山名宗全の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは山名宗全という人物をご存知ですか?

山名宗全は、戦国時代の幕開けとされる応仁の乱で西軍を率いた総大将です。

政敵である管領・細川勝元と幕府の主導権を巡り争いました。

策謀家であった細川勝元とは違い、直情径行(感情のままの言動)な性格の持ち主でもありました。

今回は山名宗全について

  • 山名宗全の生い立ちとは?
  • 山名宗全の経歴や最後は?
  • 【エピソード】山名宗全の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば山名宗全の生涯や逸話がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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山名宗全の生い立ちとは?

山名宗全は応永11年(1404年)に但馬国(兵庫県北部)で

  • 父 山名時熙(ときひろ)
  • 母 山名氏清の娘(父・時煕の従姉妹)

の三男として生まれます。

山名宗全とは出家後の法名で、元々の名を山名持豊といいます。

※今回は山名宗全で紹介していきます。

山名氏は清和源氏の一家系である新田氏の分家

山名宗全が生まれた山名氏は清和源氏の一家系である新田氏の分家です。

※清和源氏は源頼朝や足利尊氏といった鎌倉・室町幕府の将軍を輩出しています。

山名氏は鎌倉時代から続いている名門で室町幕府第2代将軍・足利義詮の時代には四職の1つに数えられました。

また、山名宗全の祖父・山名時義の時には山名氏一族が全国66ヶ国のうち11ヶ国の守護職を得ていたことから「六分一殿」と呼ばれていました。

そんな山名氏に生まれた山名宗全は、応永20年(1413年)に10歳で元服し、4代将軍・足利義持から「持」の字を賜り山名持豊と名乗ります。

山名宗全の経歴や最後は?

~兄との家督争い~

応永27年(1420年)、山名宗全が16歳の時に事件が起こります。

山名氏の後継者となっていた長兄の山名満時が24歳で亡くなったのでした。

兄の死によって、この時16歳だった山名宗全は次兄の山名持熙(もちひろ)と後継を巡って争うことになります。

そして、応永35年(1428年)に父の山名時熙が重病になると、時熙は山名宗全を後継に選びました。

これによって山名氏内の問題は一件落着だと思われましたが、ここへ来て新たな問題が発生します。

6代将軍・足利義教が山名氏の後継争いに介入し、近習(主君の近くにいる者)でもあった山名持熙を後継とするように命令してきたのです。

※6代将軍・足利義教はくじ引きで将軍になった人物です。

足利義教 Wikipediaより

将軍の命令には山名氏当主であった山名時煕でも逆らうことはできませんでしたが、永享3年(1431年)に時煕の病状が回復すると後継問題は先送りになりました。

ところが、同年に山名持煕が将軍・足利義教の怒りを買って廃嫡され追放されると、永享5年(1433年)に山名宗全は29歳で家督を継ぎます。

三男として生まれながら、兄の死や廃嫡によって当主となった山名宗全は、以後は幕府内での権力争いに身を投じていくことになります。

~兄・山名持煕と赤松満祐を討伐する~

永享7年(1435年)に父の山名時熙が亡くなると、2年後の永享9年(1437年)に追放されていた次兄の山名持熙が宗全の家督相続に不満を表し備後国(広島県東部)で挙兵します。

山名宗全はこれを鎮圧し、次兄・山名持熙を討ち取りました。

山名宗全は永享11年(1439年)に正四位下左衛門佐に任命され、翌年には幕府侍所の頭人(長官)と山城守護になります。

嘉吉の乱が勃発

嘉吉元年(1441年)6月に6代将軍・足利義教が播磨国(兵庫県南西部)の守護大名・赤松満祐によって暗殺されるといった事件が起こります(嘉吉の乱)。

赤松満祐は山名宗全と同じ侍所の頭人でしたが、足利義教の独裁に不満を表し、満祐は義教を自分の屋敷に招き暗殺したのです。

※足利義教は有力守護大名の守護職を剥奪するなど強硬政策を行っていました

この際に、山名宗全は足利義教と共に赤松満祐の屋敷に訪問していましたが、山名宗全は脱出し無事でした。

脱出した山名宗全は赤松満祐討伐のために同年7月に但馬国から播磨国へ侵攻し、満祐が籠もった城山城を陥落させます(赤松満祐は自害)。

その後、山名宗全は播磨国も手に入れ計5ヶ国の守護となりました。

~管領・細川勝元との対立~

赤松満祐を討伐し5ヶ国の守護となった山名宗全ですが、新たな敵が出てきます。

その敵というのが細川勝元です。

細川勝元 Wikipediaより

細川勝元は山名宗全と同じ清和源氏の流れを汲む名門細川氏の出身で、山名宗全が務めていた侍所頭人よりも地位の高い管領という地位に就いていました。

ただ、守護職で見れば山名宗全は細川勝元には負けておらず、幕府での存在感も同等のようなものでした。

互いに幕府の要職に就いていた山名宗全と細川勝元でしたが、最初から敵対していたわけではありません。

最初はその逆で、山名宗全は養女(山名氏一族・山名熙貴の娘)を細川勝元に嫁がせるなど、山名宗全は細川勝元の義理の父という関係でした。

※山名宗全は細川勝元よりも26歳も年上

そして、享徳3年(1454年)には山名宗全と細川勝元の共通の敵であった管領・畠山持国をお家騒動を口実に失脚させました。

※室町幕府の管領は細川氏・畠山氏・斯波氏が管領になっていたことから三管領と呼ぶ

これによって、山名宗全と細川勝元が幕政の頂点に立つことになります。

ところが、この後の幕府内の情勢が2人を敵対させることになるのです。

その理由となったのが

  • 三管領家の畠山氏と斯波氏の後継争い
  • 将軍家の家督継承問題

です。

山名宗全と細川勝元はそれぞれ異なる後継者を支持したことから対立するようになります。

この対立は、最初はただの後継争いでしたが、やがて派閥争いになり、応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱に繋がることになりました。

