柳沢吉保はどんな性格の人物?生い立ち・エピソードと逸話が面白い

柳沢吉保といったら、あなたはどんなイメージがありますか?

一般的には将軍の寵愛をいいことに、好き放題しながら立身出世したというダークサイドの人と考えられていましたが、最近では少し変わってきています。

よしながふみさんの「大奥」が少なからず影響しているようですね。

また、ドラマ「大奥 華の乱」で北村一輝が演じた悪役のようでそれだけではない、何か切ない思いを感じさせる柳沢吉保も大きいでしょう。

今回は

  • 柳沢吉保の生い立ちと経歴とは
  • 柳沢吉保のエピソードからわかる出世の秘密
  • 逸話から見る柳沢吉保 ホントはこんな人物だった

多くの小説やドラマなどで欠かせないわき役のような存在感を放っている柳沢吉保の教科書ではわからない意外な姿を紹介します。

こちらを読めば、柳沢吉保の生い立ちや経歴、興味深い逸話がわかります。

徳川綱吉や大奥の別の一面も見えて、ドラマが一段と楽しく見られます。

ぜひ最後まで読んでくださいね。

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柳沢吉保の生い立ち・経歴について

柳沢吉保は、万治元年(1658年)江戸の市ヶ谷にて上野国館林(たてばやし)藩士柳沢安忠の長男として生まれます。

柳沢家は、武田家の一門でしたが、戦国時代武田家が滅亡したのちは、徳川家康が旧武田家臣を召し抱えたためにそれ以降は、徳川家臣となっています。

吉保は何度も改名をしていますので、こちらではわかりやすく吉保で統一しますね

側室の子供であったが家督を継ぐ

吉保は長男でしたが、側室の子でしたので家督は姉の婿が養子入りして継いでいます。

しかしなぜかその後、吉保が家督を継ぐことになりました。

  • 延宝3年(1675年) 吉保、家督を相続する

徳川綱吉に小姓として仕え、大出世を果たす

この頃に吉保は、舘林藩主だった徳川綱吉に小姓として仕えました。

  • 延宝8年(1680年) 徳川綱吉が5代将軍となり、吉保も幕臣となり小納戸役に任じられる
小納戸役(こなんどやく)とは、将軍の側近くで身の回りの世話をする役割です。

将軍と接することも多いため、能力や機知に優れていると出世に繋がりやすい地位でした。

  • 元禄元年(1688年) 将軍親政のために新設された側用人に就任 1万2千石の大名になる
  • 元禄3年(1690年) 老中格になる
  • 元禄17年(1704年) 将軍綱吉の後継として甲府藩主徳川家宣が決まる
  • 同年       家宣の後任として吉保が甲府藩15万石の藩主となる

甲府(山梨県甲府市)は、江戸防衛の要所として徳川一門にしか与えられない土地でした。

綱吉の吉保への信頼の深さが伺えます。

  • 宝永元年(1706年) 大老格となる

吉保は、とうとう幕閣のトップに立ったのです。

これは、吉保自身の能力はもちろん、綱吉という大きな後ろ盾があったからこその大出世でした。

  • 宝永6年(1709年) 徳川綱吉が薨去(こうきょ)
  • 同年      幕府の役職を辞し、家督を長男の吉里に譲る
  • 正徳4年(1714年) 別荘だった六義園(りくぎえん:東京駒込)で亡くなる

吉保は、綱吉死後すぐに幕府から身を引いて隠居しました。

家督を継いで吉里も幕閣に入ることなく、甲府藩の内政に力を注いでいます。

いつまでも見苦しく自分の立場に居残ろうとする権力者が多い中、吉保は見事な引き際を見せました。

柳沢吉保のエピソードからわかる大出世の理由

柳沢吉保が、わずか500石の藩士から15万石の大名に出世したのは、一体なぜでしょう。

吉保の自身の努力はもちろんのこと、一番大きな理由は将軍綱吉の寵愛です。

徳川綱吉が吉保をこれほどまで寵愛した理由

ですが、なぜ綱吉はこれほど吉保を寵愛したのでしょうか。

徳川綱吉は、感情の起伏が激しくわがままな人でした。

こういう性格の人は人の好き嫌いも激しいものです。

そんな綱吉の信頼を勝ち取った吉保とは、どんな人だったのか。

それがわかるエピソードをいくつか紹介しましょう。

吉保は側用人として綱吉に仕えているころは、武蔵国川越藩主でした。

綱吉のわがままを受け入れながら幕閣の一員として激務を果たしていた一方で、領地の新田開発などを進めています。

甲府藩主になってからも吉保は、自分が甲府へ行くことはありませんでしたが、家臣に様々な指示を出しています。

城下町の整備・検地・用水路整備・貨幣の鋳造などこれにより、実質的な減税を実現させたりしていましたので、藩内での吉保の評判はとてもよかったのです。

吉保には政治的手腕以外にも高い教養がありました。

儒学を重んじていた綱吉の文治政治を進めるために、荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの儒学者を召し抱えています。

