武田信玄の家臣として活躍した山県昌景。
後世には「武田四天王」や「武田4名臣」の1人に数えられました。
武田家への忠誠心が高く、武田信玄亡き後も武田勝頼に仕えます。
最後は長篠の戦いで戦死してしまいますが、武田軍の中心的な役割を果たした人物でした。
今回は山県昌景について
- 山県昌景の代表的な戦とは
- 【逸話】山県昌景の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】山県昌景の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば山県昌景の強さや戦がわかりますよ
ぜひ読んでみてください。
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— ライブドアニュース (@livedoornews) 2017年9月15日
山県昌景の代表的な戦とは
今回は三増峠の戦いを紹介します。
三増峠の戦いとは、永禄12年(1569年)10月に武田軍と北条軍の間で三増周辺(神奈川県愛甲郡愛川町)を舞台に行われた戦いです。
~戦いまでの経緯~
この戦いの原因となったのが武田信玄による駿河国(静岡県東部)への侵攻です。
武田家と北条家は駿河国の今川家も入れて甲相駿三国同盟(甲斐・相模・駿河)を結んでいました。
この同盟によって
- 武田家は信濃(長野)や越後(新潟)への侵攻
- 北条家は関東への侵攻
- 今川家は尾張(愛知県東部)への侵攻
に専念できるような状況を作りました。
とくに武田家はこの同盟によって信濃国の平定をすることができました。
しかし、越後の上杉謙信との戦い(川中島の戦い)に何年もかかり、武田信玄の目標であった海を手に入れることができませんでした(1553年~1564年)。
そんな中、駿河の今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で戦死したことで今川家が弱体化します。
今川家の弱体を好機とみた武田信玄は海を手に入れるべく今川領に攻めます。
これに怒りを露わにしたのが北条家でした。
当時の当主・北条氏康は今川家への援軍と上杉家と同盟を結び武田家に対抗してきます。
武田信玄は永禄12年(1569年)8月に北条家居城・小田原城へ出陣し同年10月1日に包囲します。
小田原城は難攻不落の城であの上杉謙信が10万の兵でも落とせなかった城でした。
このことを知っていた武田信玄は4日ほど包囲した後に城下に火をつけて撤退します。
ところが、北条氏康は武田軍の撤退を見ると、
- 甲州街道(江戸と甲斐をつなぐ道)を守備していた北条氏照(氏康の3男)
- 秩父(埼玉県秩父)方面を守備していた北条氏邦(氏康の5男)
に武田軍の撤退路を塞ぐように命じ北条軍約2万が三増峠に着陣します。
さらに、武田軍を挟撃するために小田原城からは北条氏政(氏康の次男)の2万が出陣します。
~三増峠の戦い本戦と山県昌景の活躍~
挟撃の危機にさらされた武田軍でしたが、武田信玄は小田原城からの軍が来る前に三増峠に着陣していた北条軍を討とうと考えます。
両軍の兵力は
- 武田軍が約2万人
- 北条軍が約2万人(三増峠に着陣していた兵のみ)
と兵は均衡していましたが高台を北条軍が抑えていたことから、武田軍のほうが地形的に不利な状況でした。
しかし、結果は武田信玄の豊富な戦の経験と武田軍の将兵の強さもあり、まだ若かった北条氏照や北条氏邦では歯が立ちませんでした。
武田信玄は軍を3つに分けます。
- 中央部隊・・・武田軍主力、小荷駄隊(物資の輸送)
- 右翼部隊・・・武田信玄と旗本
- 左翼部隊・・・北条軍援軍の遮断と退却路の確保
さらに、別働隊を率いたのが山県昌景です。
この三増峠の戦いは山県昌景の別働隊が活躍することになります。
序盤は軍を分けた武田軍よりも高台をとっていた北条軍の有利に動き、武田軍左翼の浅利信種が戦死するなどの損害を受けます。
しかし、北条軍は次第に山を下っていました。
ここを別働隊として動いていた山県昌景が高台から北条軍を攻撃します。
これによって北条軍は壊滅し挟撃もできずに敗北、一方の武田軍は勝利し甲斐へ撤退しました。
ちなみに北条氏側の史料では北条が勝ったと書かれています。
【逸話】山県昌景の勝ち戦と負け戦は?
