新選組最期の局長、相馬主計(かずえ)と聞いて
「ああ!知ってる」
と思った人は、相当な新選組ファンです。
「名前だけは聞いたことあるかも」
あの「薄桜鬼 真改」に登場していますからね。
今回は相馬主計について紹介します。
- 相馬主計の生い立ちと新選組入隊の時期について
- 相馬主計のエピソードからわかる人となり
- 相馬主計の生涯と最期の謎とは?
NHKの「土方歳三最期の一日」では、小橋賢児さんが冷静で有能な若きリーダーとして演じておられました。
こちらを読めば、このドラマももっと楽しく見られます。
では、謎多き相馬主計の生涯と最期をじっくりと紐解いてみましょう。
あなたも一緒に相馬主計の生涯と追ってみてください。
とうらぶの活撃というアニメで箱館戦争をやってたらしいですが
土方歳三に興味を持った方は是非「新選組! 土方歳三最期の一日」を見てください是非見てください、ただし色々覚悟してみてください
私は視聴後一週間生活に支障を出すほどの衝撃を受けました pic.twitter.com/yasiit0oob— かいま (@akabareyada) 2017年9月26日
相馬主計の生い立ちと新選組入隊
相馬主計が生まれた年は、はっきりとわかっていません。
天保6年(1835年)とも天保14年(1843年)とも言われていますが、もし天保6年なら土方歳三と、天保14年なら沖田総司の1つ下だったことになります。
常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の舟橋平八郎の子として産まれています。
- 慶応元年(1865年) 笠間藩を脱藩
- 慶応2年(1866年) 第二次長州征伐に従軍
このときは、三津浦(愛媛県松山市)に駐屯しています。ところが、14代将軍徳川家持の急死により、長州征伐は中止になりました。
新選組に入隊する
新選組に入隊したのは、これより後ですが、正確な入隊月などはわかっておりません。
永倉新八の「新選組顛末記」などによると、慶応3年(1867年)秋以降と考えられております。
この頃に書かれた新選組の名簿に初めて相馬の名前が載っています。
新入りの隊士の始めの身分、局長付きの一人として書かれています。
新選組のエピソードでわかる相馬主計の人物像
入隊後の相馬主計は、めきめきと頭角を表しています。
- 慶応3年(1867年)12月 紀州藩士三浦久太郎の警護にあたる(天満屋事件)
- 慶応4年(1868年)1月 局長付き組頭として鳥羽伏見の戦に参戦する
入隊後半年足らずで局長付き約50人の長に選ばれることから、相馬の力量の大きさがわかります。
近藤勇の救出
鳥羽伏見の戦後、江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊として勝沼で戦った時も局長付き組頭として近藤勇の側に従っていました。
- 慶応4年(1868年)4月3日 流山(千葉県流山市)にて近藤勇が捕縛される
相馬は、近藤の救出に向かう土方歳三に同行し、江戸へ向かいます。
土方は、勝海舟と面談し、近藤救出の協力を願います。
このときの話し合いがどのようなものかは伝わっていませんが、勝海舟は新選組が薩長軍との平和的な解決の邪魔になると考えていた可能性があります。
江戸の戻って来た新選組をわざわざ勝沼まで出向かせて戦をさせ、再び江戸へ戻ってくると今度は流山へ追いやるかのような命令を出しているのです。
ですので、勝海舟が積極的に近藤の救出に協力する気はなかったのです。
土方にそう言ったのか、土方には「わかった」と言いながら大した行動を起こさなかったのか。
どちらにしても、勝海舟は新選組のためにはほとんど動いていません。
このとき勝がしたのは、部下に近藤助命の手紙を書いてやれと言ったことくらいです。
相馬は、近藤助命嘆願の手紙を持って新政府総督府へ向かいました。
しかし、新政府の新選組への恨みは大きく、そのような願いが聞き届けられることなどありません。
助命嘆願により、処刑を免れる
相馬は、近藤捕縛の時に同行し捕縛されていた野村利三郎と共に処刑されることが決定します。
- 慶応4年4月25日 近藤勇 板橋にて斬首される
相馬は、処刑されませんでした。
近藤の命がけの助命嘆願により、野村と共に釈放されました。
陸軍隊に参加し、奥州を転戦
それからしばらく二人の消息は途絶えます。
同年6月ごろ相馬と野村は、春日左衛門が率いる陸軍隊に参加し、奥州を転戦します。
陸軍隊での相馬は、「相当な器量の者である」と評されています。
多くの戦の中で大きな働きをしていたことがわかります。
- 慶応4年9月 仙台にて土方歳三と再会
土方に再会したのちも、相馬と野村は新選組に合流せず陸軍隊として北行します。
- 明治元年(1868年)10月 蝦夷地(北海道)に上陸
蝦夷地でも、相馬はその器量の大きさを発揮しています。
- 明治2年(1869年)陸軍奉行添役として再び土方の指揮下に入る
- 同年 3月 宮古湾海戦に参加
宮古湾の海戦は、当時最強の軍艦甲鉄艦に斬り込んで乗っ取ろうという大胆な作戦でした。
