新元号が「令和」に決定しました。
この新しい元号は「万葉集」からとられたとされています。
「万葉集」とは日本に現存する最古の和歌集で、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂され、天皇や貴族、また下級官人、防人など様々な身分の和歌が4500首以上収録されています。
その「万葉集」の編纂に関わったとされる大伴家持とはいったいどのような人物なのでしょうか。
今回は大伴家持の
- 生い立ち
- 経歴
- 「万葉集」に収録された和歌
- エピソード
をご紹介いたします。
大伴家持の生い立ちとは
大伴家持は奈良時代にあたる養老2年(718年)頃、官吏であった父・旅人と母・丹比郎女の長男として誕生しました。
父が大宰帥となったため大宰府へ
父の旅人が大宰帥となり大宰府に赴任する際は、母と弟の書持とともにに大宰府へと従えたとされています。
しかし、その後母を亡くしてしまったため、叔母の大伴坂上郎女に育てられたとされ、天平2年(730年)には父や弟とともに帰京しました。
地方への赴任を繰り返す
天平10年(738年)になると内舎人と呼ばれる役職につき、天平12年(740年)には藤原広嗣が政権に不満を持ち兵を挙げ勃発した藤原広嗣の乱の平定祈願するための聖武天皇の伊勢行幸に従えたとされています。
その後
- 天平17年(745年)に従五位下
- 天平18年(746年)3月に宮内少輔
- 天平18年(746年)6月に越中守
- 天平21年(749年)従五位上に昇叙
となります。
この頃になると223首の和歌を詠んでいたとされています。
天平勝宝3年(751年)少納言となり帰京すると、天平勝宝6年(754年)には兵部少輔、天平勝宝9年(757年)には兵部大輔となり、孝謙朝後半になると兵部省の次官を務めるようになりました。
この間、天平勝宝7年(755年)には難波にも赴任しているので、大伴家持は九州へ行ったり越中、難波に行ったりと地方に縁のある人物でした。
橘奈良麻呂の乱の影響で再び地方官となる
天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱において、大伴池主を始め大伴古麻呂や大伴古慈斐などの一族が処罰を与えられることとなりましたが、大伴家持は処罰は免れる結果となりました。
しかし、橘奈良麻呂の乱が影響したのか大伴家持は天平宝字2年(758年)に因幡守に任ぜられ、再び地方官となりました。
橘奈良麻呂の乱とは
橘奈良麻呂の乱とは奈良時代の政変です。
聖武天皇が病に倒れた際、次期天皇に聖武天皇の娘・阿倍内親王(後の孝謙天皇)が決められていましたが、左大臣・橘諸兄の子・橘奈良麻呂はこれに反対し天武天皇の長男・高市皇子の孫である黄文王を次期天皇に擁立しようとしました。
しかし、計画は失敗し聖武天皇が娘である阿倍内親王に譲位し、女帝・孝謙天皇が誕生すると再び黄文王擁立計画を打ち出します。
ですが、この擁立計画は密告を受けることとなり、結果、計画に関係した者たちは処罰を受けることとなりました。
京都にようやく戻るも暗殺計画がばれ、薩摩に左遷される
天平宝字6年(762年)信部大輔となりようやく京都へと戻ることとなりましたが、当時、権勢を振るっていた太師・藤原仲麻呂に対し
- 藤原宿奈麻呂
- 石上宅嗣
- 佐伯今毛人
らとともに暗殺計画を企てます。
しかしこの暗殺計画は密告され計画は露見となり、天平宝字7年(763年)になると大伴家持ら4人は捕らえられてしまいました。
この際、藤原宿奈麻呂が暗殺計画の主犯者として名乗り出たため、大伴家持は罪に問われませんでしたが、暗殺計画が影響し天平宝字8年(764年)正月には薩摩守へ左遷される結果となりました。
ようやく京都に戻っていたにも関わらず暗殺計画がばれてしまったため左遷されてしまったのです。
順調に昇進をかさねる
神護景雲4年(770年)9月に称徳天皇が崩御すると、大伴家持は左中弁兼中務大輔に就任します。
その後、光仁天皇が即位すると式部大輔・左京大夫・衛門督などを務め
- 宝亀2年(772年)には従四位下
- 宝亀8年(777年)には従四位上
- 宝亀9年(778年)には正四位下
- 天応元年(781年)には従三位
と順調に昇進となります。
蝦夷の討伐の責任者である持節征東将軍に任命
桓武朝にはいると天応2年(782年)正月、氷上川継の乱に関与したとして解官されます。
大伴家持の最期
- 持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国
- 平安京
このどちらかの場所で亡くなったと推測されています。
歌人としての才能を持っていた大伴家持
大伴家持は和歌の才能も持ち合わせており合計473首の長歌や短歌が「万葉集」に収録されています。
By ReijiYamashina – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
万葉集とは
「万葉集」とは奈良時代末期に編纂されたとされる現存する日本最古の和歌集です。
