徳川200年余りの平穏が破られるような大事件を起こした大塩平八郎。
幕府のお役人だった大塩が大変なことをやってしまったのです。
今日は、とんでもない実行力で、幕府の安定を脅かすことになった大塩平八郎について紹介します。
- 大塩平八郎の生い立ちと経歴
- 大塩はなぜ,乱を起こしたのか?
- 逸話からわかる大塩平八郎の性格
- 壮絶な大塩の最期から見えるものは?
など、「大塩平八郎の乱」の背景にあったものをいろいろ解き明かします。
こちらを読めば、大塩平八郎の生涯やその人物像がわかり、教科書ではほんの2,3行の出来事がどんどん広がって、リアルに感じられます。それが歴史を紐解く醍醐味です。
ぜひ最後まで読んでくださいね。
大塩平八郎の生い立ちと生涯
大塩平八郎は、寛政5年(1793年)大阪で生まれました。
大塩家は代々大坂町奉行与力の家柄で、比較的裕福な家でした。
幼い時に父母ともなくなったため、祖父母に育てられました。
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文化15年(1818年) 見習いを経て、正式な与力になる
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文政8年(1825年) 私塾『洗心堂』を開き、陽明学などを教える
当時、流行っていたのは、上下関係を重んじる朱子学という学問で、陽明学は異端の学問だと危険視されていました。
そんなことなど気にもせず、大塩は独学で学んだ陽明学を弟子たちに講義しています。
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文政13年(1830年) 奉行所与力を辞め、家督を養子の格之助にゆずる
隠居したのは、大塩が33歳の時です。
まだまだ若くこれから働き盛りというときでしたが、奉行所内の汚職や破戒僧(戒律を破った僧のこと)などを次々と、容赦なく摘発していったために、何らかの理由を付けて辞めさせられたのです。
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天保4年(1833年)~天保10年(1839年) 天保の大飢饉
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天保7年(1836年) 跡部良弼(あとべよしすけ)が大坂町奉行になる
天保の大飢饉は、江戸や大阪、京の町でも毎日餓死者が百人単位で出る程ひどいものでした。
大塩は、大坂西町奉行の矢部定兼(さだかね)や内山彦四郎らと協力して飢饉に苦しむ大阪の人々を救う政策を取ってきました。
しかし、矢部の跡に町奉行となった跡部は、大塩が提案する救済政策をことごとく拒否します。
飢饉で苦しむ人々はどんどん増えていきました。
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天保8年(1837年) 乱を起こすが、失敗し自決する
大塩は、民衆のために立ち上がったのですが、わずか半日で鎮圧されてしまいました。
大塩平八郎はなぜ乱を起こしたのか?
一般的に「大塩平八郎の乱」は、大塩が民衆を救う為に起こしたものだと言われています。
もちろんそういう一面もありますが、他にも理由はあったのです。
大坂町奉行の跡部は、当時の幕政を仕切っていた老中水野忠邦の弟でした。
そのためか、跡部は大坂よりも江戸の顔色ばかりを見ているような態度がありました。
飢饉で苦しむ大阪の人を放っておいて、江戸に米を送っていたのです。
大塩が意見しても聞かず、大坂の民衆を見ていないような政策ばかり取る跡部。
大塩は自宅にあった数万冊の書物を全て売り払って、民衆を救おうとしましたが、焼け石に水です。
「このままでは、大坂の人々は救われない」
大塩はついに決意します。
罪に問われないように妻と離縁をし、自宅や家財を売って、大砲や火薬などを買いこみ、門弟らに軍事訓練を行います。
商人を襲う打ちこわしの対策のためと報告をしていたので、奉行所も気が付きません。
大塩は、自分の意見を全く受け入れない跡部を殺して、幕府に訴えようと考えていました。
ですが、準備が整う前に内部からの密告により、計画がばれてしまいます。
仕方なく大塩は、自宅に火を付けて「救民」の旗を掲げて、暴利をもさぼる商人や救済に協力しなかった人たちの家を放火してゆきました。
このとき大阪の町は5分の1ほどが焼けてしまいました。
大塩に賛同して行動を共にする民衆は、約300人。
ですが、幕府が相手では勝ち目がありません。
乱を起こしてたった半日で鎮圧されてしまいました。
養子格之助と共に協力者の家にかくまわれていた大塩ですが、
潜伏先の女中が、いつもより2人分余計に食事を作るのを不審に思い、密告してしまいます。
潜伏先は、奉行所に包囲されてしまいます。
大塩平八郎と格之助は、潜伏先の家を爆破、2人とも爆死しました。
大塩は、潜伏する前に密かに跡部をつけ狙い、暗殺しようとしています。
大塩の乱の最重要の目的は、跡部の暗殺だったのです。
その先には、民衆を助けるという目的はありましたが、大塩自身の個人的な跡部への恨みも乱を計画する一つのきっかけになっていたのです。
逸話からわかる大塩平八郎の性格とは?