山県昌景の勝ち戦:三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の戦いとは元亀3年(1573年)12月22日に三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原北条町)を舞台に起こった、武田軍と徳川・織田連合軍との間で起こった戦いです。
~合戦までの経緯~
前にも書いた三増峠の戦いに勝利し北条家を退けると武田信玄は今川領の駿河国を手に入れます。
武田信玄は今川領へ攻める前に織田信長と同盟を結ぶ(勝頼の正室に信長の養女を迎える、信長長男の信忠には信玄の娘の松姫が嫁ぐ)他、徳川家康と手を組んで今川領へ侵攻します。
この時、武田信玄は徳川家康と今川領を手に入れた場合は次の約束をします。
- 武田家は駿河国(静岡県中部から北東部)
- 徳川家は遠江国(静岡県西部、大井川以西)
と今川領を分ける約束をします。
しかし、元亀3年(1573年)に上洛するために徳川家康との約束を破って徳川領の遠江と三河に侵攻します(西上作戦)。
理由は
- 元亀2年、室町幕府15代将軍・足利義昭の信長討伐令(第二次信長包囲網)
- 元亀2年10月、相模の北条氏康の死によって北条家と和睦する(甲相同盟)
でした。
武田信玄は軍を3つに分けて同年10月に西上作戦を行います。
山県昌景は約5千の兵を率いて信濃方面から三河へ侵攻し、武節城や長篠城を攻略し11月中には徳川家康が籠もっていた浜松城を圧迫する武田本軍に合流します。
~三方原の戦い~
武田軍は12月19日には徳川方の二俣城を降伏させ22日は次の目標である堀江城(浜松市西区舘山寺町にある庄内半島の先端にある城)を目指します。
徳川家康は武田軍の次なる目標が浜松城であると考え籠城します。
しかし、堀江城を目標としていた武田軍は浜松城を素通りします。
武田軍の素通りに怒った徳川家康は浜松城から出陣し武田軍を追撃しますが、すでに武田軍は三方ヶ原の台地で準備万端で待っていました。
両軍は12月22日に三方ヶ原で激突します。
両軍の兵力は
- 武田軍が約3万人(諸説あり)
- 徳川・織田連合軍が約2万人(諸説あり)
と武田側が勝っていました。
さらに武田軍は高台をとっていたことから上からの攻撃によって武田軍が圧勝しました。
武田軍の死傷者が200なのに対して連合軍は2000人で有力な家臣も戦死します。
一方、山県昌景もこの戦いで活躍し、連合軍の左翼を務めていた本多忠勝と戦います。
本多忠勝は徳川家康の重臣で猛将でもありました。
さすが猛将ということもあり山県昌景は本多忠勝に押し込まれてしまいます。
しかし、山県昌景の助けとして武田勝頼が加わったといわれています(『甲陽軍鑑』より)。
三方ヶ原の戦いで勝利した武田軍でしたが、徳川家康が逃げ帰った浜松城を攻めずに西に向かいました。
これには武田信玄の体調が悪くなったためとの説もあります。
結局、武田信玄は元亀4年2月頃に持病が悪化し、同年4月には甲斐への帰還途中に亡くなりました。
山県昌景の負け戦:長篠の戦い
~戦いまでの経緯~
武田信玄の死によって上洛を諦めた武田家でしたが、信玄の後を継いだ武田勝頼は天正3年(1575年)4月に再び遠江と三河を手に入れるべく侵攻します。
山県昌景も武田勝頼に従い参戦します。
武田軍はまず徳川家に再属した奥平氏の長篠城(愛知県新庄市長篠)を包囲します。
写真でも分かる通り、長篠城は周囲を川と谷に囲まれた天然の要塞でした。また、鉄砲を200丁ほど持っていたことから籠城兵は500でも耐えていました。
なかなか落とせない武田軍は長篠城の兵糧蔵を燃やします。
兵糧が無くしたことで長篠城を窮地に陥れた武田軍でしたが、ここで重大なミスをしてしまいます。
奥平氏の家臣・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を夜の間に長篠城から出たのを見落としてしまいます。
これによって岡崎城の徳川家康の下に援軍要請の密使が行ってしまい、織田信長と徳川家康の援軍が長篠城へ出陣しました。
織田・徳川連合軍約3万人は5月18日に長篠城の手前にある設楽原に着陣します。
連合軍が来たことで武田軍は軍議を開きます。
軍議で山県昌景は馬場信春や内藤昌豊らとともに撤退を主張しますが、勝頼側近の跡部勝資や長坂光堅が決戦を主張したことで勝頼は決戦を決断します。
~長篠の戦いと山県昌景の突撃~
両軍は天正3年(1575年)5月21日に激突します。
長篠合戦屏風図(徳川美術館蔵) 屏風図右が長篠城
両軍の兵力は
- 武田軍が約2万人(諸説あり)
- 連合軍が約4万人(諸説あり)
と武田軍が劣勢でした。
長篠の戦いは通説では織田信長が用意した3千丁の鉄砲隊(三段撃ち)と馬防柵の前に、戦国最強と言われた武田騎馬隊が全く歯が立たず武田軍が負けたと言われています。