全20巻の和歌集とされ、4500首以上の和歌が収録されています。
「万葉集」は
-
相聞歌:恋の和歌が集められたもの
-
挽歌:死者を弔うための和歌
-
雑歌:相聞歌、挽歌以外で自然や宮廷のことなどについて詠んだ和歌
この3つに分類されていますが、14巻だけは東歌(東国各地の和歌)が収録されています。
また
- 天皇
- 貴族
- 下級歌人
- 防人
など様々な身分の和歌が収録されました。
方言が使用された和歌も多く収録されているので、方言学の資料として「万葉集」は大変貴重な資料となっています。
一般的に大伴家持が「万葉集」の編者とされている
「万葉集」から引用された新元号「令和」
新元号である「令和」が発表されました。
この元号は
人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ
といった意味が込められています。
「万葉集」の「梅花の歌」三十二首の序文である
天平二年正月十三日 師の老の宅に萃まりて宴会を申く。時に初春の令月にして気淑く風和ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫す。
が出典とされていますが、実はこの序文を考えた人物は大伴家持の父である大伴旅人なのです。
令和と万葉集の関係は?意味と由来、歌や作者の解説をわかりやすく簡単に説明
大伴家持の逸話
藤原種継暗殺事件に関与していたため、埋葬を許されなかった
大伴家持の死後、造営中であった長岡京で藤原種継暗殺事件が勃発しました。
この藤原種継暗殺事件とは延暦4年(785年)9月23日夜、長岡京遷都の監督を行っていた藤原種継が何者かに矢で射られ翌日に亡くなったという事件です。
暗殺犯としてあげられた大伴竹良らがすぐさま捕縛され、その後に行われた取り調べで大伴継人・佐伯高成らの十数名も捕縛され斬首となりました。
その際、事件直前に亡くなっていた大伴家持も事件に関与していたとされ、すでに亡くなっていましたが官籍から除名されました。
それだけではなく
- 埋葬を許してもらえない
- 息子・子の永主は隠岐国へと流される
と追罰を受けることとなります。
しかし大伴家持は没後20年以上が経過した延暦25年(806年)に恩赦を受けて従三位に復しました。
大伴家持が詠んだ和歌
大伴家持が詠んだ和歌を少しご紹介します。
振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも
この和歌は「空を仰いで三日月を見ると、一目見たあの女性を思い出します」といった意味です。
大伴家持が16歳の時に詠んだ和歌で、大嬢と呼ばれる女性にあてた和歌とされています。
この大嬢と呼ばれる女性に恋していた大伴家持でしたが、大嬢は大伴家持の父・旅人の妹の娘であったため従妹にあたる女性でした。
大伴家持は16歳でこんな色っぽい和歌を詠んでいたのですね…
新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
「万葉集」に収録されている1番最後の和歌です。
「新年、初春の今日降る雪のように、良いこともたくさん積もりますように」といった和歌です。
昔の人も今と同じように、「今年もいいことがありますように」と思っていたのですね。
まとめ:「万葉集」の編纂に関わった大伴家持の経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い
By 狩野探幽 – http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/houmotsu_2009.html, パブリック・ドメイン, Link
「万葉集」の編纂に携わった大伴家持の生い立ちや経歴、エピソードなどについてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 大納言・大伴旅人の息子
- 武門出身で昇進を繰り返し中納言まで昇りつめた
- 和歌の才能があり、合計473首の和歌が「万葉集」に収録されている
- 一般的に「万葉集」の編者と考えられている
- 死後、藤原種継暗殺事件に関わったとして埋葬を許されなかった
大伴家持は「万葉集」の編者として有名な人物ですが、実は中納言にもなった高級官吏でした。
大伴家持のことをもっと深く知りたいと思った人は
- 中西 進さんの「大伴家持―万葉歌人の歌と生涯 」
- 藤井 一二さんの「大伴家持 – 波乱にみちた万葉歌人の生涯」
がおススメです。
これを機に大伴家持に興味を持った方はぜひ、「大伴家持―万葉歌人の歌と生涯」「大伴家持 – 波乱にみちた万葉歌人の生涯」を読んでみてください。
以上「「万葉集」の編纂に関わった大伴家持の経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」のご紹介でした。
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