しかし失敗してしまいます。
この戦で相馬は負傷し、板橋以来を共にしてきた戦友の野村利三郎が戦死しました。
新政府軍による箱館総攻撃
- 同年5月11日 新政府軍による箱館総攻撃が始まる
相馬は、新選組の島田魁らとともに弁天台場で戦います。
しかし、新政府軍の猛攻に合い、孤立状態になってしまいました。
14日になり、相馬は、五稜郭に立てこもっていた榎本武揚のもとへ行きます。
降伏か否かの意志を確認するためでした。
このとき相馬は、土方の戦死を知ります。
榎本の徹底抗戦の意志を確かめると相馬は再び弁天台場へ戻りました。
相馬主計が新選組隊長だったのは、たった3日間だけ
このとき同道した薩摩藩士が、弁天台場の籠城をねぎらったのですが、それに対し相馬は、こう言っています。
「弁天台場には食べ物はあるのだが、別れの杯をするための酒がないのが残念だ。出来れば酒を1樽送ってほしいものだ」
死を覚悟した武士のなんと清々しく粋な言葉でしょうか。
この言葉に応え、薩摩軍からは酒と生魚の差し入れがありました。
弁天台場は、必死の抵抗を続けましたが、5月15日、とうとう恭順することに決定しました。
この日、相馬は新選組の隊長を命じられます。
それは、新選組がやって来たことに対しすべての責任を負うということです。
おそらく過酷な結果が待っていることは、相馬にもわかっていたでしょう。
でも相馬は新選組の隊長になり,名を主殿(とのも)に改めています。
己の覚悟の表れだったのでしょう。
5月18日 五稜郭開城。箱館政府は新政府軍に降伏しました。これにより新選組も終わりました。
相馬主計が新選組隊長だったのは、たった3日間だけでした。
明治以降の相馬主計 謎に包まれた最期とは?
相馬は、榎本武揚らとともに東京へ送られ、当時は新選組が犯人だと思われていた坂本龍馬暗殺と、先に投獄されていた旧新選組隊士大石鍬次郎の自供により伊東甲子太郎暗殺の容疑をかけられました。
その結果、相馬は伊豆諸島新島へ島流しの罪となります。
新島では、大工の棟梁植村甚兵衛に預けられました。
相馬はそこで、寺子屋を開き、島民たちに読み書きを教えながら暮らしました。
大工仕事の技術を習得していた相馬主計
そんな中、相馬の世話をしていた植村家の次女マツと恋仲になり、結婚することになります
夫婦の生活場所は、相馬が与えられていた部屋では狭いと、植村家で増築をすることになりますが、相馬は自分で設計し、大工仕事もこなしたというエピソードが残っています。
相馬は大工仕事の技術をどこかで習得していたらしく、島の大工たちにもその技術を教えたので、とても喜ばれました。
明治政府の役人として新政府に仕える
新島での相馬は、命を削って生きてきた新選組時代の数年間とはうって変わって穏やかな毎日を過ごしていました。
- 明治5年(1872年) 赦免され、東京に戻る
相馬は妻と共に島を出ますが、島民たちは人望熱い相馬との別れを大変惜しみました。
東京に戻った相馬は、妻マツと共に蔵前に住み、明治政府の役人として新政府に仕えることになりました。
ですが、明治8年(1875年)突然役人を辞めています。原因はわかりません。
新選組の元隊士たちが苦しい思いをしている中、自分だけは安穏と暮らしていることを非難されたとも、元薩長藩士と揉めたとも言われていますが、本当のところははっきりしていません。
自害し亡くなる
それからしばらくたったある日、相馬は、妻が出かけている間に腹を切って自害してしまいました。
相馬が自害した日時などは、一切伝わっていません。
妻のマツに、一切他言無用と言い残していたためです。
なぜ突然自害したのか、なぜ秘密にする必要があったのか、一切わかりません。
新選組のすべての責任を負わされることを覚悟の上、最後の局長となり、刑に服した相馬主計。
その最期により、新選組の終焉を演じたのかもしれません。
まとめ:相馬主計の生涯とエピソードから見る人となり
今回は相馬主計の生涯を紹介しました。
簡単におさらいしましょう。
- 相馬主計は新選組最期の局長
- 相馬主計は新選組の積を全て被って流罪になった人
- 相馬主計は大きな器の人望がある人
- 相馬主計の最期は謎に包まれた自害
新選組ではそれほど注目された人物ではありませんが、もっと早くに新選組に入隊していれば、土方の右腕になっていたかもしれないほどの人です。
まだ資料が少なくて謎の多い人ですが、フィクションの世界では活躍著しいようですね。
イケメンだらけの新選組にも登場しています。
- 薄桜鬼 真改 2015年
薄桜鬼のリメイク版から登場しています。やはりイケメン。
- 北走新選組 菅野文 2004年
戊辰戦争での新選組を描いた漫画。相馬主計・野村利三郎・土方歳三にスポットが当たった珍しい作品です。
- 本懐に候 山本音也 2012年
相馬主計と土方の最期をみとった安富才助を描いた小説です。明治以降の相馬主計の心境が想像できる興味深い作品です。
以上「相馬主計の生涯と逸話からわかる人物像」でした。
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