あなたは織田信秀という人物をご存知ですか?
織田と聞くとほとんどの方が織田信長を思い浮かべると思いますが、織田信秀は誰もが知っている織田信長のお父さんです。
現在では「信長の父」という呼び方をされていますが、歴史を遡って見てみると織田信秀が織田家の礎を築いていることから、織田信秀がいたからこそ織田信長が勢力を広げれたとも言えます。
ある意味、「この親にしてこの子あり」という言葉の方が正しいかもしれません。
今回は織田信秀について
- 織田信秀の生い立ちとは?
- 織田信秀の経歴や最後は?
- 【エピソード】織田信秀の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば織田信秀の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
一年かぁ。
一年前、何故か忘れたけど(←そんなもんだよねw)暗闇にいたのよね。
大河主役の一報を受け、布団の上で!!!となったことを思い出した今朝。#麒麟がくる #長谷川博己 pic.twitter.com/LiHmHkNCBi— ちゅる (@himemori37) 2019年4月19日
織田信秀の生い立ちとは?
~織田信秀の出自と弾正忠家とは~
織田信秀は永正8年(1511年)に尾張国(愛知県西部)海東郡・中島郡の郡堺にある勝幡城(しょばたじょう)で
- 父は織田信定(弾正忠家の当主)
- 母は含笑院(がんしょういん)
の長男として生まれます。
ここで、織田信秀が生まれた頃の尾張国の情勢について紹介します。
まずは以下の図を見てください。
尾張国の守護には室町時代以降、将軍足利氏の一門にあたる斯波氏が就いていました。
一方、守護斯波氏の代理人である守護代には織田氏がついていました。
しかし、応仁の乱(1467年~1477年)が起こると守護代織田氏は「岩倉織田氏」と「清洲織田氏」に分裂します。
応仁の乱が終結すると幕府の介入によって
-
岩倉織田氏 → 尾張国上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)
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清洲織田氏 → 尾張国下四郡(愛知郡・知多郡・海東郡・海西郡)
と尾張国を半分に分けられそれぞれが守護代となります。
そして、織田信秀は守護代清洲織田氏に仕えていた清洲三奉行の一家にあたる弾正忠家(だんじょうのちゅうけ、清洲織田氏の分家)に生まれます。
また、勝幡城を本拠にしていたことから「勝幡織田氏」とも呼ばれます。
要するに織田信秀ならびに織田信長の家系は家臣の家臣という位置になります。
~織田信秀の父・織田信定の活躍~
家臣の家臣であった弾正忠家が勢力拡大できた要因には
-
尾張守護斯波氏の衰退
-
門前町(寺院や神社の周辺に形成された町)として繁栄していた津島の支配
があります。
中でも、織田信秀の父・織田信定が支配した津島を支配し経済的基盤を手に入れたことは弾正忠家にとって大きな力となります。
また、津島を手に入れた織田信定は勝幡城を築城して拠点とします。
これら、父・織田信秀が行った津島の支配と勝幡城の築城は、織田信秀の勢力拡大への大きな力となります。
織田信秀の経歴や最後は?
~家督相続と那古野城の奪取、そして経済拠点の獲得~
織田信秀は大永6年(1526年)に15歳で家督を譲られ弾正忠家の当主となります。
当主となった織田信秀は若いながら積極的に勢力拡大に動きます。
その最初の目標としたのが尾張国愛知郡那古野(愛知県名古屋市中区)にあった那古野城です。
ちなみにこの那古野城の跡地に徳川家康が築城したのが名古屋城です。
織田信秀が家督を継いだ頃、那古野城には今川氏豊という人物が治めていました。
今川氏豊とは遠江国・駿河国の戦国大名・今川氏親の末子です(兄には今川義元がいます)。
ただ、今川氏豊はまだ若く、織田信秀が那古野城を攻めた天文7年(1538年)にはまだ16歳でした。
この今川氏豊に対して織田信秀は真正面からは攻めず謀略で城を奪取します。
那古野城を手に入れたことで織田信秀は愛知郡(現在の名古屋市)まで勢力を伸ばし、さらに宿場町である熱田(東海道五十三次の41番目)を支配します。
熱田を支配下に入れたことで津島に次ぐ経済的重要拠点を手にれました。
この時点で、すでに主家に当たる清洲織田氏よりも経済面でははるかに上をいっていました。
また、拠点を天文8年(1539年)に古渡城(ふるわたりじょう、名古屋市中区)に移し、那古野城を3男の織田信長に譲ります。
~松平氏・斎藤氏との戦い~
尾張国で次第に勢力を伸ばしていた織田信秀に2人の新たな敵が現れます。
- 三河国の松平清康
- 美濃国の斎藤道三
松平氏との戦い
まず、三河国の松平清康との関係を見てみます。
松平清康はあの江戸幕府を開いた徳川家康の祖父で、織田信秀が15歳で家督を継いだのに対し、清康は12歳で家督を継いでいます。
そして、松平清康は20歳にもならないうちに三河を統一してしまいます(1529年)。
そんな松平清康と織田信秀は戦うことになります。
三河統一で勢いに乗る松平清康は天文4年(1535年)に尾張国春日井郡森山(愛知県名古屋市守山区)に攻めてきます。
