大久保利通の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い!

大久保利通は、西郷隆盛を筆頭に木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」として名を連ねる明治維新には欠かせない人物です。

2018年大河ドラマの影響もあり、ご存知の方も多いかと思います。

また、大久保利通と聞いて特徴的なあの髭を思い浮かべる人も多いかもしれません。

今回は、大久保利通について

  • 大久保利通の生い立ちや家族を紹介
  • 大久保利通の性格がわかる面白エピソードとは
  • 大久保利通の人物像が分かる面白い逸話とは

を紹介します。

これを読めば、大久保利通の生い立ちや家族構成・エピソード・逸話などがわかります。

大久保利通の目指した日本の姿を垣間見ることができ、大久保が関連する作品をさらに楽しむことができるようになります。ぜひ、ご覧ください。

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大久保利通の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い!

大久保利通の生い立ちや家族を紹介

大久保利通は、幕末から明治時代にかけて活躍した薩摩藩士です。

文政13年(1830年)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島市高麗町)に薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の二女・福との間に長男として生まれました。

この頃、大久保家の身分は下級藩士でした。

幼少期に加治屋町に移住したことから、その後の人生を左右することになる、西郷隆盛税所篤吉井友美海江田信義らと出会います。

彼らと共に学問を学び、親友・同志となっていきます。

討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きんでていた一方で、胃が弱かったため武術が得意ではなかったという意外な一面があります。

弘化3年(1846年)になると大久保は記録所書役助として藩に仕えることになります。

しかし、嘉永3年(1850年)の薩摩・島津家をめぐるお由羅騒動時、父・利世とともに連座、罷免され謹慎処分となってしまいます。

そのため、大久保家は貧しい生活を強いられることになります。

しかし、島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)に職務に復帰を果たします。

安政4年(1857年)には、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚し、二人は間には5人の子宝に恵まれました。

また、外の妻(妾)・おゆうとの間にも、4人の子どもが誕生しました。

合わせて9人もの子どもに恵まれるなんて、大久保さん、見かけによらず子だくさんだったんですね!

ちなみに麻生太郎元総理大臣は、大久保利通の玄孫にあたります。

大久保一族は、政財界に強い家系なんですね!

また、初代内務卿であった大久保は、士族による最大規模の武力反乱、後の西南戦争で京都府にて政府軍を指揮し、かつての同志であった西郷隆盛らと対立することになります。

西南戦争は、政府軍が勝利を治める結果となりますが、明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂にて暗殺され、享年49歳の短い人生を終えました。

49年という短い人生の中で、大久保の残した功績は後世に影響を与えるとても大きなものでした。

最後の最後に同志であった西郷隆盛と道を違えたことは悲しいですが、それが大久保と西郷の選んだ道だと思うと互いの強い志を感じますよね!

大久保利通の性格がわかる面白エピソードとは

冷静な理論家で知られた大久保でしたが、家庭内での彼は子煩悩で優しい父親でした。

  • 出勤前の短い時間を唯一の娘である、芳子を抱き上げるなどして慈しんだ
  • 大久保が帰宅すると、子どもたちが争って靴を脱がせようとして、勢いあまって転がる姿を見て喜んでいた
  • 土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていた

公務が忙しいながらも、大久保さんにはイクメンの素質があったのかもしれませんね!

また大変なヘビースモーカーで、朝晩パイプの掃除をするのもまた子どもたちの役目でした。

また、年中煙草を吸っていたため、朝用と夜用のパイプを使い分けて目詰まりを防いでいました。

ちなみに大久保が愛用していた煙草は「指宿煙草」といい、日本で初めて栽培された煙草で、「指宿」とは鹿児島の地名です。

しかし、いくらストレスが溜まっていたとしても、父親がこんなヘビースモーカーだと身体の方も心配ですよね。

また、写真嫌いだった西郷隆盛とは対照的に、写真好きで多くの肖像写真が残されています。

朝食は洋食と好み、ポマードも愛用していました。

大久保さんの、新しい物好きというか、西洋かぶれ?な一面がわかりますね!

さらに趣味は囲碁だった大久保。

しかし、大変な負けず嫌いだったため、対戦相手に当たり散らすことこそなかったものの碁で負けると露骨に機嫌が悪くなりました。

このことに関して、次のような証言が残っています。

  • 大隈重信
「岩倉と大久保、どちらかというと大久保の方が少し上手であった。大久保は、激し易い人であったので、岩倉は対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」
「道楽の少ない男で、碁が一番好きであった。碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。併し家に帰ると玄関から足跡が違ったと評判で、家人や書生に当たり散らしたそうだ」
  • 本因坊秀栄
「永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」
  • 伊藤博文
「公の一番好きなのは碁じゃ。余程好きで能くやって居った。詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」

大久保さんには意外にも子どもっぽい一面があったようですね!

何だか親近感が湧いてきませんか?

大久保利通の人物像がわかる面白い逸話とは?

そんな大久保も、西郷死亡の報せを聞いたときは号泣し、かなり動揺しました。

「おはんの死と共に、新しい日本が生まれる。強か日本が…」と呟きながら家のなかをグルグルと歩き回り、時折鴨居に頭をぶつけていたそうです。

これは、日本家屋の造りに対して、大久保が身長175~178cmと当時の日本人としては長身だったためです。

また西南戦争後には「自分ほど西郷を知っている者はいない」と、西郷の伝記の執筆を漢学者で歴史家の重野安繹に頼んでいました。

また暗殺された時、生前の西郷から送られた手紙を持っていたというのは有名なエピソードです。

道を違えても、西郷を友として、また同志として慕っていた大久保の心の内がみえるようですね。

さらに暗殺される日の朝まで、福島県令・山吉盛典に、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することになるが、それには30年の時期が要る。内治をを整え、民産を興す即ち建設の時期、私はこの時まで内務の職に尽くしたい」と将来の構想を語っていました。

大久保の長生きした架空の未来。

そんな未来を私たちも見てみたかった気がしますよね!

【結論】大久保利通の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い!

大久保利通の生い立ちや家族構成、面白エピソードや逸話について紹介しました。

最後に大久保利通についてまとめておきますね!

  • 学問は得意であったが、武術はあまり得意ではなかった
  • 妻と妾、合わせて9人子どもがいる
  • 冷静な理論家で知られる一方、たいへんな子煩悩だった
  • 囲碁好きで知られ、かなりのヘビースモーカー
  • 西郷の死にかなりの動揺をみせた
  • 死の直前まで、日本の将来の構想について熱く語っていた

大久保利通は、政治に対して厳しさをみせる一方で、家族を大切にする人だったということが分かりますね!

また、西郷隆盛のことも決して恨んでいたわけではないということがよく分かります。

大久保利通の残した足跡をぜひ今の時代を生きるみなさんに感じてもらいたいです!

もっと、大久保利通のについて知りたいという人には次の作品がオススメです!

  • 『翔ぶが如く』(1990年・NHK大河ドラマ)
  • 『西郷どん』(2018年・NHK大河ドラマ)

ぜひ、大久保利通の志、西郷隆盛との友情を感じてみてください。

以上、「大久保利通の生い立ちや生涯、面白エピソード・逸話」でした。

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