氏に対して反乱を起こすと(上杉禅秀の乱)、犬懸上杉家は衰退し山内上杉家が独占するようになります。
一方、扇谷上杉家は関東管領になれる家柄ではありましたが、山内上杉家が関東管領のほとんどを独占していたため大きな勢力を持った家ではありませんでした。
ただ、先程にも書いた上杉禅秀の乱(1417年)や鎌倉公方が滅んだ永享の乱(1438年、足利持氏が自害)では、扇谷上杉家は勝利した方にいたため、修理大夫や相模守護に任じられています。
永享の乱以降は扇谷上杉家は関東管領山内上杉家を支える形をとります。
ちなみに扇谷上杉家と山内上杉家を合わせて「両上杉家」と言います。
しかし、文安4年(1447年)に足利持氏の遺児であった足利成氏が鎌倉府を再興すると、鎌倉公方と山内上杉家は対立することになりました。
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享徳3年(1454年)、関東管領・上杉憲忠が鎌倉公方・足利成氏に暗殺される
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享徳4年(1455年)、上杉憲忠の報復として上杉一門が立ち上がるが、分倍河原の戦いで大敗し、太田氏の主君である上杉顕房(扇谷上杉家)が戦死する
関東管領上杉憲忠の暗殺から以後約30年の対立を享徳の乱といいます。
~太田道灌の家督相続~
太田道灌が家督を相続したのは、関東が古河公方(旧鎌倉公方)と関東管領が対立していた真っ只中でした。
康正2年(1456年)に太田道灌は父・太田資清から24歳で家督を譲られ、扇谷上杉家の上杉政真(暗殺された上杉顕房の子)に仕えます。
家督を継いだ太田道灌は初めに対古河公方としての防衛拠点を築いていきました。
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康正2年(1456年)には武蔵国入間郡(埼玉県川越市)に河越城
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長禄元年(1457年)には武蔵国埼玉郡(埼玉県さいたま市)に岩槻城
中でも、長禄元年(1456年)に築いた江戸城は現在でも皇居として使われています。
※当時は今のような大きな城郭ではありません
ちなみに扇谷上杉家の拠点は河越城で、太田道灌は江戸城に入ります。
太田道灌が古河公方への対処として防衛拠点を築いている間に、関東に新たな争いの火種が撒かれました。
長禄2年(1458年)に8代将軍・足利義政が異母兄の足利政知を関東へ送り、これが堀越公方として伊豆に入ります。
扇谷上杉家は堀越公方とは大きな争いは無かったものの、隣国同士(相模国と伊豆国)であったことから多少の衝突はありました。
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~両上杉家当主の死と新当主の戦死~
太田道灌が家督を継いで家宰として活躍している間、関東地方は両上杉家・古河公方・堀越公方の3勢力が三つ巴になっていました。
そんな中、文政元年(1466年)から応仁元年(1467年)にかけて両上杉家の当主が次々と亡くなります。
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山内上杉家 → 関東管領上杉房顕が亡くなり、越後上杉家から上杉顕定が養子に迎えられ関東管領になる
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扇谷上杉家 → 当主に復帰していた上杉持朝が亡くなり、太田道灌の主君であった16歳の上杉正真が継ぐ
両上杉家の当主が次々と亡くなりましたが、後継者をスムーズに決めれたことから大きな争いは起きませんでした。
また、太田道灌は自分が仕えていた上杉政真が当主になったことで家宰として引っ張ってい行くことになります。
応仁の乱の勃発
一方、応仁元年(1467年)には京を中心に関西で応仁の乱が起こります。
この頃の日本は全国的に混乱した時期でした。
そして、文明3年(1471年)には古河公方・足利成氏が堀越公方・足利政知を倒すために伊豆国へ出陣します。
太田道灌をはじめ両上杉家は古河公方方を襲撃し古河城へ進軍します。
しかし、古河公方・足利成氏を取り逃がし、文明4年(1472年)に千葉家の力を借りた成氏の反撃に遭い古河城を奪還されてしまいました。
さらに、文明5年(1473年)には古河公方方が五十子陣(いかっこのじん、現在の埼玉県本庄市にあった平城)を襲撃します。
この襲撃によって太田道灌は主君の上杉政真を失うといった結果に陥るのでした。
扇谷上杉家の家督は上杉政真に子がいなかったため家臣同士で行われた協議の結果、上杉定正(上杉定実の叔父)が就くことになります。
ちなみに、太田道灌はこの頃に出家して「道灌」と名乗ります。
~長尾景春の乱勃発~
太田道灌は上杉定正を当主にすることで、扇谷上杉家内の混乱を最小限に抑えました。
しかし、文明5年に山内上杉家の家宰であった長尾景信が亡くなったことで新たな争いが生まれます。
長尾景信の死後、関東管領上杉顕定は家宰に景信の子・長尾景春ではなく景信の弟である長尾忠景を任命します。
この人事に不満を持った長尾景春は文明8年(1476年)に古河公方と手を組み武蔵国鉢形城で反旗を翻します。
太田道灌にとって長尾景春は従弟(道灌の母と景春の父が兄妹)でしたが、太田道灌は長尾景春からの協力要請を断り扇谷上杉家への忠誠心を示します。
ただ、この時、太田道灌は駿河国(静岡県)の守護である今川家の後継争いに介入していたため不在でした。
その後、今川家の後継争いを片付けると、太田道灌は五十子陣で赴き長尾景春を刺激しないように以下の策を関東管領上杉顕定に進言します。
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家宰となった長尾忠景を一旦退ける
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長尾景春を家宰の代替として武蔵国守護代に就ける
しかし、上杉顕定は太田道灌の提案をすべて断りました。
すると、文明9年(1477年)正月に長尾景春が五十子陣を襲撃してきたため、両上杉家当主は大敗し上野国(群馬県)に敗走します。
また、河越城と江戸城の中継地点にあった石神井城の豊島氏をはじめ、武蔵国の国人らが次々と景春方へ寝返ります。