しかし、近年の研究では三段撃ちも騎馬隊の突撃も無かったと言われています。
理由は
- 長篠の戦い当時は雨で足元がぬかるみ3千丁も運べたのか(実際は千丁ほど)
- 当時の馬はサラブレッドではなく木曽馬(ポニーほど)で体力が少ない
だからと言われています。
実際の長篠の戦いは連合軍が砦を築きそこに籠城、武田軍が砦を攻撃する攻城戦だったといわれています。
また、徳川家臣・本多忠勝の記録にも「武田軍が柵を越えてきた」と書かれており、連合軍が圧倒したという通説は間違っていると言われています。
長篠の戦いは連合軍側の攻撃で始まります。
5月20日の深夜に徳川家重臣の酒井忠次が武田軍を迂回して、夜明けには長篠城を包囲するために築かれた鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を奇襲します。
この奇襲によって鳶ヶ巣山砦の支砦である4つの砦も落とされ、武田軍の長篠城包囲部隊が壊滅します。
また、包囲部隊の壊滅で長篠城の奥平勢が設楽原にいる武田軍の背後をとり、武田軍の退路を塞ぐ形となります。
鳶ヶ巣山城が攻撃を受けている頃、設楽原にいた武田本隊が連合軍の砦に攻撃を仕掛けます。
武田軍は翼包囲(敵を囲む戦法)を用い、山県昌景は武田軍の左翼を務め連合軍の南側に着陣していた徳川勢に攻撃を仕掛けます。
攻防は8時間ほど続いたと言われていることから、通説である鉄砲隊が騎馬隊を圧倒したというのは考えにくいです。
武田軍が負けた理由はいくつかあると言われています。
- 1つ目は連合軍が使った鉄砲の音に馬が驚いたことです。
戦国最強といわれた武田騎馬隊でも1千丁の鉄砲を相手に戦ったことが無く防音対策が出来ていなかったという説もあります(この説には反論もある)。
- 2つ目が武田軍が用いた戦法・翼包囲が機能しなかったことです。
この戦法は左翼と右翼のどちらかが迂回して敵陣を攻撃することで意味を成しますが、武田軍の中央部隊を率いた武田親類衆(信玄の弟・武田信廉や勝頼の従兄弟・武田信豊ら)が日頃からの武田勝頼との仲の悪さから命令を無視し撤退してしまいます。
中央部隊が撤退したことで両翼は孤立しそこへ連合軍の攻撃があり多くの戦死者が出てしまいます。
武田軍の戦死者は山県昌景をはじめ両翼を担っていた武将が多くいました。
結局、長篠の戦いでの敗戦は武田家滅亡の遠因となりました。
ちなみに山県昌景の首は部下が敵にとられないように持ち去ったといわれています。
【最強伝説】山県昌景の強さはどれくらい?
武田軍の中心人物として活躍した山県昌景でしたが、昌景の強さは自身が率いた赤備え部隊にあります。
赤備えとは甲冑を赤一色で統一したものです。
この赤備え部隊を最初に率いたのが山県昌景の兄・飯富虎昌でした。
しかし、飯富虎昌は武田信玄の嫡男・武田義信とともに信玄に謀反を起こそうとしたため処罰されてしまいます。
そこで兄の赤備え部隊を引き継いだのが山県昌景でした。
赤備えは戦場では非常に目立つため敵から狙われやすかったですが、山県昌景が率いた赤備え部隊は強かったため周辺の諸大名からは最強部隊としての印象を与えました。
また、武田家滅亡後は徳川家家臣・井伊直政が山県昌景の赤備え部隊を受け継ぐ(井伊の赤備え)他、真田幸村が武田軍の赤備え部隊にあやかって自身の部隊を赤に染めました(真田の赤備え)。
この井伊の赤備えと真田の赤備えは慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦いました。
山県昌景が率いた赤備え部隊は戦国時代から江戸時代初期にかけては最強というイメージが日本全国に広まりました。
まとめ 山県昌景のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで山県昌景について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 山県昌景は武田軍の精鋭部隊・赤備え部隊を率いた
- 山県昌景は別働隊を率いた
- 山県昌景は長篠の戦いで戦死した
おすすめ作品
大河ドラマでは
- 俳優の篠田三郎さんが演じた『武田信玄』1991年
- 俳優の前川泰之さんが演じた『風林火山』2007年
- 俳優の山本龍二さんが演じた『おんな城主 直虎』2017年
本では
- 小川由秋さんの『山県昌景』
があります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「山県昌景の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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