~応仁の乱と宗全の最後~

応仁元年(1467年)、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が起こります。

 

対立は以下のようになります。

  • 将軍家:8代将軍足利義政の後継を巡っての義政の弟・足利義視(よしみ)と義政の子・足利義尚(よしひさ)の対立
  • 畠山家:畠山持国(宗全と勝元が失脚させた人物)の実子・畠山義就(よしなり)と畠山義就の従弟・畠山政長の対立
  • 斯波氏:斯波氏当主・斯波義健(よしたけ)に実子が無く亡くなったため、養子の斯波義敏と渋川氏から迎えられていた斯波義廉の対立

これら幕府内の将軍家と管領家の対立に加え、地方の有力守護が宗全派か勝元派に分かれることになり、日本全国規模の対立となりました。

※関ヶ原の戦いのように1回だけの戦いではなくいろんなところで戦うことになります

ただ、最初に書いた「応仁の乱 対立関係図」のまま戦が行われたのではなく、戦の途中に西軍だった守護が東軍へ寝返ったり、東軍だった守護が西軍へ寝返ったりなど、味方なのか敵なのかがわからない状態になってしまいます。

とくに、応仁の乱で面白いのが西軍と東軍がそれぞれ支持していた将軍家が入れ替わったことです。

理由は、東軍が将軍邸を占領しことにありました。

これによって東軍は将軍足利義政・足利義尚足利義視の身柄を確保し、西軍であった足利義尚東軍へ誘います。

すると、東軍であった足利義視が将軍邸を脱出し西軍へ寝返り、山名宗全は足利義視を擁立することになります。

この後、西軍が足利義視を将軍の立てたため、幕府が2つ存在することになります。

※ちなみに将軍・足利義政は東軍につきました

ただ、全体を見てみると西軍は劣勢にありました。

山名宗全もこの時の年齢が60とすでに高齢であり、全盛期ほどの威厳はありませんでした。

そのため、足利義視と畠山義就が不和となるなど、西軍は結束力に欠けてしまいます。

このような事態を見て、山名宗全は文明4年(1472年)8月に家督を山名政豊に譲り隠居します。

そして、文明5年(1473年)3月に山名宗全は70歳で亡くなりました。

応仁の乱の最中での死でしたが、山名宗全が亡くなってから2ヶ月後には東軍の総大将・細川勝元も亡くなります。

応仁の乱を始めた2人が乱の最中に亡くなるという状況になりましたが、文明6年(1474年)に山名政豊と細川政元(勝元の子)の間で和睦が成立します。

結局、西軍が解体される形になり、将軍は足利義尚が9代将軍に就任となりました。

しかし、応仁の乱の影響は全国に広がり、これ以降は下剋上が各地で発生する戦国時代に突入していきます。

【エピソード】山名宗全の人柄や性格が分かる逸話

山名宗全の逸話1.後のライバル・細川勝元に助けられる

嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の乱(赤松満祐が将軍を暗殺した事件)で赤松満祐を討つという活躍をみせた山名宗全でしたが、赤松氏の残党はまだ領国は処分されたものの健在でした。

そんな中、享徳3年(1454年)に山名宗全派は将軍・足利義政と赤松氏の出仕を巡って争います。

すると、足利義政は山名討伐命令を出し守護が京へ集まってきます。

しかし、この状況に細川勝元は足利義政に山名討伐をやめるように進言したため討伐は中止されました。

山名宗全は家督と守護職を嫡男の山名教豊に譲り但馬へ下向しましたが、赤松一族の赤松則尚(赤松満祐の甥)が挙兵し山名政豊(宗全の孫)を攻撃すると、山名宗全は但馬国から出陣し則尚を討ち取ります。

赤松則尚を討った山名宗全は長禄2年(1458年)に赦免され京へ戻ることになりました。

山名宗全の逸話2.将軍を無視して領地を確保する

この逸話は嘉吉の乱の際の話です。

幕府軍を率いて赤松満祐を討った山名宗全は、討伐後に赤松領であった播磨国を獲得しました。

通常は幕府から守護に任命され領地を賜るものですが、山名宗全は赤松満祐を討つ前から部下を播磨国に送っていました。

そして、幕府の考えを無視するように次々と播磨国内の所領を得ていきます。

この行いは山名宗全の傲慢な性格の表れでしょう。

この山名宗全を見て、公家の万里小路時房は「宗全が守護になれば1国が滅亡する」と言ったと言われています。

山名宗全の逸話3.部下思いだった

幕府の意向を無視するなど傲慢な性格の持ち主であった山名宗全でしたが、部下に対しては思いやりを持っていました。

病気になった部下に対しては寺に入って病気が治るように祈ったそうです。

また、亡くなった部下には僧侶を集めて冥福祈らせるとともに、読経の法会を開いたりもしています。

まとめ 山名宗全はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで山名宗全について紹介してきました。

まとめてみると

  • 山名宗全は嫡男ではなく3男だった
  • 山名宗全は応仁の乱での西軍の総大将だった
  • 山名宗全は傲慢な性格であったが部下には優しかった
  • 山名宗全は細川勝元とはライバルであった
  • 山名宗全は70歳まで生きた

山名宗全が登場する大河ドラマには1994年放送の『花の乱』があり、山名宗全役には歌舞伎役者で俳優でもある萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんが演じました。

ぜひ見てみてください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「山名宗全の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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