これらは太田道灌をはじめ両上杉方とっては厳しい状況になってしまいました。
~太田道灌の活躍と死~
長尾景春の反乱によって窮地に陥った両上杉家でしたが、ここから太田道灌の快進撃が始まります。
ちなみにこの時、太田道灌は45歳でした。
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文明3月(1477年)3月、長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大 磯町)を速攻で攻略する
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文明3年(1477年)4月、豊島氏の居城・石神井城を落とす
となど、長尾景春方を圧倒していきます。
同年5月には用土原の戦いで長尾景春を撃破し鉢形城を包囲しますが、古河公方・足利成氏が出陣したため撤退します。
ただ、長尾景春方を封じ込めることには成功しました。
文明10年(1478年)には古河公方から和議の打診を受けます。
両上杉家ならびに太田道灌は、この和議に対しては前向きに考えました。
しかし、この和議に反対していた勢力はまだいたため太田道灌はこれらを討つとともに、文明12年(1480年)6月に長尾景春が籠もっていた最後の拠点・日野城(埼玉県秩父市)を落としました。
長尾景春は古河公方のもとへ逃れます。
一方、文明14年(1482年)には越後上杉家の上杉房定の仲介によって、将軍家・両上杉家と古河公方の間で和睦が成立します。
この和睦を「都鄙合体(とびがったい)」と言い、享徳3年(1454年)に起きた関東管領上杉憲忠の暗殺事件に端を発した享徳の乱が終結します。
また、享徳の乱での太田道灌の活躍によって扇谷上杉家は最盛期を迎えることになり、太田道灌の名声も絶頂期を迎えます。
ところが、太田道灌の姿に不満を持っていた人物がいました。
主君・上杉定正によって暗殺され亡くなる
それが主君でもあった上杉定正です。
上杉定正には太田道灌がその優れた才能を誇って主君を軽んじていたように見えたようです。
そして、文明18年(1486年)7月に上杉定正は太田道灌を糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招き、そこで暗殺します。
この時、太田道灌は55歳でした。
太田道灌の死には山内上杉家の上杉顕定が、扇谷上杉家の勢力を弱らせるために策を講じたという説も考えられています。
太田道灌は忠義に厚く主家のためにその一生を捧げていましたが、最期は信頼していた主君の手によって暗殺されるという悲運な武将でもありました。
太田道灌亡き後の関東
太田道灌亡き後の関東は、扇谷上杉家・山内上杉家・古河公方・堀越公方が領地を巡って争ったり(長享の乱)、それぞれの家内で内紛状態になるなど、互いに弱めてしまいます。
そして、伊豆の堀越公方を滅ぼし関東へ進出した新興勢力・北条氏によって関東の支配権を奪われることになります。
ちなみに扇谷上杉家は太田道灌の死から60年後に北条氏によって滅ぼされます。
【エピソード】太田道灌の人柄や性格が分かる逸話
ここでは太田道灌の歌人としての逸話を紹介します。
歌人としても活躍した
扇谷上杉家の家宰として活躍した太田道灌ですが、歌人としても有名です。
太田道灌の逸話に「山吹伝説」というものがあります。
ある日、太田道灌が鷹狩りをしていると、急に雨が降ってきたことからある一軒の家にかけ込みます。
そこで、太田道灌は「急な雨にあってしまったので、蓑(みの)を貸してもらえぬか」と訪ねます。
そこへ1人の少女が出てきて、少女から一輪の山吹の花を渡されます。
これに、太田道灌は「花をもらいに来たのではない、蓑を借りに来たのだ」と言い、立腹しながら帰っていきます。
屋敷に帰ってきた太田道灌は家臣にこれまでのことを話します。
すると、1人の家臣が進み出て以下のように言います。
[それは、『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』に出てくる「七重八重 花は咲けども 山吹の実の 一つだに無きぞ悲しき」に掛けて、貧しい状況を訴えたことだと思われます。]
つまり、歌の一節、「山吹の実の」を以下のように掛けており
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「山吹の実の」の「山」 → 「山間(やまあい)の」という意味
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「山吹の実の」の「吹の」 → 「茅葺き(かやぶき)の」という意味
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「山吹の実の」の「実の」 → 「蓑(みの)の」という意味
これを文にすると、「山間の茅葺きの家であり貧しく蓑が一つも無い」 という意味になります。
このことを後で知った太田道灌は古歌の知識がないことを恥じて、歌道に励むようになったと考えられるようになりました。
ただ、この山吹伝説は後世の創作だと言われています。
しかし、実際に太田道灌は当代屈しの歌人と言われ、「慕景集(ぼけいしゅう)」という歌集を遺しています。
また、太田道灌は江戸時代から有名であったことから、先程書いた「山吹伝説」もつくられたのではないかと考えられます。
まとめ 北条早雲はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで太田道灌について紹介してきました。
まとめてみると
- 太田道灌は扇谷上杉家の家宰だった
- 太田道灌は山内上杉家にも大きな影響をもたらした。
- 太田道灌は武勇に優れていた
- 太田道灌は歌人としても有名だった
- 太田道灌は江戸城を築城した人物だった
- 太田道灌は暗殺された
太田道灌が登場する大河ドラマは残念ながらありません。
ただ、太田道灌が生きた時代は戦国時代に直結する時代でもあるので、大河ドラマになれば結構面白いと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「太田道灌の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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