俗説ですが、綱吉の愛妾を吉保が拝領され、側室として世話をしていたとか、吉保の子吉里は、実は綱吉の隠し子だったという話もあります。

真偽のほどはわかりませんが、そのようなうわさが出る程吉保と綱吉の絆は深かったのです。

いくら主君でも許せないこともあったのではないかと想像しますが、吉保は綱吉の気まぐれやわがままを受け入れ続けるというとんでもなくタフで懐が深すぎる人だったのです。

 

これが綱吉の寵愛を一身に受けることになる大きな理由です。

柳沢吉保の逸話から探るもう一つの人物像

綱吉の寵愛により立身出世を果たした吉保。

そんな吉保を周りの人たちはどう思っていたのでしょうか。

よくある妬みや嫉みはあったのでしょうか。

ドラマでは、人を押しのけて出世していく吉保を何とか貶めようとする老中やほかの幕閣連中などが話を盛り上げてくれますが、実際はそうでもなかったのです。

他の老中がねたんでいたという記録は、ほぼありません。

どちらかと言えば、穏便な関係を保っていました。

もちろん表面上のことだけなので、胸のうちはわかりませんが。

このように穏便な関係を持てたのは、吉保の私利私欲のない行動の賜物です

吉保は、甲府藩主になる数年前に武田信玄の次男の子孫武田信興(のぶおき)を綱吉に引き合わせて高家(こうけ)として再興させます。

高家とは、幕府の儀式などを担当する家柄のことです。

赤穂浪士の事件で有名な吉良上野介は高家筆頭でした。

赤穂浪士の吉良家討ち入りは元禄15年(1703年)末のことですので、もしかしたら、討ち入り後に吉良家断絶に応じての動きだったのかもしれません。(あくまでも私の想像です。でもそうなら吉保はすごいですね)

高家となった武田家は、その後数回柳沢家から養子を迎えています。

武田家再興の恩を感じてのことでしょうか。

武田家の旧家臣が、旧主君の子孫を救うという美談を表立ってけなせる人はさすがにいなかったでしょう。

また、甲府藩主になってからの吉保も見事です。

先程紹介したような藩政改革と共に武田信玄の百三十三回忌法要を営むと同時に、自分が旧武田家臣の子孫であることを強調しています。

これで武田信玄を慕っている甲府の人々には十分な好意を持たれます。

自分の領地をしっかりと治めることは、政治に携わる人間としてとても重要な事でした。

吉保は、ただ綱吉の寵愛を受ける方法ばかりを考えていたわけではなく、藩主としてもすぐれた人物だったのです

その姿勢は、子孫にも受け継がれ、柳沢家は目立つこともない代わりに大きな災難もなく、無事に幕末を迎えています。

一度でも幕府のトップに立ち、権力を持った人たちの多くが、後ろ盾である将軍が亡くなるとともに悲惨な末路を迎えることが多い中、柳沢吉保は本当にスマートで潔い去り方をしました。

まとめ:柳沢吉保の人物像と生涯を逸話とエピソードから見る

今回は、柳沢吉保について紹介しました。

ドラマとは違った吉保像を簡単にまとめておきましょう

  • 柳沢吉保は徳川綱吉の寵愛を受け大出世した人
  • 柳沢吉保は領民に慕われた藩主だった
  • 柳沢吉保は立ちまわり方が上手な人
  • 柳沢吉保は引き際まで見事だった

柳沢吉保のイメージがすっかり変わったのではないでしょうか。

今までの小説やドラマもこれからはまた違った見方ができて楽しいですよ。

最後におすすめの柳沢吉保作品を紹介します。

漫画

  • 大奥 2004年~ よしながふみ

ドラマ化、映画かもされた作品です。江戸時代をモデルとして男子のみがかかる謎の疫病により幕府内の構図が男系から叙景へと変化するという時代劇フィクションです。

テレビドラマは家光の時代を、映画は綱吉と吉宗の時代を実写化しています。

映画

  • 大奥~永遠~ 2012年12月公開 尾野真知子演

ドラマ

  • 大奥~華の乱~  2005年 フジテレビ 北村一輝演
  • 大奥華の乱スペシャル 2005年 12月 フジテレビ 北村一輝演
  • 元禄太平記 1975年 NHK大河 石坂浩二演

個人的に印象深いのは、やはり北村一輝さんのふと見せる切なさをまとった吉保です。この「大奥~華の乱~」はじめて柳沢吉保に興味を深く持ったので、ちょっと思い入れがあります。

以上「柳沢吉保の生涯と逸話から見る人物像」でした。

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