大塩平八郎の逸話には、大塩の異常な厳格さが伝わる話が多くあります。
学者仲間の頼山陽から「君は短気すぎるから、外を歩くときは、刀を持ち歩かないほうがいい」と注意されています。
そのうち刃傷沙汰を起こすのではないかと、周りの人々から心配されるほど怒りっぽい人だったのですね。
また、『洗心堂』の講義は朝の5時から始めていました。教えられる方は大変ですね。
その上、講義中の大塩は、塾生が目を合わすことができないほど怖かった人でした。
頑固おやじにもほどがありますね。
重ねてその上に大塩の身長は217cmもありました。
当時の人にとっては、すごい大男です。
怖いが2重3重になって襲ってきそうです!
大塩平八郎が信奉していた陽明学の有名な教えに、
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心即理:心に浮かんでくるものを大事にし
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知行合一:良いと思ったことは行動に移さなければ意味がない
というものがあります。
厳格すぎる大塩が、この教えを実行したら、もう大変です!
民衆のためになることや悪い人を罰しているのですから、大塩には揺るぎない自信があります。
でもいいことをしていても、あまり強引だと人は付いてゆけないものなんです。
人を指導し育て、共に行動してもらうためには、未熟な相手でもいいところを探し、認める包容力が必要です。
正しいことをしていると自負している大塩には、そういう包容力は持ち合わせていなかったのでしょう。
内通者が出たのも、大塩の行き過ぎた言動に心が離れた人がいたのかもしれません。
歴史に「もしも」は禁物ですが、
もしも大塩平八郎に厳格さと同じくらいの包容力があったら、内通者などなくクーデターは無事成功していたのかもしれませんね。
大塩の壮絶な最期には意外な産物があった
大塩平八郎は、奉行所の役人に囲まれ、養子格之助と共に爆死します。
遺体は、判別がつかないくらいになっていました。
それは後々、大塩生存説がまことしやかにささやかれる原因となっています。
爆死したのち、生存説が出る・・・。
歴史好きならピンときますね。
源義経と織田信長です。
どちらも遺体が確認されていません。
その後、生存説があちこちで出ました。
人々にとって生きていてほしいと願うほどの人だからこそ生存説が出るのです。
身近な人に取っては超厳しい頑固おやじでも
大塩平八郎は、民衆にとってはやはり英雄だったのです。
大塩の死後、寺子屋では大塩が乱を起こす前に書いた檄文(決起を促す手紙)を写したり、お祭りで大塩の真似をしています。
乱の残党を名乗って一揆をおこすひとびとも現われました。
真面目過ぎた頑固者が起こした乱は、結局民衆に何を遺したのでしょうか?
幕府への不平不満を持っていた民衆にとって大塩平八郎の乱は、さぞ胸がスッとするじけんだったのでしょう。
大塩平八郎の乱は、たった半日で終わりましたが、その影響は幕府にとっては予想以上に大きかったのです。
これが”幕末に向かう始まり”となってしまうのです。
まとめ:大塩平八郎の生涯と意外なエピソードを紹介
今回は、大塩平八郎の生い立ちと経歴、逸話について紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 大塩平八郎は大坂西町奉行の与力だった人
- 大塩平八郎は非常に厳格で超真面目な人
- 大塩平八郎が乱を起こしたのは救民以外にも理由があった
- 大塩平八郎の乱は幕府に大きな精神的打撃を与えた
超厳しい頑固者、大塩平八郎の怒る姿がリアルに想像できましたか?
大塩平八郎をもっと知りたい人には、こちらがおすすめです。
- その時歴史が動いた 役人の不正 許すまじ ~大塩平八郎 決起の時~ NHK2002年放送
- 歴史にドキリ 大塩平八郎~庶民の反乱~ NHK2014年放送
どちらもNHKの歴史情報番組です。
「歴史にドキリ」は、歌舞伎俳優の中村獅童さんが歴史上の人物に扮して、その人物の目線に立って深く掘り下げていく番組です。
とてもわかりやすくて興味深く見られますよ。
- 大塩平八郎 森鷗外 1914年
史実に基づいて、時間経過と共に大塩の乱を描いています。鷗外の私見も入ったドキュメンタリーのような作品で、歴史上で知られている大塩平八郎とは違った一面が取り挙げられた作品です。
以上「大塩平八郎の生涯とその最期、逸話からわかる人物像」でした。
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