しかし、この陣中で松平清康は家臣に殺されてしまいます(守山崩れ)。
一説には織田信秀が松平清康の家臣と繋がっていたともいわれています。
松平清康の死で勢いを失った松平氏を織田信秀は見逃さず、天文(1540年)に松平方の安祥城(あんじょうじょう)を手に入れます。
さらに、天文11年(1542年)には松平氏の援軍として来た今川義元を三河国額田郡小豆坂で破り(第一次小豆坂の戦い)、西三河まで勢力を伸ばします。
斎藤氏との戦い
一方、尾張国の北側にある美濃国では、天文11年(1542年)に守護の土岐頼芸(とき よりあき)が家臣の斎藤道三によって尾張国へ追放される事件がおこります。
織田信秀は追放された土岐頼芸を保護し、同じく追放された土岐頼純を保護していた越前国の朝倉孝景と手を組み美濃国へ出陣します。
そして、斎藤方の大垣城を奪取し美濃国南西部を手に入れます。
これら松平氏と斎藤氏の戦いで勝利した織田信秀は尾張国だけでなく、三河国と美濃国まで勢力を拡大させたことになります。
ただ、織田信秀は守護の斯波氏や主家の清洲織田氏に対しては臣従関係を保っています。
~四面楚歌状態と信秀の死~
織田信秀は順調に勢力を拡大させていきますが、気づいたときには斎藤氏・松平氏・今川氏といった敵に周りを囲まれていました。
天文13年(1544年)にはさらに勢力を拡大するべく、斎藤道三の居城・稲葉山城を攻撃します。
しかし、織田信秀は斎藤軍の前に敗北してしまいます(加納口の戦い)。
加納口の戦いで織田信秀が敗北すると、天文17年(1548年)に犬山城主の織田信清(信秀の甥)が謀反を起こしますが、織田信秀は反乱を鎮圧します。
ところが、この間に奪取した大垣城を斎藤氏に奪い返されてしまいます。
さらに、同年に東から今川軍が進軍してきたため、織田信秀は小豆坂で迎え撃ちますが敗れてしまいます(第二次小豆坂の戦い)。
これ以降、織田信秀は美濃国と三河国での影響力を無くしてしまいます。
そして、天文21年(1552年)に織田信秀は末森城(現・愛知県名古屋市千種区城山町)で42歳で亡くなります。
織田信秀の野望は息子の織田信長へと継承されることになります。
【エピソード】織田信秀の人柄や性格が分かる逸話
ここでは先程少し触れた那古野城奪取の際の謀略について紹介します。
天文7年(1538年)に織田信秀は那古野城を奪取しますが、奪う際に使ったのは相手の趣味でした。
那古野城主の今川氏豊は連歌(れんが)を大変好んでいました。
織田信秀はこの連歌に目をつけ、那古野城で催される連歌会に何日も通います。
すると、今川氏豊は次第に織田信秀を信用するようになっていきます。
ある日、織田信秀は那古野城で倒れてしまい、自分の死期を悟った信秀は「家臣に遺言を言いたい」と氏豊に頼みます。
今川氏豊は信秀の頼みを聞き入れ城内に信秀の手勢を入れます。
しかし、これは織田信秀の仮病を使った策略であり、那古野城に信秀の手勢が入ったその日の夜に火を放ち城を奪います。
これを見ると織田信秀は武力だけでなく知力にも長けていたいたといえるでしょう。
和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を別々の人が詠みます(平安時代末期)。
これを「短連歌」といいます。
そして、鎌倉時代に入ると上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を別々の人が詠むまでは一緒ですが、この後に五・七・五、七・七をさらに続けていき、約百句をもって1作品とします。
この連歌は当時の人たちにとっては、現在で言うところのゲーム感覚であったと言えるでしょう。
ちなみに戦国時代で有名な連歌は、本能寺の変を起こす前に明智光秀が詠んだ「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」が有名です。
まとめ 織田信秀はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで織田信秀について紹介してきました。
まとめてみると
- 織田信秀は織田信長の父だった
- 織田信秀は家臣の家臣でありながら主家よりも勢力を持っていた
- 織田信秀は松平氏や斎藤氏さらには今川氏とも戦った
- 織田信秀は知略にも優れていた
織田信秀が登場する大河ドラマ
- 『国盗り物語』(1973年) 千秋実
- 『徳川家康』(1983年) 伊藤孝雄
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年) 林隆三
- 『麒麟がくる』(2020) 高橋克典(予定)
があります。
とくに2020年の『麒麟がくる』は今までは謀反人として捉えられていた明智光秀が主役という今までに無い大河ドラマでもあるのでぜひ観てみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「織田信秀の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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